私が堕ちて、一年と少しが過ぎた。
まだ私はあの家にいる。
未だフローラは戻ることはなく、どれだけ気配を探しても見つけられず、
ここはすでに私の家になっていた。
きっと彼女は獲物を探しに出て、巡回中の守護騎士にでも狩られたのだろう。
家はちょうど四つの町と村の中間にあり、深い森に隠されていて、
しかも、敵意あるものが寄ってこれないよう、高度な結界が構築されていて、
淫魔の拠点としては最高の立地だった。
私はというと、生き汚くも、淫魔としての生活を続けていた。
人を襲うのは七日に一度程度。
闇にまぎれて人里に下り、闇にまぎれて人を狩り、闇にまぎれて住処に戻る。
初めのころは、人を襲うのが、嫌で、怖くて…。
何度か、断食も試みたが、失敗した。
人を襲わないと、どんなに心を決めたとしても、
空腹が限界に達するといつの間にか夜の町に繰り出していた。
それならばと、自身を革ベルトで縛り、拘束してみたが、
自分でもどうやって抜け出したのかわからないけど、結果は変わらなかった。
私は、淫魔の性から逃れられないのだ。
そして、騎士に我が身を差し出す勇気もない。
自ら死を選ぶ気には、どうしてもなれなかった。
淫魔の私は、当然、騎士に見つかれば、退治されることだろう。
かつて騎士に憧れ、魔物を狩る側の人間だった私は、いまや狩られる側の魔物。
本当に皮肉で難儀なものだ。
空腹になる度に人里に下り、歓喜し、興奮し、次に目が覚める度に自分の運命を呪う生活。
だが、そんな暮らしも三月もする頃にはもう慣れていた。
そして、襲う悦びを覚え、精の味も覚え、さらには、おいしく頂くための火加減まで覚え、
嫌悪感も罪悪感も次第に薄れ、歓びばかり重ねて、
更に三月もする頃には、私は立派な淫魔だった。
きっともう、元には戻れない。
幸か不幸か、私は淫魔に馴染んでしまったのだ。
こんな生活を楽しんでいる自分。
しかし、一年もするころには新たな脅威が私に襲いかかろうとしていた。
それは暇と孤独と寂寥。
まともに誰かと会話をしてから、どのくらいたったのだろうか。
町に行けば、人間はたくさんいるが、騎士が怖いから、町にとどまることはできない。
町にとどまれないから、家にいるしかなくて、家にいれば、当然、暇だ。
家にいて、たまに外に出ては人間を襲う夜の魔物は、人間とは友達になれない。
人寂しくなると夜にまぎれて町の獲物を物色し、そうでなければ森を散策して過ごす日々。
寂しさは気になりだすと募るばかりだった。
私は、淫魔になっても、人間に似た感情から自由になることはなく、
やはり、誰かと語らいたいし、誰かに好かれたいし、誰かを愛したかった。
人と獣の間を行き来する気持ちはとても苦しいから、
だからこそ、淫魔は人を愛し、人を欲し、人を堕とすのだ。
なるほど、私を堕とした少女が、涙を流すわけだ。
…本当に、本当に、皮肉で、難儀なものだ。
ある雨の降る逢魔が時。
私の縄張りの町の一つが壊滅しているところに出くわした。
村と言っても差し支えないような小さな町。
多数の魔物に襲われて、騎士たちは間に合わなかったのだろう。
すでにことは終わっており、魔物の姿も、町人の姿も見当たらなかった。
きっと魔物は引き上げ、生き残った町人もどこかへ逃げたのだろう。
未だ小さな町のところどころから黒煙が上がり、
まだ襲われてからそれほど時間はたっていないようだ。
私は狩場の一つが台無しになったことに若干落胆しながら、
なんとなく、廃墟となった町に降り立った。
そして、やはりなんとなく、周囲を見回す。
と、民家の一つから、ガタタ、と物音がして、一人の少女が飛び出してきた。
少女は民家の中から目を離さず、そのまま、出てきた方向を向きながら、後退る。
そして、数歩後退して、躓いて尻もちをついた。
手には血染めのナイフ。
よく見ると、ひどく怯えた表情をしており、顔は涙と鼻水でぐしょぐしょだ。
少女の視線の先には狼型の魔物が一頭。
更に民家から二頭。
先頭の一頭は腹から血を流し、また、すべての狼は口の周を血で染めていた。
すでに何人か襲った後なのだろう。
一頭の傷は少女の手によるものか。
血を流す一頭は、傷つきながらも、未だ闘争本能は衰えていないらしく、
今にも少女に飛びかかろうとしていた。
私は、まさか見逃すわけにもいかず、とっさに間に入ってしまった。
突然の乱入者に少女の目が見開かれる。
それでも傷ついた狼は少女を諦らめず、徐々に距離を詰めてくる。
丸腰の人間が一人増えたところで、
狼にとって、少女がただの餌であることに変わりはなかったのだろう。
血を流す狼は、ついに私たちに飛び掛かってきた。
私は、狼の突進を、風を張ってはじき返し、
民家の壁に叩きつけ、狼が地面に倒れこむその前に、
さらに風をぶつけて切り裂いてやった。
私が爪を振るい、狼は血しぶきをあげる。
なにやら爽快な気分だった。
最初の一頭が動かなくなったところで、私はほかの二頭に殺意を向けた。
狼たちは、耳を垂らして後退り、
二頭では勝てないと判断したのか、怖気づいたのか、
やがてすごすごと退散していった。
私は、壁にへばりついている狼が絶命していることを確認して、少女に向き直った。
この状況に、嫌な既視感を覚えながら、少女に話しかける。
「…大丈夫? …立てる?」
…返事はない。
見ると、少女は気を失っており、仰向けに倒れていた。
よほど怖かったのだろう。
雨の降る中、少女の服に泥水が浸み込んでゆく。
このまま、屋外に転ばせておくわけにはいくまい。
仕方なく、私は少女を抱き抱え、少女がもといた民家に入ろうとした。
しかし、中を見て、それを止めた。
民家の奥に女性が一人。
手には少女と同様、血染めのナイフ。
そして、その女性には、腹がなかった。
きっと、狼の傷は彼女の手によるものでもあり、
狼の顎を染めていた血も彼女のものなのだろう。
おそらく、彼女は少女の母親で、
少女を隠して守ろうとしたが、狼に勝てなかったのだ。
そして、母親が貪られている最中に、少女は飛び出し、
復讐を果たそうとでもしたのだろう。
…かわいそうに。
きっと、少女は、母親が殺されるところを目の当たりにしている。
私は、とりあえず他の適当な建物に少女を連れてゆき、
適当な椅子に座らせてやった。
さて、これからどうしたものか。
町が壊滅するほど、たくさんの魔物が襲って来たのだ。
まだ近くに、狼どもが潜んでいる可能性は高い。
先ほどの二頭が戻ってくるかもしてない。
少女を一人で町に放置しておくのは危険だろう。
だが、自警団や騎士団や戻ってくるまで付き添ってやるわけにもいかない。
私が魔物と知れれば、狼なんかより先に私が狩られる。
「…しょうがない…。」
結局私は、我が住処に少女を連れて行くことにした。
数刻過ぎて、我がベッドの上に少女が一人。
私はベッドの脇に座っていて、上下する少女の胸をじっと見つめていた。
あのあと、少女といくらかの荷物を抱えて家に帰った。
家に到着してから、少女の雨に濡れた服は脱がせてやり、体も拭いてやった。
代わりの服は、少女の家と町の他の民家から、
ついでに食べ物やその他もろもろと一緒に失敬した。
家に着いて、少女をベッドに寝かしつけて、それからは大掃除だった。
自堕落な生活を送る私の家は、ところどころ汚れがたまっていて、
とても客人を迎えられるような状況ではなかった。
少女が目を覚ます前に、なんとか見れるようにはしなくては、
と目につくところを優先してきれいにし、さらに空気を入れ替えた。
雨降りのジメジメ感が残念だ。
次に料理でも出そうかと思ったが、
いざキッチンに立って私にはその技術がないことに気が付いて結局辞めた。
家事なんかほとんどやってこなかった私は、薬草の調合なんかはできても
夕ご飯なんて作れないのだ。
ちょっぴり暗い気分…
でも、切るだけで食べられるものを揃えて何とかするしかない。
そんなこんなでバタバタしながらも私は、普段やらないことをする新鮮さも相まって、
久々のおもてなしの準備に胸を高鳴らせていた。
そうして、苦戦しながらもあらかた終わらせて、今に至る。
…私は少女をこの家に連れ込んでしまった。
最寄りの町に、そっと置いてくることだってできたはずなのに。
きっと私は退屈な日常に変化がほしかったのだろう。
無意識に、こんなことをしてしまうあたり、私は相当、参っていたのかもしれない。
…変態だな。
今に始まったことじゃないけど。
「…ん…。」
少女の口から声が漏れた。
きっともうすぐ目を覚ます。
ゆっくりと少女の眼が開く。
いよいよだ。
「…おはよう。」
はじめに私が掛けた言葉はこれだった。
少女は私に目を見開き、そして目を泳がせ始める。
と、とりあえず自己紹介かな…?
「私は、アネット。ここは私の家。」
「…。」
ゆっくりと体を起こす少女に手を添えて支えてやる。
不安なのだろう、少女は緊張した面持ちで辺りを見ている。
ええと、次は…。
「安心して、ここは安全よ。」
「…。」
返事はなかった。
ああ、もっと何か気の利いたことが言えればいいのに。
無言の時間が辛い。
「…私は、…サラ。」
答えてくれた。
ええと、そして、次は…。
「…お、お腹すいてない?」
…すごく、緊張します。
―――久しぶりの“人間らしい会話”は、こんな感じだった。―――