「こらー、だめっ!……あ、すみません。間違えたんです。ごめんなさい。失礼しました……」
彼女が叱る声と共に、うぁーんという小さな甲高い泣き声がする。
「どうした?」
風呂上がりの頭をがしがしと拭きながら覗けば、やっとお座りをするようになった小さな背中を丸めて
ちょうだいをするように、これまた小さな両手をばたばたする我が家の王子が目に入る。
「あ、ごめん。あの……目、離した隙に……どっか掛けちゃったみたいで……」
妻はそう言って泣いてる彼を宥めようとしていた。
「ああ、ごめん。ロックせずに置いといた俺が悪いんだよ」
抱っこするのに邪魔だろうと彼女から携帯を受け取って充電器に置く。
「ごめん。飯してくれる?俺抱くか……」
そう言って振り向くとこっちを見ずに、暫くの間を空けてから
「……うん」
と元気のない声で呟いて、俯きがちなまま小さな体を俺の腕に預けるとキッチンに向かった。
「……どうしたんだ?」
ふにゃふにゃとご機嫌に笑うほっぺをつまみながら考えてふと思いつくと、充電器ごと手にした携帯を開く。
「……これか!」
こっそりと隣室を覗いてみれば、何度か目元を擦りながらコンロの前に立つ背中があった。
「あのさ」
「なに?」
可愛い寝顔を二人で挟んで眺めながら横になっていた。
「多分お前が思ってるよりも、俺はお前の事が好きだと思うよ?」
きょとんと目を丸くすると、一気に目を潤ませ見る見るうちに頬を真っ赤に染める。余りに可愛らしい
ので思わず首を伸ばして唇を奪ってしまった。
「だから心配いらないから。ごめん。あれはうっかりそのまま放っておいたんだ。もう消しておいたから」
取り出した携帯を弄って中身を見せると、何とも言えない複雑な顔をして俺をじっと見つめてくる。
そして一言。
「……ごめんなさい……。あたし、あたし……」
――不安だったの。
小さな声でそう呟いて子供みたいにゴシゴシと擦るように涙を拭うその手を取る。
「なんで謝るの。お前悪い事してないだろう?俺こそ……」
心配しなくて大丈夫。今の俺は本当にお前しか見ていないから。
隣室に移り、床の上にそっと抱きながら体を横たえる。
「ごめん。ここで……起こしちゃうから」
「え?あ……うん……」
俺がやろうとしてる事に気付いて恥ずかしそうに彼女は頷く。
イタズラした赤ん坊の持つ電話の向こうに聞いた声は俺の前妻のものだ。互いに離れる事を決意した
矢先に俺はこの女と恋に落ちた。
最後に声を聞いたのは新しく人生を踏み出す決意をした時で――もうかなり前の話だ。本当に深い
意味はなく、アドレスから消すのをすっかり忘れてしまっただけなのだが、俺が思う以上に胸を痛め
させてしまったようだ。
自分のうかつさが大事な人を傷つけてしまったのかと思うと少し哀しくなった。
でもね。
真っ直ぐ見上げてくる目を閉じさせてキスをするその度に思う事がある。
――どうして最初にこの唇に触れたのが俺じゃなかったんだろう。
馬鹿みたいだと思うよ?勝手だとも。けどやっぱり悔しいんだよ。俺だって人の事言えないけどさ。
だからいつも精一杯の愛情を込めてキスをする。今日は何回したかなんてわからなくなる位。他の
誰かをふと思い出してしまう隙のないように。
でもそんな風に俺が思ってる事をお前は知らないだろう?だから心配いらない。絶対にお前が思う
以上に俺の方が愛してるって自信があるんだぞ?
いつもならこのへんでちょっとしたお邪魔が入るんだけど、と隣室をそっと覗き込むと小さな寝息に
ほっと息を吐く。静かに扉を閉めると
「葵」
愛しい名前を囁きながら何度目かのキスをした。
そっとボタンを外しながら
『ごめんよ。今だけはママをパパに返してくれよ』
と心の声で呟きながら、もう1人の我が家のやきもち妬きさんの拗ねたような寝顔を思い出して苦笑した。