窓の向こうに見える彼女はいつも淋しそうで、  
 でも十数メートル離れたその場所から、彼女の声は聞こえなくて、  
 いつからか切実に、ぼくはその娘のことを知りたいと思うようになった。  
 
 
 
『しりたくて』  
 
 
 
 通学路の途中に白く綺麗な家がある。  
 塀に囲まれた二階建ての大きな家で、一階の様子は見えない。見えるのはひたすらに  
白い壁と、二階の小さな窓。  
 最近ぼくはその窓をよく見上げている。  
 もちろんじろじろ人の家を眺め回すことはできないけど、通学の途中に心持ちゆったり  
したスピードで歩きながら、さりげなく窓を見やることくらいはできる。  
 時刻は大体七時くらいだろうか。彼女はいつもそこにいる。  
 窓の向こうで、椅子に座っているのか横向きで、無表情に外を眺めている。  
 電気は点けてないようで部屋は薄暗い。そんなところの窓に人影が見えたら不気味に  
映るかもしれないけど、なぜか彼女に対してはそういう印象は抱かなかった。  
 多分彼女がとても綺麗な娘だったからだろう。  
 十メートルは離れているし、窓越しのため胸から上しか見たことはないけど、遠目にも  
はっきり美人と言える顔立ちだと思う。2.0オーバーの視力に感謝だ。  
 深窓の令嬢、という言葉がぴったり合う。窓から見える時点で深窓じゃないかもしれない  
けど、とにかく綺麗な娘だった。  
 
 
 
 彼女を初めて見たのは三ヶ月前。入学して間もない四月半ばのことだった。  
 ぼくは結構早起きで、朝六時には起きている。でもそのあとはのんびりしたもので、  
いつも八時くらいに家を出ていた。  
 ただ、その日は一限目の数学の課題をするために早めに登校した。教室に問題の載った  
教科書を置き忘れたため、家ではできなかったのだ。  
 時刻は七時。そんなに早く出ることもなかったかなと思ったけど、誰もいない通学路を  
一人歩くのはなかなか気持ちよかった。  
 涼しい朝の風が体を優しく撫でて、まだ弱い日の光が山の向こうから射してきていて。  
 光につられて軽く見上げたその先に、その家はあった。  
 真っ白な壁が目立つ家。その窓の向こうに人影が見えた。  
 それは多分同い年くらいの女の子で、淋しげに外を眺めていた。  
 ぼくは一瞬言葉を失った。  
 そして次の瞬間、まずいと思った。  
 何がまずいのか自分でもよくわからなかったけど、とにかくその女の子を見ることが  
自分を何かいけない方向に向かわせるような、そんな気がしたのだ。  
 だから彼女と目が合った瞬間、ぼくはつい目を逸らしていた。  
 そのまま早歩きでその場を去ろうとして、でももう一度だけ窓に目をやった。  
 その時にはもう窓のカーテンが閉められていて、女の子の姿を窺うことはできなかった。  
 
 
 
 一番に着いた教室で課題を解きながら、ぼくは頭の隅で女の子のことを考えた。  
 かわいい娘だったと思う。一瞬しか見えなかったけど、その顔は脳裏に焼き付いていた。  
 同い年くらいに見えた。彼女は高校生だろうか。ひょっとしてこの学校の生徒だろうか。  
 閉められたカーテンを残念に思った。もうちょっと彼女の姿を見ていたかった。  
 と、そこでおかしなことに気付く。  
 なぜ自分は「まずい」と思ったのか。  
 残念ならまずく思う必要はないはず。どうしてまずいと思ったのか。  
 彼女のことを思い浮かべる。  
 焼き付いた彼女の姿。きっと忘れない、忘れられないと思う。  
 瞼を閉じればこんなにもはっきりと、彼女の姿を思い浮かべることができるのだから。  
 
 
 帰りに同じ道を通ってみたけど、窓の向こうに彼女の姿は見えなかった。  
 閉じられたカーテンがこちらを拒絶しているようだった。  
 
 
 
 翌日、昨日と同じ時間にぼくは家を出た。  
 目的は一つ。彼女に会いたい。  
 塀に囲まれて、さらには窓に遮られて、目線の高さすら違う。それでも彼女の姿を一目  
見たかった。  
 そしてその願いは叶った。  
 彼女は昨日と同じように窓際にいた。  
 特に表情を変えることもなく、外を眺めていた。淋しげな雰囲気も昨日と変わらない。  
 どくん、と心臓が高く波打った。  
 波は収まらない。どくん、どくん、と第二第三の波が次々に胸の内から起こり、全身に  
響き渡るように広がっていく。  
 震える体を無理矢理動かして、ぼくは彼女を見つめた。  
 また、目が合った。  
 それは一瞬の出来事だった。彼女は視線がぶつかった瞬間驚いた顔をして、慌てて  
カーテンを閉めた。  
 それきり、水色の布は揺らぎもしない。  
 ぼくは呆然と固まっていたけど、やがて恥ずかしくなって足早にそこを離れた。  
 
 
 
 恥ずかしくなって当然だと思う。  
 体中が熱くなっていくような感覚にとらわれて、ぼくは何度も深呼吸する。  
 こんなことがありうるのか。  
 そういうものがあるのは知っていた。でも自分には縁のないものだろうと思っていた。  
 でも、彼女のことを思うと、高揚とも焦燥ともつかない熱が体の奥からじりじり生まれて  
きて、それが間違いだったことを思い知らされる。  
 
 ──ぼくは彼女に一目惚れしてしまったようだ。  
 
 
 
 とは言え、ぼくにできることなんて何もない。  
 彼女は外には出てこない。少なくともぼくは見たことがない。朝の早い時間、窓際に  
姿を見せるだけだ。名前すらわからないし、接触する機会もない。  
 ぼくなりに調べてわかったのは、ぼくの高校に彼女はいないということ。それどころか  
彼女は学校にも行っていないようだということ。  
 朝のどの時間帯にも彼女は外に出てこない。ひょっとしたら通信制の学校に入っているの  
かもしれないけど、少なくとも通学はしていない。  
 門の表札には「池田」とあった。彼女の苗字は池田というのか。池田さん。なんとなく  
彼女には合わないと思った。  
 ぼくは彼女の姿を見たくて毎日早起きをした。  
 彼女はぼくの姿を見るとすぐにカーテンを閉めて隠れてしまった。  
 嫌われたかなと思ったけど、どうやらそれは違うようだった。その後も毎朝同じことが  
繰り返されたからだ。  
 嫌っているなら姿を見せなければいい。なのに彼女はそうしなかった。  
 朝の光を浴びるのが好きなのか。街の景色を眺めるのが好きなのか。それはわからない  
けど、彼女は毎日ぼくの前に姿を現してくれた。それはぼくにとって幸せなことだった。  
毎回隠れてしまうのはちょっと残念だったけど。  
 
 
 五月晴れの日々も、梅雨空の季節も過ぎ去って、蒸し暑い七月。  
 夏休みまでもうすぐというその日の朝、彼女は姿を見せなかった。  
 閉め切られた窓は朝日を受けたまま小揺るぎもせず、カーテンに覆われて向こう側の  
様子は何も窺えなかった。  
 残念に思いながらもぼくはいつも通り登校した。明日また会えることを祈って。  
 
 
 
 しかし翌日も、翌々日も彼女は現れなかった。  
 風邪でもひいたのかとぼくは心配になった。  
 さらに一週間が過ぎ、心配はいっそう増した。ひょっとして風邪どころかとても悪い  
病気にかかっているのではないか。  
 やがてふと思った。  
 ひょっとして彼女は重い病気を抱えているのではないか。だからいつも家の中にいるの  
ではないか。  
 悪い想像ばかりが膨らんでいく。  
 いや、普通に玄関のベルを鳴らして訪ねればわかるのかもしれないけど、ぼくらは別に  
友達でもなんでもないのだ。一方的に心配していきなり訪問するなんて、そんなストーカー  
じみたことをできるわけがない。  
 
 結局、ぼくにできることは何もなかった。  
 
 
「すみません、少しよろしいですか?」  
 そう呼び止められたのは、終業式前日の夕方のことだった。  
 帰り道、彼女の家の前を通る際、知らない女の人がぼくの前に現れたのだ。  
「は」  
 ぼくは自分が呼ばれたことにびっくりして、間の抜けた声を洩らした。  
 背の高い人だった。切れ長の眉を持った、真面目そうな大人の女性。  
 その人が確認してきた。  
「毎朝、うちの前を通ってらっしゃいますよね」  
「……へ?」  
 うちって。  
 その人が示すうちは、『彼女』の家。  
 ぼくはひどく慌てた。  
「あ、ええと、その、はい」  
「いつもあの子を見ていた方ですか?」  
「……!」  
 心臓が止まるかと思った。  
 あの子って、あの子?  
 それ以外に心当たりはない。けどそのことを言われるのはなんだかひどく後ろめたい  
気がして、ぼくは黙り込んだ。  
 答えられないでいると、その人は続けて言った。  
「すみません、お願いがあるのです」  
「お願い……ですか?」  
 はい、と頷く。  
「明日の朝、いつもと同じ時間にここに来てほしいのです。あの子が、あなたに会いたい  
そうです」  
「……え!?」  
 思いがけない申し出だった。  
 呆然としていると、女性はさらに続ける。  
「ただ、あの子はひどく臆病で、人目を極端に嫌います。唐突なお願いですし、ひょっと  
したらあなたに不快な思いをさせてしまうかもしれません。それでも失礼を承知でお願い  
したいのです。あの子に会っていただけませんか?」  
 ぼくは混乱する頭を必死で落ち着かせようとした。  
 ぼくに会いたいだって? 彼女が?  
 毎日眺めることしかできなかったぼくにとって、それはあまりに急な事態だった。  
 
 でも、  
「明日の朝じゃないといけないんですか?」  
 会うなら時間のない早朝よりもっと落ち着いた時間の方がよさそうな気がする。そう  
訊ねると女性は首を振った。  
「私があなたにこうしてお願いしていることを、あの子は知りません。あの子には秘密で  
やっていることなのです」  
 女性はほう、と息をついた。  
「あの子はあなたに会いたいと思っています。でもずっと躊躇していて、なかなか踏ん  
切りがつかなくて、今日まで来てしまいました。明日は終業式  
ですよね。夏休みになるとしばらくあなたを見ることは叶いません。その前になんとか  
あなたと知り合いたいと、ようやくあの子は決心したのです。明日、あなたに直接会うと。  
でももし、もしあなたがいつもの時間に現れなかったら──せっかくの決心が、勇気が、  
萎み、消えてしまうかもしれない。そんなこと、あってほしくありません。だから──」  
 ぼくは静かに聞いていた。  
 話を聞くに、『彼女』はひどく人見知りする性質のようだ。ぼくも結構迷う方だけど  
彼女はどうも段違いのような気がする。  
 そんな彼女がぼくに対して勇気を振り絞ってくれるというのは、すごく嬉しかった。  
「わかりました。じゃあ、明日の朝に」  
「お願いします。あと、このことは一応秘密に」  
「はい。……あ、そうだ。彼女の名前を教えてくれませんか?」  
 すると女性は一瞬目を見開き、それから小さく笑みを浮かべた。  
「あの子はあなたの名前も知りません。なのにあなたの方は知っているというのは不公平  
じゃないですか?」  
「いや、それは……」  
「あの子に直接訊いてください。私が教えるのも野暮ですし」  
 それでは、と女性は頭を下げると、門の向こうに消えていった。  
「……」  
 ぼくはしばらく『彼女』の部屋の窓を見つめていた。  
 そこに彼女がいるのか、窺い知ることはできなかった。  
 
 
 眠れない夜を過ごし、ぼくは朝を迎えた。  
 いつもと同じようにと気を付けてはいたけど、いつもより早く準備ができてしまった。  
 やっぱり気がはやっているのだろう。ぼくは眠気覚ましのコーヒーをもう一杯だけ飲んで、  
家を出た。  
 外の空気はとても澄んでいた。今日も暑くなる予感をさせる青い空には雲一つなくて、  
早い時間帯の通学路に人影はなく喧騒とは程遠くて、建物の隙間をついて射してくる朝日の  
光は美しく真っ白だった。  
 夢のように優しい、一人の世界。  
 そんなことを思いながら、ぼくはやがていつもの場所に着いた。  
 住宅地の一角。高そうな一戸建てが並ぶ中、道の正面に立つ塀に囲まれた白い家。  
 雪のように白い壁をぼんやり見つめていると、ふと門の前に人影があることに気付いた。  
 息を呑んだ。  
 ぼくがこうして早い時間に家を出るのは、いつもわけがあった。  
 でも今日は、いつもよりずっと特別で、昨日頼まれたことに驚きながらもそれはぼくに  
とって願ってもないことで。  
 2.0の視力ははっきりその姿を捉えていて、一歩一歩確実に、ぼくは近付いていく。  
 そしてぼくは、ついに彼女の前に立った。  
 窓ガラス越しではない、二階の部屋向こうでもない、ちゃんと目の前に彼女がいる。  
 初めて目の前に現れた彼女は、ぼくが考えていた以上にずっと綺麗な姿だった。  
 黒髪は鏡のように光っていて、肌は朝日に負けないくらい白くて、ワンピース姿の彼女は  
まるで天使のようだった。  
 こんな恥ずかしい表現が頭に浮かんでしまうくらい彼女は綺麗で、ぼくは呼吸を忘れる程  
見とれた。  
 ぼくの姿を見て、彼女の顔が明るくなった。  
 でもそれは一瞬で、すぐにうつむいてしまった。  
 昨日の女性の言葉を思い出す。彼女は人目を嫌い、ひどく人見知りするという。  
 ぼくは慎重に言葉を選んだ。  
「お、おはよう」  
「……」  
 いきなり失敗したような気がする。  
 ぼくは焦る。何か言わなきゃ。でも一体何を、  
「あ……あの……お、おはようございます……」  
 初めて彼女が口を開いた。  
 それはソプラノの心地好い声質で、耳に染み込むようにぼくの中に届いた。  
 胸が高鳴る。  
 ずっと聞きたかった声が、ぼくの心を掴んで離さない。  
 もっと彼女の声を聞きたい。さっきまで焦って仕方がなかった心はもう落ち着いていて、  
口が自然と開いた。  
 
「ずっと、話がしたかったんだ」  
 彼女は驚いたように顔を上げた。  
「だから、嬉しい。君とこうして、会えて」  
 彼女は顔を真っ赤にして、再びうつむいてしまう。  
 何か言いたげに顔を何度か上げようとして、しかし何も言えずにまた顔を伏せて、そんな  
彼女は見た目にもはっきりと不安でいっぱいだった。  
 ああ、とぼくは納得した。  
 ぼくは彼女のことを何も知らない。でも、その態度が何を表しているのかはわかる気が  
した。  
 怖いのだ。  
 多分……嫌われたり気分を損ねてしまうのが。  
 ぼくは嫌わない。  
 嫌うわけがない。こんなに膨れ上がった気持ちがあるのだ。  
 君の前にこうして立って、君を見つめていられることがぼくにとってどんなに幸せか、  
君は知らないんだ。  
 怖がらないでほしい。ぼくは君と──  
 
「友達になりたい」  
 
 彼女は呆然とぼくを見つめた。  
「友達になってほしい。明日から夏休みで、これまでみたいに朝早くは会えなくなる。  
それにもう、窓越しに見つめるのは嫌なんだ」  
 君の声を聞いたから。  
「もし迷惑じゃなかったら、ぼくと友達になってください」  
 真摯に、素直な気持ちをぶつけた。  
 彼女は喉が詰まったようにしばらく何も言わなかった。  
 けど、やがてぎゅっと目をつぶると、何かを飲み込むように深く頷き、それから目を  
開けて絞り出すように言った。  
 
「私も、あなたと……友達になりたい、です」  
 
 ぼくはそれを聞いてにっこり笑った。  
「じゃあ」  
「はい……よろしくお願いします」  
 彼女は深々とお辞儀をする。  
 できることならこのまま彼女と話をしていたい。でも今日は終業式で、今から学校で、  
ぼくは恨めしく思った。  
 まあでも、仕方がない。今日は朝からあまりに幸運すぎた。これ以上を望むのは贅沢と  
言えるかもしれない。  
 だからぼくは一つだけ訊いた。  
「じゃあ自己紹介しようか。まだ名前も知らないし、君の名前を知りたい」  
 彼女は小さく頷く。  
「私も……あなたの名前を知りたいです」  
 そしてぼくらは互いの名を名のった。  
 
「ぼくは──」  
「私は──」  
 

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