その日、私は森の中、小さな湖で釣りをしていた。  
 水面を見つめながら、物思いに耽る――そんな時間が好きだからだ。  
 半日が経過し、美味そうな淡水魚を一、二匹焼いて食べて、また釣り糸を垂らす。  
 そんな時だった。尋常でない手応えが伝わってきたのは。  
 大物! 力を込めて引き上げると、水面に見えてくる巨大な影。  
 これは――。  
「ぷはあっ!」  
「……?」  
 何か、人っぽい魚が釣れた。  
「わ? え? 何?」  
 母国語喋る魚とは珍しいが、まあ普通に考えたらこれは魚ではない。  
 とりあえず捕まえて、ベルトに引っ掛かっている釣り針を外す。  
「エルフか」  
 耳の長さが特徴的な人種は、少なくともこの辺ではエルフと呼ばれている。  
 伝承では妖精のような書かれ方もするエルフだが、現代のエルフは人間とさほど変わった面はない。  
 肉も食せば、寿命もそれなり。言語なども発達してはいるが、ただ住む場所と文化は隔たりがある。  
 つまり、単に森に住む彼らをそれに因んで名付け、区別しているに過ぎない。  
「突然、何すんのよ」  
 私は釣り針を見せて、指差す。  
「?」  
 
 彼女は何をされたのか把握していないようだ。  
 ただ、魚を獲る為に素潜りしている最中、私の釣り針が引っ掛かったらしいことは分かった。  
 簡単に、状況を説明する。  
「――へえ…非効率的なことするんだ」  
 彼女の言い分は、直接獲りに行った方が速いとのこと。否定はしない。  
 水浸しで気にも留めていないようだし、さすがに森の人。  
「さて、どうしようか? 危ないから素潜り中は釣り針垂らすな、と言うなら中断するが」  
「ううん。…ただ、代わりに何か頂戴」  
 しかし自分が食べる分以外はキャッチ&リリース。今は手元に魚はない。  
「魚はないが、クラッカーはあるな」  
「?」  
 袋を破って、一枚渡す。怪訝そうに、その平べったな物体を観察するエルフ。  
「…無理なら釣れるまで待つしかないが」  
 そう言って私も一枚取り、齧る。  
 すると彼女も、クラッカーを恐る恐る口の中に入れた。  
「…もぐ、もぐ…あ、美味しい」  
 
 彼女の名前はムドラと言うそうだ。  
 空腹なので、魚を獲りに来たらしい。クラッカーは大層気に行ったようだが、まだ少し足りないか。  
「あんたは、都市人なの?」  
 都市は人種の坩堝。エルフも興味を持つ者は多いようで、最近では長い耳を頻繁に見かける。  
 そして都市を主に活動領域とする人間は、憧れの的になる。すると、些か傲慢になる。  
 ”都市人”本当はこれが正しい。普通の人間、とよく私たちは自負するが、真っ当に考えればエルフも人間なのだから。  
「そうだが」  
 すると彼女は私に、質問を投げかけ始めた。すぐに話は積もる。  
 見るからに好奇心の強そうな年頃の子だ。十五、六といったところか…何にしても、不思議は無い。  
 本当は静かな中で、釣りを楽しみたかったのだが、こういうのもたまには良いだろう。  
「でね、でね――」  
 そんな間に、魚が釣れた。割と大きく、味も良さそうだ。  
「今から焼くが、食べるか?」  
「うんっ!」  
 
「ごちそうさま」  
 彼女は無事に満腹となったようだ。焚き火に当たり、服も乾いた様子。  
 布切れを簡単に加工しただけの、タンクトップとミニスカート。質素な森の暮らしが窺える。  
「都市人って、噂よりも優しいんだ」  
「人それぞれだな」  
 そう言うと、彼女は立ち上がった。  
「…それじゃ、ね。クラッカーとお魚ありがと」  
 適当に服を叩いて、そして屈伸。…食後の運動だろうか。  
 そして走り去りかけて、振り返る。  
「バイバイ」  
 手を振ってきたので、簡単に振り返す。  
 さて…また釣りに集中するとしよう。  
 
 しばらくすると、空の天気が怪しくなってきた。  
 これは一雨来そうだ。森の中でしばらく待って、止みそうにないなら帰ろうか。  
 私は道具一式を纏めて、畔を離れた。  
「……」  
 かなり激しい雨。これは立ち往生になるか?  
「あ、都市人。ここにいたんだ」  
「?」  
 聞き覚えのある声に振り向くと、帰って行ったはずのムドラが立っていた。  
「心配して様子見に来たよ」  
 そう言って、雨露凌ぐならこっちの方が良い、と私の手を引いて歩き出す。  
「何処に行く」  
「私の隠れ家」  
 エルフの隠れ家――そんな場所に案内して良いのだろうか。  
 早歩きで軽妙に、草道を進む彼女。慣れているのか、足が縺れもしない。  
「…」  
「気にしないで良いよ。困った時はお互い様だもん」  
 あれは私が無理に――と口にしかけると、彼女は立ち止まる。  
「……本当は、魚獲るの下手なんだ私。だから、助けてくれて嬉しかったの」  
 素直で物分かりの良いエルフだ。その上、義理堅いとは。  
 
 カプセル、いやコンテナか。こんな場所に打ち捨ててあるとは…曰くあっても不思議は無い。  
 ただ随分古びているが、居住には充分な場所だった。  
 そして草木にカモフラージュされ、外からはその存在が分かり難い。文字通りの隠れ家だ。  
「助かった。礼を言う」  
「ううん。…あ、そういえばあんたの名前、訊いてなかった」  
 私の名前は、スピン――そう教えた。  
「スピン、か…あのねスピン、言い忘れてたことがあってさ」  
「わざわざ戻って来たのも、それが理由か」  
「こっちまで水飲みに来てたの。で、どうしても」  
 それは、何だろうか。見当がつかない。  
「――また会える?」  
 また、会えるかって?  
「……く」  
「あ、何で笑うの?」  
「いや…はは、もう会ってるのに…そんな真顔で」  
 何だ? 妙におかしくなった。  
「え? ええ〜? 何でよ? そんなにおかしいの? 私…」  
 …私は久々に笑った。  
 
「あんた、最初は無表情だったのに…ふふ」  
「で、また会いたくなった理由は何?」  
 すると、彼女は目を輝かせて、俺に言った。  
「またクラッカーが食べたいな。そして魚も獲ってよ」  
 …え?  
「何? ひょっとして一人暮らしなのか」  
「違うよ。けど、この辺にはよく遊びに来る。だから、美味しい物持ってまた来て?」  
 私は釣りの為に、わざわざこんな場所まで来てるのだが。  
「それにいつか、都市にも行ってみたいな」  
「連れて行けと」  
「ダメ?」  
 …助けてもらった代償は、高くつきそうだ。  
 しかし今、外は雨。コンテナを打つ音が聞こえる。  
 一向に止みそうにない。まずはこれをどうしたものか。  
「別に一人で行くのが不安だとか、そういう訳じゃないの。ただ――」  
 …ただ?  
「ねえ…もしかするともう、私と会えないかもしれないんだよ?」  
 
 一期一会の出会い。  
 そんなものに普段執着はしないが、時に孤独と隣り合わせの森の中では、その思いも強くなるのか。  
「……」  
「……」  
 長い耳にやや幼さの残る顔。その瞳で、彼女は私を見つめる。  
 真剣な眼差しだ。そして、まだ互いに未知の部分が多いにも関わらず、感じる信頼。  
 突然、視線が逸れた。  
「…やっぱり、迷惑だよね。ごめんね」  
「よく喋るな」  
 向き直る。  
「何よっ!」  
 私は黙って、笑った。  
「…!」  
 感情のやり場に困ったのか、彼女は渋い顔でそっぽを向いた。  
「――私と、交際したいのか?」  
 するとまた私を見て、今度は顔を赤らめる。  
 喜怒哀楽が激しいタイプなのだろう、表情がころころと変わる子だ。  
「そんな…別に…」  
「深い意味はない。友人でも交際は交際だ」  
「うっ…」  
 
 少しからかいが過ぎたようだ。少々熱があるのは確かだが。  
 しかし、彼女が可愛らしく思えてきた私は、手を差し出した。  
「私で良ければ、付き合う。ただ、何かある時はお互い様なんだろう?」  
「……」  
 無言だが、握手には応じてくる。  
 温かな手だ。  
「なら、たまにはこうして、話を聞かせてくれ」  
「……それで良いの?」  
「ああ。これからも、仲良くしよう」  
 そして、表情に明るさが戻る。  
 釣りに来たはずだったが、森の中で偶然見つけた、何か心をくすぐるようなもの――。  
 私はそれに、気を惹かれた。  
 
 雨は止まず、私はそのままここで宿をとることにした。  
 布の布団で少し背中側が硬いが、贅沢は言うまい。  
 そして隣には、何故か彼女。添い寝をしてくれるらしい。  
「家に戻らなくて良いのか?」  
「一日二日は大丈夫。それに、あんたを置き去りになんて出来ない」  
 心強い台詞だ。確かに、こんな森の奥。昼間の湖にすら、一人では戻れないかもしれない。  
 そんな私に布団一式を貸し、彼女は冷たい下に直に丸くなっている。  
「少し冷えるな」  
 そう言ってみたが、返事は無い。気を使っているのだろうか。  
 しかし掛け布団だけでも、彼女に。  
「…?」  
 すると何を思ったか、体を私に寄せてきた。  
「どうした」  
「こうすれば…一緒に使えるでしょ?」  
 しかし端に隙間は出来るほど、布団の丈は短い。  
「……」  
 横向きになり、私の肩へとしがみ付くような彼女。  
 その体温がちょうど高めで心地良く、布団の中を温める。  
「……スピン」  
「ん?」  
「…ありがと。やっぱりあんたって、優しいんだね」  
 
 その夜、私は夢を見た。  
 二年前に恋人が死んだ時――それを追憶するかのような、光景。  
 しかし今回は何かが違っていた。彼女の部屋で、現実には存在しなかった物が、見つかったのだ。  
 それは、テスタメント。  
 ”お互いに、次の幸せを探す時が来る”。  
 そう、書かれてある。  
 何故だか、涙が溢れてきた。悲しいというよりも、解放された感覚。  
 まるでガーゼに包まれて宙に漂うような、不思議な心地。  
「――」  
 自分で何か言葉を発したはずなのだが、分からなかった。  
 
 目が覚めると、肌寒さに思わず身震いする。  
 開けっ放しで外はぼんやりと明るい。ムドラの姿が、無い。  
「……」  
 私はあの日と同じ感情を思い出し、思わず途方に暮れた。  
 しかし、間も無くして近くから物音が聞こえた。  
「?」  
 恐る恐る外に出てみると、彼女がいた。  
 篭に果物を集めていた彼女は、気配に振り向く。  
「あ、スピン。おはよう」  
「…ああ」  
 沈んだ心が、再び火を灯した。  
 ぼんやりと彼女を見つめていると、それに気付き変な表情で私を見る。  
「何? …私がどっか行っちゃったと思った?」  
「……」  
 図星の部分が多く、返答に迷っていると、彼女は近づいてきた。  
「夜、泣いてたよ?」  
 その言葉と共に、私の体に触れる。  
「……ああ」  
 同じように私も、その肩に触れる。  
 
 それからすぐに朝食を終え、身支度を整え、コンテナの隠れ家を後にした。  
 昨日通った道を、彼女を目印にしてしばらく歩く。  
「……」  
 そしてようやく、湖に戻って来た。  
 まだ少し霧がかかってはいるが、静かで澄みきった光景が視界に広がる。  
「今日は一日、晴れそうね」  
 立ち止まる彼女。  
「私が送ってあげられるのは、ここまで。じゃ…バイバイ」  
「また一週間後、釣りに来る」  
 そう言うと、彼女も寂しげながら、笑った。  
「…今朝は随分と大人しいな」  
「あんたこそ」  
 最後にもう一度、握手。  
 …私はまた、何度もこの手を握りたい。  
「おみやげよろしくねっ!」  
「ふっ…ああ」  
 思わず笑ってしまいながらも、私は家路に向かい、歩き出す。  
 元気に手を振る、長い耳の彼女。その姿が、貴く感じてしまう自分自身に、驚きつつも実は納得している。  
 そう、”次の幸せ”は、遠からず見つかりそうな、そんな気分だった。  
 
 

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