あの晩、フローラは、私を逃がすまいと、さらに精を吸った。
私は、意識を保つのも困難で、でも、切なさは、疼きは、渇望は、さらに増して、
快楽だけが私の中を満たした。
そして、永い、永い、愛撫の日々が始まる。
彼女の口づけで眠りから呼び覚まされ、彼女の手で忘我する日常。
快楽で覚醒し、快楽で沈む意識。
間もなく、快楽に慣らされた躰は、自らそれを欲するようになり、その欲望は、心を、魂を、浸食し、
やがて、夢と現が曖昧になり、自分がどこにいるのか、自分が誰なのかさえ分からなくなり、
それでも、彼女の愛と欲望に翻弄され続ける、淀んだ時間。
私が快楽に染まりきったころには、微睡みから覚めると、恋しくて、切なくて…。
乳飲み子が、母を求めるように、フローラの体を探す。
そして、懇願するのだ。
“もっと私を愛して”。
“もっと私を壊して”。
“もっと私を吸って”。
フローラも喜んでそれに応える。
私を愛でる。
達して、達して、達して…、
そしてまた、気だるい眠りの中に沈む。
何度も、何度も…。
…闇に堕ちるとはうまく言ったものだ。
一体、私はどれだけの間快楽の中に浸され続けるのか、
時間の感覚は疾うになく、体の感覚も疾うになく、感情さえも疾うになく…。
確かに私は、闇に堕ちていった。
それでも、フローラの歪んだ愛情は私に注がれ続ける。
――彼女がいなくなる、その日まで。
…ある夜のこと。
どれだけの時が過ぎたかは分からない。
私は、いつものように体が疼き、耐えきれず、現の世界に顔を出した。
また快楽が、ほしくて、ほしくて、いつものようにフローラの姿を探す。
だが、彼女の姿は見えず、部屋には静寂だけが充満していた。
不安になって、彼女を呼ぶ。
「…あ…、あぁ…、…フローラ…フローラ…。」
口から漏れる声は、すでに言葉を成しておらず、その様子はさながら白痴。
やがて、堪え切れなくなった私は、自ら体に手を這わした。
自らの指に、彼女の指を投影して、
ベッドの温かさに彼女の温もりを想像して、
虚空に私を愛する彼女の幻を見ながら。
「…んん…、…んっ…、…ぅん…っ…。」
快楽に染め上げられた体は、わずかな刺激ですぐに達してしまう。
でも、何度達しても、何度達しても、決して満たされることはない。
さらに疼いて、さらに渇くだけ。
それでも、また慰め始める。
幾度となく慰めて、限界まで慰めて、快楽さえ感じなくなり始めた頃、
不満だけ私の心に残しながら、再び眠りの世界に堕ちた。
あんなに愛してくれたのに、彼女はいったいどこへ行ってしまったのか。
次に目が覚めても、その次に目が覚めても、
闇の中に彼女の気配を見つけることは出来なかった。
―――心の融解、魂の瓦解、夢の忘却、私の喪失…。
甘き毒の源を失って尚、堕ちるところまで堕ちてゆく…。―――
夜も遅く、住人達は寝静まり、まばらになった家々の明かりが寂しくも美しい。
闇は辺りを覆い、安らぎをもたす。
満月の明かりが青白く降り注ぎ、包みこまれる感覚が心地よい。
空はよく晴れていて、風はさわやか。
ふふ、こんな夜は冒険、冒険。
今宵はなんだか気分がいい。
初めてだって怖くない。
行ってみなくちゃ、わからないよね。
なにかいいことがありそうな予感がして、
なんとなく降り立ったこの町が今夜の冒険の舞台。
夜の空気がこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
すごく気分がよくて、何だって出来そうな気がする。
ふらふらと、ふわふわと、踊るように通りをさまようのだった。
さて、そろそろ空腹も限界だ。
糧を探そう、そうしよう。
通りの一角から騒がしい声が聞こえてきた。
酒場かな。
男たちが酒を呷りながらバカ騒ぎしている。
ギンギンギラギラ活きのいいやつが揃っている。
でも、あれにするのは気がひける。
なんだか、しつこくて美味しくなさそう。
それに、こっちは初めてだし。
やっぱり狙うなら、おとなしそうな、それでいて美味しそうな獲物がいい。
逃げる術を知らない、仕留めやすい獲物。
量は少なくとも、新鮮で、やわらかな獲物。
そんなことを考えながら、その場を後にした。
通りを抜け、路地に入り、ゆっくりとあたりを見回す。
おいしそうな気配を見つけたのだ。
そこは閑静な住宅街だった。
家々の主たちは寝静まり、影と静寂が支配する世界。
きっと…この気配は…そう、女の子。
まだ熟す前の果実、これから熟し始める果実。
初々しい甘酸っぽさを連想させる匂いだ。
吸い込まれるように、獲物の近くへ向かう。
地面を離れ、自身と獲物を隔てる壁を透り抜けて、獲物のそばへ忍び寄る。
そこは子供部屋。
壁には奔放な絵画。やや小さな机と開きっぱなしの本。
窓際のぬいぐるみとお人形が、こちらをじっと見つめている。
ベッドには、可愛らしい少女。
…よし、この子に決めた。
誰にも邪魔をされないよう、他者を追い出す場をイメージする。
それは即座に具現して、これで、きっと、誰も来ない。
そっと、頬にかかる髪を払い、寝顔を見つめる。
瑞々しく、かわいらしい少女。
獲物は眠ったままだった。
ベッドの上で、シーツに包まれて、穏やかな寝息を立てている。
まだ性というものに目覚めていない、幼い少女。
他者と交わる喜びなんて露も知らないはずだ。
この少女を、たった今から、わずかなばかりの快楽によって、ほんのすこしだけ染めあげるのだ。
…うん、わくわくしてきた。
少女の輪郭を、華を愛でるように撫で、しばらく肌の感触を愉しむ。
そして、やさしく唇を重ねた。
徐々に少女は熱にうなされたようにくぐもった声を上げ、体をうごめかせる。
肌はしっとりと潤い始め、体温がわずかに上昇。
毒が、私の毒が、徐々に回っているのだ。
…ふふふ…なんだか…かわいい…。
そっと寝具をはぎ取って、そっと衣服をはだけさせる。
寝具の内側に封じられていた、ぬくもりと少女の香りが鼻腔をくすぐる。
露わになる、膨らみ始めた乳房、薄紅色の乳頭。
空気に触れる、未だすべすべの恥丘、なめらかな割れ目。
指を添えて、やさしくもみほぐしてやる。
少女は、まだ早すぎる未知の悦びに、苦悶の表情を浮かべる。
身を捩りながら、揺り起こされた女の感覚に翻弄され、小さく喘ぎ声を上げる。
徐々に荒くなる少女の呼吸。
無垢が快楽に穢れてゆく様にぞくぞくする。
これが、少女の感じる、初めての快楽と肉欲への転落。
汗を浮かべ、呼吸を乱し、朱に染まる白い肌が、たまらなく愛おしい。
いま、
快楽を行使して、
少女の魂から少しだけ切り崩した純粋を、
蕩け出した幼い理性を、
初々しくて甘酸っぱい精を…、
ほんのちょっと、ほんのちょっとだけ啜って…。
―― その時、私は魔物となった。
「…ごちそうさま。」
私は、少女の乱れた着衣をほどほどに直し、もう一度、口づけを済ませると、
次の獲物を探しに夜の闇へ戻ることにした。
近づいてくる夜の気配を感じ取って、私は体を起こした。
「…、…?」
背伸をして、欠伸をして、のっそりとベッドから抜け出す。
意識がもうろうとしていた昨日までとは一転、私は不思議な活力に満ちていた。
なんだか、こう…、そう、絶好調だ。
ええと、私は何をしていたんだっけ?
気分はすこぶるいいのだが、なんでかぼやけた記憶を辿る。
「…? …。あ…。」
――そうだ、私は…、空を飛んでいた…。
思いだした。
昨夜、私はいったい誰だったのか。
昨夜、私はいったい何だったのか。
昨晩だろうか、
誘われるようにふらふらとこの家を出て、
吸いこまれるように夜空に飛び立った。
近くなった空に、遠くまで見える景色に、眼下に流れる地面に、存在しないはずの翼に、
私は、更に気分を良くして、素敵な予感を頼りにしばらく飛んだ。
そして、当然のように町を見つけ、
……獲物を物色した。
哀れな犠牲者は少年少女合計三人。
すごく高揚していたのを覚えている。
獲物がうめき声をあげるたびに、昂奮と活力が私の中を駆け巡った。
子供たちは、堕落の一歩を踏み出し、その分、私の存在意義が満たされた。
私はこのために存在するのだと、そんな自負と悦びが湧き出していた。
淫魔の感情が私を支配していた…。
翼に受けた風の感触が残っている。
唇に肉のぬくもりが残っている。
真っ黒なおぞましい興奮の余韻が残っている。
ちがう…。
こんなの、私ではない…。
「ああ、私は…!」
騎士に憧れを抱いた幼かったあの日。
奇跡のように魔物が倒され、私は救われた。
その光景に憧れて、自分もいつか大空を舞い、人々のために輝きたかった。
いや、そうなれると信じていた。
だというのに、昨夜、空を舞ったのは、
“騎士ではない私”だった。
…いやだ。
認めたくない。
絶対に認めたくない。
窓に写りこむ私の姿はまるで別人。
私の髪は、こんなにも黒くなかったはずだ。
私の瞳は、こんなにも紅くなかったはずだ。
私の肌は、こんなにも白くなかったはずだ。
その姿は、背丈こそ、貌こそ違えども、あの魔物そのもの。
人間を堕落へ誘う夜の魔物。
快楽と肉欲の化身。
女の姿をした淫魔。
それが…、今の…、私……!
―――堕落の先に待っていたのは、人ならざる生。
人間の守護になりたかった私は、
不思議なことに人間の脅威になっていた。―――