彼は、あたしの妊娠が分かってから、激しく揺さぶるような抱き方はしなくなった。代わりに、何度も何度もキスを落としてくれる。  
慈しむように労るように、髪を撫でながら、名前を呼んでくれる。時々、下腹部を撫でて、そこにもキスをしたり、頬を押し当てたりする。  
「いつ、動くんだろうな」  
そんな言葉を聞いたら、愛されているのかもしれない、少なくとも、嫌われてはいないのではないかなんて夢を見そうになる。  
「…早く、動けばいいな」  
涙が出そうだ。あたしは、彼に愛されたくて仕方がない。彼がお腹を撫でてくれると、この子も愛して貰えるんじゃないかと、思ってしまう。  
「…要さん…」  
愛しています。誰よりも、貴方と、貴方の子を。  
だから、だからこそ、もう終わりにする。そう思うと、もう涙は止まらなかった。  
「楓、どうした?どこか辛いのか…?」  
困ったような顔をして、あたしを覗き込む彼の手が、ただ優しくあたしの頬を撫でた。涙を唇で拭って、また柔らかな口付けをくれた。  
 
彼のお父さんと名乗る男性が、この部屋に訪れたのは、1ヶ月ほど前が初めてのことだった。あたしの顔を見て、明らかに表情が曇った。  
 
「……それで、君は要の何なんだね?」  
 
いつも要さんがくつろぐソファに、ふんぞり返るように腰掛けて、タバコをふかしながら、彼のお父さんは威圧的に言った。  
あたしは何も言えなかった。あたしは彼の、何?寧ろ他人に定義してもらわなくてはならないくらいだった。  
「答えられないか…。だろうな。全て調べは付いているよ。興信所に依頼したんだ。金があれば何でも出来る時代なんでね」  
彼は、脇に立っていた秘書とおぼしき若い男性に指示をすると、鞄の中から分厚い封筒を取り出させた。  
「300万。これで手を打って貰えないか」  
「どう、言う…」  
「正直に言おう。君は、要の人生の邪魔だ。君は、要が金で買った『ペット』なんだろう」  
侮蔑の言葉に、身体が震えた。でも、全て事実だった。何も言い返せなかった。目の前で揺らめく、コーヒーから立ち上る湯気を睨んでいた。  
「要も要だ。妊娠などと…。この金で子供などさっさと始末して、君は自由になりたまえ」  
あたしの、少し目立ち始めたお腹に蔑むような視線を向け、彼はコーヒーに手を伸ばし、口を付けた。  
「なんだこれは。甘すぎる。まともなコーヒーの入れ方も知らないのか」  
要さんは、甘いコーヒーが好きだった。角砂糖は4つ。つい癖で、コーヒーに砂糖を加えて出してしまったのだ。  
お父さんは、コーヒーカップをソーサーに戻すと、脚を組み替えた。  
「……要は結婚するんだ。アイツは君と一緒になると言って聞かなかったが、もう縁談はかなり進んでいてね」  
あたしは思わず、持っていたカップを床に落とした。黒い中身を撒き散らし、カップは割れた。  
「おや、聞いていなかったのか。仕方無いな、さぁ、これを持って病院へ行きなさい」  
握らされた封筒の重さを掌に感じると、悲しみが沸き上がってきた。思わず、封筒を突き返した。  
 
「要りません…要りません!こんなお金、欲しくない!帰ってください!!」  
気付くと、叫んでいた。悔しかった。あたしは卑しい女だけど、彼への気持ちは、お金で換算出来るものじゃない。  
 
彼のお父さんを追い返したあと、彼の香りの残る枕に顔を埋めて泣いた。  
要さんが、あたしと一緒になると言ってくれたの?それは、子供のため?それでも、満足だよ。  
でもやっぱり、一緒には居られない。彼の人生の邪魔は出来ない。あたしはどうすればいいの?  
 
それから3度、彼のお父さんはここを訪れた。その度に「手切れ金」の額は増えた。  
あたしは、受け取りを拒否し続けたが、それは額が不満だったからではなく、プライドの問題だった。  
でも、4度目に彼のお父さんにあった時、あたしはついに彼との別れを決意した。  
 
「君は要の面目を潰す気か」  
そう言われて、ハッとしたのだ。そうだ、そうなのだ。あたしがこの子を産むと、要さんの世間体に拘わる。一番初めに、考えたことだったのに、馬鹿なあたしはそれすら忘れていた。  
日に日に目立ってくるお腹と、日に日に優しくなっていく要さんとに、あたしは愛している、の言葉を聞いたわけでもないのにすっかり妻気取りだった。  
「…分かりました」  
「おや、分かって頂けたかね。おい、早くお出ししなさい」  
以前より分厚くなって、数も増えた封筒が、机に並べられた。  
でもこのお金が欲しくないのは今でも変わらない。  
「要りません…」  
「なんだって?」  
「お金は、要りません」  
「まだ足りないのか?」  
「違います!お金なんかで別れるんじゃありません。彼を愛しているから…だから…」  
そのあとは、言葉にならなかった。次々に言葉は浮かんだが、涙に喉を塞がれて、口に出せなかった。  
彼のお父さんが、じっと項垂れて泣くあたしを見ている気配がした。  
 
彼が正式に見合いをする日までに出て行くこと。二度と彼に会わないこと。子供の父親について口外しないこと。  
これが、あたしの求められたことだった。要さんには言えなかった。  
ソファにあたしを座らせて自分は床に腰を下ろして、あたしの腰に腕をまわし、お腹に耳を押し当てて目を瞑る彼の表情は、穏やかで、幸せそうだった。  
あたしは彼の頭を撫でながら、彼が気付かないように静かに泣いた。彼の見合いの日まで、あと1週間だった。  
あたしはまた、大切な人と別れなくちゃならない。しかも、今までの別れの中でも最も辛い。でも、あたしにはこの子が居るから、きっと大丈夫。貴方とあたしを結ぶこの子が居れば、貴方を感じられるから。  
 
だけどやっぱり、悲しい。  
 
 
胎動を感じたくて、彼女の下腹部に触れることが日課になっていた。  
少しも動く気配はまだ無かったが、彼女の体温を感じ取ることが出来るだけで幸せだった。彼女が俺の頭を優しく撫でてくれる度に、結婚して欲しい、と言おうと思う。  
だが、あれこれ言葉を考えているうちに、タイミングを逃して結局言えず終いになっているのだ。  
病院に検診に行くと、仲のよさそうな夫婦が居て、彼女はその様子を目で追っていた。会話をしようとせず、雑誌に目を落とすふりをしている俺を彼女が盗み見て、悲しそうな顔をするのも、知っていた。  
だから、分かっていた。彼女は俺と一緒になってくれるだろうと。だけれど、意気地が無くて、もし嫌だと言われたら、とか、そんなこと望んでいないと言われたら、とか、考えてしまう。  
要は、自分が傷付きたく無いだけだ。  
彼女を散々傷つけておいて、自分は傷付きたくないなんて、ただのエゴだ。  
 
「見合いは受けてくれ。それで断っても、構わない」  
親父が俺に何かを頼み込むのは、初めてのことだった。親父に会ってから1ヶ月ほどたった時、電話が掛かってきたのだった。  
勿論、初めは渋った。だが、親父にも面子があるだろう。俺は仕方無く、受けるが断ると言うことにして、承諾した。  
見合いを終えたら、彼女にプロポーズをしよう。見合いの丁度2日後は、彼女の19回目の誕生日だ。お腹の子はもうすぐ5ヶ月になろうとしていた。  
 
見合いを翌日に控えた仕事帰りに、指輪を買った。婚約指輪だ。彼女の華奢な指を飾る、シンプルだが美しい、小さなダイヤモンドが輝くリング。  
彼女は、喜んでくれるだろうか。今までの罪を償うために、一生掛けて、君だけ愛すと告げたら、頷いてくれるだろうか。  
 
「ただいま、楓」  
 
お帰りなさい、いつもならそう返事が返ってくるはずだった。  
だが、一言も返事が無い。  
 
「楓」  
 
電気が消された家中を、捜し回った。どこにも彼女の気配はない。  
リビングにも、寝室にも、彼女の部屋にも、誰も居ない。  
 
「楓…、楓!楓!」  
 
居ない。誰も。  
何故。  
どこに、居る。  
俺は、独りか?  
楓、どこに行ったんだ。  
楓、どこだ。  
出てきてくれ。  
後生だ、俺を独りにしないでくれ。  
 
「楓…かえで…っ!」  
 
彼女が居ない。俺は、独りだ。ずっと、ずっと俺は独りぼっちだった。やっと、孤独から解放されたと思っていたのに。また、独りきりだ。  
もう、独りは嫌だ……。寂しい、悲しいよ、楓。  
 
止まらない涙をそのままに、居るはずない彼女を捜し続けて、気が付くと、朝が来ていた。日の光の中、窓際のダイニングテーブルに、走り書きが置いてあるのを見つけた。  
 
『黙って居なくなって、本当にごめんなさい。  
あたしは、要さんが大好きです。  
でも、何もないあたしでは、要さんの重荷になるだけだと、分かりました。  
遠くから、要さんの幸せを願っています。 楓』  
 
涙で文字が滲んだ。お前が居なきゃ、幸せになんか、なれるはずないじゃないか。楓、どうして、居なくなったんだ。  
 
 
自分が書いた走り書きを睨み付けて、あたしはじっとダイニングテーブルの前に座っていた。彼に、最後の別れを告げてから家を出たかった。だけど、彼の帰宅はいつもよりも遅かった。  
 
「……もう十分だろう」  
 
彼のお父さんは痺れを切らして立ち上がった。  
 
「残念だったな、やはり君と要には縁が無かったようだ」  
 
嘲笑するような口調に、あたしは俯くしかなかった。  
彼のお見合いの前夜に、あたしは彼のお父さんが用意したアパートに移ることになっていた。初めは断ったが、妊婦が働き口を見付けられるはずもないし、仕方無く暫くはそこで暮らすことにしたのだった。  
 
「一目だけでも…会わせて頂けませんか」  
「喧しい。要は明日、大切な見合いを控えているんだぞ。お前に費やす時間などアイツにはない」  
言い切られ、あたしはそのまま何も反論出来ないまま、家から連れ出された。  
黒塗りの高級外車に押し込められて、もう逃げ場は無かった。  
「めそめそと泣くな!鬱陶しい」  
ピシャリと言い放たれ、あたしは涙を溢すことも許されなかった。  
 
着いたアパートには、家具が一式揃っていた。生活には、何の支障もない。  
「……お世話、お掛けしました」  
深く、彼のお父さんと秘書の男性に頭を下げた。あたしにはもう、この子しかいないから、この子を育てるのに必要なスペースを与えて貰えたことだけでも、感謝しなくてはいけない。  
お父さんは返事をせず、踵を返して去っていった。  
だが、秘書さんだけは、何故かその場に佇んでいた。「……私は長い間、会長にお付きして居ます。会長の御命令は、絶対です」  
細いフレームの眼鏡を中指で押し上げ、ふっ、と皮肉っぽく笑った。  
「ですから、これが初めての背任行為になります」  
そう言うと、彼はあたしに一枚のメモを突き出した。  
「貴女を失ったら、要さんはきっと、もう元の要さんでは居られません。それはわが社にとっての、最大の損失です。  
会長が引退されたあとも、わが社が発展し続けるには、要さんのお力が必要です」  
それだけ言うと、彼はお父さんの後を追っていった。涙に霞んだ目を擦り、メモを開く。  
 
「……?」  
 
そこには、このアパートから程近い駅に明後日の朝10時に来るように、明日は家で大人しくしているように、と書かれているだけだった。  
訳が分からない。でも、従えば何かが、行けば何かが、変わるかもしれない。  
 
見合いなんて、どうだっていい。この見合いが失敗して、会社が潰れようが、職を失おうが、どうだっていい。  
楓を、彼女を捜さなくては。俺の欲しいものは、見た目と家柄ばかりいい、我が儘なお嬢さんでも、遣っても遣っても底をつかない金でもない。ましてや会社の未来になんて興味はない。  
着の身着のまま、彼女を宛てもなく捜すために、玄関を出ようとすると、携帯がけたたましく鳴り響いた。  
もしや、彼女かと期待をして、確認する。  
 
『着信:佐伯』  
 
佐伯、つまりは、親父の秘書だ。  
出ようか、止めようか迷って、ふと思った。彼女は何も言わなかったが、このタイミングで彼女が失踪したのはさては、親父の仕業ではないのか?  
俺は通話ボタンを押すなり、怒鳴った。  
 
「佐伯!お前…っ!!」  
「要さん、落ち着いてください」  
「落ち着く?!ふざけるな、お前、楓をどこにやった!楓を返せ!」  
「落ち着いてください。楓さんは、無事ですから!私が責任を持ちます、大丈夫です」  
楓が無事だと聞いて、俺は少しだけ落ち着きを取り戻した。息を吐き、咳払いをした。  
「……佐伯、楓は、どこにいるんだ」  
「今は、言えません。要さん、きちんと身支度をして、見合いに行ってください。遅刻など、しないでください」  
「見合いなんて言ってられるか!楓は妊娠しているんだぞ!」  
また頭に血が昇る。ダメだ、苛立ちが最高潮に達している。見合いなんて、行けたもんじゃない。それに、見合いに行けば、もう次には具体的な結婚の話をさせられるだろう。  
「要さん、見合いに行ってください。こちらに少しの落ち度も無いことを、証明しなくてはなりません」  
「落ち度?何のことだ」  
「詳しくお話している暇はありません!とにかく、きちんと身支度をして、時間に間に合うように行ってください。全てはそれからです」  
 
 
俺は、疑念を抱きつつ、佐伯の言うようにきちんと身支度をし、時間に間に合うように、指定された料亭へ向かった。勿論、俺は先方に楓のことを話はしなかった。そして親父が満足そうに頷くような好青年を装った。  
 
…だが、結果として縁談は破談になったのだ。  
親父は怒り狂い、それを佐伯が必死で宥め、先方のご両親は呆然としていた。  
先方の娘さんだけ、けろりとした顔で居た。流石の俺も、今度ばかりは苦笑するしかなかった。  
 
 
「どうして、分かったんだ。娘さんが、妊娠していると」  
佐伯の運転する車の中、俺は彼に訊ねた。彼は、見合いの最中、まさに縁談が決まるその時になって、会場に飛び込んできた。親父は彼に出ていけと命じたが、彼の見せた写真に、一同が絶句したのだった。  
「会長は、昔から温いんです。要さんに探偵をつける前に、先方についてよく知るべきですよ。私の独断で、あちらのお嬢さんを調べさせて頂きました」  
しらっと言ってのけるこの男こそ、実は一番食えないらしい。  
笑うしかなかった。  
 
写真には、若いミュージシャン崩れのような風貌の男と抱き合って熱烈なキスを交わす、相手方のお嬢さんが写っていた。  
ご両親が娘さんに詰め寄ると、彼女はあっさりその男との交際を認め、今回の縁談を破談にして欲しいと言い出したのだ。  
「アタシ、妊娠してるの。父親は彼よ。だから彼と結婚したいわけ」  
気持ちがいいくらいすっぱり言ってのけ、彼女は満面の笑みを浮かべながら俺に頭を下げた。  
「城崎さん、ごめんなさい。貴方、とっても素敵だから惜しいけど、アタシが好きなのは彼だけだから許してね」  
無論、破談にして欲しいと言ったのは相手方だったから、契約は続行、何も問題なく、俺は結婚話から解放されたのだった。  
 
「佐伯…助かった。ありがとう」  
運転席の佐伯は、ちらりと俺に視線を向けると、ふ、と笑う。  
「私は、わが社の利益にならないことを防ぐため行動したまでです。ですが」  
咳払いをし、低く響く声で、彼は言った。  
「私は、楓さんの、ひた向きさに心を打たれました。  
会長がどれほど金を積んで別れるように言っても、彼女は首を縦に振りませんでした。  
出ていくと決意された時にも、お金は要らないと、愛しているから別れるんだ、と…」  
その言葉に、俺は熱い何かが胸の奥から込み上げるのを感じた。  
愛している、彼女が、俺を?  
「楓が…楓がそう言ったのか?」  
「はい」  
ああ、俺はどうして、こんなに遠回りをしてきたのだろう。彼女は、俺を思ってくれていたのだ。俺が彼女を思うように。もしくは、それ以上に、強く。  
「楓に、会わせてくれ」  
涙が自然に頬を伝う。今すぐ会って、全て謝って、そして、愛している、そう言いたかった。  
「要さん、今日はもう遅いです。明日、会えるように手配してあります。今日はしっかり休んでください」  
佐伯の普段は冷たい表情が、柔らかく緩んだ瞬間だった。  
 
 
昨日は、佐伯さんに言われたように大人しく部屋に籠って居たけれど、気が気で無かった。  
彼は、別の女性と一緒になってしまったのだろうか。  
「楓さん!」  
言われたように、駅前で待っていると、佐伯さんが、あたしを呼んだ。彼の車に乗り込むと、微笑み掛けてくれた。  
「あの…どこへ、行くんですか?」  
「貴女の、一番会いたい人のところです」  
「え?」  
「1日貴女が居なかっただけで、要さんは酷く滅入ってみえましたよ」  
とても、愛されているんですよ、彼はそう付け加えてまた微笑んだ。  
愛されている…、要さんに?それは、本当?  
「楓さん、自信を持っても、いいと思いますよ」  
「……ありがとうございます」  
話を聞くと、彼の縁談は、相手の女性の事情で無かったことになったらしい。  
だから、彼を堂々と愛していいのだと言ってくれた。  
泣きそうだった。でも、泣くのは要さんに会ってからだとたしなめられて、あたしは滲んだ涙を拭うと、彼に笑いかけた。  
 
……  
 
柔らかく小さな何かが、俺の頬を触っている。  
 
「おっきして、パパぁ」  
 
ゆさゆさと、案外強い力で身体を揺さぶられ、うっすら目を開けた。目の前に、あどけない顔をした、彼女が居た。  
 
「パパぁ、きょうは、ゆーえんちの日だよー」  
遊園地の日…?  
ああそうか、今日は、三人で遊びに行くって約束をしたんだっけ。揚げ物をする音がする。この匂いは、唐揚げかな…?  
はっきりしない意識の中、ぼんやり考えた。  
「パーパ!早く、おいてっちゃうよ」  
天使のような微笑みを見せて、彼女はベッドから降りた。彼女は本当に、可愛い。大きな目と、くるくる変わる表情と優しげな口元。全て母親譲りなのだ。  
「…めい、ママは?」  
「からあげ!つくってる!お弁当だよ」  
明は、嬉しそうに言った。楓の作る唐揚げは、明の一番の好物だ。  
俺は起き上がると、真っ直ぐキッチンに向かった。せっせと料理に励む、楓の後ろ姿があった。  
「あ、っ!」  
パチッと油が跳ねた。楓は慌てて手を引っ込めたが、どうやら軽く火傷をしたらしかった。  
俺はおはようも言わず、鍋の火を止めると、彼女の右手を手に取った。  
「あ、要さん…」  
「おはよう、楓。すぐに冷やさないと」  
手を引いて、水道の水を流しながら、彼女の指先を冷やす。  
「あ、もう、大丈夫。ありがとう、要さん」  
俺は言葉には答えずに、火傷で少し赤くなったそこにそっとキスをした。  
「要さん?」  
「愛してるよ、楓」  
「ふふ、あたしも」  
微笑み合う俺たちを、陰から見ている人物が居た。明だ。  
「らぶらぶ!」  
にやにや笑う彼女に気付いて、俺たちは、パッと身体を離した。冷やかしの眼差しを5歳児に向けられてあたふたしているようでは情けない。  
「明だって、好きな人くらい幼稚園に居るだろ。パパはママが大好きなの!」  
明は少し考えてから、言った。  
「めいの好きな人、よーちえんにはいないよ。だってめい、さえきのお兄さんとけっこんするから」  
「はっ?!」  
親父は、何だかんだ言っても初孫の明が生まれた途端に穏やかな好好爺になってしまった。  
佐伯はいつも親父にくっついて居たから、親父に会う度に佐伯にも会っていたことになるが、いつの間に佐伯にたぶらかされたんだ…。  
「めい、さえきのお兄さん、大好き」  
笑う彼女はやっぱり天使のようだった。  
そんな娘の頭を撫でて微笑み掛ける妻も、天使みたいに柔らかな表情を浮かべている。  
「さ、明もパパも着替えて。もうすぐお弁当出来るよ」  
わーい、と言いながら、明は自分の部屋に戻っていった。俺も着替えようと思って、その場を立ち去り掛けると、ちょっと待って、と楓が思い出したように制止した。  
「あの、要さん。今日はあたし、あんまりはしゃげない。だから、明に付き合ってあげて」  
「具合悪いのか!?」  
「……明に、弟か妹が出来たの」  
暫し絶句した。が、その後、俺は気が付くと彼女を強く抱き締めていた。  
 
俺はもう、孤独じゃない。  
(了)  
 

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