誰もいない家は、真っ暗で寒い。
「ただいま」
返すものもいない声は、虚しく闇に吸い込まれた。
僕は玄関にコートをかけた後、手洗いうがいをしてから駆け足で二階に駆け上がる。
自室に転がり込み、凍える指で電灯と暖房をつけた。
乾燥した温風が肌を撫でる。
暖かくなるまでには時間がかかるだろう。
僕は身震いしながらスーパーのレジ袋をひっくり返した。
固形栄養食や菓子パンと共に、伊予柑が二個床に転がる。
その一つを手に取り、洗いもせずに皮を剥いていく。
ほのかな甘い芳香が小さな部屋に充満する。
汁気たっぷりの果実をすすりながら、ふと気になってカーテンを開け放つ。
隣の家も、二階のみに電気の光が灯っていた。
その電気がついている二階の部屋は、この部屋から身を乗り出して手を伸ばせば届きそうな距離にある。
僕はもう一つの伊予柑を手に取り、お隣向かいの窓を開いた。
窓際に取り付けられている赤い木箱。
郵便ポストを模したそれの蓋を開けると、果物を投函して声をかけることなく窓を閉める。
折角温まってきた空気も、幾分外へ逃げてしまった。
僕はかじかんだままの指で携帯電話を開き、アドレスのトップを選択する。
『余った伊予柑をお送りします。受験で忙しいとは思うけど、しっかり栄養を取ってください』
四苦八苦しながらメールを打ち終えると、他にすることも無く僕はベッドの上に転がった。
部屋にはまだ甘い香りが漂う。
顎を引いて本棚の上に目をやる。
うっすらと埃を被った広口の瓶。
去年から一年間漬け込んでいる伊予柑の皮。
例年なら、これを刻んで生地に混ぜ、彼女はチョコレートケーキを焼く。
――――はい、こーちゃん
甦る去年の、一昨年の、ずっと前からの記憶。
硫酸紙と色紙でラッピングされたケーキ。
チョコレートとピールの甘い香り。
彼女の笑顔。
――――今年のバレンタインチョコだよ
突然握ったままの携帯電話が震え出し、僕は追憶から覚めた。
電話を開くと発信元を確認せず通話を選ぶ。
「もしもし」
『あ、こーちゃん?』
腹筋に力を込め起き上がると、再びカーテンを開く。
向かいの窓から、携帯を耳に当てた女の子が手を振っている。
僕の姿を確認してにっこり。
『窓、開けなくていいよ。寒いでしょ』
最近の携帯電話は料金サービスが充実している。
彼女の電話番号へは、一定時間以上かけなければ通話が無料になるサービスを選択していた。
月一度の料金精算が近いので、余った時間を使い切っても問題ない。
『伊予柑、受け取ったよ。ありがとう』
「うん」
会話が途切れる。
通話中の雑音と、エアコンの排気音だけがやたらと耳に響く。
「受験、そろそろ追い込みだろ。話しててもいいの?」
『へーき。今休憩中だから、ちょっとだけ。
こーちゃんとお話しするのが、わたしにとっての癒しだし』
そう言って彼女は恥ずかしそうに笑う。
『もうすぐバレンタインデイだね』
「うん」
『チョコ、ほんとになしでいいの?』
「今は勉強のほうが大事だよ。何度も言うけど、既製品以外受け付けないからね」
『それじゃつまんないよ』
受話器の向こうで彼女が唇を尖らせているのがわかる。
「心配しなくても、ホワイトデイには何か送るよ。
できれば合格祝いもかねて」
『どうせお祝いするんだったら……』
「え?」
『……ううん、なんでもないよ』
誤魔化すように首を振る彼女。
『それより、今からそっち行っていい?』
「どうしたの? 話が長くなりそうなら――」
『そうじゃないけど……』
少し口ごもる。
『こーちゃんのそばにいたいだけ』
「駄目だよ。僕と一緒だと、勉強サボるでしょ」
『そうかな』
「そうだよ」
残念、と彼女は呟いた。
『……休憩時間、終わっちゃうから。もう切るね』
「うん、体に気をつけて。あんまり根を詰めて、寝るのが遅くならないように」
お母さんみたいだ、と笑われる。
『判ってるよ。お休み、こーちゃん』
「お休み、ユウ」
『――大好きだよ』
切れた。
携帯電話を開いたまま、胸を抑えて顔をシーツに埋める。
かっと体が熱くなる。
心臓が激しく脈動する。
(――大好きだよ――)
彼女の最後の言葉が、僕を狂わせる。
「……一緒になんて、いられる訳ないだろ」
そもそも、ユウは昔から無防備すぎると思う。
一応男である僕の部屋に、微塵の警戒も無く入り浸る。
夏場は薄着でフローリングに寝転がるし。
冬場は僕が不在の間、勝手にベッドにもぐりこんで寝てしまう。
小さい頃はそれでよかったのだが、いつまでも無邪気ではいられない。
大きくなるにつれ、自然と離れていくべき男女の距離が、近すぎたのも原因だろうか。
「ねえ」
一度聞いてみたことがある。
「僕が怖くないの」
彼女は僕のベッドの上で腹ばいになって漫画の単行本を読みながら振り返った。
大き目のTシャツの襟元がずれ、下着だかキャミソールだかの紐が見えている。
思わず目を逸らした。
「何で?」
「いや、だから……」
応えに窮する。
「僕も一応男なわけだから……、えーと、変な、こと、されないかとか……」
はっきり言うと、見せ付けんな、襲うぞこの野郎と言うことです。
彼女は笑いながら断言した。
「こーちゃんはそんなことしないよ」
「残念ながら、オスの本能というものは、紳士にもヘタレにも関係なく平等に理性を凌駕せんと襲い来るものなのです」
冗談めかしながら彼女の認識を訂正する。
「わたしはそういう対象じゃないと思うけど」
「ユウだからそういう対象なんだよ」
僕は赤くなりながら本音を漏らした。
彼女は目を丸くする。
「ひょっとしてこーちゃん――――」
躊躇いながら、気まずそうに。
「わたしとそう言うこと、したいの?」
「まぁ、そりゃあ……」
二人の間に、重い沈黙が落ちる。
「でもでも、別にそれってわたしじゃなくてもそうなんだよ、こーちゃんは。
その、せ、性欲、を、感じるのって。
わたしより、美人でスタイル良くて、大人の人だったら、そっちの方が良いんじゃないかな」
「何を証拠にそんなことを」
「一番下の引き出しの奥の雑誌」
慌ててそちらの方に視線を向ける。
彼女は僕の様子を見てからからと笑った。
「おっぱいの大きいブロンドさんばっかりだったね。
男の子って、ああゆうのに興奮するんでしょ」
「いや……」
彼女も結構胸はある、とかどうでも良い思考が浮かぶ。
反駁しかける僕をよそに、彼女は立ち上がって勝手に本棚をあさり始める。
「そんなことよりさ」
床にばらまかれるカード一式。
何かを誤魔化すように、ユウは笑顔を作った。
「ウノやろうよ」
ユウのことが判らない。
僕のことを好きだという彼女のことが。
彼女の言う"好き"は僕の考える"好き"ではないのかも知れない。
恋愛の、性的な、婚姻関係に結びつく"好き"ではないのかも知れない。
彼女の周りに同年代で男っ気がないから浮気なんて考えもしないのだが、それは僕しか恋愛対象になりえなかったと言うことでもある。
もっと彼女が視界を広げれば、彼女自身の判断でもっと良い男性を見つけることだって十分ありえるのだ。
ならば、彼女の身持ちが堅いことはむしろ歓迎すべきで。
キスだとかそのもっと先のことだとか、男と女のごちゃごちゃした物事は、生涯大切にする人のために取っておくべきなのだろう。
僕は幸せそうにその人の手を取るユウを笑って見送る役目。
その日まで、彼女のそばで、ただ見守っていれば良い。
それなのに。
ずっと彼女のそばにいたいと想ってしまうのは、間違いなのだろうか。
「……阿呆臭ェ」
一通り聞き終えた友人の第一声がそれであった。
「いきなりそれは酷くない?」
学生食堂に併設されている喫茶店、そこの安いコーヒーを掻き混ぜながら僕は苦笑した。
「別に酷くは無い。率直な感想を述べた迄だ。
第一、俺は相談に乗って遣るとは言ったが、愚痴を聞いて遣るとは言っていない」
僕はスプーンを手繰る手を止めた。
「愚痴かな」
友人はデミタスカップを傾けながら頷いた。
奢ってあげたコーヒーを口にして、これ見よがしに目をしかめている。
彼の口には合わなかったらしい。
値段の割りに酷くはない、と僕は思うのだが。
「愚痴にしか聴こえん。
要するにお前は恋人からイベントのチョコレートを貰えないと言って拗ねているだけだろう」
「別にそういうわけじゃ……」
友人は溜息をつく。
「聞いていると苛々する。
お前はどこまで都合が良い事ばかり考えているんだ?
"好きな女の子が僕の事が好きかどうか不安です。自分の所為で彼女が傷付くのも嫌です。
だからキスとかは強要したりしません。したいけど。チョコレートも欲しくありません。欲しいけど"
――――知るか。
問題はお前がどうしたいか、何をするかだろうが。
自分だけ逃げ道を作って、何でもかんでも彼女の所為にするな。
大体、毎年本命のチョコレートを貰って置いて、愛されているか不安だ等と、どの口で言えるんだ。
贅沢にも程がある。
それでも好意を確かめたいのなら、自分から愛される努力をしろ」
友人はコーヒーを飲み干すと、図星を刺され憮然としている僕を置いて先に席を立った。
「彼女、受験生だったな」
去り際に、彼は呟いた。
「甘い物でも食わせてやれ」
*
わたしは、こーちゃんのことが好きです。
いや、"好き"という言葉は不適当かもしれません。むしろ愛しています。
こーちゃんが笑うとわたしも嬉しくなります。
わたしに甘えられると、彼ははにかんだように、ちょっと目を逸らしながら笑うのです。
こーちゃんに優しくされると胸が熱くなります。
わたしがふさぎ込んで誰にも会いたくない時、けれど一人きりが寂しいとき、手紙やメールでさりげなく励ましてくれます。
彼は真面目で、わたしの基準ではかっこよくて、些細なことでも気を遣ってくれる紳士だと思います。
頼りない部分も、優柔不断な面もありますが、それもひっくるめてわたしは彼を愛しています。
小さい頃から今までずっと一緒で、これからもずっと一緒にいるものだと思っていました。
でも最近は、中々彼と会う機会がありません。
一年前は彼の大学受験でした。
今年はわたしの大学受験です。
彼に会えない日が続くと、わたしの中で今まで知らなかったドロドロした感情が溜まっていきます。
それは、汚くて、浅ましくて、醜い。
「ん……あふ……、んぁ――――こーちゃぁん」
わたしは彼のことを想いながら、一人己を慰めるようになりました。
夜、寝床で一人弄り回すのです。
自分自身ですら良く判っていないその場所を。
幼い頃には考えられなかった行為。
「こーちゃん……こーちゃん……こーちゃん」
本当に、わたしは醜い。
彼は、そんな存在であって欲しくない。
こーちゃんには、むかしのままでいて欲しい。
ずっと綺麗なままでいて欲しい。
でも、そんなのはわたしの勝手な願望で。
都合の良い虚像を彼に押し付けているに過ぎません。
こーちゃんは、ピーターパンじゃない。
ずっと子供ではいられない。
きっとわたしより先に、大人になってしまう。
大人になってしまった。
「こぉ――ちゃ、ん」
背筋が一瞬ピンと伸びた後、躯が震え、中からじわりと熱いものがにじみ出てくる。
でも、全然満たされない。
体の芯が、彼を欲している。
こーちゃんが、欲しい。
そんなことを考えてしまう自分が情けなくて、涙が滲みます。
わたしは息を整え、のろのろと身を起こしました。
「勉強……しないと」
こーちゃんは、わたしのことが好きだ。
だけど、この"好き"はわたしの"好き"とは違う。
家族というか、身内というか、幼馴染としての"好き"。
恋愛感情じゃない。
だから、わたしは子供のままでいたい。
子供でいる間は、いつまでも彼の傍にいられるから。
大人になってしまえば、もう後は一人で生きていかなければならないから。
わたしはこーちゃん以外の誰かを好きになって。
こーちゃんはわたし以外の誰かを好きになって。
段々と距離が離れて行き、やがてはお互いのことを忘れてしまう。
いやだ。
そんなのは、いやだ。
だから、わたしは大人になりたくない。
どうしてピーターパンは、大人になる前にわたしを殺してくれないのだろうか。
突然、充電器にかけておいた携帯電話が震え出す。
わたしはひどく驚いて、誰も見ていないというのに急いで乱れた服装を整えました。
深呼吸して落ち着きを取り戻し、携帯電話を開きます。
メールの着信が、一件。
こーちゃんからだった。
一行、
『Happy Valentine's Day』
何のことかと数秒いぶかしみましたが、思い当たるところがあって、部屋の窓を開けて郵便ポストを模した木箱を開けました。
冷たい空気が流れ込んできて、わたしは急いで中のものを手にとって部屋に戻り、窓を閉めます。
箱の中にあったのは、リボンでラッピングされた紙袋。
袋を開くと、硫酸紙に包まれた不恰好なチョコレートのお菓子が。
見るからに手作りです。
……どういうことでしょう。
こーちゃんでしょうか。自分からはほとんど料理をしないこーちゃんが作ったのでしょうか。
「い……いただきまぁす」
手を合わせてから、わたしはその黒いカタマリを恐る恐る口に運びました。
…………。
……………………。
はっきり言って焼きすぎです。焦げています。
配合を間違えたのか、生地が粉っぽくて口当たりが悪すぎです。
気泡もダマができていて、一部分だけぺしゃんこになっています。
でも、甘い。
ピールのいい香りが、鼻腔を満たします。
これは、わたしが毎年こーちゃんのために作っているチョコレートケーキ。
こーちゃんは忘れていなかったのです。
今年はいらないなんて言うから、わたしからのチョコレートなんてどうでもいいのかと思っていました。
――彼にとっても、一年に一度の大切な思い出だったんだ。
わたしはリボンを握り締め、そっと口元にあてがう。
こーちゃんの声が聞きたい。
何となくそう思っていたら、電話が突然着信を知らせました。
*
――ユウの声が聞きたい。
何となくそう思いながら、僕はかけ慣れた番号に電話をしている。
そして、伝えなければならない事があった。
ほとんど間を置かずして、通話が繋がる。
『……こーちゃん?』
「うん」
愛しい声が聞こえる。
たった壁二枚を隔てた場所にいる、彼女の声。
「ケーキ、もう食べた?」
『うん。ご馳走さまでした』
なんだか言い方が皮肉っぽい。
「採点をどうぞ、料理長」
『30点。追試決定だね』
実に手厳しい。
三度同じものを焼いて、その内辛うじてましなものを選んだのだが。
『ちゃんとレシピ読んで焼いた?
お菓子なんて基本的に化学反応なんだから、本の通りにやれば誰でもそこそこにはできるんだよ。
とりあえずは、普通のパウンドケーキの小麦粉を、一部ココア粉に変えるだけ』
「一応見たけど、ユウのは結構アレンジしてあるだろ。
ユウがやってたのを思い出しながら、色々試してみたんだけど」
『お菓子作りに冒険はいらないの』
二人して笑い合う。
「で、追試はいつほどにいたしましょう?」
『今度わたしが教えてあげる。
だけど、追試は必要ないよ』
だって、と彼女は囁くように続けた。
『こーちゃんが作ってくれたってだけで、わたし的にはプラス70点。
すごく頑張ってくれたって、わかるから。
100点満点だよ。こーちゃん』
「ユウ……」
僕は服のあちらこちらに付着したココアと小麦粉の汚れを眺める。
彼女は毎年、こんな苦労を繰り返して来たんだ。
小学生の低学年で既に、食べられるのものを一人だけで作るようになっていた。
今ならわかる、彼女の気持ちが。彼女の想いが。
声を聞くだけじゃ足りない。電話越しじゃもどかしい。今すぐ、ユウの顔が見たい。
僕は彼女の部屋に向かう窓を開け放った。
冷たい風が吹き込むが、構うものか。
「ユウ、悪いけど顔を出してくれないかな」
『え? 今?』
「直接声が聞きたい」
『ちょ、ちょっと待って』
彼女は素っ頓狂な声を上げると、こんな格好じゃばれちゃうよ云々などと唸りながら通話を切った。
壁越しにもユウがばたばたと慌てているのが判る。
別に外に行く訳でもないのに、何をしているのやら。
僕は顔を外気に晒したまま、辛抱強く待った。
心臓が高鳴り、寒さも気にならないほど顔が紅潮している。
数分はたっただろうか、そろそろと向かいの窓が開き、カーテンに身を包んだユウが顔だけを見せた。
「お、お待たせ。ごめんね、寒かったでしょ」
「僕も来たばかりだよ」
「うそつき。お鼻でてるよ」
僕は慌ててポケットのテッシュを探した。
しばらく二人して笑いあう。
「でも、どうしたの急に。お話なら電話でも……」
「ユウ。こんな時期に混乱させてしまうかもしれないけど、どうして聞いて欲しいことがある」
心臓の音がうるさい。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。
本当に僕は、何を言おうとしているのだろう。
ユウは受験を控えている。彼女がどんな答えを出すにしても、せめて合格発表まで待つべきではないのか。
でも、これ以上僕の感情を曖昧にしておく方が不誠実だと思う。
それ以上に、この想いを抑えられない。
「ユウ、好きだ。
先立つものは何もないけど、結婚してくれないか」
ただ、思うままに胸の中の言葉をぶちまけた。
……………………
何分たっただろうか。
ユウは目を丸くして硬直していた。
僕はただ彼女の言葉を待っていた。
そして突然ユウの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちる。
「そっか……。そうだったんだ……。
こーちゃんも、わたしと、いっしょ……」
「ユウ?」
「わたしも! わたしも、好きだよ! こーちゃんのこと!
ずっと前から、女の子として、好きなんだよっ!」
ユウは窓から身を乗り出して叫んだ。
――良かった。
心底そう思う。
ちょっと考えれば当たり前のことだと判っていたのかもしれない。
何度"好き"と言われても、本気に取れなくて、すれ違い続けた。
いや、勝手に取り違えていたのは、僕だけだ。
「……気付くのが遅くなって、ごめん」
「……うん」
「好きって言うのが遅くなって、ごめん」
「うんっ」
ユウはぐじぐじと袖で涙を拭うと、僕に笑顔を見せてくれる。
「ねえ、こーちゃん」
「なに」
「今から、そっち行くね」
「え?」
止める間もなく、ユウは窓枠に足をかけた。
「しっかり受け止めてね」
「え、ちょ、ちょっと」
えいやっと気合を入れ、ユウは窓から窓へと一気に飛び移った。
少女の体が凄い勢いで僕に向かってダイブしてくる。
「うわっ!」
何とか受け止めることに成功したものの、運動量はなくならない。
二人くんづほぐれつ、床の上に転がった。
ユウが打ち付けないよう、しっかりと体を抱きしめる。
壁に体が激突してようやく静止。
仰向けのまま目を開くと、僕に馬乗りになったユウが優しく見下ろしていた。
「ナイスキャッチ」
「手加減してくれよ、もう子供じゃないんだから」
「そうだね」
ユウがかがみこんで来る。
「子供じゃ、ないんだよ」
何をするべきなのか、言葉は要らない。
二人は瞼を閉じ、顔と顔を近づける。
……
…………
ファーストキスは、チョコレートと伊予柑の香りがした。
「ねえ、こーちゃん」
「ん?」
二人身を寄せ合い、手を繋いで床に腰掛け、ただじっと窓の外を眺める。
あたたかい。
触れ合う肩からも、体温が伝わってくる。
「わたしの受験なんだけど……」
「ああ」
この分だと、この件が合否に悪影響を及ぼすことはなさそうだ。
ちゃんとデートっぽいデートをしたり、いちゃついたりするのは当分後のことになるだろうが、時間はたっぷりある。
「もし合格したら、お祝いしてくれるんだよね」
「いいよ。何か欲しい?」
彼女は照れ笑いしながら願い事を口にした。
「ご褒美は、こーちゃんが欲しい」
「うん…………え?」
頷きかけて、僕は硬直した。
彼女は顔を真っ赤にして続ける。
「それでホワイトデイのお返しには――――こーちゃんに、わたしをあげたい」
……それって、どう言うことでしょう。
つまりかのじょとぼくとがええとアレとコレと……。
いやまて落ち着け、彼女は籍を入れるとかそういう意味で言っているかもしれない。
何もそんなエロいことばかりを意味するとは。
「だめ?」
「ダメじゃないです」
即答だった。
むしろこの場でおっぱじめてしまいたいくらいだった。
「約束だね。じゃ、わたし戻るから」
そう言って彼女は立ち上がり、ドアノブに手をかける。
「わたし、絶対合格するからね。
今日ももうちょっと勉強してみる」
「う、うん」
お預けを食らったまま、僕は曖昧に頷く。
「じゃあ、おやすみなさい、こーちゃん。
…………大好きだよ」
「僕も」
ユウが屈み込む。
頬にあたたかい感触。
彼女は逃げるように僕の部屋を後にした。
一分もせず、向かいの窓が開き、さっきお休みを言ったばかりのユウが再び顔を出す。
「こーちゃん!」
「うん?」
僕も窓のそばに向かう。
「わたしのこと、どう想ってる?」
「好きだよ」
さっき言ったばかりだ。
でも、不安になる気持ちは判る。
「聴こえないよ」
「ユウこと、好きだよ」
言葉だけでは、証にならない。
だからと言って、言葉にしなくていい訳はない。
「もっと大きな声で!」
「僕は! ユウが! 大好きだよっ!」
「わたしもっ! こーちゃんが! 大好きっ!」
……近所迷惑にならないだろうか。
それ以前に、誰かに聴こえていたら恥ずかしすぎる。
ユウは満足げににっこりと笑うと、窓とカーテンを閉めた。
僕も顔を真っ赤にして、窓を閉めて部屋に戻る。
部屋の中はすっかり寒くなっていたが、体は熱く火照っていた。
「大好きだよ、ユウ」
一人呟いて、僕はベッドに横になる。
――――大好きだよ、こーちゃん。
壁二枚隔てた向こう側で、彼女もそうささやいている。きっと。
僕は密かに笑いながら目を閉じ、まどろみの中に落ちていった。