『ふれたくて』  
 
 
 
 
 
 ぼくの家の裏手には小さな山がある。  
 その山の頂上付近には神社があって、古いながらも催事にはよく使われることもあって、  
町の人たちには馴染みの場所だ。  
 最近は訪れていないけど、子供の頃にはよく友達と缶蹴りなんかをして遊んでいた。  
 境内は意外と隠れる場所が多く、と言って広すぎることもないので、缶蹴りや鬼ごっこ  
などの遊びには最適だったのだ。  
 小学生の時にはジュースやお菓子を賭けたりもした。  
 だんだん家でゲームをする方に傾いていったけど、それでもたまにやったりすると、  
やたら夢中になって盛り上がった。  
 今思い出しても本当に楽しかった、昔の思い出だ。  
 学校からの帰り道にその話を聞かせると、彼女はどこかうらやましそうな目でぼくを見た。  
「行ってみたいです」  
 山の上にあるから大変だよと言うと、それでもいいと答える。  
 今からだと遅くなる。週末に行こうと約束すると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。  
 
 
 
 彼女と再会して三ヶ月が経った。  
 友達から恋人になって、少し不思議だけど同じ学校の先輩後輩の関係にもなって、ぼく  
たちはまた隣り合っている。  
 彼女は変わった。劇的な変化をしたわけじゃないけど、以前と比べると明らかに変わった。  
 前はいつも何かに怯えている風だった。でも今は、控え目ながらはっきりものを言うように  
なったし、友達もできた。  
 それは彼女の努力の結果だ。  
 彼女のかつての苦しみや恐れを完璧に理解することは、ぼくにはできない。だから彼女が  
どれだけの努力を重ねなければならなかったかも、正確にはわからない。  
 それでも彼女が一生懸命頑張ったことはわかる。  
 その理由がぼくというのは、嬉しくもこそばゆい気持ちなのだけど。  
 ぼくはその気持ちに真摯に応えようと思う。  
 理由は簡単。  
 ぼくだって、彼女のことが大好きなのだから。  
 
 久々に訪れた神社は少しだけ変化していた。  
 鳥居が新しくなっていた。ところどころ剥げ落ちていた前のものとは比べようもなく綺麗で、  
朱色が鮮やかに映る。  
 境内に入ると正面に社が見えた。こちらは特に変わらず、昔の姿を見せてくれる。  
「ここが、昔の遊び場ですか?」  
 彼女が珍しげに首を巡らす。  
「結構広いでしょ」  
「確かに鬼ごっこにはもってこいかもしれません……」  
 感嘆の息が彼女の口から漏れた。客観的に見たらそんなに面白い場所じゃないと思うん  
だけどね。  
 拝殿に向かって参道をまっすぐ歩いていく。足裏に受ける石畳の感触が懐かしい。  
「鬼ごっこ、かくれんぼ、缶蹴り、氷オニ。ああ、陣取りゲームもしたかな? サッカーとか  
野球みたいなボールを使う遊びはできなかったけどね」  
「? なぜですか?」  
「一度、奥の物置小屋の壁をボールぶつけて壊しちゃったから」  
「……」  
 裏手の方にあった小屋は薄い板で囲っただけの実に貧相な小屋だった。嵐が来たら吹き  
飛ぶんじゃないかといつも思っていたけど、それより先に軟式ボールの餌食になった。元々  
部分部分で腐っていたから、ぼくらのせいと言い切れない気もするけど。  
「まあさすがに二人じゃ何も出来ないかな。お参りだけしていこうか」  
 賽銭箱の前に立って適当に小銭を放り込む。鈴の緒を振ってガランガランと鳴る鈴の音を  
聴いた後、二礼二拍手一礼。ぼくが先にやって、彼女が後に続いた。  
「何か願いごとした?」  
「はい。あなたは?」  
「ぼくもしたよ。で、何を願ったの?」  
「何だと思います?」  
 心の中の願いごとなんて当たり前だけどわからない。ぼくは当てずっぽうに答えた。  
「夏休みを楽しく過ごせますように、とか」  
「ああ、それはいい願いごとですね」  
 いやいや、楽しく過ごせますようになんて、適当な願いごとの代表格だ。  
 神様は多分、そんな曖昧な願いごとをいちいち相手にはしないだろう。何をどう過ごせば  
楽しくなるのか、それは人それぞれなわけで、楽しく過ごせるかどうかは本人次第だ。  
 ああ、でも彼女の願いごとなら叶えてあげたいかな。  
「違ったか。で、正解は?」  
 彼女はにっこり微笑んだ。  
「秘密です」  
「もったいぶるなあ」  
「いえ、こういうのは、人に教えると叶わないのではなかったですか?」  
「そうだっけ」  
 ちなみにぼくの願いごとは『彼女との仲が進展しますように』だ。  
 一応ぼくたちは付き合っているんだけど、健全すぎるくらい健全な付き合いにとどまっている。  
 それはそれでいいんだけど、ぼくだって男なわけで。  
 もっと深く繋がり合いたいと思うのも仕方ないわけで。  
 手を繋ぐのさえ彼女はためらう。恐れたり嫌がっているわけじゃなく、単に恥ずかしい  
だけみたいだけど。  
 
「来週、ここでお祭りやるんだ」  
「え?」  
 彼女が顔を上げた。  
「お祭り。いや、縁日かな。出店もいっぱい並ぶ」  
 彼女は小さく頭を傾けた。  
「お祭りは、夏休みの終わり頃ではなかったですか?」  
 ああ、それもある。  
「それは駅裏でやるやつだね。商店街の方でやるから街中だ」  
「二つもあるのですか?」  
「隣町のも含めれば四つかな」  
 彼女は感心したように溜め息をついた。  
「お祭りなんて子供のとき以来です」  
「来週はもう夏休みに入ってるから、ゆっくり楽しめるよ」  
 すると彼女は急にふふ、と笑った。  
「なに?」  
「いいえ。何でもありません」  
「そうは見えないけど」  
「秘密です」  
 またか。ちょっとずるい。  
「来週、楽しみにしててくださいね」  
「? 何を?」  
 彼女は答えず、にこにこ笑っている。  
 何のことかまるでわからず、ぼくは小さく肩をすくめた。  
 
 
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 瞬く間に一週間が過ぎた。  
 三日前に世間は夏休みに入った。宿題のことを考えると憂鬱な気分にもなるけど、やっぱり  
休みは嬉しい。  
 去年の夏休みも楽しかった。なんといっても彼女とたくさんの時間を共有したから。  
 でもきっと今年の方が楽しいに違いない。  
 去年は外に出て遊ぶ機会は一切なかった。でも今年は違う。彼女と出かけることが出来る。  
 それはささやかだけど、とても喜ばしいことだ。  
 
「そう思ってたんだけどなぁ……」  
 
 冷房の効いた彼女の部屋で、ぼくは気だるげに両手を後ろにつき、天を仰いだ。  
 外は灼熱地獄。太陽がこれでもかっていうくらい熱射線を放っていて、気温は40℃に迫る勢いだ。  
サボテンですら悲鳴を上げる、そんな恐るべき日がすでに三日続いていた。  
 一応彼女の家を訪れはするのだけれど、ここまでひどいとさすがに外に出て遊ぼうという気は  
なくなる。彼女の家に来るまでの道も結構しんどかったりする。  
 
「わざわざ来てもらって、申し訳ないです」  
 彼女は恐縮したようにうつむいた。  
「次は私がそちらの家に行きましょうか?」  
 せっかくの提案だけど、やめたほうがいい。  
「今ぼくの家には扇風機が一台しかない」  
「え」  
「クーラーが壊れててね。業者が取り付けに来るのは五日後。夜はそれでも何とか過ごせるけど、  
日中そんな場所にいたら冗談抜きに命の危機だ」  
 両親は仕事に行っている。冷房完備の職場の方がはるかに過ごしやすいだろう。  
 対してぼくの避難先は、図書館か、ネットカフェか、  
「ここが一番ぼくにとって気持ちよく過ごせる場所なんだ」  
「我が家は避難場所ですか?」  
 彼女の目が細まった。実に複雑な気持ちをたたえた表情だ。ぼくは見ない振りをした。  
「あんまりだらけていると、何もできなくなってしまいますよ」  
「そんなこと言っても」  
「休むのはいつでもできます。今はそれより勉強に集中しましょう」  
 学年三位の優等生らしく、彼女はそう言って机の上の課題集に向かった。  
 ぼくも溜め息をつきながら数学の問題集に挑む。  
 数学は苦手じゃない。むしろ得意な教科だ。しかし証明問題は好きじゃない。文を書いて  
「ああなってこうなってこうなるから、これはこうなのだ」といちいち説明するという行為が  
めんどくさいから。答えることはできるけど、好きかどうかは別だ。  
 彼女の顔をちらりと見やる。  
 静かな様子でさらさらと課題をこなしている。シャーペンの音が淀みなく響く。こんな姿さえ  
彼女は美しい。  
 彼女が成績優秀な理由はこういう点にあるのではないだろうか。頭がいいとか覚えがいいとか  
そういうことではなく(もちろん頭もいいんだろうけど)、普段の振る舞いや物事への接し方が  
洗練されているために優秀なんじゃないか。ぼくはそう思った。  
 鋭いわけじゃない。要領がいいわけでもない。ただ彼女は彼女らしく、気負うでもなく真面目  
だから、  
「手が止まってますよ」  
 ぴしゃりと言われてぼくははっと意識を戻した。慌てて課題を再開する。どこまでやったっけ。  
ああ、何も顔も上げずにそんな冷たい言葉を吐かなくても、  
「……頑張りましょうね。今だけはちゃんと。そうすれば」  
 彼女の言葉に柔らかい響きが混じった。  
 同時にどこかわくわくしているような、そんな気持ちの高ぶりも感じ取れる。  
 その言葉に、ぼくは気を引き締め直した。  
「頑張るよ。夜のためにも」  
 例の神社で今夜お祭りがある。約束通り、ぼくたちは一緒にそこを回る予定なのだ。  
 別に必ずしも今課題をこなさなければならないわけじゃないけど、まあそこはメリハリを  
つけるところなのだろう。彼女の受け売りだから、ぼくは多少ぶれるけど。  
 
 それからしばらく、ぼくらは課題に集中した。  
   
 
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 昼食をとって、またしばらく勉強に集中して、その後愛莉さんのいれたアイスコーヒーを飲み  
ながらリビングで談笑して、そのまま夕方を迎えた。  
 彼女は「ちょっと待っててくださいね」と言って自室に引っ込んだ。ぼくはソファーに軽く  
背を預けてぼんやり壁時計を眺めていた。  
「少しよろしいですか?」  
 愛莉さんに声をかけられて、ぼくは慌てて体を起こした。  
 ソファーのすぐ傍らに立つ愛莉さんは相変わらず凛としていて、紺色のパンツスーツが妙に  
似合っていた。  
 愛莉さんは彼女専属のお手伝いさんだ。でもお手伝いさんというよりは姉兼お手伝い兼ボディ  
ガードと言った方が正しいような気もする。  
「なんですか?」  
「お渡ししたいものがありますので、どうぞこちらへ」  
 ぼくは何のことかわからず、首を傾げた。  
「あの、何のことですか?」  
「ご覧になればわかりますよ」  
 そう言って愛莉さんは奥の和室に促す。  
 ぼくはわからないながらも立ち上がって、それに従った。  
 六畳間に入ると畳の匂いが暑さに混じって鼻に届いた。冷房の効いたリビングとの温度差が  
体にまとわりつくようだ。  
「こちらです」  
 愛莉さんは振り返ると、用意していたものを差し出してきた。  
 ぼくは軽く目を見開いて、それから二階の彼女のことを思った。  
 
 
 
「お待たせしました!」  
 部屋から出てきた彼女の姿は、呼吸を忘れてしまうほど綺麗だった。  
 彼女は浴衣に着替えていた。薄水色の布地に朝顔の柄が映え、彼女の清楚さを際立たせながら  
決して地味には思わせない。長い髪を後ろでまとめ上げている姿が妙に色っぽく、印象が華やいだ  
風に映るのが不思議だった。  
 ぼくはしばらく彼女の姿に見とれた。  
 
 ところが彼女はぼくの姿を認めた瞬間、笑みを収めて目を丸くした。  
「なんですかその恰好?」  
 見ての通りですが。  
「どうしてあなたも浴衣を着てるんですか!?」  
 どうしてと言われても。  
 ぼくも彼女と同じように浴衣姿だった。波柄の、比較的落ち着いたデザインだ。  
 ぼくの後ろに控えていた愛莉さんが答えた。  
「私が用意したんです。お嬢様だけ浴衣姿というのもなんだか具合の悪い話ではありませんか」  
 そんなことはないと思うけど。  
「だ、だったら教えてくれたって」  
「大方驚かせるために何もお伝えしていなかったのでしょう? それはあまりフェアじゃないと  
思ったんです」  
「うー……」  
「まあ私としてはお嬢様を驚かせることの方が本義でしたが」  
「愛莉!」  
 珍しく彼女が大きな声を上げた。  
 こうして見ていると姉妹のようだ。愛莉さんに対してだけは彼女もあまり遠慮がない。  
「ほら、お嬢様。殿方をお待たせするものではありませんよ」  
 愛莉さんに言われて彼女ははっとこちらを振り向いた。  
「あ、あの……驚かせようと思って内緒にしていたんですけど……」  
「うん……十分驚いてるよ」  
 浴衣を渡された時に彼女が着替えてくることは予測がついた。それでも目を奪われ、呆けて  
しまったのだから、彼女の目論みは十分達成されたと言えるだろう。  
 もっとも、自分が驚かされることは想定していなかったようだけど。  
 居住まいを正して彼女は不安げに訊ねてきた。  
「あの……どうですか?」  
 何が、とは言わない。ここで言うべきことは一つだ。  
「うん、とっても似合ってるよ。すごく……綺麗だ」  
 彼女が目に見えて赤面した。  
「あ……ありがとうございます。あの……あなたも、よく似合ってます」  
「そうかな?」  
 自らを振り返ってみても、いまいちよくわからない。体によく合っているから(なんでサイズが  
ぴったりなんだろう)着やすいとは思うけど。  
「似合ってますよ」  
 首をひねるぼくの眼前に、彼女の顔が勢いよく迫ってきた。  
「うわっ。いや、あの、」  
「すごく、凛々しく見えますっ」  
「────」  
 彼女のストレートな主張に思わず絶句した。  
 顔が急速に熱くなる。不意打ちにうまく対応できない。  
 ぼくの様子を見て、彼女もまた呼応するように真っ赤になった。自分の発言に恥ずかしく  
なったらしい。  
 ぼくらはしばらく至近距離で見つめ合いながら、やがて茹で上がった顔を持て余すように  
同時にうつむいた。  
 わざとらしい咳払いが後ろから聞こえた。  
「仲がよろしいのは大変結構ですが、そろそろ五時を回りますよ」  
 愛莉さんが平静な声で告げる。  
「御神酒徳利でいらっしゃることは十分に見せつけられましたが、外では人目を憚ることも  
お忘れなきよう」  
 丁寧な口調が逆にぼくらの恥ずかしさを煽り、彼女はますます縮こまった。  
   
 
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 石段を上がって境内に辿り着くと、様々な屋台が整然と並んでいた。人の数はまだ少なめだ。  
 ここに来る途中でもいくつか屋台が出ているのを見掛けた。何かを焼く芳ばしい匂いが鼻孔を  
くすぐる。  
「いっぱい並んでますねっ」  
 彼女が嬉々とした声を発する。うきうきと楽しげな様子が、顔を見なくても伝わってくる。  
「とりあえずお参りしようか」  
「この間と同じですね」  
 先日訪れた時と同様に、ぼくらは拝殿に向かって参道を進んだ。  
 賽銭箱に小銭を放り込んで、またお願いごとをする。  
 今日はもう少しだけ具体的な願いごとをしてみた。  
 それは彼女と、  
「あ、金魚すくい」  
 彼女が下駄をからから鳴らしながら屋台に近付いた。簡易な水槽の中を金魚たちが元気に  
泳いでいる。  
「いっぱいいますね」  
「やってみる?」  
「……うまくできるでしょうか?」  
「それは腕次第……って、ひょっとして」  
「初めてです」  
 金魚すくい初体験か。それで結果を求めるのは酷だろう。  
「とりあえずやってみたら?」  
「はい、がんばります!」  
 金魚すくいにそんなに気合い入れる人を初めて見た。  
 店のおじさんにお金を渡してポイを受け取る。彼女の隣で小学生くらいの女の子が小さな  
金魚を一匹ゲットしていた。それを見て彼女も後に続こうと袖をまくった。  
 ちゃぷ。  
「あ」  
 彼女の初挑戦は五秒で終わりを告げた。  
 彼女は一瞬呆然となったけど、すぐに二度目に挑戦する。  
 今度はかなり慎重にポイを操ろうとした。しかし手ブレをうまく抑えられず、再び失敗。  
「難しいですね……」  
 まあ基本的に失敗ありきの遊びだとは思う。  
「でも楽しかったので良しです」  
 彼女は満足したのか、すっくと立ち上がった。  
「もういいの?」  
「心残りではあるんですけど、他にもやってみたい遊びや巡ってみたいお店がたくさんあるので」  
 彼女は店のおじさんにぺこりと頭を下げた。おじさんは照れ臭そうに手を上げて応えた。  
 物珍しげに周りをきょろきょろ見回す。  
 彼女はあまりこういうイベントに参加したことがないようで、期待と不安に満ちた目を周囲に  
送っていた。  
 ぼくは隣に立ちながらそれを危なっかしく思っていた。  
 まだ明るいけど、すぐに夜になる。さっきより人も多くなってきている。そんなに広くない  
神社とはいえはぐれたら危ないだろう。  
 少し迷いながら、彼女の手を取った。  
「あ……」  
 彼女が小さな声を漏らした。顔をほんのり赤く染めて、ぼくを見つめる。  
 ぼくは照れを押し隠して、にっこり笑顔を返した。  
「次はどこを回る?」  
「え? あ、はい、えっと……」  
 祭りの喧騒の中で彼女の手の感触だけが直接肌に伝わってくる。  
 その柔らかさに沈み込むように、ぼくは掌に意識を傾けた。  
 まだ微かに緊張している彼女のそれを、解きほぐすように、指先に優しく力を入れた。  
   
 
 
 それから彼女といろんな店を回った。  
 射的、型抜き、籤引き、輪投げ、水風船釣り、様々な店で遊んだ。どれも他愛のない遊び  
ばかりだけど、彼女と一緒に巡るだけで何よりも楽しく思えた。  
 一緒に綿あめを食べながら他の人の様子を眺めるのも楽しかったし、昔懐かしの瓶入りラムネを  
彼女が飲みにくそうにしていたのも面白かった。中のビー玉は窪みに引っ掛けるんだよ、と教えると  
感心したのも束の間、すぐ教えてくれてもいいじゃないですか、と軽くへそを曲げられた。  
 楽しかった。  
 いつの間にか互いの手はしっかり指を絡めていて、恋人繋ぎになっていた。彼女は気付いて  
いるだろうか。いや、気付いてないわけがない。少しでも離れそうになるとそれを拒むように  
強く握り返される。彼女の想いが伝わってくるようで、それがたまらなく嬉しい。  
 どれだけの時間が経っただろうか。  
 あらかた屋台も巡り終えて、ぼくらは隅っこの方から祭りの様子を眺めていた。ライトや  
提灯の光が夜闇を打ち消すように周囲を照らす中、ぼくらの立つ場所は喧騒の中心から離れて  
いて、ちょうど闇との境目にいるような気がした。  
 彼女が水風船を楽しげに動かしている。  
 上下する風船はまるで生き物のように元気で、先程の金魚と僅かに重なった。夜の海を泳ぐ  
風船金魚。  
「そういえば」  
 彼女が思い出したように尋ねてきた。  
「金魚すくいだけしませんでしたね。どうしてですか?」  
 ぼくが、という意味だろう。確かにそれだけやらなかった。  
「飼えないから」  
「え?」  
「うちには水槽もないし、積極的に欲しい気もないから、やりたくなかった」  
「……」  
 死なせてしまうくらいなら、最初からやらない方がいい。  
「お店の方にお返しすれば済むことでは?」  
 彼女が不思議そうに言った。  
 …………。  
「……全然思いつかなかった」  
 呆然と呟くと、彼女がくすくす笑った。  
「笑わないでよ」  
「ごめんなさい、でもおかしくって」  
「なんで思いつかなかったんだろう……」  
 ぼくは恥ずかしくなってうなだれる。  
 気を取り直すように彼女が言った。  
「そういえば、まだかき氷食べてませんね」  
「ああ」  
 たこ焼き、焼きそば、フランクフルト、綿あめ、りんご飴、ラムネ、いろいろ食べ歩きながら、  
夏の定番を忘れていた。夜とはいえ、夏の熱気に喉も渇いている。  
「じゃあ買いに行こっか」  
「はい!」  
 彼女の元気な返事につられるように思わず笑みがこぼれた。  
 こんなに喜んでもらえている。本当に来てよかった。  
 かき氷を買ったら帰ろう。そう思いながら参道に戻ろうとして、  
「……」  
 ふと思い出した。  
「どうしたんですか?」  
 彼女の問いかけにぼくは首を巡らす。  
 間近にある彼女の顔を見ながら、ぼくは答えた。  
「まだ行ってないところがあったよ」  
 
 
 神社の裏手から獣道を抜けて、ぼくらは見晴らしのいい場所に出た。  
 そこは山の頂上近くにある原っぱだった。小さいながらも町全体を見渡せる場所だ。  
「わあ……!」  
 彼女が感嘆の声を上げた。眼下に広がるは街の灯りたち。  
「こんな場所があったんですね……」  
「すっかり忘れてたよ。花火大会の時はいい穴場なんだけど」  
 何人かカップルもいるようだけど、境内に比べると随分少ない。  
 ちょうどいい大きさの岩が側にあったので、ぼくらはそれに腰掛けた。  
「今日は楽しいことばかりです」  
 ブルーハワイの氷を口に含みながら、彼女は笑った。  
「ぼくも楽しかったよ。昼間頑張った分、余計にね」  
 メロン味をストローの先ですくいながら返すと、彼女は肩をすくめた。  
「明日もきちんとやりますからね」  
「ま、真面目だなあ」  
「学生の本分ですから。しっかり手本を見せてくださいね、『先輩』」  
「こういうときだけ先輩呼ばわりするんだから……」  
 ぼやきながらも、彼女の軽口を嬉しく思う。  
 彼女が愛莉さんに遠慮しないように、ぼくに対しても遠慮しないでほしい。  
 最近それが顕著に感じられて、ぼくはそのことが本当に嬉しいのだ。  
 近付きたい。  
 もっと触れ合いたい。心も。体も。  
「綺麗ですね……」  
 夜景を見ながら彼女は呟く。  
 ぼくはすぐ隣の彼女の存在を苦しい程に意識した。  
 
 右手を肩に回した。  
「!」  
 彼女の体がびくりと震えた。  
 その反応に心臓が強く跳ねたけど、ぼくは動揺を抑え込んで、彼女の体を引き寄せた。  
「あ……!」  
 肩同士が触れ合う。  
 左手で彼女の手を取る。かき氷のカップを地面に置かせた。  
「あ、あの」  
 ひどく狼狽した様子にぼくは怯みそうになる。でも、引きたくない。  
「抱き締めたい」  
 耳元で小さく囁いた。  
 彼女はどう答えていいかわからず、おろおろしていた。  
 ぼくはその間動かなかった。ただ静かに待った。  
 やがて彼女はこくん、と頷いた。  
 真っ赤に染まった耳にありがとうと囁き、ぼくは彼女を抱き締めた。  
 細い体。小さな肩。柔らかい髪。  
 愛しさが胸から溢れそうなくらい爆発して、ぼくはただひたすら彼女をかき抱く。  
 そして思った。ぼくはもうすっかり重病だ。彼女無しにはいられない。  
「心臓の、音が……聴こえます……」  
 かすれた声で彼女が言った。  
 心音が確かに聴こえる。  
 互いのドキドキが伝わってくる。  
「さっき……願いごとを、したよ」  
「……何て?」  
「君と触れ合いたい、って……」  
「……」  
「叶ったことに、なるのかな……」  
「わかりません……」  
「……」  
「でも……幸せです」  
 手が絡み合った。  
 体を少しだけ離した。  
 真横にあった頭が正面に来て、目と目が合う。  
 視線が重なる。  
 言葉はなく。  
 想いだけが交錯し。  
 
 
 
 夏の夜のひとときに、ぼくらは静かな口付けを交わした。  
   
 
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 触れ合う時はほんの数秒。  
 でもその数秒は、ぼくにとって永遠のように長かった。  
 ゆっくり、唇を離す。  
 世界で一番幸せだとさえ思い、ぼくは改めて愛しい恋人の顔を見つめた。  
 
 
 
 ──飛び込んできたのは、彼女の泣き顔だった。  
 
 
 
「──え?」  
 予想外の光景に頭が真っ白になった。  
 嬉し泣き、ではない。  
 どうして?  
 彼女が慌てたように飛び退る。  
 彼女自身も自分の状態を理解できないでいるようだった。  
 困惑気味に自分の瞼を擦り、それからぼくを見やった。  
 ぼくはその時、どんな表情をしていたのだろう。  
 
「ごめ……、なさい……っ」  
 
 彼女は立ち上がると、そのまま来た道を駆け出した。  
 彼女が、離れていく。  
 ぼくは放心して、その後ろ姿をただ見つめ続けていた。  
 

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