『とりたくて』
大変です。大事件です。
友達ができました。
それも男の子です。少し前の私ならありえないことです。異性の友達ができるなんて。
同性の友達すらできなかった私に、神様はものすごい出会いを与えてくれました。
でも私は不安を覚えています。
友達とはいったものの、彼とどのように接すればいいのか私にはわからないのです。
彼はとても優しそうな男の子です。私がこれまで会ってきた異性の方とは全然違って、
柔らかい印象を受けます。
だからそんなに不安になることはないとは思いますが、それでも不安なのです。
彼を怒らせてしまったらどうしよう。
彼に嫌われてしまったらどうしよう。
彼がひどいことをしてきたらどうしよう。
あらゆる不安が私を覆います。
それを払拭することは簡単ではなく、私はまるでがんじがらめに縛られたように何も
できなくなってしまいます。
勇気がほしい。
彼を恐れない勇気が。
◇ ◇ ◇
私の父はある企業の社長で、いろいろな事業を展開して結構な成功を収めています。
つまりは私の家は余所よりも裕福な家で、私は生まれた時から不自由なく育ってきました。
子供の頃にそれを意識することはありませんでしたが、小学校中学校と進んでいくうちに
嫌でもそれを意識するようになりました。
周囲の扱いが他とは明らかに違ったからです。
私よりもずっと年上の方々が私に対して気を遣うのです。それは見ていて滑稽でしたが、
父や会社との関係を損なわないためにそれはその方々にとって必要だったのでしょう。
中学に上がると私はより自分の立場を理解しました。
邪な考えを抱いて近付く人間が多くなりました。はっきりそうわかるわけではありません
でしたが、なんとなく同級生からそれを察する機会が増えたように感じました。
でも私には、私自身には何の力もないのです。
父は仕事を家庭に一切持ち込まない人でしたし、優しさと甘さを区別する人でもありました。
私は不自由なく過ごしてきましたが、それは一般的な枠内に収まる範囲だったと思います。
私に近付いても何のメリットもないのです。
加えて私は気を強く持てない性質でしたし、人付き合いも得意ではありませんでした。
小学生の頃からずっと本を読んで日々を過ごしてきた人間です。
不器用が災いしたのでしょうか、やがて私はいじめられるようになりました。
理由があったかと言えばないと思います。あえて言うなら私が使えない、無能だと知られて
しまったから、端的に言えばむかつく存在だったから、ということになるのでしょう。
靴や鞄を隠されたり、トイレの個室に閉じ込められたり、机に落書きされたりしました。
それだけならまだ我慢できたのですが、強請られた時はさすがに困りました。
それなりに小遣いをいただいてはいましたが、要求される額はそれだけでは足りなかった
からです。
傷つけられても私は我慢することができます。でもお金だけはままなりません。私は
子供で、手にするお金も両親が稼いだものです。たとえ家が裕福でも、みだりに使っては
ならないでしょう。それは私が額に汗して手に入れたものではないのです。
私は強請にだけは抵抗しました。お金なんて持っていない。だから要求されても払えない。
そう答えるとこづかれたり服を脱がされたりしましたが、私は答え続けました。
誰かに訴えればなんとかなったのかもしれません。しかし私はそれをできませんでした。
訴えるというのも勇気がいるものです。私には備わっていませんでした。
そうやってひたすら我慢して、一年が過ぎました。
中学三年の秋。
私は見知らぬ男たちに襲われました。
多分年上で高校生くらいでした。学校からの帰り道、いきなり羽交い締めにされて近くの
公園の草むらに引っ張り込まれました。
無理矢理押し倒され、乱暴な手つきで服を破られ、体をまさぐられ、私は突然の出来事に
頭が真っ白になってしまいました。
ろくに抵抗できないまま、私は裸にされました。彼らの下卑た顔が不快で目を瞑りました。
触られる感触が肌寒くて身を強張らせました。彼らの話す声が耳障りで意識を投げ出しました。
だからでしょうか。私はその時の記憶が曖昧になっています。
気付いた時には、温かい腕に抱きかかえられていました。
優しく抱きかかえてくれるその人は、私が最も信頼している人でした。
「愛莉(あいり)……?」
「はい、お嬢様」
私の専属使用人が優しく微笑みました。
周りには誰もいません。顔を起こして見るとそこは公園ではなく、自宅のベッドの上でした。
ちょうど寝かせる途中だったみたいで、愛莉は少しだけ決まり悪げに微笑みました。
「愛莉……私……」
「お疲れのようです。今はお休みになってください」
「違います、私は襲われて……」
愛莉は小さく溜め息をつきました。
「夢です……と言っても納得はされませんか」
「……」
「簡潔に申し上げます。お嬢様には何も、何事もありませんでした。どうかご安心ください」
「……愛莉が助けてくれたのですか?」
「はい。できれば襲われる前に駆け付けられればよかったのですが」
体に目立った外傷はありません。多少軋みを覚えましたが、痛みもほとんどありません。
本当に何事もなかったのでしょうか。
私にははっきりとはわかりません。でも愛莉の目に誤魔化しの色はなく、体にも違和感は
ありません。だからきっと、本当に何事もなかったのでしょう。私はほっとするとともに
愛莉に深く感謝しました。
「愛莉……ありがとうございます」
すると愛莉は顔を僅かに歪めて私を抱き締めました。
「愛莉……?」
「間に合ってよかったです……本当に」
愛莉の胸の中はとても温かく、私は安心しました。ここならば怖くない。何も恐れることは
ない。
愛莉の体は少し震えていました。
心配かけてごめんなさい。私がもう少し気を付けていれば、こんなことにはならなかった
のに。
「……お嬢様」
「はい」
「しばらく学校はお休みになられてはいかがでしょう」
心臓が強く跳ねました。
「……どうしてですか?」
「お嬢様はお疲れです。それに今日のようなことがまた起きないとも限りません」
私は首を振りました。
「大丈夫です。いくらなんでも学校内でそんなことはありえませんし、外でもできるだけ
人通りの多いところを通れば」
「お嬢様、無理はいけません。本当に何かあってからでは遅いのです」
それは純粋に私を気遣う言葉だったのでしょう。しかし私はそう受け取ることができません
でした。
私はこう思ったのです。
『ひょっとしていじめのことがばれてしまったのか?』と。
私は誰にもいじめのことを言いませんでした。余計な心配をかけたくなかったからです。
それは愛莉に対しても例外ではなく、この時もまずばれていないかどうかを先に考えました。
今思えば愚かなことです。愛莉はいつだって私のことを思ってくれていたのに、私はその
ことを少しもわかっていなかったのですから。
愛莉は尚も私に休むよう言ってきましたが、私は妙に意固地になって拒否しました。
次の日、変わらず行った学校で私はクラスメイトの会話を密かに聞いてしまいました。
トイレの個室にこもっていると、後から来てたむろしていた同級生の声が耳に入ったのです。
彼女たちはいじめグループの中心にいる子たちでした。その子たちがこんなことを言った
のです。
「あいつ無事だったみたいよ」
「失敗したの?」
「なんかボディガードみたいな女が途中で邪魔したみたいで、最後までヤれなかったんだって」
「何それ? 金持ちってマジで護衛とかいるんだ」
「ありえなくね? 邪魔入らなかったらあいつも終わりだったのに」
「次よ次。邪魔されないように、今度はホテルとかに連れ込んでさ……」
私は体の震えを抑えられませんでした。
会話の内容は明らかに昨日のことを言っていました。
昨日の出来事は彼女たちの仕業だったのです。
しかもそれは終わりではなく、これからまた攻撃の矢が放たれようとしています。
なぜ? なぜ彼女たちはそこまでやるのでしょう?
私はそんなに憎まれる存在なのでしょうか。
いるだけで目障りな、邪魔な存在なのでしょうか。
私にはわかりません。人の悪意とはそこまで深く、暗いものなのでしょうか。
彼女たちが出ていった後も、私はしばらく動けませんでした。
教室に戻ることが恐ろしく、午後まで閉じ籠っていました。
そして体育の時間まで待つと、誰もいない教室にこっそり戻り、急いで荷物を抱えて
学校を出ました。
怖い。
人が怖い。
あんなところにいるなんて、そんな恐ろしいことできません。
愛莉に連絡して迎えに来てもらうまで、私の心は恐怖に覆い尽くされていました。
自室で私たちは話をしました。
「お嬢様」
「……」
「今日一日、私はずっと落ち着きませんでした」
「……」
「日を置けばなんとか根回しをして対処もできたとは思います。しかし昨日の今日では
さすがに何もできません。今日だけは本当に学校に行ってほしくなかったのです」
「……」
「彼女たちはどこか感覚が麻痺しつつあります。それは人としてとても間違った方向です。
悪意は、ときに意味さえも有しないものですから」
「愛莉は……知っていたのですか? 私がいじめの対象になっていることを」
「……」
「昨日の出来事があの子たちの差し金ということも、わかっていたのですか?」
「……昨日の輩に白状させました」
「……」
「学校でクラスメイトから何かしらされているとは思っていました。しかしお嬢様がそれを
知られたくないと思っておられることもわかっていましたから、私は気付かぬふりをして
いました。
ですが……それは大いなる過ちだったと私は後悔しています。昨日のようなことがある
なら、無理にでも介入すべきだったのに。今日も引き止めていればあなたが嫌な思いをする
こともなかったのに」
「……」
「もう学校には行かないでください。中学は出席日数が少なくても卒業できます。お嬢様の
成績なら受験も問題ありません。しかし、学校内のトラブルだけは私にはどうすることも
できないのです。受験間近のこの時期に彼女たちも馬鹿な真似はしないとは思いますが、
絶対ではありません。もしクラスの男子を彼女たちがけしかけたりすれば──」
「……お父様に知られてしまいます」
「それがなんですか。旦那様はいつもあなたを想っておいでです。心配をかけたくない
お気持ちもわかりますが、子供が親に弱さを見せるのは当然のことではありませんか」
「……かもしれませんね」
「弱さを見せるのは恥ずかしいことではないのですよ。どうか旦那様を、奥様を、そして
私を頼ってください」
「……はい」
しかし、私は結局高校に進学しませんでした。
できなかったのです。人の悪意を知ってしまったがために、学校という特殊な空間を私は
恐れるようになってしまいました。
それどころか、人と接することさえ怖くなってしまったのです。
異性の目が怖く、同性の目が辛く、世界が悪意を帯びて私を包んでいるような感じさえ
受けました。
しばらく屋敷から離れて生活させてはどうでしょうと、愛莉が父に提案しました。父は
それを了承し、私は愛莉とともに一軒家に引っ越しました。
冬が過ぎ、春が訪れ、中学を卒業して、
新しい季節を迎えながら、私の中にはいまだ恐れが残っていました。
そんなとき、『彼』が現れたのです。
◇ ◇ ◇
離れの一軒家の二階から、私は毎朝外を眺めていました。
朝日が上り、暗い世界が光に包まれていく時間帯、家の前の道には誰の姿もなく、静謐な
空気はどこまでも澄んでいます。
手を伸ばせば簡単に触れられるこの世界。
しかし私は触れるのをためらってしまいます。
世界が怖いものであることを知っているから。
私はいつも眺めるだけです。
その日、私はいつもと同じように外を眺めていました。
すると家の前に人影が見えました。
私は反射的に体をすくませました。その人影と目が合い、慌てて私はカーテンを閉めます。
人影はすぐに立ち去ってしまったようで、カーテンの隙間から窺った時には影も形も
ありませんでした。
しかし私の目にその姿ははっきり焼き付いていました。同い年くらいの背の低い男の子。
線の細い、どこか清潔感のある男の子でした。
近くの高校の制服を着ていたので、おそらくそこに通っているのでしょう。向こうは
こちらの存在に気付いたでしょうか? 一瞬のことで気付かなかったかもしれません。
(でも、もし気付いていたら?)
ぞくり、と怖気が走りました。
やはり、怖い。
外は、人は、世界は、どこまでも私に恐怖しか与えません。
そんなことあるわけがない、と理性は言います。あの男の子だってたまたま通りがかった
だけで、別に悪意を抱えてこちらを見ていたわけではないと、それくらい理解はしています。
ですが奥底に根付いた恐れは私の見る世界を一変させました。
人は本当に恐ろしいのです。
赤の他人が他人を傷付けることも、親しい隣人が隣人を嬲ることも、共に生きてきた
肉親が肉親を殺すことも、人にはありうるのです。
私にとって唯一安心できる相手は愛莉だけでした。
本当に人そのものを恐れるならば愛莉さえ遠ざけたかもしれません。でも幸いなことに
彼女だけは平気でした。
随分と私は都合よく生きているようです。自分の都合だけで愛莉を例外にしているのです
から。
そんな自分が浅ましく思えました。
次の日、私はまた窓から外を眺めていました。
これも自分に都合のいい行いなのかもしれません。本当に世界を恐れるなら、こんなこと
できるわけがないのに。
自嘲しながらも私は図々しく景色を眺めます。
ふと下に目を向けました。
「!」
そこには昨日と同じ男の子がいました。
そしてはっきりとこちらに目を向けていました。
また、目が合います。
私はまたカーテンを閉めました。
どうして彼が?
いえ、家の前の道が通学路にあたるのだと理解はできます。だから家の前を通るのは
不思議でもなんでもありません。
しかし彼ははっきりこちらを見つめていました。
それはどういうことなのでしょうか。
私は恐る恐る隙間から下を見やります。
少年は立ち去らずにしばらくこちらを見上げていました。
そして、
とても嬉しそうな笑顔を浮かべたのです。
なぜでしょう。その笑顔に悪意は感じられませんでした。
それどころかどこまでも純真にさえ映りました。
私は胸が苦しくなり、部屋から出て台所に行きました。
そして、水を飲みました。
一杯では治まらず、二杯三杯とあおりましたが、動悸の激しさは止まりません。
これは一体何なのでしょうか。
恐怖ではありません。
緊張や動揺というのは非常に近い気がしましたが、正確ではないと思います。
では、
では一体何なのでしょう。
翌日も少年は家の前を通りました。
また目が合い、私は逃げるようにカーテンを閉めました。
その次の日も、さらに次の日も、同じことが繰り返され、私は不思議な気分でした。
不快さはありません。むしろ少年の存在を、私は心のどこかで望んでいる気がしました。
望む。
あんなに他者に恐怖を抱いていた私が、他者を望むなんて。
でも確かに彼の存在は私には心地好く、毎朝の邂逅を期待している自分がいました。
相変わらずカーテンを閉めてしまいますが、それは多分怖さから来るものではなくて、
(恥ずかしいんだわ、きっと)
何が恥ずかしいのかまるでわかりませんが、彼と目が合うと私は真っ赤になってしまうの
です。
真っ赤になりながらもいつしか朝が楽しみになっていました。
愛莉にそのことを言ってみると、彼女はおかしげに笑いました。
「お嬢様。それは少しも不思議なことではありませんよ」
「え?」
愛莉は微笑みを浮かべながら言います。
「お嬢様はきっと、その方のことをよく想っておいでなのです」
「……?」
「嬉しかったのではないですか? 誰かに笑ってもらえるということが。確かなことは
申し上げられませんが、お嬢様はおそらくその方の笑顔を嬉しく思われたのでしょう。
誰かが笑ってくれるということは、とても安心することなのですよ」
愛莉はどこか嬉しそうでした。
確かに、愛莉の笑顔を見ると私は嬉しく思いますし、それはあの男の子の笑顔にも感じる
ことだと思います。
でも恥ずかしいのはなぜなのでしょうか。
「それは当たり前です」
「え?」
「だって、お嬢様はその子とまだ少しも触れ合っていないのですよ。知らない人に自分の
プライベートを見られるというのは、ちょっと恥ずかしいじゃないですか」
「……毎日会っていても、ですか?」
「お互い名前も知らない間柄です。お嬢様は彼と一種繋がりを感じておられるのかもしれ
ませんが、私から見れば関係というのもはばかられる、拙いものにしか見えません」
「……」
厳しい言葉です。しかしそれはよくわかります。
窓の向こう。目線の高さすら並ばない位置にいて、少し目が合ったくらいで互いの関係
などと口にするのは、確かに滑稽です。
繋がりは確かに感じていますが、それが一方的な勘違いではないという保証がどこにある
のでしょう。
その時になって、ようやく私は自覚しました。
(私は、彼と知り合いたいんだ)
そして、できることなら友達になりたい。そう思っているのです。
それはとても素敵なことだと思いました。
でも彼はどうなのでしょう。
彼は私を知りたいと少しでも思っているでしょうか。
薫風が吹き過ぎ、雨空も立ち消えて盛夏の時節を迎える頃。
私は久々に屋敷に戻っていました。
父と、母と、幾月ぶりに顔を合わせます。
父が言いました。いつまでも今の生活を続けるわけにはいかない、と。
確かにその通りです。私は重々しく頷きました。戻ってこいと父は言っているのです。
しかし、今はだめです。私は彼とまだ知り合えていないのです。
私は言いました。
どうか夏の間は今の生活をお許しください。
父は一言だけ尋ねました。
必要なことなのか、と。
私は頷きました。はっきり頷きました。
父の返事は簡潔でした。
『九月になったら戻ってこい』
私は弱気になる心を無理矢理引き起こし、叱咤します。
期限は定められました。もう先送りにはできません。
本当に知り合いたいと思うならば。
やることは一つです。
その日、私は朝早くから家の玄関先に立っていました。
いつも通りならもうすぐここを彼が通ります。
私は不安と恐れを内に抱えながら、しかし両足で立ちます。
声をかけるだけでいいのです。
勘違いでも構いません。勇気を出して、声をかけるだけで、私は少し変われるような
気がしました。
やがて、道の先に男の子の姿が見えました。
小さな影が少しずつ近付いてきます。
心臓が急速に締め付けられました。苦しく思いながらも、私は目を逸らしません。
そして、ついに私たちは何も隔たずに出会いました。
眼前の男の子は思っていたよりもずっと柔らかい印象を受けました。
しかし、反射的に恐れが湧き起こります。
違う。必死に私はそれを押さえ付けます。
違うのです。この人が怖いのではありません。
世界は確かに恐ろしいかもしれません。でも、きっと素敵なこともたくさんあります。
愛莉は私にとって素敵な『姉』です。いつも私のことを想ってくれる素敵な理解者です。
両親はこんな私を大事に想ってくれます。それも素敵なことに違いありません。
他にも素敵なことはたくさんあるでしょう。
ならば──彼が私にとって素敵な存在になることもきっとあると思います。
私はいざ話しかけようと口を開きました。
ところが、
「お、おはよう」
彼の方が先に話しかけてきました。
あ、あいさつです。朝ですから、そう、あいさつは当然の行動です。私もきちんと返さ
ないと、
「あ……あの……お、おはようございます……」
小声になってしまいました。
駄目です。こんなことでは知り合うなんてとても、
「ずっと、話がしたかったんだ」
思わず私は顔を上げました。
「だから、嬉しい。君とこうして、会えて」
真っ直ぐな言葉に私は真っ赤になってしまいました。恥ずかしさにまたうつむいてしまい
ます。
嬉しい。嬉しいです。向こうもこちらをそんな風に見てくれていたなんて。
でも、私はうまく返せません。この嬉しさを彼に伝えるにはどうすればいいのでしょう。
変なことを言って嫌われたくありません。
ああ、どうして私はうまく言葉を操れないのでしょう。
紡ぐ言葉はもう明らかなのです。私は、私はあなたと、
「友達になりたい」
そう、言われました。
「友達になってほしい。明日から夏休みで、これまでみたいに朝早くは会えなくなる。
それにもう、窓越しに見つめるのは嫌なんだ」
私だって、そうです。
「もし迷惑じゃなかったら、ぼくと友達になってください」
とても真摯な言葉でした。
こんなに想われて、私は幸いです。
でもその幸いなことに甘えてはならないと思います。
だから私は、同じくらい真摯に返事をしなければいけないのです。
たとえみっともなくても、私にできる精一杯の返事を、真っ直ぐに。
「私も、あなたと……友達になりたい、です」
一生懸命言葉を返すと、彼はにっこり笑いました。
「じゃあ」
「はい……よろしくお願いします」
私は深々と頭を下げました。
それは拙いやり取りながら、私が初めて彼と触れ合った瞬間でした。
◇ ◇ ◇
言葉を交わしてから二日後。
彼が私の家に来ました。
この一軒家に誰かを招くのは、家族以外では初めてのことです。
彼はリビングのソファーに座りながら、若干緊張の色を顔に浮かべていました。
私だって緊張します。男の子を家に招くなんて初めてのことですから。胸が妙な具合に
ドキドキうるさいのも仕方がないことです。
愛莉は何を考えているのか、彼が来てからニコニコしっぱなしです。まったく何を考えて
いるのか。
「あ、あの」
彼が控え目に声を発しました。
「は、はい!」
「あ、いや、ちょっと訊きたいことがあって」
私の力一杯の返事に彼は気圧されたのか、やや身を引いて言いました。
ああ、もう少し落ち着かないと。いえ、今はそれより、
「なん、ですか?」
「この家に入る時に表札が見えたんだけど、『池田』って書いてあったんだ。でもその、
君の苗字とは違うから、気になって」
首を傾げながら彼は尋ねました。
えっと、どう説明すればいいでしょう。
苗字が違うのは当たり前です。この家は元々私のものでも両親のものでもなく、いきなり
愛莉が用意してくれた家だったからです。
ですがそういった事情をうまく説明できるかわかりません。私の身の上を話す必要も
ありますし、せっかく遊びに来てもらった彼に重く込み入った話をするのは気が引けました。
私が答えられないでいると、愛莉が先んじました。
「池田とは私の母方の姓です」
「「え?」」
私と彼の声が重なりました。彼が驚いてこちらを見ますが、私は慌てて首を振ります。
初耳でした。
それはつまり、この家は愛莉の実家、あるいは親族所有の家ということになるのでしょうか。
「説明するのは難しいですが、一言で言いますと私の家です。ただ、元々親の持ち物だった
ここを名義上受け継いだだけで、ろくに使ってませんでした」
「使ってなかった、って」
「屋敷に住み込みで働いていましたので、ここを使う必要がなかったのです。今はお嬢様に
使っていただけるので、持ち腐れしませんが」
最後のはやや皮肉に聞こえましたが、多分私の引け目がそうさせているのでしょう。
本来なら私がここに住む必要はありませんし、愛莉はきっと私が今の生活から脱する
ことを望んでいます。
愛莉には本当に苦労をかけて申し訳なく思います。
でもここに来なければ彼と知り合うこともなかったと思うので、それだけはごめんなさい
ではなくありがとうと言いたいです。
愛莉は立ち上がると軽く目礼してその場から離れようとします。
「少し出てきます。買い物を忘れていました」
「愛莉?」
た、大変です。今出ていかれるのは非常にまずいです。二人っきりだなんて、そんな急に、
「お嬢様、頑張ってくださいね。時間は限られているのですから」
その言葉を残して愛莉は部屋から出ていきました。
彼は愛莉の出ていったドアを見て、次いで私を見ます。
そして「どうしたらいいかわからない」とでも言うような、曖昧な笑顔を浮かべました。
どうしたらいいかわからないのは私も同じです。
できることなら彼と楽しく話してみたいです。でも何をどのように話せばいいのか、
うまく言葉が出てきません。
私が迷っていると彼が言いました。
「あの、さ」
「……はい」
「部屋を見せてもらってもいいかな?」
部屋?
「ずっと二階から顔を出していたよね」
私の部屋のことでしょうか。
ええと、それはもちろん構いませんけど、部屋なんて見たいのでしょうか。
しかし逆の立場なら確かに私も彼の部屋は見たいと思うので、私は納得して頷きました。
少し恥ずかしいですけど、彼なら。
「ありがとう」
彼の嬉しげな顔に私は反射的に顔を背けました。
二階の四つの部屋のうち、東側が私の部屋です。
中にあるのは机に椅子にベッド、本棚、クローゼットくらいのもので、持ち物といえば
本ばかり。あまり彼の興味を惹くようなものはないと思います。
あ、ベッドの上に抱き枕があるのを忘れていました。丸っこいパンダの抱き枕です。
私は慌てて拾い上げてクローゼットに放り込みました。ごめんなさい、乱暴で。
彼は隠すことないのにと苦笑します。どうやら変に思われてはいないようです。それとも
抱き枕って他の女の子もよく持ってたりするのでしょうか。
彼は窓に近付いて外の景色を眺めます。
「ここからいつも見ていたんだ。いい眺めだね」
言われても私はうまく答えられません。
だって私は、別に景色を見ていたわけじゃないから。
恐怖を抱えたまま、安全地帯から漠然と世界を見ていただけだから。
彼がいなかったら、きっとそんな行為もそのうちやめていたに違いなく、今だって世界に
好意を向けられません。
でも彼は私とは違います。
閉じ籠らず、ちゃんと世界に立っています。
私はそれが羨ましいのでしょうか。
「どうしたの?」
彼の心配そうな目が私の顔を覗き込みます。
私はうつむき、首を振りました。
うまく話せません。できることといったら軽い相槌や首を動かすことばかり。
どうして私はこうなのでしょうか。本当は彼ともっと楽しく話をしたいのに。
時間がないのに。
椅子を引く音がしました。ああ、椅子くらい出すべきですよね。こういうところまで気が
回りません。
「しりとり」
彼の穏やかな声が聞こえました。
私は言われたことの意味がわからず、顔を上げて彼をぼんやり見つめました。
彼は椅子に腰掛けながら、もう一度言葉を重ねます。
「しりとり、だよ。何でもいい。『り』のつく言葉」
……しりとり?
私は戸惑いながらもなんとか答えました。
「り……りんご?」
彼は嬉しそうに笑いました。
「ゴンドラ」
「ら……ラク、ダ」
「だし巻き玉子」
「……ごみ箱」
「コアラ」
しりとりは続きます。
「……ラッコ」
「昆布」
「ぶ、鰤」
「陸地」
「地図」
「ズッキーニ」
「にんにく」
「栗」
「理科」
「狩り」
「……旅行」
「瓜」
……り?
「りゅ、留学生」
「囲炉裏」
「リズム」
「無理」
な、なるほど、『り』で攻めているのですね。これはなかなか凄い作戦です。『り』で
始まる言葉は他と比べて少ないと思いますし。
感心している場合ではありません。なんとかしなければ、
「り、り、理学部」
「……部室」
やりました! さっき既に鰤は出てるので彼は『り』で返せません。
本当は物理とかブロッコリーとかいろいろあるのですが、彼は気付かないようです。
もちろん教えてなんかあげません。今度はこちらが『り』で攻めさせてもらいます。
「つ、釣り」
「料理」
「…………」
この人いじわるです。
「り、り、リトマス試験紙」
「しおり」
「リス」
「スリ」
「り……り……」
彼は楽しそうにしていますが、私は苦闘の真っ最中でなんだか憎らしいです。
「り、リケッチア」
「……何それ?」
え? わかりませんか? リケッチア。
「え、ええと、リケッチアというのはですね、細菌とウイルスの中間的な微生物で、発疹
チフスとかツツガムシ病なんかの病原体のことなんですが……」
「そうなんだ。物知りだね」
「あ、その、ありがとうございます」
「じゃあ再開。アリ」
「…………」
この人本当は性格悪いんじゃないでしょうか。
「……リップスティック」
栗は出ましたよ。
「鎖」
「力学」
「薬」
「流木」
「曇り」
「流動食」
「下り」
「利息」
「……くま」
ようやく『り』を止めることができました。そちらが『り』攻めならこちらは『く』攻め
です。
「祭り」
「倫理」
「…………うう〜〜」
ひどいです。ひどすぎます。
「ごめんごめん。いや、あんまり君が面白いからついね」
「嫌いです、そういう風にからかう人」
彼は笑顔で謝ってきますが、反省が見えません。まあ別にルール違反を犯したわけじゃ
ないので、彼は悪くないのですけど。
彼は頭を上げると言いました。
「よかった、ちゃんと話せて」
「……え?」
私は目を丸くします。
「何でもいいから話したかったんだ。でもずっと緊張してるみたいだったから、どうにか
それをほぐしたくて」
「……」
確かに緊張は解けています。そして楽しかったです。
これが狙いだったのでしょうか。
「それで、しりとり?」
「他に思い付かなかった。でも悪くはなかったと思うよ」
「……ちょっといじわるでしたけどね」
半目で軽く睨むと彼はうろたえました。
「だ、だから悪かったってば」
「別にいいですよ。全然悪いことなんてありません」
精一杯意地悪く言うと、彼は困ったように身をすくませました。
私はおかしくなってくすりと笑います。
「冗談です。しりとり、楽しかったですよ」
「……本当に?」
「誰かとこんな風におしゃべりするのなんて、久しくなかったことですから」
ましてや冗談を言える友達なんて。
私はほう、と息を一つ吐きました。
「……私、中学の時にいじめに遭ってたんです」
彼は、表情を変えませんでした。
「それで人が怖くなって、進学を諦めたんです。こんな引きこもりの生活を続けていて、
いつまでもこんなことじゃいけないと思ったんですけど、なかなか勇気が出なくて」
「……」
「でも、そんな時あなたに会ったんです」
私は彼の目を真っ直ぐ見つめました。
「最初は怖かったけど、あなたが嬉しそうに笑っているのを見て、興味を持ったんです。
そのうちあなたのことを知りたくなって、ひょっとしたら友達になれるかもしれないって
思えて」
「……」
「なかなか踏ん切りがつかなくて、結局夏休みに入っちゃいましたけどね。でも知り合えて
よかったです。本当に」
ちゃんと言えました。
思いをはっきり口にできました。これもしりとりのおかげでしょうか。
「……今でも怖い?」
彼の問いに私は答えます。
「わからないです。でもこうして話せているのだから、きっと……」
あなたは怖くないと思います。
あなたのこと、好きです。
彼は安心したように破顔しました。
「もっと知りたいな、君のこと」
「はい……私も」
その日はずっと、互いのことを教え合っていました。
◇ ◇ ◇
彼と過ごす時間はとても楽しく、充実したものでした。
夏休みの間に彼は何度も遊びに来てくれました。その度に私は手作りのお菓子で迎える
のです。
愛莉に教えてもらった料理を振る舞ったり、一緒にDVDを観たり、彼が持ってきたゲームで
遊んだり。
でもやっぱり一番楽しいのは彼と話す時間です。
私も彼も読書が好きで、互いの愛読書を教え合ったりしました。
彼の学校生活を聞くのはワクワクしましたし、私の小さい頃の話をするのはドキドキ
しました。
本当に楽しい時間でした。
ですが、それも長くは続きません。
時間は限られていました。
それは仕方ないことです。九月には戻ると、父と約束したのですから。
「お別れ?」
八月三十一日。夏休み最後の日。
私は彼と最後の時間を過ごしていました。
ただそれは、彼にお別れを告げなければならない時間で、
「ごめんなさい……もう実家に戻らないといけないんです」
彼は突然のことに驚いたようでした。
「いつまで?」
「……わかりません。次にいつ会えるかも、ちょっと」
「……そう、なんだ」
彼はひどく残念そうに呟きました。
もっと早くに言っておかなければならなかったのに、結局ギリギリまで言い出せません
でした。私はいつもこうです。本当に自分に呆れます。
彼はいつも私に優しく手を伸ばしてくれるのに。
私はいつも彼にちゃんと応えられなくて。
さしのべられた手をせめてうまく取りたいと思うのに、私はそれさえ不器用にしかでき
なくて。
最後まで私はこうなのでしょうか。
「もう会えないの?」
「……わかりません」
「ならぼくが会いに行く。それなら」
「それは嬉しいですけど……遠いですよ?」
実家の住所を言うと、彼は嘆息しました。
「……遠いね」
「……遠いです」
行けない距離ではありません。半日もかければ行ける距離です。でも彼は学生ですし、
決して簡単な距離ではないでしょう。
私は悲しく思いながらも彼に言いました。
「……会いには来ないでください。私、甘えてしまいます」
「甘えるなんてそんな、」
「いえ、私は甘えています。愛莉にも、親にも、……あなたにも」
私は自分の気持ちを素直に告白しました。
「いつまでも怖がっていてはいけないんです。私はあなたの隣に立ちたい。けど今の私では、
弱いままの私では駄目なんです。あなたの隣には立てません」
「……」
「だから……待っていてください。私、必ず戻ってきますから」
「……戻ってくる?」
「……はい、きっと」
やることは決まっています。彼の隣に立つために、私は努力しなければなりません。
そのためには私自身が変わらなければならないのです。
大丈夫、と自分に言い聞かせます。必ず戻ってこれます。
私は、取りたいから。
彼の優しい手を、取りたいから。
「……きっと」
彼が私の手を握りました。
「待ってるから。きっと、またこうして……」
その手の温もりを胸に刻むように、私は深く頷きました。
「はい、きっと……また」
実家に戻って、私は父と母にこれからの目標を伝えました。
愛莉は私のすることにすぐ賛同してくれましたが、両親は少し渋りました。私の目標は
あの街にまた戻ることだったからです。
できれば家族一緒に暮らしたいというのが二人の希望でしたから、私のすることはこれに
反することになります。でも私は引く気はありませんでした。
彼と約束したのですから。
愛莉のフォローもあって、両親は私のすることを認めてくれました。
これも甘えなのかもしれません。しかしこれまでの甘えとは中身がまったく違います。
惰性じゃなく、私はきちんと目標に向かっているからです。愛莉に言わせれば一年遅れと
いうことになりますが、まだ間に合います。
私は家に閉じ籠ることもなく、積極的に外に出るようになりました。
恐怖に立ち止まることはもうありません。
彼と会えなくなることの方がずっと恐ろしいからです。
約束を果たすには、もう今までの私では駄目なのです。
怯えず、閉じ籠らず、世界をありのままに受け入れて、ちゃんと生きていかなければ
なりません。
そうすることで彼と手を取り合えるような気がするから。
そして、半年が過ぎました。
◇ ◇ ◇
秋が過ぎ、冬を越えて、私はまた春を迎えました。
彼を初めて見掛けたあの日から、もうすぐ一年になります。
その日、私は朝から家の前に出て人を待っていました。
実家の屋敷ではありません。去年愛莉と二人で住んでいたあの家です。
半年振りに私はこの街に戻ってきました。
少し緊張します。でも、不思議です。前とは違い、恐れはまるでありません。
私は胸の高揚を抑えるように、深呼吸をしました。
やがて、待ち人が現れました。
以前と変わらず、ちゃんと家の前を通ってくれます。
私は道の真ん中に立ち、その人を迎えます。
彼は少し背が高くなっていました。制服が細身の体にフィットしてよく似合っています。
彼は私の姿を認めて、驚いたように立ち止まってしまいました。
私は下ろし立ての服を見せびらかすように、袖を軽く上げました。
「お久しぶりです」
彼は目を何度かしばたたきました。
「……え? なんでここに。……いつ? ってそれよりその制服、」
彼は混乱しているのか、私の『制服』姿に取り乱しています。
予想通りの反応に私は愉快な気持ちになりました。
「驚きました?」
「あ……その」
彼の歯切れ悪い声に私は答えます。
「こっちに戻ってくるときは、ちゃんと受験し直そうと思っていたんです。一年遅れの
高校デビューです」
「いや、それ意味違う……」
「半年しかなかったから結構大変でした。でもおかげで大分成長したと思います。塾にも
通って、人もあまり怖くなくなりましたし」
「……」
彼の呆気に取られた顔を見ると、自然と笑みがこぼれます。
「とりあえず、二年間は一緒です」
「……うん」
「そこから先はわからないですけど……できれば、一緒にいたいです。ずっと」
「……うん。ぼくも、君と一緒にいたい」
「……あは、なんだか告白みたいですね」
私は照れ隠しにそんなことを言いました。前の私なら絶対に口に出せない冗談です。
彼は一つ肩をすくめました。
「……そのつもりじゃ、ダメ?」
その言葉に私の笑顔が引きつりました。
彼は清浄な朝の空気の中で、ひどく澄んだ声を響かせました。
それともそう聞こえたのは、私の心持ちのせいだったでしょうか。
「ぼくは君が好きだ。だから、恋人になってほしい」
冗談なんかではありません。彼の唇はぎゅっと力が入って、噛み締められていて、緊張が
窺えます。
私はそれを見て妙に心が落ち着いていました。
高揚はしています。生まれて初めて告白を受けたのですから、当たり前です。
ただ、それとは違う部分がとても落ち着いていたのです。
心のどこかで、私はこうなると予期していたのかもしれません。
多分、あの夏休み最後の日からずっと。
でもあの時の私では、きっと受け止められなかったでしょう。
隣に立つこともままならない私では、彼の想いに押し潰されていたかもしれません。
でも、今なら。
私はその手を、想いを、受け取れる。
「私も、好きです」
私は小さな声で、しかしはっきりと応えました。
彼の顔がぱっ、と輝きます。
「それじゃ」
「はい、これからよろしくお願いします。『先輩』」
私は丁寧に頭を下げると、同い年の先輩に手を差し出しました。
握られた手の温もりが溶け合うように、胸に刻まれた記憶と重なりました。