昼過ぎに目覚めると爺さんは出かけていた。  
 
このところ夜勤が多いせいか昼夜逆転の俺と、規則正しい老人の爺さんは生活がすれ違っている。  
顔をあわせるまもなく互いの用事で席をはずす。  
仕事だけが原因ではない、ことは内心気づいていた。  
――忙しいのは誰のせいだ。  
――身動きが取れないのは。  
俺が爺さんに苛立って仕方がないのだ。  
動きが遅いのは老人だから仕方がないと、頭では分かっている。  
ばあちゃんが亡くなってから妙に肝が小さくなり、ちょっとしたことでも病院に行きたがるようになった。  
若い頃の飲酒喫煙が祟って咳も多く、そのたびに暗い顔をする。  
病院への送り迎えで俺の休日も休息もたびたび削られ、爺さんの年金は診察台へ消えていく。  
無論、俺の小遣いは減る。  
不況で給与が減ったうえ、更にこれでは何も出来ない。  
台所で水を飲み、半分は流しに捨てた。  
 
――面と向かって言えるわけがないじゃあないか、こんなことを。  
 
顔に出すわけには行かないじゃないか。  
目を見ただけできっと分かられてしまう。  
爺さんももう分かりかけているから俺を避ける。  
 
何はともあれ日々は回る。  
シャツ類と作業服と爺さんの溜めていた洗濯物と、タオル類を突っ込んで適当に洗剤を溶かす。  
その間に髭をそり、ぼさついた髪を濡らして固形食糧を口に運ぶ。  
ぱさぱさしているので牛乳で流し込むと軽くむせた。  
かつて洗面所に備え付けだった乾燥機は、ばあちゃんが亡くなって間もなくご臨終した。  
乾燥機にも感情があるのだろうか。  
ばあちゃんを慕って後を追ったと考えれば今更ながら許せる気もする。  
なんにせよ、買い換える余裕もなくはないが、コインランドリーのほうが二人分なら安い。  
洗濯機がとまったところで籠に詰め込み、サンダルを突っかけて歩いて五分。  
車で来ればよかったか、と思う。  
しとしと雨が降っていた。  
 
「あ」  
最近良く遭遇する、乃理歌さんが先客だった。  
「雨ねえ」  
「……そうだね」  
7kgの洗濯機脇にある椅子で、乃理歌さんは漫画を読んでいた。  
暇そうでいいな、この姉さんは。  
失業中だと聞いていた年上の幼馴染みは、十年以上も地元を離れていたのだが、  
勤め先の倒産に伴って両親の願いを断りきれず、実家に戻ってきた。  
(断っておくが別に俺のためでもなんでもない。)  
それでまたしょっちゅう、ご近所なので出くわす関係になった。  
本音を言えば。  
こちらは彼女に会ってしまうと、気まずいので会いたくはなかった。  
小中高と何でもなかったはずの彼女の匂いが、今は心苦しい。  
軽くウェーブの掛かった茶髪と近所用のジャージ、を、ちらと見やって手元の洗濯籠に手を伸ばす。  
硬貨の投入を待って、乃理歌さんが話しかけてきた。  
「今来てるってことは、仕事は夜勤?大変ね」  
「別に。乃理歌さんこそ、婚活は順調ですか」  
蹴られた。  
足の脛をがんがんとヒールで蹴られています今も。  
「ぃやかましい」  
「痛いイタイイタ、ちょ、マジで痛い」  
「和義の癖に何言ってんの?私の心のほうが痛かったんですけど。  
 これは心の痛みの一割。本当はこの十倍心が傷ついているって言っているのよえぇ?分かった?」  
「はいはい、すみませんすみませ、悪かった、だからやめて。  
 あー、ていうか今その、読んでる漫画、何?」  
しまった話題をそらそうとして言ってみたけどよく見たら漫画の表紙に「30婚」って描いてあった。  
ものすごい顔で睨まれた。  
殺される前に目を逸らすと幸い、追求はそこでやんだ。  
平屋の天井を打つ雨音はこれでもかと強くなっていた。  
 
……改めて、乃理歌姉さんは完全に好みの範疇外なのだと思う。  
 
いくら優秀でやる気があっても、三十過ぎた女性を田舎では正社員にはしてくれないとぼやいている。  
それはそうかもしれない。  
優秀なのは自称かもしれないが、まあ、昔から生徒会などしていたので誇張でもあるまい。  
「派遣も今じゃ需要ないし。でもパートじゃ仕方ないのよ」  
「求人ないなら仕方ないじゃん。夜出れば?」  
「夜の仕事すると今度は出会いに響くのよッ」  
ま、そりゃあそうか。  
「それに母さんが許してくれないわ、偏見がすごいんだもの」  
適当に相槌を打つ。  
乃理歌さんのお母さんはいいところのお嬢さんらしく、昔から厳しそうだった。  
でも。  
結婚が決まらないとぼやいている彼女を見ていると安堵もするのだ。  
たとえ本意じゃないとしても、こんな平日の昼もコインランドリーで漫画が読める生活が羨ましい。  
そして同時に、恵まれない環境になった彼女を見て、俺だけじゃあないんだと安堵するのだ。  
醜い。  
「和義」  
「んー」  
「悩み事があるって顔してる」  
「乃理歌さんには、わかんないよ」  
乃理歌さんは、しばらく口をつぐんだ。  
それからまた、漫画を読み始めた。  
ごんごんと回転するドラムの中で、作業着が踊る。  
乃理歌さんの薄い香水の匂いが胸に痛んだ。  
本当は世界で一番、彼女にだけは、こういう姿を見られたくないはずだった。  
後ろ暗い悔いを飲み込み、ただガラス窓の雨粒を眺めた。  
乾燥機は回り続けている。  
 
 

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