こんな事をしたって、決して手に入らない事は分かっていた。  
 それでも、俺はこうせずにはいられなかった。  
 薄暗がりの中、苦しげに、切なげに悶える少女の身体の上で、俺は命じる。  
「笑え」  
 俺の言葉に、少女は瞳に涙を浮かべたまま唇の端を吊り上げ、造りものの笑顔を浮かべた。  
 違う。激しい苛立ちが俺の思考を支配する。俺が欲しいのはそんな表情じゃない。  
 こみあげた激情をすべてぶちまけるように、俺は少女の華奢な身体を貪った。  
 
 
 弟のイツキがロボットになってから、一ヶ月が過ぎた。  
 まったく、馬鹿げた話だ。  
 ある日、銀の首輪を嵌め、酷い傷だらけで帰ってきたイツキの口からその言葉を聞いたとき、俺は耳を疑った。  
「兄さん、僕は今日からロボットになるよ」  
 まったく、馬鹿げた話だ。だが、イツキの声音は真剣だった。  
 イツキはずっと前からクラスメイトの少年たちからいじめを受けていたが、今日のそれはいつもにも増して酷いものだった。  
 下校途中にそいつらに取り囲まれたイツキは、ロボットがつける首輪を嵌められ、メインストリートに引っ張り出された。  
 道を行き交う人々の目の前で、イツキは殴られ、蹴られ、そのまま打ち捨てられた。けれども、ロボットの首輪をつけたイツキを助けようとする者は誰もいなかった。  
 まるでイツキの姿なんか見えないように、人々は無関心にイツキのすぐ傍らを通り過ぎていった。  
 そんなイツキにの前に、ただひとりだけ、足を止めた者がいた。  
 それは、薄汚れた小柄なロボットの少女だった。  
 彼女はイツキの首輪を見て、イツキを自分と同じロボットだと思い込み、慈しむように微笑みながらそっと手を差し伸べてきた。  
 ロボットは人間に心を開かない。ロボットが人間に対して抱くことが出来る感情は敬意だけ。ロボットは、そういう風に造られている。  
 イツキも、自分に向けられたその少女の微笑みが、ロボットの間にだけ存在する種類のものだと知っていた。  
 だからその笑顔が失われることを恐れて、イツキは少女に、自分が人間だとは言い出せなかった。  
 イツキは、少女に嘘をつき続ける事を選択した。そのつまりが、この馬鹿げた狂言だ。  
 あの日から、イツキはロボットになった。  
 そして俺は、イツキの兄から、イツキの主人になった。  
 イツキが連れ帰ったロボットの少女は正規流通品ではないいわゆるジャンク品で、名前すら無かった。  
 俺は『ご主人様』として、イツキと共に自分に使えることになったそのみすぼらしいロボットの少女に、ミズキという名前をつけてやった。  
 
 イツキがロボットになってから。いや、ミズキが来てから。  
 両親を亡くした俺とイツキ今までが二人きりで住んでいたこの屋敷の古びた暗い空気は一変した。  
 二人ははしゃぐようにして屋敷中を片っ端から掃除し、締め切った部屋の窓を開け、花瓶に花を飾った。  
 そして食事の時間には、洗いたてのテーブルクロスの上に『ご主人様』である俺のために作った手の込んだごちそうを並べてみせた。  
 俺はすっかり呆れていた。イツキと来たら、今まで自分の部屋の片付けすらロクにしやしなかったくせに、お茶のひとつも淹れられなかったくせに。  
 俺のためにかいがいしく働く二人は、本当に楽しそうだった。屋敷の中は、二人の楽しそうな笑い声で満たされた。  
 俺はよく、そんな二人の空気に引き寄せられるようにして、足音を潜ませ、そっと二人がいる部屋を覗き込んだ。  
 そこには、満面の笑みを浮かべて楽しげに言葉を交わす二人の姿がある。  
 ミズキが両手を広げ、瞳をきらきらと輝かせながら夢中で何か力説していて、イツキがそんなミズキに肩をすくめてみせ、堪えられないといった風に顔を綻ばせて。  
 でも、やがてミズキが笑いながら顔を上げて、ふっと俺の姿を認める。その途端に。  
 ミズキの面から、天使のような笑みは拭い去ったように跡形もなく消えてしまう。  
 代わりにその顔に浮かぶのは、敬意と畏怖の影が覗く造りものの微笑み。  
 やや遅れて俺に気づいたイツキも、ミズキの後を追うように表情を取り繕う。  
 二人は俺に向かって深く頭を下げると、畏まった声音でこう口にする。  
「何か御用でしょうか、ご主人様」  
 俺は何も言わずにきびすを返し、部屋の前から離れる。  
 やがて背後からは、また二人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。  
 暗くて、引っ込み思案で、無気力だったイツキがこんなにも明るくなったのは、兄としては歓迎すべき事なのに。  
 なのに、この胸の奥にわだかまる感情はいったい何だろう。  
 最初、俺は自分が、ミズキに嫉妬しているのだと思ってた。  
 ミズキが来てから、弟は、イツキは俺とほとんど話さなくなった。  
 ロボットを演じるイツキにとって俺はもう、兄ではなく敬愛すべき主人で、神のように尊い、崇拝すべき対象で。  
 そんな一段高い場所に俺を追いやって、イツキの傍らにちゃっかり収まったミズキの事を、腹立たしく感じているのだとばかり思ってた。  
 ミズキと一緒にいるときのイツキは、今までずっと一緒に育ってきた俺でさえ見た事がない様な表情を見せる。  
 だから、ミズキが憎くて、俺はこんなにも苛々するんだと。そう思ってた。  
 でも、そうじゃなかった。  
 
 
 それは、ある日の昼下がりの事だった。  
 居間のソファでのんびり本を開いていた俺の耳に、どこからともなく歌声が響いて来た。  
 それは、憶えのある歌だった。昔、まだ幼かった俺とイツキを残して亡くなった母がよく口ずさんでいた歌。  
 懐かしさに、胸の奥が疼いた。  
 思わず、俺はソファから腰を上げる。  
 声の出所はすぐに分かった。窓から中庭を見渡すと、ミズキが箒を手に落ち葉を集めている。珍しく、その傍らにイツキの姿は見えない。  
 庭を掃除しながら、少女は歌っていた。本当に幸せそうに。楽しくてたまらないといった風に面をほころばせて。  
 かいがいしく箒を動かしながら、薄い唇から流れるように歌を紡いでいく。  
 喜びと幸せに満ちあふれたようなその少女の声と姿は、不思議と俺の心を和ませた。  
 気づけば、彼女から、目を離す事が出来なくなっていた。  
 やがて、ミズキは顔を上げた。ミズキの大きな黒い瞳が、俺の視線とぶつかる。  
 途端に、まるでスイッチでも切り替えたかのように。  
 ミズキはいつものようにその表情をかき消し、神妙な面持ちで深く深く頭を下げた。  
「見苦しい物をお見せしてしまって誠に申し訳御座いません」  
 胸に浮かび上がる、ひどく苦い不快感があった。  
 俺はつとめて平静を装った口調で、ミズキに問いかける。  
「その歌、イツキに教えて貰ったのか?」  
「そうです、ご主人様」  
 淡々とした声音で、ミズキ。  
 しばしの沈黙。  
 ややあって、俺はミズキに命じた。  
「もう一度、歌ってみせろ。さっきと同じように」  
「はい、ご主人様」  
 ミズキはまた深々と頭を下げると、ぎこちない微笑みを浮かべ、唇を開く。  
 だが、今度のそれは、先の物とはまったく違っていた。  
 急に正確さを増した歌もさることながら、造りものめいた不自然な微笑みに、先のような魅力は微塵もない。  
 数小節も聞かず、もういい、と口にして、俺はミズキに背を向けた。  
 ソファに腰を下ろすと、俺はため息をつく。  
 その時にはもう、俺は自分の苛立ちの正体にはっきりと気づいてしまっていた。  
 何てことだろう。  
 俺が嫉妬していたのは、ミズキに対してじゃなかった。  
 彼女の、あの微笑み。決して俺に向けられる事のない、あの表情。  
 心臓が締め付けられるように切なく疼いた。  
 歌いながら幸せそうに微笑む少女の姿が、目を閉じても頭から離れない。  
 でも、それは、イツキだけのものだった。  
 ミズキが心を開くのはイツキだけ。彼女が本当に笑い、本当の心を見せるのはイツキの前でだけ。  
 自分が決して手に入れる事が出来ないものをイツキは持っていた。  
 それが羨ましくて、そして、ひどく腹立たしかった。悔しかった。  
 何をやっても駄目で、冴えないイツキ。そんなあいつを守ってやれるのは自分だけだなんて偉そうな事を考えていたくせに。  
 何のことはない。俺はただ、イツキの優位に立っていたかっただけなんだ。イツキを見下して悦に入ってただけなんだ。  
 胸の奥でわだかまる重いものは、俺のくだらないプライドだ。  
 
 それがまるでガキのような幼稚な感情だって事は分かっていた。  
 それでも、イツキに負けるのは嫌だった。許せなかった。俺はイツキより優れていなければいけなかった。  
 
 
 だから、奪おうと思った。  
 
 
「何の御用でしょうか、ご主人様」  
 音も立てないほどにゆっくりと、丁寧に扉を閉めて。ミズキがいつものように慇懃に頭を垂れる。  
「ああ」  
 鷹揚に頷くと、つとめて冷静な口調で命じる。  
「来い」  
 言われたとおり、ミズキは俺へ歩み寄った。ランプの明かりの下、少女の黒い髪が揺れる。  
 俺はミズキの身体を乱暴に抱き寄せた。そのまま、力任せに寝台へと押し倒す。  
 俺に身体を押さえつけられても、ミズキは顔色一つ変えなかった。ただ、じっと俺を見つめている。  
「……抵抗しないのか」  
 俺が問うと、ミズキは小さく首を振った。  
「わたしたちはそういう風には作られていません」  
「命令でもか?」  
「それがお望みでしたら」  
 その声音と表情は、普段彼女が俺に向けるそれとまったく変わらない。敬意に満ちたお定まりの色。  
 俺は舌打ちした。  
 けれども、一度火のついた欲望はもう止まらない。止められなかった。  
 俺はミズキに口づけをした。ミズキの唇は想像以上に柔らかくて、暖かかった。  
 千切るようにもどかしげに釦を外し、服をはだける。薄く骨の浮いた、可哀想なくらいに細い身体。  
 薄明かりの下で、俺は目を見開いた。  
 今まで服に覆われていた少女の白い肌の上、至る所に、桜色の痕が浮き上がっている。  
 あるものは丸く、あるものは短い線を描いて。  
 背中に水を浴びせられたように、俺は跳ね起きた。  
「ミズキ!」  
 舌がもつれる  
「この痣は……」  
「前のご主人様は、よく、わたしをお相手を命じてくださいました」  
 その方は、血を見るのがお好きでしたので。  
 こともなげに、いつも俺の命令に答えるときのようにさらりと、ミズキは答える。  
 俺の中に、言いしれぬ激しい感情がこみ上げてきた。  
 ミズキのこんなに華奢な身体に傷痕をつけ、なぶりものにした前の主人とやらに対して。  
 そして、こんな目に遭わされながら、少しもそいつを憎んではいないどころか、あまつさえは尊敬までしているような口ぶりのミズキに対して。  
 そして。今、そいつと似たようなことをしようとしている自分に対して。   
 ミズキにとっては俺も、非道な前の主人も、たいして変わりはしないのだ。  
 ミズキにとって、ロボットじゃない人間は皆同じ。どんなに優しい言葉を掛けようが、どんなに酷い仕打ちをしようが、どんなに愛情を注ごうが、彼女が抱く感情は変わらない。  
 尊敬すべきご主人様。  
 ロボットには痛覚もあるし、感情があるなら、当然恐怖心だってあることだろう。  
 けれども、どんなクズな人間に、どんな惨い仕打ちを繰り返されたって。その相手が人間である限り、ミズキはそいつを尊敬の眼差しで見やったはずだ。  
 いま彼女が俺に向けているのと同じ、この表情で。  
 
「くそっ……」  
 怒りに震える指先で冷たい銀の首輪の下をなぞり、鎖骨に唇を押し当てると、少女は少し身じろぎをした。  
「……」  
 胸元に指を這わせる。華奢な身体の中で、そこだけがふわふわと柔らかい。  
 感触を楽しみながら指を動かして揉みしだき、親指の腹で頂点を撫でると、唇でそれを咥える。  
 ざらっとした舌の平で擦りあげるように舐め上げ、わざと音を立てて強く吸いたてた。  
 片腕で身体を抱き寄せて胸をしゃぶりながら、もう一方の手で脚を撫であげ、下着の中に指を滑り込ませる。  
 ミズキが身を捩らせた。  
「っ……」  
 濡れていた。  
 俺ははっとしてミズキの顔を覗き込んだ。  
 ミズキは相変わらずの表情だが、その呼吸は少し速まり、頬が僅かに赤らんで見える。  
 俺はぞくりと身震いした。感じてる。こんなことをされているのに。  
 俺はもう一度、ミズキにキスをした。  
 ミズキの下着を脱がせて太腿を割り、濡れそぼったミズキの割れ目を羽で触れるように優しく撫であげながら、幾度もキスしてやる。  
 表情はほとんど変えなかったが、少女の唇から、堪えるような吐息が漏れた。  
 指の動きを早め、奥の小さな突起をぬるぬると擦ってやると、少女の瞳が細められる。  
「ぁっ……」  
 切なげなため息。  
 もう、たまらなかった。  
 俺はもどかしく服を脱ぎすてると、ミズキに自分のそれを突き立てた。  
 
 興奮していた。  
 思考が焼け付くようだった。  
 衝動に任せて腰を動かすと、とろとろになったミズキの胎内が俺を締め付けてくる。  
 ミズキは僅かに眉根を寄せ、声も漏らすことを堪えるかのように唇を噛みしめていた。  
「気持ちいいのか?」  
「……っ、はい、ご主人様」  
 俺の問いに、潤ませた瞳を瞬かせ、ミズキが頷く。  
 ミズキの言葉は嘘じゃない。  
 けれども、それは人間を無条件に尊敬するロボットの本能が、それを愛情みたいなものに錯覚しているだけだと分かっていた。  
 ミズキはイツキが好きなのに、本能に支配され、その心さえもままならなず、好きでもない俺との行為に喜びを感じてしまっている。   
 そんなミズキが可哀想で、腹立たしかった。  
 ロボットは本当に哀れな存在だった。そんなロボットの存在自体に俺は苛立っていた。  
 それはミズキのせいなんかじゃないのに、俺はミズキにその怒りをぶつけるように、少女の身体を乱暴に突き上げた。  
 ミズキの顔が切なそうに歪む。せわしない呼吸。耐えるように瞳を閉じる。  
 ミズキがたまらなく愛おしかった。  
 もし、今この瞬間にそれが許されるなら、俺も間違いなくイツキと同じ選択をするだろう。  
 人間を捨て、ロボットを騙ってでも、ミズキの笑顔が欲しい。。  
 けれども、ミズキはロボットで、俺は人間で、彼女の主人だった。  
 こんな事をしたって、決して手に入らない事は分かっていた。  
 それでも、俺はこうせずにはいられなかった。  
「笑え」   
 俺の命令で少女が無理矢理に浮かべた造りものの笑顔はひどく痛々しい。  
 ミズキがたまらなく愛おしかった。  
 この少女の全てを俺のものにしたかった。  
 だが、そうする術は俺にはなかった。  
 彼女の心を手に入れることが叶わないなら、せめてその身体だけでも、俺のものにしてやろうと思った。  
 背筋をぞくぞくと這い上がる感覚に、俺はミズキの華奢な身体を壊れるほど強く抱きしめた。  
 彼女の身体に俺を刻みつけるように深く。俺は彼女の中に、爛れた欲望を吐き出した。  
 
 
「おはよう、兄さん」  
 イツキの声に、俺はびくりとした。  
 新聞から顔を上げると、俺は内心の動揺を押し隠すように鷹揚な口調を装って答える。  
「……お前にそう呼ばれるのは久しぶりだな。一人なのか?」  
「うん。ミズキがね、なんだか疲れてる感じだったから、もう少し眠るように言ってきたんだ」  
 心臓がずきりと痛んだ。  
 だが、イツキは俺の顔が僅かに強張ったことになど気づいた様子もなく、おかしそうに笑う。  
「最初は起きるって言って聞かなかったんだけどね。兄さんの命令だって言ったら頷いてくれたよ」  
 やめろ。  
「ミズキったらね、兄さんの話になるといつだって、あんなに素晴らしいご主人様はいないって言い張るんだ。目をきらきら輝かせてね。僕がなんて言ったってお構いなしさ。正直、兄さんが羨ましいよ」  
 やめろ。  
「それは、俺が人間で、あいつがロボットだからだ」  
「そうかな」  
 わざとぶっきらぼうに吐き捨てた俺の言葉に、イツキは首をかしげる。  
「ミズキはね、前の主人の事は話さない。ちょっとでもそういう話になると表情が曇るんだ。ミズキはロボットだから、人間を悪く言ったりはしないけど……たぶん、非道い目に遭ってきたんだと思う。  
ミズキに何度も言われたよ。イツキは分かってない。イツキのご主人様がどれだけ素晴らしい方か、って。わたしは本当に幸せだって、ミズキはいつも言ってる……ミズキが笑顔なのは、兄さんのお陰なんだよ」」  
 イツキは俺の顔を見上げるようにして、にっこり笑った。  
「僕だって、兄さんには本当に感謝してるんだ。いくら感謝してもしたりないくらいよ。……面と向かってこんな事言うのは照れくさいけど、本当に」  
 やめてくれ。  
 はにかんで笑うイツキの無邪気な言葉が、俺の心を容赦なく抉っていく。  
 いや、違う。俺の心を苛むのは心優しいイツキじゃない。俺を苦しめるのはひどい罪悪感だ。  
 昨夜の行為が脳裏をよぎる。  
 俺はイツキを裏切った。ミズキを裏切った。  
 俺は、こんなにも俺を信じてくれる二人を、慕ってくれる二人を裏切った。  
「兄さん」  
 すっかり押し黙った俺の前で、イツキが、突然真面目な顔で呟いた。  
「僕、落ち着いたらまた学校へ行くよ」  
 ひどく真剣な声。俺は思わず顔を上げる。  
「勉強して、大学に行って、僕はミズキの……ロボットのプログラムを解除する方法を見つけるんだ」  
「そんなこと……」  
 出来る訳が……反射的に口に出した俺の前で、イツキは微笑んだ。  
「やってみなけりゃ分からないだろ」  
 イツキのまなざしはどこまでもまっすぐで、強い光を持っていた。  
 それに比べて、俺は。  
 俺は耐えきれずに目を逸らした。イツキの真摯な視線と想いを受け止めるには、俺は汚れきっていた。  
 俺はどこまでも卑劣で、矮小な、つまらない人間だった。  
 本当に、俺は何てことをしてしまったんだろう。  
 ミズキにふさわしいのはこんな俺じゃなく、イツキなのに。それなのに、俺は。  
 いくら悔いても、犯してしまった過ちは、もう取り返しがつかなかった。  
 だからせめて、これからは二人の良き主人として、二人の幸せをそっと見守ってやろう。何があっても、俺に出来る全ての手助けをしてやろう。  
 拳を握りしめながら、俺はそう強く誓った。  
 
 
 けれども、それはついに叶わなかった。  
 終わりは、唐突にやって来た。  
 
 
 
 月明かりの元。  
 その裏路地には血の海が広がっていた。  
 そこに横たわる一つの身体と、そして、力なく肩を落とし、血だまりにへたり込む一つの人影。  
 まるで悪夢のような場面だった。  
 だが、鼻を突く錆びた鉄の臭いが、これが現実だという事を厭と言うほど主張してくる。  
 
 
 その日。夕飯の時間になっても、二人は俺を呼びに来なかった。  
 もう日も暮れるというのに、どの部屋にも明かりは無かった。そして、二人の笑い声もどこにも無かった。  
 嫌な予感がした。  
 俺は屋敷を飛び出して、二人を捜し回った。そして。  
 イツキがよく通っていたその路地に足を踏み入れた途端、俺はそれを目の当たりにした。  
 
 
 呆然と立ちすくむ俺の気配を察して。  
 人影がまるでスローモーションのようにゆっくり、ゆっくりと振り返った。  
「ミズキ……」  
 からからの喉から、俺は苦労して声を絞り出す。  
「一体、何があったんだ!?イツキはっ……」  
「ご主人様……」  
 大きく破れ、はだけられた服から肌を覗かせて。  
 ミズキは、まるで夢でも見ているかのような虚ろな眼差しをこちらに向けた。  
「わたしは……」  
 振り向いた少女の肩越しに、血だまりに横たわるそれが目に入る。  
 それは、見慣れた顔の少年だった。  
 大事な大事な、この世でたった一人の、俺の――。  
 俺は叫んだ。  
「イツキ!」  
 駆け寄り、血だまりに膝をつき、その身体を抱き起こそうとする。  
 イツキは動かない。  
 それどころか、その身体は信じられないほどに冷たく、固い。  
 首にぽっかりと空いた穴は既に乾き、黒く変色した血液がこびり付いてる。  
「わたしは……」  
 血だまりにぺたんと座り込んだ少女が、感情のない声で壊れたように呟く。  
 その手に、古びた拳銃をしっかりと握りしめて。  
「わたしは……」  
「お前がやったのか!」  
 イツキの身体から腕を放すと、俺はミズキの襟首を掴んだ。  
「お前がイツキをっ……イツキをっ……!!」  
「…………」  
「答えろ!」  
「…………」  
 乱暴に揺さぶる。  
 ミズキは相変わらずどこか遠くを見るような眼差しのまま、こくりと頷いた。  
「わたしが、イツキを殺しました」  
「……!!!!!」  
 
 次の瞬間。俺はミズキを殴り飛ばしていた。  
 ミズキの小さな身体が地面に叩きつけられ、転がる。  
 それでも俺の激昂は収まらない。倒れたミズキを引きずり起こし、拳を振り上げる。  
「よくも!よくもイツキをっ……!俺の弟をっ……!!」  
「……おとうと……?」  
 ぼんやりと、ただされるがままになっていたミズキの表情に、初めて僅かな感情が表れた。  
「ああ、そうだ!イツキはロボットなんかじゃない!イツキは人間だ!俺の大事な弟だ!イツキは!!!」  
「イツキは……人間……イツキが……」  
 少女は、反芻するように繰り返す。  
 少女は血だまりに浸かったまま、傍らのイツキの屍体を見つめて。  
 次に、手の中の拳銃を見つめて。  
 そしてまた、イツキに目を向けて。  
 そして。信じられない、といった口調で。  
 呆然と。  
「じゃあ、わたしは、イツキを殺さなくても、良かったの?」  
 呟くように、ミズキが漏らす。  
 途端に。  
 既に赤く腫れた少女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。  
 不思議なほど表情のない面の中、ただその瞳から、涙だけが次々に滴り落ち、血だまりに波紋を描く。  
 俺は、我に返った。  
 そうだ。  
「……何があった?」   
 ミズキが、この少女が。好きこのんでイツキを殺す筈がない。  
「答えろ、何があった?」  
 ミズキはぼろぼろと涙をこぼしながら、やがて唇を開いた。  
「わたしたち、買い物に出て、その帰りに、イツキをいじめてた方々に会ったんです。イツキはわたしを守ろうとして、家から持ち出した拳銃で人間を撃とうとして。だからわたしは……だからっ……イツキをっ……」  
 嗚咽で、声が途切れた。  
 ああ、そうか。  
 ミズキはロボットで。ロボットは、人間を守るように作られいて。  
 だからミズキは、人間を撃とうとしたイツキから拳銃を取り上げ、人間を守るため、イツキを撃った。  
 何てことだろう。  
 ミズキは……この少女は、イツキを傷つけ、自分を襲おうとしたクズみたいな人間を守るために、イツキを殺さざるを得なかったのか。  
 彼女がロボットであったが故に。自らの意志とは関わりなく。  
 まったく、何てことだろう。  
 
「ご主人様……」  
 やがて、ミズキは俯いたまま、そっと呟いた。  
「わたしはジャンクだから、きっとどこか狂っているんですね」  
 そっと、イツキの顔に手を伸ばし、その頭を愛おしげに撫で、ミズキは瞳を細める。  
「おかしいです。イツキは人間なのに、それでも、わたしはやっぱり、イツキが好きなんです」  
 ミズキは、そう独りごち、頭を振った。  
「……分からない。わたしの中に矛盾が多すぎて、壊れてしまいそうです」  
 複雑な色を湛えた瞳でこちらを見つめながら、ミズキは自分のこめかみにそっと銃口を押し当てた。  
 そして、小さく頭を振ると腕を下ろし、俺に、そっと拳銃を差し出してくる。  
「何度も試したけれど、駄目なんです。わたしはロボットだから、どうしても自分に引き金が引けないんです」  
 だから。  
 ミズキは言外に、それを求めていた。  
 俺は首を振った。  
「駄目だ」  
「…………」  
「そんな事は出来ない」  
「…………」  
 拳銃を掲げて俺を見つめる少女の眼差しは、いつになく真摯で。  
 無表情なのに、ひどく悲しげに見えた。  
「馬鹿な考えは止せ。さあ、俺と一緒に、家に帰るんだ。もちろんイツキも一緒に。だから……」  
「…………」  
「命令だ!」  
 厳しい声。主人の命令。人間の命令。  
 ミズキは絶対に逆らえないはずなのに。  
「……わたしは」  
 なんて事だろう。  
 少女は静かに首を振ったのだ。  
 薄い唇を開くと、ミズキは囁くような声音で呟いた。  
「わたしは、もう、壊れているんです」  
「っ……」  
 しばし、躊躇って。  
 俺は悪態を付くと、少女の手から、奪うようにして拳銃を取りあげた。  
 額に銃口を向けると、少女は唇の端を、ぎゅっと持ち上げる。  
「ありがとう御座います。ご主人様」  
 それは、ミズキが初めて、俺だけに向けた笑顔だった。  
 俺は指先に力を込めた。  
 鋭い音が響き渡り、そして、静寂が訪れた。  
 
 
 崩れ落ちる少女の身体は、イツキの身体に折り重なるようにして止まった。  
 拳銃を乱暴に放り投げると、俺はまだ暖かなミズキの頬に触れる。  
 浮かべられた微笑み。俺があんなにも焦がれ、求めたもの。   
「どうして……」  
 ミズキの身体からあふれ出した鮮やかな血は、イツキのそれと混じり合い、アスファルトの上に広がっていく。  
 人間の血と、ロボットの血。  
 同じ色をした二人の血液に、何の違いも見られない。  
 当然だ。二つの屍を前にして、俺は吐き捨てるように独りごちる。  
「ロボットだって、本当は人間なのに」  
 何百年も昔に開発された、生物の遺伝子に直接「本能」を書き込む技術。  
 それを駆使して作られたのが、人間に隷属するよう本能を弄られた、ロボットと呼ばれる生まれながらの奴隷人種。  
 天が人の下に人を作らなかったから、人がそれを作った。  
 人間のエゴが生み出したシステム。  
 ミズキは、その犠牲者だった。  
「……」  
 イツキの身体の傍らに落ちているものに、今更ながら俺は気づく。  
 俺には最初、それがいったいなんなのか分からなかった。  
 ひしゃげた白い箱と、そこからはみ出した、ぐしゃぐしゃに潰れた白っぽい固まり。  
 転げ落ちた割れたクッキーの上に、チョコレートで書かれたメッセージがあった。  
『誕生日、おめでとうございます』  
 俺の身体が大きく震えた。  
 そうだ。  
 今日は、俺の誕生日だった。  
「……ーっ!!!」  
 二人は、俺を祝うために、外出して、そして。  
 こんな俺のために。  
 二人を裏切ったこんなどうしようもない俺のために、二人は……!  
 俺の喉から叫び声が漏れた。  
 その場に崩れ落ちるように膝を落とすと、俺は絶叫した。  
 やがて声は枯れ、それでも、俺は喉が千切れるまで叫び続けた。  
 
 
◆ ◆ ◆  
 
 
「そこをどけ」  
 握りしめた拳銃の柄は硬く冷たく、その感触はあの時の情景を克明に思い起こさせた。  
 銃口を突きつける俺の警告に、だが、その少年は一歩も退かない。  
 両腕を広げたまま奥歯を強く噛みしめて、俺を強いまなざしでねめつける。  
 少年の後ろにかばわれるように、一人の少女の姿がある。  
 栗色の長い髪、黒い瞳。頼りなげな小さな身体に不釣り合いな、冷ややかな銀色の首輪。  
「嫌だ」  
「ロボットの一生なんてろくなモンじゃない。ロボットなんて哀れなものは、この世界に存在してはいけない」  
「嫌だ」  
「ロボットの遺伝子は全て抹消しなければいけない。髪の毛一本すら残さない。もう俺たち人間には、ゼロからロボットを生み出す技術は残っていないんだ。今いるロボットたちを全て殺せば、もう誰もロボットは造れない」  
 俺はあの時、二人の屍の前で誓った。もう二度とこんな哀しい事は繰り返させないと。  
 俺はあれから、人類を堕落させるロボットの排斥を掲げる市民団体に身を投じ、その先頭に立って、反ロボットの名のもとにロボットを殺し始めた。  
 もちろん、なるべく苦しむ事がないような方法で。  
 ロボットを救うために、ロボットを殺して、殺して、殺し続けた。  
 この世界からロボットがいなくなれば、もうあんな悲劇は生まれない。それが俺が出した答えだった。  
「わたしたちの……」  
 震えるような声が聞こえた。  
「わたしたちの幸せを人間の価値観で計らないでください」  
 俺は拳銃を構えたまま、視線を少年の後ろへと向ける。  
 栗色の髪をした少女は俺の冷たい視線に一瞬怯んだようだったが、それでも気丈に唇を開く。  
「わたしたちは人間を尊敬しています。人間のために尽くすこと。それがわたしたちの幸せなんです。だから、わたしたちは哀れなんかじゃない」  
 だから、それが哀れなんだよ。  
 俺は瞳をすがめ、少女を見やる。  
 彼女は、本当ならば生まれるはずがない、人間とロボットの混血。度重なるロボット同士の混血によって生まれたイレギュラーな存在。  
 彼女は危険だ。ロボットは自発的に番うことは無い。人間が繁殖を命じなければ増えることはない。  
 だが、ロボットが人間の子供を孕むとなれば話は別だ。  
 彼女の遺伝子が広まれば、ロボットは爆発的に増殖するだろう。ロボットの遺伝子は人間の遺伝子と混ざり合って広く伝播する。  
 そうなっては、もうこの世からロボットを根絶させることは不可能になってしまう。  
 彼女は危険だ。この世に存在してはいけないものだ。これ以上の悲劇を生み出さないために、俺は彼女を殺さなければいけない。  
「お前たちは気づいていないんだ。自分たちがどれだけ哀しい存在なのか」  
「でも、わたしたちは幸せです」  
「幸せ?そんなのは、本当の幸せじゃない。……お前も分かっているだろう?」  
 最後の言葉は、少女ではなく、少年に向けたものだ。  
 少年はそっと視線を落とす。だが、やがて小さく頭を振った。  
 
「……メルは殺させない」  
「ロボットなんて、生きていたって不幸になるだけなんだ。お前はお前のエゴで彼女を苦しめるつもりか?」  
「何か方法がある筈だ。ロボットの本能を覆す方法が」  
「無駄だ。ロボットの人間に対する服従は遺伝子に刻まれてた絶対事項だ。本能は、後から手を加えてどうにかなるモンじゃない」  
「そんなこと、やってみなきゃ分からない!」  
 少年は顔を上げ、俺を見つめる。  
 その表情を、俺は知っていた。  
 かつて同じ表情で、同じ事を言った少年を、俺は知っていた。  
 
 
 俺の中で、何かが音を立てて崩れた。  
 
 
 俺は拳銃を掴んだまま、ゆっくりと腕をおろした。  
 何も言わずに、傍らのクローゼットの扉へと手を掛ける。扉を開くと、背後で、少年が息を飲むのが分かった。  
「これは……」  
 クローゼットの中に、大量に積み上げられたノート。  
 俺はその一冊を無造作に摘みあげ、ぱらりと捲る。  
 そこに並ぶ文字は、俺の過去の遺物だ。  
 その答えを求め、俺はいったいどれだけの時を費やしたことだろう。  
 それは結局徒労に終わり、そして諦めた俺は、こうしてロボットを殺すようになった。  
「持って行け。手がかりくらいにはなる筈だ」  
 吐き捨てるように呟くと、俺は少年を見据え、皮肉交じりに笑う。  
「……俺には解けなかった。やってみろよ。お前にやれるものならな」  
「あなたは……」  
 少年が何かを言いかける。俺はその言葉を遮るように口を開いた。  
「もし、ロボットを救う方法を見つけられたら……もう一度、俺のところにロボットを連れてこい」  
 拳銃を放り投げると、俺は静かに目を閉じる。    
「俺は数え切れない程のロボットを殺した。ロボットにとっちゃ仇だ。だから、もしロボットが人間と対等になれる日が来たら……俺を殺しに来い」   
 約束だぞ。  
 言い放つと、俺は振り返りもせずに、少年と少女が佇むその部屋を後にした。  
 
 
 
 
 最初から、俺はずっと間違い続けてきた。償いきれないくらいの罪を重ね続けてきた。  
 俺はどこまでもつまらない愚かな人間だった。  
 けれども。  
 いや、だからこそ。この選択だけは間違いじゃないと信じたい。  
 なあ、イツキ、ミズキ。  
 俺が大好きだった二人。  
 俺は空を見上げ、目をすがめた。  
 唇の端を吊り上げ、俺は笑ったつもりだったが、俺の頬には何故か涙が伝っていた。  
 
 
   
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