北の果て、フィンランドのロヴァニエミに住むトナカイは、
世界で最も美しいと言われている。
特にこのクリスマスの時期、ロヴァニエミの牝トナカイは、立派な角を生やし、
その主食である苔(こけ 厳密には地衣類)のように滑らかで密な毛皮と、
透き通るように白いふわふわの毛に包まれたお尻をしていた。
トナカイ族の牡たちにしてみれば、むしゃぶりつきたくなるような魅力的な姿であるが、
残念、この季節は彼等の繁殖期からは外れていた。
それでも、愛を交わす方法が無いわけではない。
──サンタクロースのお手伝いをしたトナカイは、一つだけ望みが叶えられる──
牝トナカイたちの間では、冬の寒い時期に身篭った子は強く育つと言い伝えられており、
皆、サンタクロース協会の橇の曳き手募集にこぞって応募するのだ。
(ああ、どうしよう──)
美しく、若き牝トナカイの「メルヴィ」は、窮地に陥っていた。
橇の曳き手になろうと思ったのは、運命の牡(ひと)を見つけたかったからだ。
ロヴァニエミでもとびきり美しい彼女は、恋の相手は引く手あまたでありつつも、
それゆえに心に決めた牡が居なかった。
クリスマスの報酬に与えられる、願いを叶える魔法に、成り行きを委ねようと考えたのだ。
フィンランドのトナカイ橇は、一頭曳きである。
彼女のパートナーになったのは、まるまると太った大きなサンタクロースだった。
髭はどこまでも白かった。
赤い衣装から突き出した腕は逞しく、そして、白かった。
腕の先には大きな手のひら。鉤のように曲がった黒い──爪?
よく見れば、髭だと思ったのは飛び出した白いマズル……。
「人間のサンタは、インフルエンザで次々と倒れちゃってね」
案内役の妖精トントゥが、そう言った。
メルヴィがコンビを組んだサンタは、協会の妖精がスカウトしたシロクマだったのだ。
仕事を放棄して逃げ出したくもなったが、大丈夫、とメルヴィは自分に言い聞かせた。
プレゼントを配り終える頃には、サンタはへとへとに疲れてしまうものである。
そっと逃げ出せば、命を落とすこともない。
いざとなれば、妖精にこう言えばいい。
「わたしの願いは、無事に生きて帰ることです」
しかし、その思惑は、大きく外れることになる。
寡黙なシロクマサンタと共に、プレゼントを配り始めようとしたとき、
トントゥが現れ、告げた。
「せっかくのところ、悪いんだけど、残念なことになったんだ」
妖精が広げた紙には、こう書いてあった。
『2009年クリスマス中止のお知らせ』
世界中で猛威を振るっている新型インフルエンザの感染拡大を防止するために
クリスマスを中止することになりました。人混みが感染拡大の原因となってしまう
ため、クリスマスパーティも開催中止となります。クリスマスイヴはデートや深夜の
外出などをせずに、各自でうがいをした上で暖かくして自宅待機をお願いします。
キスや性交渉は濃厚な接触となり、感染のリスクが高くなるため、やめて下さい
なお、クリスマスプレゼントの交換は”マスク”と”うがい用イソジン”のみ許される
事がサンタクロース協会から発表されました。誠に申し訳ありませんが、感染
拡大の防止のためにご協力をいただけるようにお願いします。
ttp://2chart.fc2web.com/2chart/2009kuriinhuruchuushi.html
メルヴィの後ろにあった橇が、煙のようになって消えた。
シロクマサンタの担いだ袋に入ったプレゼントが、宙をぐるぐると舞って、消えた。
メルヴィが着けていた大きな金色の鐘と、橇のハーネス(引き綱)が消えた。
シロクマが纏っていた、とんがり帽子と赤い衣装が──消えた。
メルヴィは身を守る術のない生まれたままの姿で、
地上最大の白い肉食獣の前に放り出されたのである。
絶望に包まれたメルヴィの耳元で、妖精が囁く。
それは救いの声のように思えた。
「このまま終わりってのも悪いから、願い事だけは聞いてあげることになったんだ」
「本当に?」
今すぐ、ここから生きて逃げられるように、と願うメルヴィの口元に指を突きつけ、
妖精は首を振った。
「おまけの報酬だから、叶えられる願いは三つの中から選ぶんだ」
一つは、お腹いっぱいの苔
一つは、余ったプレゼントの中から好きなもの
一つは、異性との夢のような愛
「サンタクロースだけに、三択ってね」
「それって、日本語じゃ……」
冗談を言ってる場合じゃなかった。
腰を抜かして動けないメルヴィに、シロクマが顔を近付けて匂いを嗅いでいる。
(ああ、どうしよう──)
今にも食われそうなのに、お腹いっぱいの苔をもらっても仕方がない。
余ったプレゼントなんて、何の役にも立ちはしない。
異性との夢のような愛、それはトナカイの牝たちが本来、選ぶもの。
だけど、今、それが叶ったところでどうなるというのだろう。
選択肢の一つとして入っているのが皮肉だった。
でも、ちょっと待って……
(もし、このシロクマが牡だったら?)
「異性との夢のような愛、を──」
メルヴィが妖精に伝えたとたん、その体は火のように熱くなった。
股間からぬるぬるしたものが溢れている。
若い牝トナカイが初めて経験する、発情だった。
これは一つの賭けだった。
「異性」というのが、「異種族」に対しても通用するのであれば……。
捕食者であるシロクマとでも、交尾ができるかも知れない。
体力の続く限り交われば、そのうち相手は疲れて、逃げるチャンスが訪れるかも知れない。
メルヴィは黒くてあまり表情のないシロクマの円らな瞳を仰ぎ見た。
彼は、襲ってこようとはしていない。
心なしか、口元が微笑んでいるようにも見える。
思い切って、ふかふかの真っ白なお尻をシロクマの方へ向ける。
──キスや性交渉は濃厚な接触となり、感染のリスクが高くなるため、やめて下さい──
ふと、あのクリスマス中止の通達文を思い出す。
「インフルエンザじゃ……ないよね?」
シロクマはプルプルと首を左右に振った。
はぁーっと大きな息を立て、シロクマはメルヴィに抱き付いた。
それは肉食獣の狩りの動作ではなく、
興奮に包まれながらも慈しむように異性に触れる牡の抱擁であることが分かった。
太く、逞しい腕がメルヴィの腹部を優しく抱える。
大きな角が彼の邪魔にならないようにメルヴィが俯くと、
「それ」は体の奥深くに突き立てられた。
熱い蜜が溢れる柔らかい肉壁を掻き分けるように、力強いものが押し入ってくる。
不思議な感覚だった。種族が違うのに、二頭の獣はそれが当たり前のように交わっていた。
体躯に似合わず小さいクマ族のペニスは、それでも、シロクマほどの巨体になれば、
トナカイの牡のものよりは太く、長い。
ゆっくり力強いシロクマの腰の動きは、
石火のようにせわしないトナカイの牡のそれとは違い、メルヴィを陶酔させた。
(彼は、どうなんだろう?
このシロクマさんも、わたしの体を気持ちいいと思ってくれてるのかな……)
そう思った瞬間、お腹の中で彼のものが大きく震えた。
熱い液体がじわじわと体の奥に広がっていく。
ペニスを引き抜かれて、メルヴィは、
それが自分にとって初めての交尾だったことを思い出し、
必死になっていたことが可笑しくなる。
それは想像以上に甘美で、うっとりするような快楽だった。
「もう一回、しようよ……」
シロクマは相変わらず黙ったままであったが、軽く頷くと、
またメルヴィのお尻を優しく抱いた。
メルヴィはいつしか、シロクマを疲れさせるという本来の目的を忘れて、
この不思議な交尾に夢中になっていた。
何度も、何度も彼と交わった。
月明かりに照らされた雪の世界に、熱い吐息が立ち込める。
しんと静まり返った情景の中、二頭の息遣いだけが、激しく響き渡る。
メルヴィを現実に引き戻したのは、突如発せられたシロクマの言葉だった。
「そろそろ終わりにするかい?」
「……えっ? 言葉が話せたの?」
クリスマスの装束が消えた今でも言葉が交わせるのは、
妖精の魔法が続いている証拠である。
ただ、少し冷静になったメルヴィは、自分の体力の方はそう続きそうにないことを知った。
「いえ、もっと……」
と答えながら、足腰に溜まった疲労に気付き、愕然とする。
自分では見ることができないが、あそこは赤く腫れ上がり、
薄っすらと血も滲み始めていた。
シロクマは、そんなメルヴィを気遣って言ったのだ。
それでも、交尾を止めるわけにはいかなかった。
このまま魔法の効力が無くなれば、メルヴィは食べられてしまうのだから──。
「わたしはいいの。
それよりあなたは、疲れたり、眠くなったりしてないかしら?」
メルヴィと比べ、いっこうに疲れを見せないシロクマに、恐る恐る尋ねてみる。
「半年、何も食べずに過ごしたシロクマの話を知ってるかい?
体重数百キロ分、減らしてでもぼくたちは活動できるんだ。
君の方は限界だろう? 終わりにしよう」
メルヴィは背筋が凍り付くような恐怖に包まれた。
彼を疲れさせることができそうにないという事実以上に、
気付いてしまった恐ろしいことがある。
シロクマの顔のすぐそばに、妖精トントゥが姿を現していた。
サンタの代役をするはずだった彼にも、おまけの報酬が与えられるはずだ。
あの三つの願いの中から、彼は何を望むのか──
「それじゃあ、今からぼくの願いを叶えてもらおう。
お腹いっぱいの──」
──トナカイの肉!?
メルヴィは目の前が真っ暗になるのを感じた。
食べられるときの痛みを思い、震えた。
「そのとき」が来るまでの時間が、永遠のように感じられた。
痛みが訪れない理由が分かった。
昔、聞いた話を思い出す。草食獣の体は、
食べられるときに痛みを感じないように神様が作ってくれているのだという。
今の自分は、そんな状態にあるのだと思った。
胸いっぱいに、苔の香りが広がった。
冬の間は、凍て付いた大地を掘り返さないと食べられないご馳走の香り──?
メルヴィは、口元に押し付けられているものを、思いっきり頬張っていた。
「まだまだあるから、食べて」
驚いて顔を上げると、あのシロクマが、
腕いっぱいにトナカイたちの食べ物──苔を抱えていた。
手のひらに乗せた苔の固まりをメルヴィに差し出す。
「ぼくからの、プレゼント、だよ」
わたしを食べないの、と尋ねるメルヴィに、シロクマは答える。
「本当はこの時期、ぼくたちシロクマは冬篭りをしているはずなんだ。
だから、食べ物は胃が受け付けないんだよ」
恐ろしいばかりだった肉食獣の顔が、微笑んで見えた。
シロクマが選んだ願いは、「お腹いっぱいの苔」だった。
シロクマにもトナカイと同じ選択肢しか与えられてないなんて。
苔を食べている間、メルヴィは可笑しさを堪えるのに必死だった。
けれど、
大きな丸いお尻を左右に揺すりながら立ち去るシロクマの後姿を見送る段になって、
おかしなことに気付く。
(シロクマって、冬眠するのは牝だけじゃなかったっけ……?)
メルヴィは、くすりと笑い、思う。
自分の本当の願いは叶っていたんじゃないか──、と。
(おしまい)