『いいたくて』  
 
 
 
 
 
 走る。  
 私はさっき初めて通った道をひたすら駆け下りていました。  
 祭りの喧騒が冷めないまま、明るさを残している神社へと、履き慣れない下駄を懸命に動かして  
戻ります。  
 途中で転びそうになるのをなんとかこらえて境内に辿り着くと、私はようやく足を止めました。  
 視界がぼやけています。  
 先程の涙が原因です。彼とキスを……キスをして、直後に胸が苦しくなって、その苦しさを  
吐き出すように私は泣いてしまったのです。  
 こらえようとしても止まらなくて、その顔を彼に見せたくなかった私は、思わず逃げてしまいました。  
 嬉しかったのに。  
 彼の本当の『彼女』になれた気がして、嬉しかったのに。  
 目を擦って痕を拭います。  
 戻ろうかな、と一瞬だけ考えました。  
 しかしすぐにその考えは自分の中で棄却されます。  
 怖い。  
 彼と付き合い始めてからはおよそ起こらなかった思いが、どうしようもなく生まれるのを自覚  
しました。  
 私は彼の彼女にふさわしいのでしょうか。  
 こんな私でいいのでしょうか。  
 彼の手を取りたいとずっと思っていたのに、想ってきたのに、今は、  
 ……境内の明かりが私を照らしています。  
 私はそれをうっとうしく感じ、そこから離れようとしました。うつむきながら鳥居の方へと足を向け、  
 名前を呼ばれました。  
 少し離れたところから、しかしはっきりとした声が届き、私は反射的に背後を振り返ろうとしました。  
 それが思いとどまったのは、相手がすぐにわかったからです。私はその人に会いたくなくて、  
そのまま再び駆け出しました。  
「待って!」  
 強い声が後ろから届きます。私が好きな、とても好きなその声は、逃げる私の心を嬉しくも  
悲しくも乱すようで、胸が締め付けられます。  
 彼が追いかけてくる。  
 こんな私を追いかけてきてくれる。  
 少なくなった人々の間を通り抜けて、急な石段を駆け下ります。両脇に設置された灯籠のおかげで  
足下は見えますが、それでも下駄がネックになって速度は落ちます。  
 早く、早く、  
 追い付かれたらきっと彼は私に訊ねるでしょう。逃げた理由と涙のわけを。  
 うまく説明できる気がしません。この恐れを、申し訳なさを、どう伝えたらいいのでしょう。  
 そうです。私は彼に申し訳なく思っているのです。それを伝えなければならないということは  
わかっています。ですがその理由と向き合うのは容易なことではなく。  
 
 石段の終わりが見えました。その先には道路が夜闇へとまっすぐ伸びていて、私はスピードを  
上げようと足に力を入れました。  
 あと五段、四段、三段、それから一足飛びに、下へ、  
 
 
 
 あ  
 
 
 
 後ろから、悲鳴にも似た彼の声が聞こえた気がしました。  
 着地した瞬間でした。想定していたものとは違う感触が右足に走り、バランスが崩れました。  
 それを立て直すことはできず、私の体は大きく傾き、固いアスファルトの上に倒れ込みました。  
「っ……!」  
 反射的に手をついたので、体を強く打ち付けることはありませんでした。しかし右足に走った衝撃は、  
無視できないものでした。  
 脂汗が身体中から吹き出したように流れます。私は息を殺して痛みに耐えました。  
 足下を見ると、親指の倍くらいの大きさの石が転がっていました。たぶん、下駄の歯で踏んで  
しまったのでしょう。挫いたのか、足首が焼けるように痛みます。  
「……」  
 傍らに人の立つ気配を感じました。  
 顔を上げると、彼が私を見つめていました。ひどく深刻な表情でその場にしゃがみこむと、私の足の  
様子を確認しました。  
「……かなり腫れてる。帰りは車を呼んだ方がいいね」  
「……」  
 私はうまく答えられませんでした。  
 彼は携帯を取り出してどこかに電話をかけました。おそらく愛莉に連絡をしているのでしょう。  
私はその様子をぼんやり眺めていました。  
 何をやっているんでしょう、私。  
 急に取り乱して、逃げ出して、こんな迷惑までかけて。  
 自分の馬鹿さ加減に心底呆れます。  
 足の痛みは引きません。最初に感じた衝撃ほど強くはありませんが、じくじくと鈍い痛みが晴れずに  
続いています。  
 私はうつむき、小さくため息をつきました。直後、ばつが悪くなりました。ため息をつきたいのは  
きっと彼の方だろうに。  
「立てる?」  
 電話を終えた彼がそう訊ねてきました。その声はいつもの優しい響きを持っていて、心地好く  
聞こえました。  
 私はまた答えられませんでした。彼があまりにいつもの、優しい彼だったから。  
「ここだとまだ人も通るし、ちょっと落ち着けないから、少し移動するよ」  
 そう言うと、彼はしゃがんだままちょこちょこと足を動かして、私に背を向けました。  
「……?」  
 咄嗟に反応できないでいると、彼が言いました。  
「近くのバス停にベンチがあるから、そこまでおんぶするよ。痛めた足をぶつけないように気を付けて」  
 彼の声は相変わらず優しいままです。  
 申し訳なくて、しかし何を言っても今は意味がないと思ったので、私は彼の言う通りにしました。  
 無事な左足をうまく使って、彼の背中に覆い被さるようにしがみつきます。  
 お借りします、と小さく囁くと、彼は頷いてゆっくりと立ち上がりました。  
   
 
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 バス停のベンチに腰掛けながら、私は彼を待っていました。  
 しばらくすると、彼が戻ってきました。両手にジュースを一本ずつ持っています。紅茶とオレンジです。  
 差し出されたスチール缶を受け取ります。ありがとうございます、と素直な言葉を返せたことに、  
少しだけほっとしました。  
 二人並んでベンチに座り、しばらく無言でジュースを飲みました。  
 夜のバス停は静かで、私の心とは違い、穏やかでした。夏特有の熱を帯びた夜気は、しかし今は  
それほど苦ではなく、どこか心地好くさえありました。  
 常夜灯が私たちを照らしています。  
 帰途に着く人々が何人か通りすぎていきます。目立つのか、少しばかり訝しげな視線を向けられました。  
 ストレートティーをちびちび飲みます。口をつけたものの通りは悪く、それでもせっかく彼が  
買ってきてくれたものだからと、少し無理をして飲み続けました。  
 無言の時間が続きます。  
 何か言わなければ、と私は言葉を探しました。  
 まずは謝らなくてはいけません。急に逃げ出してしまってごめんなさい。それはきちんと  
言わなくてはと思いました。  
 しかし、その言葉はなかなか外に出ていきませんでした。  
 それを言ってしまうと、なぜ逃げたのかを説明しなければなりません。  
 言わないと、とは思います。ですが私にとってそれはあやふやなもので、はっきり説明できる  
ことではありません。そしてあやふやだからこそ私は怖くなり、逃げたのです。  
 先延ばしにするようにいつまでも紅茶に口をつけて、でも喉の通りはまるでよくならなくて。  
 意気地なく何もできないでいると、彼が先に口を開きました。  
「さっきはごめん」  
 私は思わず彼の顔を見ました。  
「いきなりあんなことして、ごめん。怖がらせちゃったよね」  
 そう言って彼も私の顔を見ました。  
「反省してる。もう二度と、君の嫌がるような真似はしない」  
 その言葉は真剣な、と言って差し支えないものでした。私への真摯な思いが明確に伝わってきて、  
率直に、嬉しく思いました。  
 しかし、同時にそれはひどくピントのずれた話に聞こえました。私は別に、彼を恐れたわけでは  
なかったからです。  
 私は顔を伏せ、まだ半分以上中身の入った缶を、強く握りしめました。体の強張りが右足に  
響きました。  
 その痛みに後押しをされるように、私はようやく口を開きました。  
「……別に、嫌ではありません」  
 彼は怪訝そうに目を細めました。  
「いいえ、むしろ嬉しかったです。あなたとそういうことができるというのは、素敵なことだと  
思いますから」  
 彼はますます困惑しています。勘違いされるのも無理はないですが。  
「私は、あなたが怖かったんじゃないです。あなたとああいうことをした私自身が怖かったんです」  
「……どういうこと?」  
 ぐっと、奥歯を噛みしめました。  
「……あなたとは関係のないところで、あなたを嫌ってしまうかもしれないことが……怖いんです」  
 
 
「私……前に、男の人に襲われたことがあるんです」  
「──」  
「あ、いえ、愛莉が助けてくれたので、大事はなかったのですが……私、その時のこと、はっきりとは  
憶えていないんです」  
「……」  
「気付いたらベッドの上で、何もなかったと愛莉に言われたんですけど……でも、完全に何も  
なかったとは……言い切れません」  
「……」  
「最後までは、されてないと思います。でも服は、剥がされましたし、それ以上も……あった  
……かも、しれません……」  
「…………」  
「……起きたことは仕方ないんです。問題は、そのことであなたを拒絶してしまうかもしれない  
ことなんです」  
「……」  
「私は、あなたが好きです。それは間違いありません。でも、あなたと今以上に関係を深めていって、  
その時にあなたを受け入れられるか、あなたを嫌わないでいられるか……自信、ありません」  
「……」  
「さっきだって、泣くつもりなんか少しもなかったのに……嫌なんです。せっかくあなたを好きに  
なったのに、それが変わってしまうのが……怖い……」  
「……」  
「怖い……怖いです…………こんなに好きなのに、どうしてあの時泣いてしまったんでしょう……  
わからない、どうして……?」  
「……」  
「私、自分がわからない……嬉しいはずなのに……ずっと一緒にいたいって願ったのに、こんな  
ことで嫌いになりたくない……あの人たちとあなたは、全然違うのに…………」  
 
 
 不意に私の体を、衝撃が襲いました。  
 彼に抱き締められたのです。  
 腕ごと巻き込むように体を引き寄せられて、私はあっという間に彼の腕の中にいました。浴衣の  
前立てが重なるように、お互いの胸が触れ合って、彼の腕に力が入るにつれて、その触れ合いは  
より強く感じられました。  
 姿勢を崩したせいか、右足が地面に擦れて痛みを覚えました。しかし間近に感じる彼の息遣いが、  
いとも簡単にそれを吹き飛ばします。  
 優しい衝撃でした。  
「ありがとう」  
 耳元で囁かれます。  
「そんなに真剣に想ってくれてるなんて思わなかった。すごく、嬉しい」  
「……」  
「事情を話してくれて嬉しい。言いたくないだろうことまで言ってくれて嬉しい。ぼくを特別に  
思ってくれて、すごく嬉しい」  
「……」  
「だから、ぼくも頑張らなくちゃいけないんだ」  
「……え?」  
 それはどういう意味でしょうか。  
「君がぼくのことを嫌いになるかもしれないのなら、ぼくはそうならないようにしなきゃならない」  
「……?」  
「いや、その……」  
 彼は少し躊躇しましたが、やがて小さな声で言いました。  
「もっと、君を惚れさせなきゃいけないんだと思う」  
「……」  
 思わず彼を食い入るように見つめてしまいました。  
「あー、その……それって結構大事なことなんじゃないかな、と」  
 彼は照れくさそうに、しかし存外真面目な口調で言いました。  
「つまり、その、君が不安になっても、怖くなっても、それでも好きでいてもらえるように、ぼくの  
方も頑張る必要があるし、そのためにはただ仲が良いだけじゃ駄目で、いろいろぶつかったり  
触れ合ったり、たくさんのことを積み重ねていかなくちゃいけないんじゃないか、って思うんだ」  
「……」  
「そういう意味ではさっきの涙もけっしてマイナスなだけじゃないと思う。考えてみたら、ぼくたち  
まともにケンカしたこともないし、お互い知らないこともまだまだたくさんあって、積み重ねが  
足りてないんだよ、きっと。ただ好きになるだけじゃ駄目で、それを深めていかなきゃいけないんだ。  
いろいろな方向にさ」  
「……」  
 その言葉は私の心に深く深く浸透していきました。  
 確かに彼とぶつかり合ったことはこれまで一度もなく、今回が初めての衝突でした。  
 思えば私は、ただ彼を好きだと思い続けるだけで、恋人同士になってからは具体的なことは何も  
してこなかったのではないでしょうか。  
 
 でも親しい間柄なら、そんな遠慮はもっと小さくてもいいはずなのです。  
「……」  
 私は飲みかけの紅茶をゆっくり置くと、彼の背に手を回しました。  
 彼の体が微かに強張るのを感じ取りました。  
「いっぱい、惚れさせてくださいね……」  
 私は、強く抱き締め返しました。心臓の音が先刻よりもはっきり聞こえ、胸が震えます。  
 その鼓動を通して、少しでも想いが届くように。  
 それからの動きは本当に自然なものでした。  
 私は気分がひどく高揚していて、でもどこか冷静な気持ちもあって、落ち着いた様子で彼と  
向き合えました。  
 互いを優しく抱き締めながら視線を送り合って、  
 
 
 そっと、二度目のキスを交わしました。  
 
 
 最初のキスほどの驚きはありませんでしたが、代わりに胸が温かくなりました。  
 不思議な安心感でした。  
 唇を離して、彼をじっと見つめます。  
 涙はなく、今度はきちんと微笑むことができました。  
 
 
 
 そのあと、迎えに来た愛莉の車で彼を家まで送りました。  
 別れ際、これだけは言いたくて、車から降りた彼を呼び止めました。  
「私も、もっと……あなたを虜にしないといけませんね」  
 いつまでも、あなたと一緒にいたいから。  
 振り向いた彼の顔が外灯の下で真っ赤になるのを見て、私は小さく笑いました。  
 

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