「誰でもいいんだろ?……それなら、俺でもいいよな?」
泣いても謝っても、必死に藻掻いたって、彼は冷たい目であたしを見下ろしたまま、許してはくれなかった。懇願したところで、彼は嗜虐的に笑うだけだ。
……目尻にいつもの笑い皺がない。ああ、そうか。口許だけで笑っているからか。いやに冷静に、あたしは涙に霞んだ瞳で彼を見詰めた。
「お前が、こんな薄汚い尻軽だったとはな。がっかりだよ」
謗られて、苦しくなる。
違うの、違うの。聞いて、お願い。誤解だよ、本当はあたしだって、あんなこと、したくはなかったの。あたしはいつだって、貴方だけが好きだったんだよ。
……言いたい。言えない。だって、事実あたしは、薄汚い尻軽の売女なんだから。理由が何であれ、あたしはもう何度もお金で買われた汚い女だ。
彼の言うことに一点の間違いもない。
「お前を買った男共は、お前の泣き顔が好きだったのか?泣けば何もせずに金だけくれたのか?
……違うだろ?泣いたって、無駄なんだよ!!!」
「いやぁっ……!」
あたしが売春を覚えたのは、17のときだった。そのときあたしはまだ、バージンだった。
父親の経営する会社が破綻して、借金まみれになり、父は自殺、母は妹と一緒に蒸発した。あたしは父の連れ子で、母と血の繋がりは無かったけども、愛されていると思っていた。
だけど、それは間違いだったんだ。
あたしは独りぼっちになった。学校も辞めた。父の生命保険も、我が家を売ったお金も、あたしの学費も、全部借金返済に宛てたのに、まだまだ、返しきれない。あたしの手元にはなんにも、何一つ残らなかった。
親戚中を転々として、生活した。バイトをいくつも掛け持ちして、それでも明日食べていくのにも、困るくらいだったのだ。
親戚に疎まれて、頼れなくなって、途方に暮れていたあの寒い夜に、あたしに声を掛けたおじさんが居た。
「君、どうしたの?泊まるところないの?」
…名前も知らない男の人に、あたしは3万で買われた。それが安いのか高いのか、そんなことはどうでも良かった。空腹を満たせるだけで良かった。
ホテルを出てすぐ、おじさんに貰ったお金で、コンビニのおでんを買った。あったかい。美味しい。涙が零れた。
空腹が満たされるにつれて、取り返しがつかないことをしたと言う激しい後悔に襲われた。
初めては、好きな人と。そしてその人と結婚したい。つい半年前までは、そんなことを友達と言い合って、照れ臭くって笑っていたのに。
ああ、あたしは取り返しがつかないことをしてしまった。でももう、これしかなかった。あたしは身体を売って生きるしか術を持たないんだ。
カナ、ナツ、サリ、ユカ、ミキ、ユナ。全部、あたしの名前。あたしが身体を売るときに名乗る名前。本名を呼ばれたくなかった。
あたしの心まで、売り払う気は無かった。
生活費と、借金を返すために、あたしは昼はバイト、夜は売春をして暮らした。疲れていた。
積もり積もった疲れに身体が限界を迎え、あたしはバイト先で倒れたのだった。
「大丈夫か?」
ぼやける視界に飛び込んできたのは、4、5回見たことがあるだけの、社長の顔だった。あたしは休憩室のソファーに寝かされていた。
あたしのバイト先は、チェーン展開しているレストランで、社長はたまに査察を兼ねて食事にやって来る。あたしが社長の顔を覚えたのは、店長が社長に凄い剣幕で怒られているのをたまたま見てからだった。
「…あ、あたし…」
「寝ていろ、お前、まともに食ってないな?顔色が悪すぎる。今店のスタッフに消化のいいものを作らせているから、食え」
「は、はい…すいません」
賄いだけが、近頃の食事だった。早く借金を返すには、食費をカットするしかない。
「あの、…社長、ありがとうございました」
社長は心底驚いた顔をして、あたしを見詰めた。
「お前、俺を知っているのか」
「社長、って、呼ばれてるし…」
「あ、ああ、そうか。そうだろうな」
そう言うと、彼は笑いだした。笑い皺が目尻に刻まれた。真顔は怖いのに、笑うと皺のお陰か、可愛らしく見える。
「俺もお前を知っている」「え?」
「真野 楓」
なんで、社長、謂わば企業のトップが、あたしみたいなただのバイトを知ってるんだろう。何かまずいことをしてしまったのだろうか。
不安で顔が青ざめるのが自分で良くわかった。バイト先をクビになるのは死活問題だった。
「……あたしの名前…どうして」
「……名札」
やっと合点がいった。名札か…。左胸に控え目に付けられた、白いネームプレートに納得した。
「高校生か?」
その言葉に、胸がずきんと痛む。そうなのだ、あたしは本来、高校生であってもおかしくない年齢なのだ。
「……いえ、学校は、行ってません」
どうせ、詮索される。面白半分に、あたしの不幸を聞き出したがる。皆、そうだった。
「そうか」
「……えっ」
「何だ?」
彼は、それ以上何も言わなかった。驚いた。そんな大人は、初めてだった。
「城崎社長!」
店長の声がした。社長は立ち上がると、あたしに言った。
「もう暫く、大人しく寝ていろ。背広は貸してやる」その時漸く、あたしが握り締めているものが彼のスーツであると言うことに気が付いた。
真野 楓は、大きな瞳が印象的な少女だった。美人と言うより可愛らしい雰囲気の、どこか育ちの良さそうな女の子だと思った。
けれど、彼女は見るたびに痩せて、顔色も悪くなり、明らかに酷い健康状態が見てとれた。
ただのバイトの女子高生。最初はそう思おうとしたが、違った。気掛かりでならなかった。
何故気になるのかは、自分で一番分かっていた。……いい歳をして、一目惚れだ。
言葉を交わしたい。彼女のことを知りたい。一体どんな生活を送っているのか。何か悪い病気なのか。
俺に何か出来ることがあれば、力になってやりたい。
そう思っていた矢先、そのきっかけは廻ってきた。俺が彼女の働く店舗に出向いた時に、彼女は、倒れたのだ。俺は誰より早く、彼女の元へ駆け寄って、抱き起こした。
「真野!」
貧血だ。それと、疲労も溜まっていそうだ。青ざめた顔を見て、確信した。
彼女はまともな食事をしていない。余りにも軽い身体を抱き抱え、立ち上がる。
「真野さん…、大丈夫?!」
スタッフが遅れてやって来て、真野に声を掛けた。
「多分貧血だろう。俺は彼女を奥に連れていくから、何か消化のいい温かいものを作ってやってくれ」
ディナータイムのオープン前だったので、客も居らず、大した騒ぎにならなくて良かった。彼女をソファーに横たえて、店の制服のネクタイを緩めてやり、上着を脱いで掛けてやる。
固く閉じられた瞼を縁取る長い睫毛に目がいく。初めて、これほど近くに彼女が居ることに、漸く気が付いた。
馬鹿馬鹿しい。一目惚れだなんて。確かに彼女は可愛らしい顔立ちだが、目立つようなタイプではないし、何よりまだ年端もいかない少女と言うのに差し支えない年頃だ。
…一目惚れだって?可笑しな話だ。少なくとも、15歳は年下の子供だ。俺に媚びる女だって、沢山居る。なのに、何故。
理由の分からない、恋患いなんて何年ぶりのことか。女に興味が無いわけではなかった。人並みに遊んだし、人並みに誰かを愛したこともあった。
だが、これほどまでに惹かれたのは生まれて初めてだ。
よく知りもしない相手に入れ込む自分が可笑しい。馬鹿だと思う。店に出向く度に、真野 楓の姿を探してしまう。
よく働く、マメな女の子だと思った。関わるきっかけがずっと欲しかった。彼女について知っていることなど無いに等しいのに、何故か確信めいたものがあった。
彼女は悪い子ではない。多分、俺のイメージ通りの、芯の在る、凛とした子だ、と。
再びあたしが目を覚ましたとき、テーブルに温かいリゾットと林檎のすり下ろしが入ったヨーグルト、それから林檎ジュースが置かれて居た。
背広を脇に置いて、あたしは有り難く食事を頂くことにした。社長は何処に行ったんだろう。お礼、きちんと言わないと。背広も返さないと。
食事を終えて、食器を洗うために厨房に行くと、店長が居たから声を掛けた。
「店長…あの、お世話お掛けしてすみませんでした」
「あ、もう大丈夫なの?今日は無理しないで帰っていいよ。食器もこっちで片付けておくから。明日は午前中から頼むね」
社長より随分歳がいってる(多分、50手前)柔和な性格の店長はそう言った。生粋のお人好し。
あたしを買う男たちとさして年齢は変わらないけど、きっとこの人はそんな汚ならしいことをする大人じゃない。
「本当に、すみません。あの、社長は…」
「社長なら、お帰りになったよ」
背広、忘れて帰ったのかな。どうしよう。お礼もちゃんと言ってない。
店長は、あたしの顔を見て思い出したように言った。
「明日またみえるそうだから、背広はその時にって。
……最近、うちにばかり通ってるみたいなんだよ。売上が落ちたからかな…はは」
店長は苦笑いを浮かべて、それから溜め息をついた。
非常にわざとらしく、俺は彼女と関わりを持とうとした。背広を貸したまま、帰ったのだ。
口実が欲しかった。だけども、明日背広を受け取ってしまったら、それっきりになる。
何かいい方法はないものか。せめて連絡先くらいは知りたい。少しだけでもいい、彼女に近付いてみたい。
初恋でもしたかのような熱の上げ方に自分で苦笑した。
彼女は俺のことを知っていた。当たり前か、社長と呼ばれている人間なんだから。
それでも、嬉しかった。彼女は気付かなかったらしいが、ネームプレートには『MANO』としか書かれていなかったから、俺がそれを見ただけで彼女のフルネームを言い当てることは不可能なのだ。
けれどもそれを知っていたのは、俺が彼女の名前をわざわざ他の従業員に聞いたからだ。
とにかく、彼女と関わりが欲しかった。関わることさえ出来たなら、後はどうにかする自信があった。
「あ、ありがとう…ございましたっ」
背広を差し出して頭を下げた。腰の角度は90度。
「そんな、いいから。俺は何もしてない」
そうは言っても、正規の社員ですらないようなあたしが、社長と言葉を交わすこと自体恐れ多いのに、背広無しで帰らせてしまったなんて、酷くとんでもないことだと思う。
父はいつも言っていた。背広は男の身嗜み。社長の背広は、肌触りが滑らかで、あたしを買う男たちの、縫い目が解れたようなそれとは質が全く違うことは良くわかった。
とにかく、軽くて滑らかで、高級感がある。
「本当、すみませんでした」
「……代わりと言ってはなんだが」
びく、と身体が反応した。彼が急に使った低い声に、あたしは動揺した。
「食事でも…どうだ」
「え?…食事?」
「嫌か?」
「いっ、いいえ!」
どうなってるんだろう。背広を借りたお礼に、あたしは食事に付き合えばいいの?
まさか、そんなムシのいい話があるもんか。あたしを買う男たちの中には、食事の後にホテルに行きたがる男も居る。
……そう言う、こと?
「何だ、怖い顔して。心配するな、食事だけだ。……それとも何か、俺が信用ならないか」
あたしの心の中を読んだのか、彼はふっと笑って言った。目尻に皺が刻まれる。あたしは首を横に振った。
「連絡先、教えろ。また仕事のきりが付いたら連絡する」
こうして、一介のバイトの分際であたしは社長と食事をする約束をしてしまったのだ。本当に、純粋に食事だけ。ムシのいい話が、あるもんだな……。
あたしの持って居る服を全て並べてもたかが知れている。売れるものは全部売ってしまったから、手元に残った服に大したものはない。
服装は礼儀。父の言葉だ。
『明日の夜7時から、空いているか?』
そうメールが来たのは1時間前のことだった。本当に誘いが来たこと、しかも連絡先を交換してから1週間しか経っていないことに驚いて、思わずすぐに、了承の旨を伝えてしまった。
そこで漸く、着ていく服が無いと気が付いた。
「どうしよう」
ふと、思い出した。父が最後にあたしに買ってくれたワンピースがある。シフォンの上品かつ可愛らしいワンピース。父は服の趣味が良かった。
父が亡くなって塞ぎ込んで、それから一度も着たことの無かったあれだけは、二束三文で売る気になれずに、仕舞い込んで居た。箪笥の奥深くから、取り出してみて、身に付ける。
若干以前より肉が落ちたせいか、少し大きい気もするが、悪くはない。これを着ていこう。
待ち合わせした彼女の勤める店から少し離れたところにある喫茶店に、時間より30分も早く行くと、既に彼女は居た。
しかも、席に座るでもなく、ひっそりと入口で立ち尽くしているのだ。
行き交う人々にじろじろ眺められ気まずそうにする彼女を見ていられず、クラクションを鳴らした。
「真野!」
彼女は顔を上げると、少し驚いていた。手招きをすると、走ってやって来た。俺は運転席から降りて、助手席側に回った。
「……こんにちは」
「今日は、急で悪かったな。はい、どうぞ」
扉を開け、中に入るように促した。彼女はおずおずと車の中に入った。ドアを閉めると、俺も運転席に乗り込む。
彼女は緊張しているのか、俯いたまま何も話そうとしない。
「真野」
「はい…?」
「今日の服、よく似合うな」
黒地に小花柄の、仕立ての良さそうなシフォンドレスに黒いコートを着ている彼女は、いつもの店の制服であるパンツ姿とは随分雰囲気が違った。何だか可愛い。
俺はアクセルを踏み込んだ。
「あ、ありがとう、ございます」
ちらりと彼女を盗み見た。ほんのり、白い頬を紅く染めて、少しだけ、笑みを浮かべた。
「何時から待ってたんだ?」
「や、待ったのは、5分くらいです。全然、待ってませんから」
それは多分嘘だ。
指先が赤いのは、見てとれた。鼻の頭も、同じく。
少なくとも、20分は待っていたんじゃないか。
「寒い思いをさせて悪かった。温かいもの、食わせるよ。知り合いのパスタ屋なんだけどな、美味いんだ」
「社長…どうして、食事なんて、誘ってくださったんですか」
一つ一つ選ぶように慎重に喋る。立場を気にしているのか。だとしたら、そんなこと無意味だ。
「俺も、たまには仕事の話抜きで誰かとゆっくり食事をしたいんだよ。
いつもいつも食事の相手は商談相手か会社の役員。飯の味も分からないくらいだ」
「それであたしを…」
「ああ…だから、社長は止してくれ。城崎とでも、要とでも、好きに呼んでくれていいから」
時々、自分が城崎 要と言う一人の人間であることを忘れてしまいそうになる。
親父が始めた事業の後を継いで、俺は『社長』になった。望むとも望まざるとも感じないまま、必然のようにこのポストに腰を下ろした。
何一つ自分で決めてこなかったから、自分が自分であるなんて当たり前のことを忘れそうになってしまうのだ。
「かなめ、さんって、おっしゃるんですね。いいお名前です」
やはり、彼女は育ちがいいらしい。柔らかい微笑みには気品があった。
「何が食べたい?」
彼はにこやかだった。店に来るときはいつも仏頂面のくせに、何故か今日はずっと微笑んでいた。
多分よっぽど、仕事抜きの食事が楽しいのだろうな。
「要さんは?」
「俺は、真野が食べたい物なら何でもいい。……けど、ナポリタンは、絶品だ」「じゃ、ナポリタンお願いします」
あたしが笑うと、彼もまた笑う。目尻に笑い皺が刻まれた。
「城崎、久しぶりだな」
ナポリタンの大皿を持って現れた男性は、社長を見ると親しげに話し掛けた。
それからあたしに向き直ると、一瞬驚いたような顔をした。
「随分可愛い娘を連れてきたな。初めまして、いらっしゃいませ」
あたしはぺこりと頭を下げた。
「猪山、久々だな。お前、真野にちょっかい出すなよ」
冗談まで言えるなんて、今日の彼はやっぱり普段と違うみたいだ。猪山さん、と呼ばれた男性は、あたしに向かってニッと笑う。
大皿を丁寧にテーブルに置くと、手際よく取り皿に一人前ずつパスタを盛り付け、チーズを削った。
「ごゆっくり」
ゆったりとした動作で猪山さんがその場から離れると社長はあたしを再び見詰めた。目尻の皺が消えていた。
「普段は……きちんと食べてるのか?」
あたしは少し迷って首を横に二度振った。何だか嘘を吐けなかった。
彼は少し目を泳がせて、それから言った。
「俺の仕事が空いたときにお前が暇なら、また食事をしないか」
「え?」
彼はあたしと目を合わせずに黙り込んだ。
「あの、是非お願いします」
それからあたしたちは、月に2、3回会っては食事をしたり、たまには映画を見たりするようになった。
そんなふうに付き合っても、彼は身体を要求することは勿論、不要にあたしに触れることもなく、ただ純粋に一緒に居ることだけを楽しんだ。
渇いたあたしの無彩色だった生活に潤いと彩りを与えてくれた彼を、あたしはいつしか兄とも父とも慕うようになった。やがてその気持ちがただの憧れとは違うことに気が付いた。
彼はあたしの生活を興味本意詮索することはなかった。あたしにとって彼と過ごす日々は安らぎだった。
自分の気持ちは、言えなかった。今の穏やかな関係を崩したくなかったし、何よりあたしは社長と休日の昼間を過ごし、夜は身体を売っていたから。
本当はもう、好きでもない男に抱かれるのは嫌だった。いくら避妊具を付けていると言ったって、身体の中にそれが入ってくるのは苦痛以外の何物でもない。
本当は、彼に…要さんに、抱かれたい。だけど、あたしにそんなことを望む資格なんてない。
月に数回、彼女と過ごせることが、何よりの楽しみだった。彼女への気持ちは、会うたび強くなっていったが、それでも、彼女に触れることはしなかった。
俺は大人で、彼女はまだ子供だから、狡いことはしたくなかった。
ある日、いつものように待ち合わせ場所に行くと、彼女が中年の男に絡まれていた。車の中にいても、様子がおかしいのがよく分かる。俺は慌てて車を降りて、駆け付けた。
「やめてよ!離して!」
「サリちゃん、つれないなあ。いいだろ、今日は5万出すよ」
彼女の細い腕は、男に掴まれたままで、必死に逃げようとしていた。俺は二人の間に割って入った。
「やめないか」
男も彼女も、俺を見詰めた。俺は彼女を庇うように立ちはだかる。彼女は俺の背中に隠れた。
「なんだよ、お前…!関係ないだろ!」
「喚くな、消えろ」
威圧すると、中年男はじりっと後ろに退いた。それから捨て台詞を吐いて、立ち去った。
「お前だってサリの客なんだろ!?ふざけんなよ!」
男が消えたあと、俺は混乱していた。状況が読めたようで、読めていなかった。客、とか、5万出す、とか、サリ、とか。
「真野」
振り返らずとも、彼女がビクリと肩を震わせたのが分かる。彼女に俺は、裏切られていたのか。何故、気付かなかったんだ。
「要さん…あの、あたし…」
「真野、来い」
今度は俺が彼女の腕を掴んだ。引き摺るように、彼女を車に連れていく。彼女が藻掻いた。
そんな細い腕で、抵抗出来るわけないのに、馬鹿な女だ。
「かっ、要さん…!ごめんなさい、ごめんなさい…!」
いつも紳士の振りをしていた分、留め金が外れた今、彼女に優しくする、とか、今までの関係が壊れてしまう、とか、そんなこと、考えられない。
助手席のドアを開け、彼女を押し込むと、そのまま乱暴に閉め、俺も運転席に乗り込んで、アクセルを踏み込んだ。彼女の軽い身体が車の勢いに負けて、浮き上がった。
怯えたような悲鳴が上がる。
「お前、あのオヤジに抱かれたのか?」
「……ごめんなさい…っ」
「何で!何で、なんだよ…」
彼女は泣きながら、自分の困窮した暮らしを語った。父親の自殺、母親の蒸発、自主退学、借金返済。どれも、本当のことなのだろう。
ならば何故、俺に相談してくれなかったのか。身体を売るなんて馬鹿なことを何故したんだ。
金の工面なら、俺がしても良かったのに。何で俺を、頼ってくれなかったんだ。
着いたのは、俺の自宅。高層マンションの屋上階。彼女はエレベーターの中で泣いたまま、謝り続けた。
けれども、許せなかった。既に、関係は崩れた後だ。
もうどうにでもなればいい。部屋に入るなり、彼女を寝室に連れ込んだ。ベッドに突き飛ばし、怯えた顔の彼女に覆い被さった。