眠る彼女の髪を撫でた。柔らかな黒髪は、ここに来た時より伸びていた。彼女の下腹部にそっと触れた。ここに、俺の子が宿っている。
「楓…」
俺は彼女の白い額に口付けた。愛しくて愛しくて、欲しくて欲しくて仕方が無かった人が、漸く本当に俺のものになった。
嬉しいはずなのに何故か、胸が苦しい。どうしてだろう。彼女を俺のものに、出来たじゃないか。
……俺は強欲な男だから、それだけじゃ満足いかないのだ。彼女に心から、愛して欲しかった。
「楓、愛しているよ」
涙が、パタパタと彼女の額に落ちた。酷いことばかり、してしまった。彼女の人生を金で奪ってしまった。
望まない妊娠までさせて、それで愛して欲しいなんて、俺は何処まで図々しいのだろう。
「楓、ごめんな…」
抱き寄せ、強く抱き締めた。俺と出会わなかったら彼女は今、幸せだったかもしれない。
彼女に責任を取れと言われれば、喜んで結婚したい。だが彼女は、それを望むだろうか。彼女は俺から自由になることを望んでいるのではないか。
離したくない。離したくないよ、楓。ずっと、一緒に居たい。お願いだ、俺を見捨てないで…。
朝目覚めると、彼の腕の中に居た。いつも目覚めると、彼はあたしに背を向けて眠っていた。愛されていない証拠だと思っていた。
だけど今日だけは、あたしに体温を分けるように抱き締めてくれていた。
「要…さん」
もう少しこのままで…。愛されていなくてもいい。もう少しだけ、このままで居させて。彼の胸に頬を押し当てて、力無く眠る彼の身体に抱き着いて、彼が目を覚まさないように静かに息をした。
少しでも長く、彼を傍に感じたかった。身体をいくら重ねても、彼はキスをしてくれることも、まして愛してると言ってくれることもなかった。
だから、彼に抱かれたあとの、身体の火照りが逃げたとき、あたしはいつも心が冷えきるのを感じていた。
彼が遠かった。寂しくて、悲しくて、きっと子供が出来たら捨てられてしまうんだろうと思っていた。
もし、この子が生まれてきたら、要さんに愛して貰えるのかな。そんなことを未だに考えてしまうあたしは、浅はかで愚鈍な女。
「かえで…?」
掠れた声で彼があたしを呼び、うっすら目を開けた。
「……かえで…」
腕の中のあたしを、抱き締めるような仕草。優しい抱擁が、あたしを温めた。
それからまた、彼の腕は力を無くして質量を持ち、あたしに寄り掛かって彼は寝息をたて始めた。
愛しい人。今あたしの中で一番大切なのは、彼と、お腹の子だけ。
随分日が高くなって、やっと目が覚めた。起き上がると、俺の隣に居たはずの楓が居ない。温もりすら残っていない。
まさか、と言う考えが脳裏を過る。背中に嫌な汗をかいた。
「楓!!」
起き上がって彼女の名を叫んだ。まさか、俺を置いて……!?
「楓…!!」
声が掠れた。寝室を飛び出して、彼女を捜す。半ば泣きそうだった。彼女に置いて行かれたら、俺は生きていけない。
「要さん、どうしたんですか…?」
空の洗濯籠を持った彼女が、リビングから現れた。見遣ると、リビングから繋がるバルコニーに、洗濯物が揺れていた。
ふらふら彼女に近付いて、おもむろに洗濯籠を奪い取ると、床に放った。ガラガラと音を立てて、プラスチック製のそれは転がった。
彼女は突然のことに怯えた顔をした。身を強張らせている。構わず、俺は近付いて、彼女を抱き締めた。
「楓、楓…っ!」
「要さ…」
微かに、自分の腕が震えていることを感じた。何か言いかけた彼女の唇を自分のそれで塞いで黙らせる。俺を拒絶する言葉も、俺を振り払う腕も、欲しくない。
「う、…んっ!」
逃げようとする背中をがっちり捕まえて、引き寄せた。舌で彼女の舌を味わう。深く深く口付けた。
苦しそうな顔をして、彼女は俺の胸を叩いた。一旦解放してやる。
「か、要さん…?」
戸惑った表情。赤い頬。嫌悪感を抱いているようには、見えない。誤解しそうだ。もしかしたら、少しは俺に情を持ってくれているのではないか、と。
でもそれはとんだ勘違いで、彼女にとっては迷惑千万なことだ。
「あの、要さん…」
「今のは、……何でも、ない。
お前、言っておくが債務をまだ背負っている身だからな?ガキを孕んだような身体で逃げようと思うなよ」
必死に、冷たい言葉を探した。彼女を繋ぎ止めているのは、愛ではなく債権と脅迫であることは、ひとつも変わっていないのだから。
彼女は目を伏せた。絶望的な表情。……こんな顔が、見たかったのか?いや、違う。本当は、彼女の笑顔と愛情が、欲しいだけだ。だが、金では、買えない。
「か、かなめ、さん」
俯いていた彼女が、震える声を、絞り出した。
「もし…あたしのお腹の子が、要さんの人生にとって迷惑になるなら、そう、言ってください」
「何を…」
「要さんの、言う通りにしますから」
それは暗に、子供を堕ろしたいということなのか。
俺の言う通りにするなら、産めと言えば、産むのか。
「……お前、子供を堕ろす金はどうするんだ。また売春で稼ぐのか?」
言ってから、ハッとした。酷いことを言った。彼女が好きで身体を売っていたわけではないと、一番知っているのは俺なのに。
彼女は、俺を見上げて、すぐに顔を反らした。俺の横をすり抜けて、部屋に飛び込むようにして入ってしまった。
中から、嗚咽が漏れ聞こえた。
あたしはやっぱり愛されてはいない。
気まぐれの抱擁やキスに、何故期待したのだろう。そして彼は、あたしに何を求めているのだろう。
何も分からない。分かるのは、あたしもお腹の子も、彼の愛情を受けることは無いと言うことだけ。
閉じ籠って泣いていては、ただの役立たずでしかない。ますます嫌われてしまう。だけど、涙が溢れて止まらない。
「ごめんね、ごめんね…」
情けない母親で、ごめんね。要さんが堕ろせと言ったら、貴方を堕ろすつもりだった。あたしが守らなくちゃ、誰も守ってくれないのに。
いくらお父さんに愛されなくても、お母さんが愛してあげれば、いいんだよね。
下腹部を小さく撫でた。
「楓」
要さんが、部屋の前に立った。
「…開けていいか?」
あたしは慌てて涙を袖で拭った。涙を見られてはいけない気がした。
返事をしないうちに、彼は部屋に入ってきた。
「あ、あの…」
「……楓」
「要さん…あの、あたし…」
産みたい。そう言いたい。けれども、喉に引っ掛かった言葉が口から出てくれない。
「楓」
お互いを見詰め合ったまま立ち尽くした。何時間とも思えるような、沈黙。
「……」
突然、彼はあたしの手首を掴んだ。彼の大きな手。大好きだった。優しくて、温かくて、触れられると、そこから幸せを感じた。
それは、強いられて澱んでしまった関係の中でも変わらなかった。
「来い」
彼は無言であたしを貪るように抱く。
「あっ…!かなめさ…っ!!ダメ、お腹の子がっ…」
そう諌めても、彼は聞く耳を持たない。あたしの首筋に唇を這わす彼の吐息が、熱い。
溶けてしまう。いっそのこと、溶けてしまいたい。もう何も考えたくないから、意識ごと、この身が消えてしまえばいい。
「だ、め…!」
「心配するな、激しくはしない」
それだけ言うと、彼が躊躇うこと無く、あたしの中へ押し入った。
「や、は…ぁあ、あ」
熱い、熱い、彼自身が、あたしを翻弄する。ゆっくり、じわじわと彼の質量が伝わってくる。
「かなめ、さん…!」
「楓、…」
いつものように激しくあたしを揺さぶることは無く、そっと髪を撫でながら、額に額をくっつけられた。
彼の手が頬に触れたとき、慈しむように唇が唇に重ねられた。
「ふ、うん…」
「楓、苦しくないか」
浅く出し入れされる彼自身を感じながら、あたしは目を瞑った。気持ち良くて、幸せで、辛い。
愛の言葉が欲しい。
「楓、楓…」
名前を呼んで、口付けて、それでも、愛してはくれないの?あたしは貴方にどんなことをされても、愛さないでは居られないのに。
腕の中の彼女がとてもとても、愛しかった。何度も名を呼んで、何度も口付けた。愛している、と言えたら、満足だったが、俺が囁く愛など、きっと虚構としか受け止めて貰えないだろう。
当たり前だ。今だって俺は、八つ当たりで彼女を犯しているんだから。悪いのは彼女じゃない。俺だ。
激しく揺さぶっては、腹の子に障ると分かっていたから、慎重に腰を動かして彼女の浅いところを行き来した。
「あっ、やぁっ…」
「楓、大丈夫か?」
気遣うくらいなら、初めからこんなことしなければいいのに、俺は自分を止められず、かと言って理性を全て失っていたわけでもなかった。
眉根を寄せて、苦しそうな顔をしている彼女に気付いた。ハッとして、俺は彼女の中から自身を抜き去った。
「…かなめ…さ…ん」
荒い息をしながら、虚ろな目をした彼女の手が空を掻いた。その手が俺の頬に触れた。予想外に冷たい指。
「お願い、…捨てないで」
それだけ言うと彼女の手は力無くベッドに落ちた。
気を失った彼女に、脱がせた服を着せて、布団を丁寧に掛けてやった。ぼんやり、彼女の脇に座って寝顔を見詰めた。
捨てないで、と聞こえた。その言葉は、俺に向けられたものなのか?だとしたら、彼女は俺の傍に居ることを、受け入れてくれたのか?
例えそれが愛ではなく、子供のためだとしても、構わない。一緒に居られれば、それでいい。
「社長?」
振り返ると、コーヒーが差し出された。
「どうなさったんですか、ぼんやり外なんて眺めて…」
コーヒーを受け取って、一口口にした。普通の大人の男が飲むには多分、甘すぎる。俺は昔から甘党で、寧ろ甘くないコーヒーは飲めないのだが。
「……もしかして、あの話ですか?」
秘書は神妙な顔をした。だが俺には何のことか分からない。
「縁談、持ち上がっているって…会長が仰っていましたから」
「縁談?親父にか?」
親父は、経営者としては優秀な人材で、今でも会長のポストで経営に尽力していた。だが家庭人としては最悪だ。俺の母親は、親父の浮気癖と暴力に耐えかねて、出ていった。
長い間、金持ちの独身貴族を楽しんでいたが、漸く落ち着く気になったのか。
「いいえ、社長にです。…ご存知、無かったんですか?」
「俺に、縁談だと?」
暫く意味が分からなかった。何故俺に縁談?
「はい、会長が近日中にお会いになられたいそうで…。あの、社長、お付き合いなさっている方は…」
親父だ。親父が持ってきた縁談だ。…謂わば政略結婚だろう。ふざけるな、愛する人くらい、自分で選ぶ。
「……親父を、出来るだけ早く呼んでくれ。俺の都合は適当に付けてくれ」
いつまでも、言いなりにはならないし、これだけは譲れない。
反吐が出そうだ。親父は俺が会いたがっている理由を誤解してか、満面の笑みを浮かべていた。
秘書から話を聞いて、3日後に親父が本社に訪ねてきた。彼は今、海外に出張していたはずなのに、すぐに都合を付けたらしい。
俺の誕生日にも、俺の運動会にも、都合を付けてくれたことなんて一度も無かったくせに。
「要、お前も33だ。そろそろ身を固めてもいいだろう」
「……はい。そう思っていたところです」
「それは良かった!実はな、いい話があるんだよ。わが社の提携する例の企業のご令嬢が…、」
俺は手を彼の前に翳して言葉を遮った。
「お父さん、僕には、結婚したい人が居ます」
そう告げた途端に、みるみる親父は顔を青ざめさせた。それから、怒りを含んだ目でギョロリと睨まれた。
「要、そんな話は私は聞いていないぞ。父さんに紹介するのが筋だろう。どんな女性なんだ」
極力笑顔を絶やさないように努力した。余裕が無ければつけ込まれる。
「可愛らしくて、気立てのいい、僕には勿体無い女性です」
「そんなことは、どうでもいい」
親父は心底不機嫌そうに言った。タバコをふかしはじめたのは、彼が怒りを堪えている証拠だ。
「ちゃんとした女性なのか?実家は何をしているんだ?最終学歴は?年齢は?」
うんざりだ。彼女の価値が、そんなもので測れるはずがない。
「ちゃんとした人です。凛として、芯のある人ですよ」
「そんなことは聞いていないと言っているだろう!俺の質問に答えろ!!」
ダン!と机を叩いて、親父は俺を威嚇した。ギラギラと光る目が俺を射抜く。
怯んではいけない。
「……お父さんがいくら反対しても、僕は彼女と一緒になります。彼女は、僕の子を妊娠しているんです」
親父は、言葉を飲んだ。
「妊娠だと…?お前、よくも…」
「結婚する相手くらい、僕が自分で決めます」
「まて、お前、騙されているんじゃないのか?金目当てで、どこの馬の骨とも知れないガキを押し付けられて…」
今度は俺が、親父を睨み付ける番だった。どうしても、許せなかった。
腹の子は、俺の子だ。俺が望んだ子だ。親父は舌打ちをすると、ガタガタと音を立てて、立ち上がった。
タバコを灰皿に押し付けると、無言で部屋から出ていった。