『なじみの床屋』
午前十一時。客足の少ない、穏やかな土曜日。
彼女がカウンターで雑誌を広げていると、玄関先のドアベルが鳴った。
「いらっしゃ……なんだ」
「そこまで言いかけてやめるなよ」
「何か用?」
「床屋に用事ったら一つっきゃないだろ。今、大丈夫か?」
見たところ客はいないので、訊くまでもないのだが。
「訊くぐらいなら予約入れなって。アポイントメントは社会人の基本でしょ」
「やろうとは思うんだけど、家が近いからつい怠けちまうんだよなあ」
「なるほど」
ポンポン、と店の奥に移動した彼女は手近な椅子の背を叩く。そこに座れということだ。
誘われるまま、彼は店に足を踏み入れたが。
「おじさんは?」
「出かけてる」
「お前だけ?」
「うん、そう」
「帰る」
「帰るな」
シャツの襟を引っ張り、椅子へと引き摺っていく。
彼も観念したのか、抵抗らしい抵抗はせず椅子に納まった。
「本日はどのような感じに?」
「面接に行っても恥ずかしくないような感じに」
「かしこまりー」
首元にタオルを巻き、さらにマントを被せる。
「三十分後に予約があるから、ちゃっちゃとやっちゃうよ」
「やれるのか?」
「アンタの髪なら失敗してもまあいいかって思えるから」
「俺は思わない」
「冗談よ。お父さんがアンタの髪切るの、ずっと見てたから。真似してやってみる」
「大丈夫なのかよ……」
「一応免許もってるもん。髪型はいつものでいいんだよね?」
「ああ、いつもので」
まずはシャンプー。仰向けに寝かせ、頭を洗面台へと持っていく。
顔に薄いタオルをかけてから、髪全体を濡らし、泡を立てて洗ってゆく。
「昨日髪洗った?」
「……あー」
「うわあ」
タオルで髪を拭き、湿りが少しだけ残っている状態になったら、鋏を入れる。
シャキ、シャキ。
「伸びてるね」
「そうか? 三ヶ月ほっといただけなんだけど」
「普通は月一で切るものなの」
「……そうかあ?」
「アンタだって前はそれくらいのペースで来てたじゃない」
「今は公務員試験の勉強とか、就活で忙しいんだ」
「ふーん」
「学生って暇で気楽なもんだと思ってたか?」
「別に。床屋だって客がいないときは本当に暇だし」
シャキ、シャキ。
「んー……」
「何さ」
「いや、今お前に髪切られてるんだな、って思って」
「だって私、理容師だし。うち、床屋だし」
「ああ、そうだな」
「……アンタさ、自分ンちで働ければ良かったって思う?」
「うーん……どうかな。曲りなりにも、将来の夢が家業を継ぐことだった時期もあったけど」
「私はこうやって、望みどおり理容師やってるけど……アンタは、ほんとのところはどうなのかなって」
「別に思いつめちゃいないよ。今となっては、やめるべくしてやめたと思ってるからさ」
「そう?」
「ああ。親父は継がなかったし、爺ちゃんも俺が使い物になるまで持ちそうになかったしな」
「そう……」
「何であれ、俺が中学生のうちに店じまいしてくれて良かったよ。進路の軌道修正できない頃にされるよりは」
シャキ、シャキ。
シャキ。
しばらく切っていると、彼女がふと手を止めた。
「……」
「なんだ?」
「ひげ」
「ひげ?」
「髭が気になる」
「ああ……これはいいよ、自分でやるし」
「私が気になるの。もういい、髭も剃るから」
「三十分で終わらすんじゃなかったのか」
もうすぐちょうど三十分。予約していた客を待たせるわけにはいかないだろう。
そのとき、またもドアベルが鳴った。
「ほら、お客さんが――」
入ってきたのは、彼女の父親だった。
予約していた客は、そのすぐ後にやってきた。今は、同じく戻ったばかりの店主に髪を切られている。
ぶらりとやってきた彼には、鋏を剃刀に持ち替えた彼女がつきっきりだ。
「顔剃りの前に、髪の方仕上げちゃうよ」
「おう」
「……」
「どうした」
「いや、無防備だなって」
「はあ?」
「相手が刃物持ってるっていうのに、されるがままっていうのは」
「いや……だって、床屋なんだからしょうがないだろ」
「そう、床屋ってだけでみんな無防備になっちゃうんだよね。信用しすぎ」
「……なんだそりゃ」
仕切りなおして、顔面にクリームを塗る。
目に入らないように、目蓋を閉じる。いたって自然な動作だ。
「閉じたね」
「そりゃ閉じるよ」
「なんか、キス待ちみたいだよね」
「……」
「……んー」
「ばっ」
慌てて目を開けた。すぐ眼前に、彼女の顔があるぐらいの覚悟はあった。
だが予想に反して、彼女は粛々と作業を進めているだけだった。
「おい……」
心なしか、彼女の父親の視線を感じた。余所見をしていて大丈夫だろうか。
顔剃りも終わり、仕上げのシャンプー。
最初と同じ手順で、彼はまた仰向けにされる。
「さっきの、床屋ってだけで信用するって話な」
「うん」
「それだけじゃないだろ。やっぱり、何度も切ってもらってるからってのもあると思うぜ」
「私、アンタの髪切るの初めてだけど」
「……あー、なじみの店だから、に訂正する。なじみの店の新人なら、まだ許せる」
「そう?」
「うん。でも俺、ここ以外の床屋に行ったことないから、比較とかできないけど」
小学生のころから、そうだった。カットしてもらうなら、必ずここの店。
親に言われるまま通ううちに、この家の娘とも仲良くなり、いつも一緒にいるようになった。
かといって店内にいつまでもいると、外で遊んで来いと二人して彼女の父親から笑って追い出されていた。
「そっかそっか……美容院とかに行ったりしないの?」
「しない。お洒落したところで見せる相手もいねえ」
「……うわあ」
「引くなよ」
彼女のしなやかな指が、切られたばかりの髪に差し込まれる。
シャカシャカ。
「……これで、次に会うのはまた三ヶ月後かあ」
「保証できんな」
「そうだね。前に、半年近く来なかったこともあるもんね」
「まあな」
「そのときだよ。浮気してるって思ってたの」
「してないって。この店一筋です」
「……うわあ」
「ちょと待て。今、どこで引いた?」
「本気で半年も髪切らなかったところ」
「……さいですか」
「就職決まったら、来なくなっちゃう?」
「来られるように、市役所勤めを目指すよ」
シャカシャカ。
「でもさ。別に、店に来るのを待たなくてもさ」
「ん?」
「いわゆるプライベートで会えばいいじゃんか」
「どっか連れてってくれるの?」
「そうだな。んじゃ、」
視界の端に、彼女の父が映った。心なしか、こっちを見ている気がする。
「あー……うん、やっぱいいや」
シャカシャカ。
「どこか痒いところはありませんか」
「……歯痒いです」
「それは自分で何とかしてくださーい」
実に楽しそうに、わしわしと洗う。
最後の最後にドライヤーをかけて、彼の散髪は終了した。
「はい、終わりでーす」
「どうも」
三十分で終わらせるといっていたのに、かかった時間は実に一時間。
(髭剃りって三十分もかかるもんだったっけ?)
剃ってもらったのは髭だけではないが、こんなに時間がかかったのは初めての気がする。
まあ彼女がまだ技術的に父親に追いついていないということなのだろう、と口には出さず納得しておく。
「ちなみに仕上がりはこんな感じです」
「……坊ちゃん刈りかよ!」
「いつもの、でしょ?」
「子供のころの話じゃねーか!」
「似合ってるよ」
悔しいけど、自分でもそう思う彼だった。彼女の笑顔に丸め込まれたわけではないと思いたい。
彼がカット代を払い、店を出て行こうとしたとき、今まで黙っていた店主が娘の名を呼んだ。
「十二時だ。昼飯食って来い」
「はーい」
ドアに手をかけたまま止まっていた彼の背中を押し、店の外へ出る。
ちらりと振り返ると、彼には、床屋のおじさんが笑っているように見えた。
「さ、何食べに行こうか?」
彼女の背中でドアが閉まり、ドアベルが鳴った。
午後十二時。客足の少ない、穏やかな土曜日。