―――始まりは幼い恐怖、視界を彩る土煙、肌を焼く夏の日差しの眩しさ、  
                              そして、渇望にも似た憧憬―――  
   
   
   
               〜 アネット 〜  
   
   
   
   
今日は学校がいつもより早く終わる日。  
空はよく晴れていて、風はさわやか。  
太陽がまぶしい。  
こんな日は冒険、冒険。  
今日も冒険の続きをするのだ!  
 
「ただいまー!」  
家に着いたら真っ先に自分の部屋に向かった。  
そして、カバンをおろして、お母さんに気付かれないように、そおっと玄関へ向かう。  
お母さんに見つかったら、またお小言をいわれちゃう。  
家を無事に出発するところから冒険は始まっているのだ。  
 
音を立てないよう、慎重にドアに近づいて、ノブに手をかけて…  
「いってきまーす!」  
声を張り上げて、外に飛び出した!  
「あ、こら、アネット…!もー、あの子ったら…。」  
お母さんの声を後ろに聞きながら、ダッシュで通りへ出る。  
 
…まあ、一応、出かけたことは知らせておく。  
黙って行っちゃうと心配しちゃうからね。  
 
今日はどこへいこう。  
市場の奥へ行ってみようか。  
あっちの方はまだ行ったことがない。  
本日の“未開の地”は早速決定した。  
 
―――港町エンデ。リングレイ共和国の北東の町。  
海と山の恵みと交易で栄えた町。私が生まれた町だ。  
幼いころの私は、その幼心と好奇心から、毎日のようにどこかに出かけては、  
生傷と泥だらけになって家に帰り、家族に心配をかけさせたのだった。  
おてんば、わんぱく、元気娘。将来の夢は、大冒険家。  
その日もたった一人の“大冒険”に出かけるところだった。  
 
「よし、今日は市場奥地の開拓大作戦に決定〜。」  
誰に言うでもない号令に、いくぞ―、おーっ、なんて言いながら、拳を突き上げて応える。  
うん、今日も絶好調だ。  
いつものように、日が暮れるまで歩きまわって、お腹がすいたら、お家に帰る。  
その日も、そんないつも通りの冒険になるはずだった。  
 
市場の入り口到着したころ、けたたましい鐘の音が聞こえた。  
思い思いに歩いていた人々は、その鐘の音に驚き、立ち止まり、  
そして、人々は口々に不安を声にした。  
 
「魔物?うそでしょ…。」  
「そんな…十年ぶりだ。」  
…  
 
市場に不穏な空気が立ち込め始める。  
でも、私にはその鐘の音の意味は、よく分からなかった。  
 
と、自警団の人が怒号を上げながら走ってきた。  
「魔物だ!魔物が出たぞ!一般市民は避難所に!自警団員は騎士団の援護に!急げ!」  
叫びながら、市場の中央を駆け抜けてゆく。  
それを合図に市場の様相は一転した。  
 
買い物に来ていた客たちが、それに、露店の店主たちまで、  
自分たちの荷物を捨て、散り散りに走り出した。  
中には、悲鳴を上げている者までいる。  
 
様子がおかしい。  
それは、子供の私にも十分認識できた。  
なんだか怖い。  
 
「…どうしよう…。…お母さん。…そだ、お母さんの所に行かなきゃ…。」  
結局、私のとった行動は、もと来た道を駆け足で戻る、ということだった。  
 
走っている途中、たくさんの人とすれ違った。  
みんな、必死な表情で、道のりの半分も来た頃には私の走るこの先には、  
とても怖いものがあるんじゃないかと、だんだん不安になってきた。  
私が向かう方向は、すれ違うみんなとは逆の方向。  
言い知れぬ不安に、私の踏み出す足の動きは、いつしか全力になっていた。  
早くお母さんの所に行かなくちゃ。  
 
しかし…。  
「…あ、あれ…?」  
いつの間にか、見たことのない場所に立っていた。  
もと来た道を走っていたはずなのに…。  
ああ、そうか、道を間違えたんだ…。  
 
周りには誰もいない。  
みんなどこかへ行ってしまった。  
こんなとき、誰かに道を聞けばいいのだけど、通行人はおろか、民家の中まで人の気配はなかった。  
家々の白い漆喰の壁が太陽を反射して、いつもより眩しく感じられた。  
静寂に混じり、風の音が聞こえた。  
普段は気にならない周囲の様子が、雑音を失ってひどく鮮明に感じられた。  
私は途方に暮れて、しばらく立ち尽くすしかなかったのだ。  
 
不意に辺りが暗くなった。  
驚いたが、どうして暗くなったのかはすぐに気づいた。  
影が私を覆ったのだ。  
 
私は、空を見上げ、影の主を見て、驚愕した。  
 
頭上に現れたのは、巨大な猛禽。  
牛だって食べちゃいそうな、見たこともないほど大きな鳥。  
逆光の中、その姿は霞んで見えたが、眼光だけは爛々と光を放ち、  
その輝きが妙に印象に残った。  
 
その鳥は、冗談みたいに大きいのに、冗談みたいな速さで急降下してくる。  
私はとっさに、道沿いの民家に逃げ込んだ。  
私が今し方立っていた場所を、ごおぉぉっ、と猛烈な風が通り過ぎる。  
住人は逃げたのだろう。  
ドアが開けっ放しなのが幸運だった。  
私は民家に飛び込んだ勢いそのままに、目についたテーブルに潜り込む。  
 
「何…あれ…?」  
大きな鳥…?  
怪物…?  
 
背中に聞いた轟音が耳に残るなか、テーブルの下で振り返る。  
先ほど見たものは何だったのか。  
あんなもの、見たことがなかった。  
 
…頭上からバリバリと音がする。  
怪物が、屋根を破壊しているのだ。  
 
あの怪物はどうやら私を狙っている。  
あの怪物は私をここから引きずり出そうとしている。  
あの怪物は私を食べようとしている。  
 
壁材の砂と屋根材の木片がぱらぱらと私のそばに落ち、  
そして時折梁や柱だった太い角材が、  
ドガン、ガタン、と大きな音を立てて床を叩いた。  
建物だった板や木材が、辺りに落下するたびに、私は、びくり、と体を強張らせ、  
私はテーブルの下で成す術なく、がたがたと震えていた。  
 
落ちてきた建物の部材から目が離せない。  
決して静かではないのだが、鼓動と呼吸音がやけに大きく感じられる。  
テーブルの脚を掴んだ掌が、じっとりと湿る。  
やがて、天井の崩れる大きな音が徐々に私に近づいてきて、  
民家の中に太陽の光が差し込んで、  
木材がテーブルの天蓋を叩いて、  
私の忍耐は限界だった。  
 
「…いや…、…いやぁ…!…いやあぁぁ!!」  
 
四つん這いになりながら、民家から飛び出す。  
怖くて、怖くて、振り返ることもできなかった。  
建物の陰に隠れながら必死に逃げる。  
私は、細い路地を縫い、奴に見つからないことを祈りながら、  
どこへ行くとも知らず、全力以上で走った。  
 
…息が苦しい。  
鼓動が激しいのは一生懸命に走っているせいだけじゃない。  
恐怖と不安が私の心を苛むのだ。  
 
私はどっちへ行けばいいんだろう…?  
なんであんな怪物が私を追いかけてくるんだろう…?  
いや、そんなことより逃げなくちゃ。  
でも、どこへ…?  
 
「あっ…。」  
一瞬、体が宙に浮いた。  
徐々に言う事を聞かなくなってきていた足が、とうとう地面に躓いたのだ。  
私はたまらず、転んでしまった。  
地面に突いた手を擦り剥いて、でも、痛みなんか感じない。  
そんなことより逃げなくちゃ。  
 
でも…。  
でも、立てない。  
膝が、がくがくして立ち上がれない。  
 
そして、巨大な影が太陽を覆い隠した。  
もう、すぐそこまで来ている。  
絶対の危機が私を捉えたのがわかった。  
息が詰まる。  
 
ああ、すぐに立って走らなきゃいけないのに、逃げなきゃいけないのに、  
わかりきっているのに、振り向いちゃいけないのに、  
どうしても、どうしても、その影が気になって…。  
 
…私は振り返った。  
 
不思議な光景を見た。  
まるで私の周りだけ、時間が止まったみたいだ。  
 
視界には、迫り来る鋭くて巨大な爪、上下左右合わせて八本。  
その先に、逆光に霞む黒い翼と、やはり巨大で鋭いくちばし。  
よく見えなかったけど、怪物の金色の双眼がしっかりと私を見つめていて、  
なんとなく、視線が合った気がした。  
 
怪物の爪は、あと五歩のところまで迫っている。  
 
ああ、きっと私はこの爪で、くしゃっ、と握られて、  
そのまま彼らの巣まで持っていかれるのだろうか。  
それとも、くちばしではらわたを切り裂かれながらついばまれてしまうのだろうか。  
地面に押さえつけられて、生きたまま、体から腕や脚がことごとく引きちぎられて、  
お腹の中身を、ボロキレのように引きずり出されて、私は怪物のお腹を満たすんだ。  
いや、もしかすると、その前に奴の爪のどれかが、おなかや、ふとともにつきささって…、  
いたい、いたい…  
 
そうだ、きっと痛い。  
痛いにちがいない。  
 
背中から汗がわき出てくる。  
首筋が熱くなり、顔から血の気が引き、目には涙がたまっているのがわかる。  
ここにきて私は巨大な怪物に襲われているという事実を、殺されるという恐怖を、改めて実感した。  
まだ、一寸だって動いていないのに、一呼吸だってしていないのに、瞬きだってできないのに、  
迫りくる怪物の爪もひどくゆっくりで、静かで…。  
一瞬が、すごく長い時間に感じられた。  
 
錯覚の静寂はふいに切り裂かれた。  
落雷のような轟音とともに、視界に何か大きなものが飛び込んできたのだ。  
その何か大きなものが、魔物に側面から襲いかかる。  
私を握りつぶすはずだった爪は、あと三歩で届くところで、その軌道を捻じ曲げられた。  
魔物は、その大きなものと一緒に押し流され、通りの反対側の建物に激突。  
木と漆喰の壁を派手に壊しながら、ようやく止まった。  
飛び込んできた大きなものが、やはり建物だと気づいたのは、  
瓦礫に埋もれた魔物を見てから数拍を置いた後だった。  
 
ゆっくりだった時間は、いつの間にか戻っていた。  
 
「…、…かはっ、はっ、はあっ…」  
 
息が苦しい。  
うまく空気を吸い込めない。  
何が起こったか分からない。  
 
「おい、無事か!?」  
建物が飛んできた方向から声がした。  
土煙が立ち込めるなか、人影が現れる。  
 
白磁を光で縁取ったような純白の鎧。  
白銀に輝く大剣。  
コハク色の髪。  
海に宝石をちりばめたような透き通った瞳。  
そして、気迫を感じさせるというか、空気をまとっているというか、  
不思議な雰囲気を醸し出していた。  
初めての感覚。  
美しい、とは、こういうことを言うのだろうか。  
 
私は、尻もちをついたまま、ただその姿を見上げて、口をぱくぱくしていた。  
 
「…大丈夫か?」  
鎧の人は、怪物が埋まった先を宝石の瞳で油断なく見据えたまま、私に声をかける。  
やや低くて、でも澄んだ声。  
 
この人…、女の人だ。  
 
私は声をあげることができず、それでも何とか応えようと、必死にうなずいた。  
「よかった…。立てるか?」  
私は、やはり声を出すことができず、首を横に振った。  
足に力が入らなくて、立てそうになかった。  
 
と、ガラガラと音を立てて瓦礫が崩れ始めた。  
怪物が瓦礫から這い出してきたのだ。  
 
それに対して、鎧の人は冷静に、すっと、向き直り、剣を斜め横に構えた。  
そして、今まさに怪物が這い出さんとする瓦礫に歩み寄り…。  
光の軌跡だけを残しながら、しなやかに剣を振り抜いた。  
猛烈な風が巻き起こり、眼を開けていられない。  
 
風が収まって、土煙に耐えながら、私は眼を開く。  
怪物は、瓦礫ごと、そしてその向こうの建物ごと、真っ二つになっていた。  
ビクンビクンと痙攣する怪物の体は、数拍の間を置くと、砂の城のように崩れてゆく。  
魔物は倒されたのだ。  
 
魔物が絶命したのを確認して、鎧の人が駆けつけてきた。  
その顔は、凛々しくて、とても心強い。  
「よく頑張った。もう大丈夫だ。」  
鎧の人が、頭をなでられながら、励ましてくれるのだが、  
それでも私は、何も理解できず、馬鹿みたいにぼんやりと見つめることしかできなかった。  
 
「さて…、もう一匹…。」  
鎧の人が、上空に残ったもう一匹の魔物に向き直りながらつぶやく。  
 
直後、鎧の人の背後に、白く輝く翼のようなものが現われた。  
辺りに柔らかな風が巻き起こる。  
鎧の人は、翼をはためかせると、ふわり、と地面から離れ、  
そのまま上空の魔物に向かって飛び立ってしまった。  
 
私は、知らず、その姿に引き込まれるように立ち上がり、  
彼女を…、空に舞う純白の翼を仰ぎ見ていた。  
遠くに彼女の闘う姿が見える。  
 
二匹目の怪物はあっという間で、  
一撃で翼を切り離され、二撃で吹き飛ばされ、まっすぐに海に叩き落とされた。  
落下点と思われる海面に巨大な水柱が上がるのが見える。  
そして、数拍遅れて、爆発音。  
遠すぎて、よくは分からないけど、きっと倒したに違いない。  
 
仕事を終えた鎧の人は、光を帯びながらゆっくりと、降りてゆく。  
 
 
―――澄み渡る蒼穹に、白い光の翼。  
 
 
その姿は、不思議で、きれいで、心強くて、圧倒的で…。  
 
…私は、涙を流していた。  
 
 
―――それが、私の、騎士と魔物との、初めての出会い。  
               心に、魂に刻みつけられた、忘れられない記憶。―――  
                 
 
 

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