極悪非道、とはまさに俺の本性を言い表すのに適当な言葉だった。  
俺は楓を監禁してから数日後に、直接債権者に会い、耳を揃えた現ナマを手渡しで握らせてやった。  
相手は驚いたあと、随分嬉しそうに何度も礼を言って去っていった。この瞬間、俺は彼女の人生を金で買ったのだ。そう思えば、高い買い物ではない。  
 
「楓、ただいま」  
 
俺は楓の為に下着類やワンピースを恥をしのんで買い込み、帰宅した。もう彼女は首輪付きだ。服を与えても逃げられないだろう。  
 
「お、お帰りなさい…」  
 
怯えた顔で出迎える彼女をもう見慣れた。俺が家に居ると、彼女は怯えきって俺の一挙一動を不安気に見詰めるのだ。当然だ、俺は彼女を脅迫して、夜な夜な凌辱しているのだから。  
大きな紙袋を彼女に押しつける。戸惑うように、俺を見上げた。  
 
「気に入るかは分からないが、着るものだ。いつまでもそんな恰好じゃ、な」  
 
いくら暖房が十分でも、裸体にTシャツだけでは、さすがに身体を壊してしまうだろう。これからもっと寒くなる。  
 
「ありがとう、ございます…」  
 
「着て見せてみろ」  
 
頷くと、彼女は俺が与えた質素な空き部屋に引っ込んだ。ほとんど何もないあの部屋にも家具を揃えてやろう。  
彼女は俺が居ない間に独りでは疎かになりがちだった家事をこなしてくれていた。脅迫、債権、と言う強制力がなければ、まるで夫婦だった。けれども、俺たちはそれありきの関係だ。愛情なんてもの、二人の間には無い。  
 
「要さん…」  
 
彼女が着たら、誰が着るより素敵だろうと思って購入した赤いチェック柄のワンピース。おずおずと部屋から出てきた彼女に、想像していたよりもずっと似合っていた。  
思わず目を奪われて、黙り込んだ。  
 
「あの、似合いませんか…」  
 
困惑した表情に、我に返る。そして彼女の腕を掴むと寝室に引っ張り込んだ。いつものように、ドサリと彼女はベッドに放られて、怯えた目で俺を見た。  
 
「……今日から、お前の債権者は俺になった。この意味、分かるな?」  
 
ネクタイを弛めながら、彼女に近付いた。いつもよりも、悲痛な顔をして、黙って俺を見ていた。自分の運命を覚ったのだろうか。  
ネクタイを外し、スーツも脱ぎ捨てた。彼女に覆い被さって、Yシャツのボタンを外すが、その手間さえもどかしい。身体が彼女を欲しがって、痛いくらい猛っていた。  
 
「楓、楓…」  
 
自分のYシャツを前開きにすると、俺は待ち切れず、折角彼女が身に付けたワンピースの胸元のボタンを引き千切りそうなくらいの勢いで開いていく。  
俺が選んで買った控えめなデザインの下着は、彼女には少し大きいのか、カップが余っていた。  
 
「要さん…」  
 
どうして俺は、彼女を怯えさせたり、泣かせたりしか出来ないのだろう。  
本当は、愛している、と告げて、キスがしたいのに。  
 
 
あたしは彼にこの家に連れて来られた翌々日に、全てのバイトを辞める連絡を入れることを命じられた。  
いきなり辞める、と言うことを、誰も別段気にかけてはくれなかった。けれど、あのレストランの店長だけは心配してくれた。待っているから、気兼ねなくいつでもおいで、と言ってくれて、泣きそうになった。  
本当はもっと話したかったけれど、横で睨み付ける要さんが怖くて、切らざるを得なかった。  
 
「お前、あの男と何かあるのか?」  
「あ、ありません!」  
「あの店、売上も落ちているしな、俺の一存でどうにでもなる」  
「店長は…、店長はあたしのお父さん代わりなんです…。酷いこと、言わないでください」  
 
それを聞いて、彼は明らかに怒りを含んだ目であたしを捕らえると、吐き捨てるように言った。  
 
「父親代わり?  
お前が売春した相手も父親代わりとでも言うつもりか」  
 
心が底から冷えきるのを感じた。ああ、あたしは本当に嫌われてしまったんだ。彼はこんな酷いことを言う人では無かった。  
あたしが堪えきれずに涙を溢すと、彼は舌打ちをした。携帯を奪い取られて、そしてまた、連れ込まれたときと同じように強引に引き倒された。  
 
 
何日も掛けて、彼の熱も形も質量も教え込まれて、あたしの身体は彼を拒めなくなっていた。怖いくらいに彼を求めて止まなかった。  
彼があたしの債権者になったと告げたとき、あたしは戸惑った。自分も彼も、怖かった。離れられない自分、離してくれない彼。それが愛で繋がれた関係なら美しいだろう。子供が出来れば喜んでくれるだろう。  
でもあたしたちは違う。債務と肉欲だけの、澱んだ関係だ。例えばあたしが愛を伝えても、無駄なんだ。それは彼には伝わらない。何も言わず、密かに思うだけの方が、まだ救われる。  
 
 
俺はとにかく、彼女が一日も早く妊娠することを願っていた。彼女を完全に俺だけのものにし、かつそこに愛が生まれる可能性があるのは、彼女の妊娠だけだと債権者になって漸く分かった。  
金では身体は買えても、心は買えない。  
だが彼女は、中で俺が達する度に絶望したような顔をする。それは、当然だ。俺がいくら望んだところで、彼女は俺の子供を産むなんてこと、望まない。  
身勝手で独り善がりな俺が愛を囁いたとして、誰が信じるものか。  
 
「お疲れのようですね」  
秘書が、呟くように言った。俺は彼女が差し出したコーヒーを受け取って、頷いた。  
「…スケジュール、きついですか?すみません、私の管理が甘いせいで…」  
「いや、違うんだ。その、何だ。ちょっと、上手くいかないことがあってな」  
「あ、もしかして恋愛のお悩みですか?」  
 
飲んでいたコーヒーを吹きこぼしそうになる。何で分かるんだ。ひとことも楓のことは話していないのに。  
当惑して彼女を見ていると、不敵な笑みを浮かべ、図星みたいですね、と囁いた。  
 
「……結婚したい。子供が出来れば喜んで一緒になりたい」  
「え?どうして結婚したいのに今すぐなさらないんです?」  
「彼女の気持ちが、俺に向いていないんだ」  
 
深い溜め息が、漏れた。  
 
猪山のところに、子供が生まれた。奴は子供が家に返ってきて早々に俺にけたたましく電話を掛けてきた。  
 
「可愛いぞ、俺の子」  
「……そうか」  
「見に来いよ」  
 
そう自分で言っただけあって、猪山の子供は本当に可愛かった。週末、仕事帰りでいいから来いと言われて俺は彼の家を訪れると、彼の奥さんは快く俺を迎え入れてくれた。  
 
「あ、城崎さん、いらっしゃい」  
「おっ、来たな!ほら来いよ、すげぇ可愛いぞ」  
 
彼に伴われて寝室へ向かうと、小さなベビーベッドがそこにあった。覗き込むと小さくて白くて柔らかそうな赤ちゃんが気持ち良さそうに眠っていた。  
 
「な、可愛いだろ?めちゃくちゃ可愛いよなっ」  
 
子供を眺めながら幸せそうにする猪山に、少し嫉妬した。  
俺も子供が欲しい。勿論、俺と楓の子供だ。  
彼女を家に置いてから、既にかなり時間は経っていたし、ほとんど毎晩彼女を抱いていた。なのに、まだ妊娠の兆しは無かった。  
 
「城崎さん、お夕食、良かったら一緒にどうぞ」  
猪山の奥さんが、寝室へ顔を出した。猪山には勿体無い、綺麗で気立てのいい女性だといつも思う。  
「すみません、いきなり押し掛けて…」  
「いいえ、城崎さんは主人の大切なお友達ですもの。いつでも歓迎ですよ」  
猪山の奴、いい奥さんを貰ったな。楓もいずれ、あんな風に俺のことを夫として見てくれるようになればいいのに。  
 
 
「楓、ただいま」  
要さんはいつもよりかなり遅く帰宅した。あたしは自分の身体がびくつくのを感じた。  
 
来るべきはずのものが、来ていなかった。もう、二週間は遅れている。  
最近の身体のだるさと火照りは…もしかしたら、……。それに気付いたとき、あたしは彼に告げようか告げまいか、迷った。  
妊娠が分かって、捨てられることを恐れた。けれど、宿った命を守らなくてはいけないと、漠然と思った。  
 
「お帰りなさい…」  
彼の顔をおずおず見上げた。何か言いたげな表情だと思った。  
「楓、最近変わったことはないか?」  
「え…?」  
気付かれた?  
言わなくちゃ、と思ったのに、バレたかもしれないとなるとあたしの決意はすぐに萎んでしまった。慌てて首を横に振った。  
「な、何も、何もありません」  
「そうか」  
彼はそれだけ言うと、あたしを見ることもなく、寝室へ入ろうとした。  
「要さん、お夕飯は…」  
「要らない」  
冷たく言い放たれて、あたしは所在なく立ち尽くすしかなかった。きっと妊娠していることが分かったら、もっともっと冷たく、捨てられる。  
涙が溢れて頬を濡らした。  
 
要さんに冷たくあしらわれるのはいつものことだったのに、何故かあたしは酷く落ち込んだ。  
料理を作って食卓を囲んでもほとんど会話はないし、彼がたまに気まぐれに買ってきてはクローゼットに入れていく服を着てみせても、似合うとは言ってくれない。  
でも、この家に来る前までの彼は違った。あたしを一生懸命楽しませてくれたし、いつもあたしを大切にしてくれた。  
きっとあたしが嫌いになったから、冷たいんだろう。あたしにはもう、彼に身体を差し出す以外に優しい響きの声を聞く機会はない。  
それを思い知らされた気がして、そして父親にあたる人の愛情をけして受けられないだろうお腹の子が不憫で、心が戦慄いた。  
声を噛み殺して泣きながら、彼のために作った食事を処分した。食べて貰えずにゴミ箱に捨てられた料理を見ていると、自分の姿に重なった。  
 
「楓?」  
ハッとした。彼がすぐそばに居たことに気が付かなかった。  
「かなめ…さん」  
「何を泣いている?」  
「何でも、無いんです。何でも無いですから、あたしのことなんて、気にしないでください」  
慌てて涙を袖で拭って、無理矢理笑った。これ以上嫌われてしまったら、あたしはもう、本当に笑えなくなってしまう。  
「……何でも無くないだろう」  
詰め寄られ、言葉を無くして俯くしか無かった。  
言いたい。捨てないで、ずっと傍に居たい。縋り付きたい。だけど、そんなこと言ったら、また嫌われてしまう。  
彼はゴミ箱に視線を落とした。暫く黙ってから、あたしが手にして、今まさに捨てようとしていたオムレツを彼はそっと手に取った。  
「……悪かったな、今日は猪山の家に呼ばれて、つい食事までご馳走になってしまったんだ。連絡すれば良かった」  
空いた手で、頭を撫でられた。涙が止まらなくなった。嗚咽すら漏れ始めた。  
どうして優しい声を使うの?あたしは馬鹿だから、諦めたはずの貴方の気持ちをまた期待してしまう。  
彼の胸に顔を埋めて泣きたかった。でも甘えたらこの優しい手を失ってしまう気がした。  
あたしは何も言えないまま、逃げるようにして部屋に帰った。  
 
俺は本当に彼女を泣かせることしか出来ない。  
子供が欲しいなんていう身勝手な願いが叶わないことに落胆して、連絡も入れずに遅くまで帰らなかった俺に食事を用意して待ってくれていた彼女の気持ちをないがしろにした。  
そもそも、望まない妊娠を強要していること自体、全ての間違いなのだ。  
……けれども、俺は彼女を愛していた。ただ、どう愛していいのかが分からなかった。  
 
楓はあの日から少しずつ、痩せていった。食欲が無いようだったし、時々戻していることもあった。事を終えた後、寝たふりする俺の隣で圧し殺した声で啜り泣いていたりした。  
様子がおかしいのは分かっていた。どこか具合が悪いのかもしれない。病院へ連れていこう。そう思っていた矢先に、彼女は倒れた。  
 
キッチンで食器の割れる音がして、驚いて駆けつけると、蒼白な顔をした彼女が蹲っていた。  
「楓!どうしたんだ!」  
返事もしないで項垂れる彼女は明らかに様子がおかしかった。割れた食器の破片を拾い集め、彼女を立ち上がらせた。彼女の脚がふらついた。  
「楓、歩けるか?部屋で寝て待っていなさい。病院へ行こう」  
その言葉を聞くと、彼女は弾かれたように首を横に振った。  
「嫌、嫌です!病院は、嫌です」  
「ずっと具合が悪いじゃないか。診てもらいなさい」  
「お願いします、病院だけは、嫌なんです。あたしは大丈夫ですから」  
そう嫌がる彼女を、半ば無理矢理引っ張るようにして、病院に連れていった。車の中で堪えきれなかったかのように、彼女は泣き出した。  
何故それほどまで病院を嫌がるのかが、分からなかった。  
 
 
「妊娠……!?」  
あたしの症状を聞いた医師が様々な検査をして、あたしの妊娠は彼の知るところとなってしまった。  
「このまま産婦人科へ回ってください。カルテを回しておきます」  
内科医は、おめでとうございます、とにこやかに言ったが、あたしは終始俯いていた。彼に手首を掴まれたまま、内科の診療室から出て、産婦人科の診療室へと向かった。  
彼は廊下を歩いている間、何も言ってはくれなかった。内科を抜けた別館の中に産婦人科はある。別館に入ると、待合室で若い妊婦さんが、パートナーの男性と幸せそうに談笑していた。  
あたしたちとは対照的で、苦しくなった。  
ここにいる人は皆幸せそうだった。暗い顔をしているのはあたしたちだけだ。  
 
「楓」  
「……!」  
低い彼の声は、不機嫌な色を含んでいた。  
「お前、分かっていたのか」  
彼は怒っている。  
あたし…捨てられる?…堕胎しろと言われる?  
ギュッと目を瞑った。  
「……ごめんなさい」  
「産むのか?」  
単刀直入な質問に、答えられない。産みたかったけれど、迷惑だと言われるのが辛かった。あたしはどこまでも臆病者だった。  
「産みたくないのか…?」  
再度訊ねられ、あたしは漸く蚊の鳴くような声で答えた。僅かに声が震えた。  
 
「産んでも、いいんですか…?」  
 
怖くて顔を上げられなかった。彼があたしに手を伸ばした気配がした。  
身体を強張らせると、それを解きほぐすように彼の手がそっと髪を撫でた。  
産んでもいい、とは言われなかったけれど、少しだけ、救われた。  
 
 

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