「いたた――」
体の節々に痛みを感じながら身を起こすと、視界がぼやけていた。
一瞬涙のせいかと思ったが、眼鏡を取り落としていた事に気付いて慌ててあたりを手で探る。
よく眼鏡を取り落とすため、眼鏡の探索スキルについてはちょっと自信があったりするのだが、眼鏡を落とさないスキルは皆無なためあまり意味がない。
そうやって、手探りであたりを探っていると何か柔らかい物に触れた。
しかもそれは柔らかいだけではなく、ちょうど人肌ぐらいの温かさだった。
「……………これはセクハラと判断していいのかな」
「ふへぇっ!?」
突然その何かが声を発した。
ちょうど反対側の指先に触れた眼鏡を急いで掛ける。
ぼやけていた視界のピントが合い、周囲の風景がハッキリ見える。
(うわ、綺麗な子)
今の状態を理解するよりも何よりも、そんな感想が先に出た。
絹のような黒髪に中性的な美貌、非常に珍しく神秘的な紅色の瞳は今にも吸い込まれそうだ。
多分男だと思うが、この場合性別に関係なく男女両方にもてることだろう。
「………どこか頭でも打ったんなら別だけど、そうじゃないならどいてくれない。重いんだけど――」
そう言われて初めて自分の腕が、その少年の胸をまさぐっている事に気付いた。
しかも自分は少年に馬乗りになっており、他人から見れば下に敷いた少年を強姦してるように見える可能性がある。
「す、すいませんっ!!」
慌てて飛び退くと、散乱した本に足を捕らえそのまま仰向けに引っ繰り返ってしまう。
鈍い音と共に後頭部と床板が接吻し頭に鈍痛が来る。
「…………大丈夫?」
「は、はい、ありがとうございます」
少年の手に助けられ身を起こすが、その視線には心配の代わりに呆れが含まれていた。
確かにネコの癖にこれだけ運動神経が断絶している自分は呆れられても仕方ないだろう。
「でも、何でこんな事に――」
確か自分は研究に必要な資料を運んでいる途中で階段で足を踏み外したはずだ。
そこからこの状況になったという事は、転げ落ちた時にこの子を巻き込んだのだろう。
「あの、すいません。ご迷惑おかけして―――」
謝罪の言葉を口にしようとした時、奇妙な点に気付いた。
少年の頭に耳がないのだ。
他にも鱗やヒレ、はたまた尻尾に体毛なども皆無で、知っている限りどの種族にも当て嵌まらない。
つまり、この世界に居ない生物――
そこまで考えてから、ようやく目の前の少年がヒトだという事が分かった。
異界からやって来た異邦人でこの世界のほとんどの種族より脆弱な生物であり、貴族や富豪の愛玩動物として扱われる存在――
そして、そんな存在が国家機密レベルの研究所にいる事の異常さに気付く。
「な、何でこんな所にヒトが―――」
「怪しい物じゃないよ。お姉ちゃん」
警戒する少女に対してセリスは優しい笑みを浮かべる。
無垢を純粋培養したような笑みだが、彼の主や彼をよく知っている者が見たら後退るような笑みだ。
「そ、そんな事言ったって信じられませんっ!!」
「…………僕と戦う気?」
セリスが何をどう勘違いしたのか本を構える少女に苦笑を向ける。
まあ、声は勇ましいと言う単語の端に引っ掛かる程度の物だが、拾い上げた本を全面に突き出し、へっぴり腰で構える様子は威圧感より笑気を相手に与える姿だ。
何やら秘伝の本を使った秘拳やら出来るのなら話は別だが―――
「いや、止めといた方がいいと思うけど」
「わ、私だってネコです。身体能力でヒトに負ける訳ありません」
止めると言うより発破を掛ける意味合いで呟かれた言葉に少女は乗ってきた。
少女が動くために一歩後退する。
ずる、
「へっ!?」
散らばった本の一冊を踏みつけてしまい、そのままバランスを崩す。
「や、へ、ああっ!!」
何とかバランスを取ろうと体を振るが、他人が見ると変な踊りを踊っているようにしか見えない。
その努力のかいもなく、少女は仰向けに引っ繰り返る。
「ふぎゃあっ!!」
再び後頭部と床板が接吻、目の前に火花が散る。
ごんっっ、、、
さらに手から吹き飛んだ本が眉間に直撃する。
「……………」
痛みに身悶える少女にさすがのセリスも言葉がない。
頭の冷静な部分で運動音痴は種族の垣根を越えるんだなと、妙な納得をしていた。
しかし、さすがはと言うべきかセリスは珍奇な生物の観察を数秒で切り上げると、無言で少女に近づく。
そして少女の横まで来るとそっと腰を下ろす。
少女の胸の上へ―――
「ふ、ぐう゛っ!!」
当然セリスの体重に肺を圧迫されて、強制的に息を吐き出される。
「あー、事情を説明しようと思うから黙ってくれないかな?」
セリスは胸の上で腰を揺らし押しのけようとする腕を巧みにかわし、そう提案した。
「ど…………どいてください。お、重い。ふぎぃっ!!」
「駄目だよ。人の話は聞かないと――黙ってくれるよね?」
にこやかな笑顔のまま小さき魔王は少女の肺に体重を掛けていく。
足を真っ直ぐ伸ばし臀部に重量が集中するように体を操ると、少女はことさらに苦しげに呻いた。
「………わ、分かりましたから、ど、どいてくださいっ!!」
「何がどう分かったのかな〜?」
にこやかな表情のまま加虐的に体重を掛けていくセリス、どうやら先程の階段落ちを根に持っているらしく意外としつこい。
「黙りますっ!! 黙りますからっ!! ふぎぃっ!!」
半泣きで叫ぶ少女から反動を付けてセリスは颯爽と身を起こす。
「で、話なんだけど――」
未だ床で呻く少女にセリスは事情を話し出そうとした時、ふとある事に気付いた
「そう言えば、お姉ちゃんの名前はなんて言うの?」
「エ、エリス………エリス・ウィリエムです」
特に深い意味があった訳でも、聞きたかった訳でもないが何となく聞いてみたセリスに少女エリスはか細い声で答える。
いくら上に乗られたからと言って、この程度で満身創痍になるのはネコとして問題があるのではないのだろうかとセリスは柄にもなくそう思った。
「そうだったんですか――」
一通りの事情を聞き終えたエリスが本を持ちながら前を歩く。
同じく本を持ってているセリスは彼女の後ろを歩いている。
エリスが転んで本をぶちまけた時に被害を最小限に食い止めるための処置だ。
「そう言えばさっきから妙に思っていたんだけど、何で国家機密クラスの研究所に他種族のイヌやネコがいるの?」
「あ、それはここで発見される。遺失物はこの国の技術力で解析出来ないからなんです。虎の技術はあまり高くありませんから、す、すいません」
説明の途中でその虎の貴族に派遣されたセリスの事を思い出し急いで頭を下げるが、運動音痴のエリスがそんな動きをすれば持った本が危なげに揺れるのは当然だ。
「それはいいから、可能な限り変な動きはしないで危ないから―――」
エリスから適度な距離を取って構えるのは、柄にもなくさっきの階段落ちの事を警戒しているからだ。
「だけど、そう言う事ならお姉ちゃんも遺失物の解析してるの?」
「うっ!!」
そのセリスの一言にエリスの肩がビクリと震える。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「…………その、あの」
「そうだよね。他国から呼ばれるぐらい優秀なんだから、それぐらい当然だよね」
「え、えと――」
まるで身を切り裂かれているかのように体を震わせるエリスに、セリスはにこにこ言葉を続ける。
「そう言えばさっき所長から聞いてね。ネコの研究員の一人が関係ない研究ばっかりしていてプロジェクトから外されたんだって、全く笑っちゃうよね」
「ううっ」
血反吐を吐いた末期の病人のようにエリスの顔色は悪い。
「本当、どんな人なんだろう。その間抜け面を一度見てみたい物だね。そう思うでしょう。エリスお姉ちゃん」
プロジェクトから外された間抜けな少女の背後を歩きながらセリスは笑う。
エリスの背にグサグサと矢が刺さっているように見えるのは一概に幻覚とは言えないだろう。
「……………あの、それ実は私なんです」
「え、何か言った?」
血を吐くような思いで告白したエリスにセリスは笑顔で問い返す。
そのあまりにも無邪気な笑顔は、ネコの少女をさらに追いつめる。
「…………え…と……その………」
「まさか、お姉ちゃんがそうだったりして―――って、そんなわけないかお姉ちゃん優秀そうだしね」
「がっ!?」
心筋梗塞の患者の如く心臓の辺りを握りしめるエリスに、セリスは標本にされる昆虫の断末の痙攣を見るような微笑みを向ける。
セリスは当然、エリス・ウィリエムが遺失物の解析プロジェクトから外されているのは知っている。
詳しくは聞かなかったが、他の研究員全員と意見が分かれてほとんど村八分の状態らしい。
それを踏まえてワザと嬲っているのだ。
他人の心の傷を抉るのもセリスの趣味の一つであり、一種の健康法だ。
特にストレスの発散にはちょうどいい。
彼がエリスの後ろで荷物持ちをしているのも、彼女の部屋までついて行き研究を見せて貰うためだ。
無論、無邪気を装ってなじってけなすためである。
そんなセリスの素敵な企みを知らないエリスは、ふらふらと幽鬼のような足取りでセリスを連れて行く。
ここはどこだ?
冗談でも洒落でもなく、セリスは本気でそう思った。
いや、ここは虎の国の王立研究所のはずだ。
そうでなければおかしい。
しかし、その現実が受け入れられない。
第二十七号研究室と書かれた色あせたプレートが付けられた扉の先にあったのは、異世界だった。
まず最初に目にはいるのはそこら中に散らばった紙だ。
真っ直ぐな物や、丸められている物、しわくちゃな物や色あせている物など状態も様々で、よくよく見てみると細かい文字がびっしり書かれていたり、赤線が引かれていたりする事から何かの書類だという事が分かる。
それらが机と言わず床と言わず散らばっているのだ。
さらに書類と同じくらいの頻度で本も散乱しており、あちこちのページに付箋が付いていたり開いてたりする物があるし、何かの実験器具らしい奇妙なオブジュもあちこちに散乱していた。
と、ここまでなちょっとずぼらな研究員の部屋で通っただろうが、問題はその後だ。
明らかに使用後と分かる衣類があちこちに脱ぎ散らかしてあり、脱衣籠らしい物に入っている衣服も山積みになっている。
元食べかけのハンバーガーや、ホットドックに飲みかけのコーラらしき残骸が変色して変な匂いを発しているし、しかも器や包装紙から溢れたそれが辺り構わず変なシミとかを作っている。
壁にある断末魔の絶叫を刻み込んだ亡者の表情みたいな紋様は間違いなくカビだ。
と言うかこのネコの少女が煙草を吸わないとすれば、部屋中の壁紙がうっすらと黄色く染まっているのは何故だろう。
部屋の隅のベットには、おそらくここ数年間は干してなさそうな微妙な湿り具合が遠目にも分かる程の布団が敷かれているのだ。
部屋の各所に配置されたゴミ箱は内容量をはるかに超えたゴミを詰め込まれ溢れかえっていて、おそらくゴミ袋らしき黒い物体は袋のビニールが破れてそこから変な汁が出ている。
それらの発する匂いが一体となり、表現不可能な臭気が鼻の粘膜を刺激する。
蛆虫が湧いた腐乱死体の山だろうが、戦乱の後に残る体温を残した死体に満たされた荒野だろうが平然と歩けるセリスだが、この部屋に入るには少し覚悟が必要だった。
肉体の腐乱臭や、血臭にも慣れているセリスだがこの部屋の匂いはそう言う物とはベクトルが全く違う。
何か変な物が発酵したような匂いなど初めて嗅いだ。
(生き物が住む部屋じゃないだろう。これ―――)
肉体がとろけはじめたゾンビだって、もっとマシな部屋にすんでいるだろう。
「ええと、ちょっと散らかってますが大丈夫です」
恥ずかしそうに顔を伏せるエリスであるが、そんな保証をされてどこの誰が安心出来るというのだろう。
しかし、こんな部屋に住めるこの少女の感性に微妙な興味を覚えなかったと言えば嘘になる。
「で、お姉ちゃんの研究って何なの?」
「は、はい。今出しますっ!!」
普段誰にも相手にされないせいか、エリスは多少興奮しながら発掘を開始した。
比喩でも何でもなく、そこら中に散らばった書類の中から数枚の必要な物だけ選別する作業は正に発掘作業を彷彿させる。
「こ、これです」
如何なる魔法を用いたのか僅か数十秒で膨大な紙の中から、目的の物を見つけ出す手際は正に神業と言っても過言ではあるまい。
書類に変なシミが付いていたり、しわくちゃになっていたりしなければ、セリスも賛辞の言葉の一つぐらい口にしただろう。
「えーと」
変な汚れに指が触れないように細心の注意を払いながらぱらぱらと目を通していく。
並の汚毒には無縁な体ではあるが、精神的にいやな物があるのだ。
「…………これって本気なの?」
全ての紙片に目を通したセリスがエリスに向けたのは冷ややかな視線だった。
「は、はい」
どこか緊張した面持ち頷くエリスに視線の温度はさらに下がる。
「君はこんな戯れ言を考えている訳、これは理論じゃなくて空想だ。まともな発想じゃないね」
「そ、そんなの分かっています。で、でも出来るはずなんですっ!!」
そこまで言って声を荒げた事を恥じ入ったのか、音量が一気に低くなる。
「理論は完成しているんです。実践すれば必ず成功するはずです」
「実践すれば? 一体何を根拠にそんな事を言うのさ」
もはやセリスの視線は侮蔑と言っていいレベルまで冷え切っていえるが、エリスの言葉は止まらない。
「この国で発掘される遺失物にはのいくつかには、これと似たような技術が使われているはずなんです。他の人は遺失魔法や使用可能な物の研究しかしていませんけど―――」
ダンジョンで発掘される物品の約半分が用途効果とも不明の物品なのである。
そのうち実際に使用出来るのは一割で、原理が解明されているのはさらその一分がいい所だ。
つまり、発掘される品のほぼ全ては使用も解析も出来ないただのゴミなのである。
セリスの手の中にある書類は、そのゴミについての考察と仮説が書かれていた。
「だからそれが? こんな物は夢想の極致だよ。無駄で無意味な愚かな戯れ言だね」
ボンッ、、、
セリスの手にあった紙束が呆気なく燃え尽きる。
エリスがなりする間もなく、彼女の研究成果は灰も残さず消え去った。
「―――な、何するんですかっ!?」
「燃えるゴミを始末しただけだよ。ゴミはゴミらしく燃やすべきでしょう?」
突然の仕打ちに非難の声を上げるエリスだが、幼き奴隷の眼差しは冷ややかだ。
「ま、君が何の研究をしようと勝手だけど、そんなくだらない事を「くだらなくなんてありません」
背を向けて去ろうとするセリス嘲罵の言葉は少女に遮られた。
当然と言えば当然だが、エリスはその小さな体を怒りに震わせセリスを睨み付けている。
「私はこの研究をくだらないなんて思った事は一度もありません。誰も信じてくれませんけど、絶対正しいはずなんですっ!!」
「正しい、実証も証明も出来ない理論の何が正しいというのさ? そんなのはまともな科学者の言葉とは思えないね」
唯一これだけは譲れないとばかりに叫ぶ少女にセリスは嘲笑を向ける。
「科学者は理論と実績と実証に裏打ちされた事実を積み重ねて行く物だよ。君のは単なる妄想、何の裏打ちもないじゃないか―――」
実績もなく実証も出来ない理論など絵に描いた餅も同然だ。
そんな物は構築するだけ無駄な欠陥品に近い。
そんな理論一つ組み立てている暇があるのなら、使える遺失物を解析してデータを取った方が遙かに生産的だ。
「た、確かにそうですけど、だったら確かめればいいだけです。そうじゃないと証明されてもいないのに、出来ないと決めつけるのは早計ですっ!!」
おおよそ虫けらを見下すようなセリスの視線に、エリスは一歩も引かず熱弁を振るう。
彼女の言う通り、出来ると証明されなくても、出来ないと証明されない限り完全な不可能とは言えないのだから、その言葉は正しい。
「不可能の証明が出来ないからと言って可能って訳じゃないでしょう。そんなのは子供の屁理屈だよ。自らの理論を語るなら他人を納得させるだけの根拠を示しなよ。それがないなら、そんな物を他人に語る資格はないね」
「そ、それは―――」
人が個人でどう思おうがそれは本人の自由であり、それを邪魔する権利は誰にもない。
だが、その考えを人に押し付ける権利も誰にもない。
他者に自分の主張を認めさせたいならば実証と証明により相手を納得させ、心変わりさせるしかないのだ。
「で、もう一度聞くよ。君は本気でこんな物を信じているの?」
そう言ったセリスの表情は今までと寸分違わぬ物だったが、彼の主辺りが見れば微妙な違和感に気付いたかもしれない。
「……………」
返事はすぐには返ってこなかった。
正論によってなじられ、嘲笑され、侮蔑され、罵倒された少女はその身を小さくして震わせている。
もしも、セリスに相手を貶めて優越感に浸るという意図でもあったのならまだマシだっただろうが、彼は淡々と事実を突き付けエリスを科学者ではないと言い切ったのだ。
そして、エリスはそれを反する言葉を持っていない。
それは論理を語る物としての敗北だ。
彼女も自分の言っている事がどれだけ愚かな事か理解はしているのだろう。
しかし、引き下がりはしなかった。
涙を溜めた瞳で決然とセリスを睨み口を動かす。
「―――分かっています。私のしてる事が誰かに認められるもじゃないって事ぐらい。だけど、止める気はありません。どんな夢物語でも、それを不可能と証明した人は有史以来誰もいません」
言ってからエリスは後悔した。
結局、自分で自らの理論がどれだけ穴だらけか告白してしまったのだ。
目の前の少年も冷笑を浮かべる事だろう。
今まで彼女を嘲り続けた大多数の者達と同じように―――
「…………試してみる?」
だからそう言われた時、すぐに意味が分からなかった。
「…………え?」
「だから、試して見るかって聞いたんだよ。君の考えを、欲しい物は何だって用意するよ。材料、道具、人員、資料、予算、欲しいだけ準備してあげるよ」
煽るように、試すかのように呟くセリスの様子はまるで契約を持ちかける悪魔のようだった。
そしてエリスがその提案を理解するためには数秒の間を要した。
「な、何でそんな事してくれるんですか?」
「そんな事を聞いてる場合かな? これはチャンスなんだよ。これを逃せばおそらくその研究は永遠に日の目を見る事はないだろうね。僕が何を考えていようと、気が変わらないうちに返事した方がいいと思うけど―――」
喜びよりも驚愕よりもまずは疑問が前に出た少女にセリスはにっこりと微笑む。
確かに彼の言う通り、これはまたとないチャンスだろう。
どのような目論見があるか知らないが、彼は自分が活躍する場を提供してくれると言っているのだ。
エリスの心は揺れた。
誰も見向きもしなかった、誰も認めなかった自らの考えを誰かが認めてくれるかもしれない。
そして、この機会を逃せばもうあり得ない事だろう。
「だけど、もしも君の理論が間違っていたならそれ相応の責任は取って貰うけどね」
優しい笑顔のままさらりと怖い事を言うが、エリスはほとんど迷わなかった。
いや、答えは最初から決まっていたと言っても過言ではないだろう。
「―――やらせてください」
気付いた時にはそう言っていた。
「一体どういう事ですかっ!?」
「いきなり来て、そう言われても即答しかねるのですが、僕が何かお気に障るような事でもしましたか?」
翌日、研究所の資料室で本を読んでいたセリスは、肩を怒らせてやって来たイヌの少女に困惑した表情を向けた。
「どうして、私達があの子と同じ課題をこなして比べられなければいけないんですかっ!?」
「ああ、その事ですか――」
その叫びにセリスはようやく合点がいったという風に頷いた。
「実は我が主の命令でしてね。実際にどの程度の実力があるか確かめろと言われたので、手っ取り早く課題を出して皆さんの実力を推し量ろうとしているだけですよ」
「……………それは分かりますが、だったらなぜあのネコと競わなくてはならないんですか?」
ウィネッサは何かを探るような眼差しをしていたが、セリスはあえて気付かないふりをした。
「何、ちょっとした余興ですよ。彼女にはあなた達より成果が劣っていたら、この研究所を止めて貰う事になっているんですよ。何せ、意味不明な研究をやっているかたですし、所長も頭を痛めていたようですのでちょうど良い機会だと思いましてね」
まるで企みなど欠片もないという表情でセリスは続ける。
「それにあなた方に多少の箔も付くでしょう。研究所の中でも特に優秀な研究者として―――」
と、そこまで言ってからセリスは唐突に気付いたように瞳を鋭くした。
「まさかと思いますが、あなた達が彼女より劣っているという事はありませんよね?」
「当然ですっ!!」
「………それならいいのですが――」
断言する少女にセリスは多少不安げな眼差しを向けながら口をつぐんだ。
「ネコの方と同列視されたくないという、あなたのお気持ちも分からない訳ではないんですが、何分主の命令ですし、我が主はお世辞にも専門知識に熟達しているとは言えないので、資料を提出するより具体的な成果を出して頂く方が理解しやすいんですよ」
多少の苦労をにじませながら、幼き奴隷は軽く嘆息する。
「その際に相対的に比べる物があれば、尚のこといいと思いまして―――」
「………分かりました。そう言う理由なら仕方ありません」
一応了承してはいるが、その様子は欠片も納得していないように見える。
もっともな事だが、誰だって見下している相手と同列に扱われるのはいやだろう。
プライドの高い彼女なら、尚のこと許せまい。
(ま、それだけってわけじゃないだろうけど―――)
自らの内心を悟られぬように沈痛な表情を浮かべながら、セリスはイヌの少女を見送った。
「………果たして類い希なる愚か者か、至上の才を持つ者か――」
そう呟くセリスの視線の先にあったのは、先日彼が燃やしたはずの書類の束だった。
「…………あいつ、まだ帰ってないの?」
「何だ突然―――」
資料を見ながら課題をこなしていたシルスはミリアの言葉に手を止める。
ちなみに、彼が手がけている課題は言葉を掛けた少女がやるべき物であった。
「セリスの奴が見あたらないんだけど――――」
「ああ、それならさっき電話があってしばらく帰れないらしいぞ」
電気磁気学についての論文に目を通していたマダラの青年は、しおりを挟んで本を閉じる。
「何でも、王都の研究所で科学者を選ぶのに手間取っているらしくてな」
「…………そう」
「…………ひょっとして寂しいのか?」
ゴスッ!!
何やら非常に不満げな表情をするので何となく聞いてみたが、返事は陶磁器の灰皿で眉間に命中、シルスはそのまま引っ繰り返る。
「誰がよっ!! あんな奴いなくなってせいせいしてるわ」
「そ、そうか――」
派手に出血する眉間を押さえてシルスは起きあがる。
如何に虎とはいえあまり失血すると本当に危ないので、即座に止血する。
ミリアと付き合う上で応急処置の技能は必須だ。
「そうよっ!! せっかくあいつがいないんだから、遊びまくってやるわっ!! もう課題なんか何一つとしてやらないわよっ!!」
「もしもし、すいませんが私の前にあるのは、あなたが押し付けた課題なんですが――――」
シルスがそう言い終わる頃には、ミリアは扉を閉めて部屋を出ていた。
「…………………はぁ」
色々な物を諦めるために溜息一つを吐き出し、シルスは再び本を開き幼なじみの課題に取り組みはじめる。
その背には若い見た目とは裏腹に、人生の疲れを知った者の哀愁が張り付いていた。
「………………意外と時間が掛かったね」
切り立った岩山の断崖を見上げる位置に設けられた来賓席で、セリスは眠たげに呟く。
結局の所、セリスの王都滞在はおおよそ半月程まで伸びた。
ウィネッサとエリスの課題を評価とする決めた日に、シルスに連絡してしばらく留守にすると言付けておいたがそろそろ戻らなければなるまい。
おそらくミリアの方は課題が出されずにすむため狂喜しているだろうが、この後の事を考えればそれぐらい許してやろうという気持ちになる。
自分が帰ったら即座に一日を七十二時間としての勉強スケジュールを取り込まなくてはならないのだ。
せいぜい今の内に地獄の前の余暇を堪能していればいい。
主をからかえないのは多少残念だが、たまには我慢することももマンネリに陥らないためには必要だ。
「しかし、本当によろしかったんですか、このような無駄な事をして―――」
「まあ、仕方ないでしょう。この程度の経費は予定の内です」
真横で肥満体の体を椅子に押し込んでいる所長に適当に返し、セリスは眼前の様子に集中した。
この所長、余程セリスに良い印象を持って貰いたいのか、身分的には奴隷である彼に飲み物や菓子まで振る舞うのは勿論の事、あげくには知り合いが所有している人奴隷とお見合いしないかとまで進めてきたのだ。
初めのうちこそ丁寧に返していたセリスだが、いい加減にめんどくさくなったのでおざなりな対応を続けている。
思考の十億分の一程を所長への応対に振り分け、セリスはその目を細めた。
彼の視線の先にあるのは二つの巨大な鉄塊である。
片方には白衣を着た研究員らしき人影が機敏に動いており、おそらく所長の胴回りでも通りそうな金属の筒を中心に構成された、正に大砲という外見だ。
もう片方の方は白衣を着た人影は一つだけで、その影が他の作業服を着た影に指示をしている。
ちなみに後者の白衣を着ている人影は、先程まで何度も重そうな機器を運ぼうとして顔面から地面に突っ伏し、作業服を着た人達に説教されていた。
そちらの方も円筒形の筒が置かれていて、こちらは普通の大砲の大きさだが、周りに多種多様な装置やケーブルが設置され全体的な大きさはもう一方より大きいぐらいだ。
「しかし、結果の分かり切っている比較など見ていてもつまりませんな」
「………………結果が分かり切っていればですがね」
そう呟いたセリスの言葉は本人以外誰にも届かなかった。
「一体どんな手を使ったのかしら?」
背後から掛けられた高圧的な声にエリスは肩を振るわせた。
そっと背後を振り向くと、そこには彼女の予想通りの人物が立っている。
「本当、時間の無駄だわ。私とあなたが比べられるなんて――」
あらか様に見下した口調で身長的にもエリスを見下ろすのはイヌの少女ウィネッサだった。
「あ、あの何のようですか?」
「別に用なんか無いわ。ただ、一体どうやってあなたがあの奴隷をたぶらかしたか興味があるだけよ」
侮蔑を乗せた攻撃的な眼差しを向けられ、エリスは無意識に萎縮してしまう。
「そ、そんな…………たぶらかすなんて―――」
「他に何があるのかしら? あなたのような変人をこの場に立たすなんてまともな事じゃないわ」
ネコの少女が強く反論しない事をいい事に、ウィネッサは言いたい放題である。
二人のこの関係は今に始まった事ではない。
事あるごとにウィネッサは愚かな理論を提唱する少女に絡み、その考えを批判していた。
そして罵倒し嘲弄し見下すのがウィネッサの役であり、罵倒され嘲弄され見下されるのがエリスの役目だった。
「まさか、体でも差し出したの?」
「なっ!?」
あまりと言えばあまりの侮辱であったが、結局エリスに出来た事など顔を真っ赤にして俯く事だけだ。
生来からの気の弱さも手伝ってか、エリスは自分を主張するという事が苦手だった。
余程の事がない限り相手の意見に反論したり、異議を申し立てる事はないのだ。
しかし、彼女には珍しくウィネッサの次の言葉には激烈に反応した。
「まあ、あなた見たいな幼児体型に欲情するなんて、あなたと同じくらいの変人なんでしょうね」
「セ、セリスさんは変人なんかじゃありませんっ!!」
全く持って予想していなかった突然の声に、さらに言葉を続けようとしたウィネッサの口が止まる。
「私の事は何と言われても我慢出来ますけど、セリスさんの事を悪く言うのは止めてくださいっ!!」
一気に言い切り、肩で息をする少女にウィネッサは一瞬呆気にとられたが、即座に元の余裕を取り戻す。
「あら、ひょっとしてあの奴隷の事が好きなの?」
「――――そ、そんな事ありませんっ!!」
否定する言葉は、しかし先程より顔に血液を集めていては説得力も欠片もない。
そんなエリスをイヌの少女は汚物でも見るような目つきで見下ろす。
「どうせ、あなたとあの奴隷はここでお別れよ。私が勝つんだから――――精々今の内に愛の告白でもしておいたほうがいいわよ」
「…………………」
捨て台詞を残して去っていくウィネッサの背を見送りながらエリスは拳を握りしめた。
「いよいよ、始まるようですな」
「……………………………ええ、そうですね」
所長の話を聞き流すために、百万年後のニンニク相場に付いての考察を行っていたセリスが急いで意識を戻す。
彼らの眼前では、ウィネッサの班が装置の準備をしている。
今回セリスが彼女らに与えた課題は、『高威力の兵器の開発』だった。
運用や実用化は考えずに、ともかく威力さえあればいいという考えでやらせた課題だ。
この世界でもっとも攻撃力を持つ物と言ったら、『魔法』である。
大規模な戦略級の攻撃魔法は一発で千、万単位の虐殺を可能にし一気に戦況をひっくり返せる切り札とも言うべき物だ。
それに比べれば、重火器やましてや剣など比較するのもおこがましい程弱小だ。
まあ、剣の中には下手な魔法より威力のある魔剣などと言う例外もあるが一般的には魔法が最高の攻撃力を誇っている。
それが原因かどうかは知らないが、この世界での重火器の発達は遅れ気味だ。
大砲やガトリング砲が精々で、ミサイルなどは概念すら存在しないらしい。
小火器に関してはそれ以下だ。
この世界の種族は生命力が強く小口径の弾丸ではまず致命傷にならず、甲殻類型や爬虫類型の種族の中には、並の銃弾など弾き返す体皮を持っている種が居るし、高速移動が得意な種族になると下手な銃弾より早く動ける者もいる。
そのため戦争の主役は未だに剣と弓と魔法だ。
自らの身体能力をそのまま威力に反映させられる原始的な武器の方が、簡単に高い破壊力を出せるのだから、わざわざ複雑な小型火器の開発をする者が居る訳がない。
つまり、高威力の兵器となると必然的に大砲などの重火器を求める事になる。
「お、はじめるようですな」
ウィネッサがライトの点滅で発射の合図を送ってきたため、セリス達は耳当てを嵌めて待機する。
十数秒後、耳当てをしているのに関わらず爆音がセリス達の鼓膜を振るわせた。
ほぼ同時に威力を試すために置かれた壁に弾丸が命中する。
一つめの丸太を積み上げた木の壁は難なく破砕貫通し、二つめの分厚い鉄板製の壁も難なく突き破り、三つ目の積み上げられた土嚢が吹き飛ばされ、背後にそびえ立つ岩山に命中内部で爆発を起こした。
轟音と共に岩盤が崩れ落ち、岩肌を削り取る。
音が納まった時は、辺りに砂が舞い上がり砕け散り土砂となった岩が山となっていた。
「………………」
大音声から一気に静謐へ、誰も何も言わない。
「成る程、砲尾から砲口へかけて口径を小さくする事によって、銃身内の圧力を効率的に砲弾に伝えているようですね」
自らの見た光景と知識を照らし合わせ、セリスはすらすらと使われた理論を語る。
しかし、その表情はつまらない芸を見たように退屈そうな物だった。
「しかも、圧力を発生させるのに火薬ではなく、火の精霊石を使っているから、質量に対するエネルギー総量も大きい。砲弾に比重の重い金属を使いさらに炸裂弾にする事により破壊力を増している」
「よ、よくお解りで―――」
一人呟くセリスに所長が即座に追従の笑みを浮かべる。
物体の運動エネルギーは速度と質量が大きくなればなるほど増大し、その破壊力を増す。
同じ速度でも、木の弾より鉄の弾の砲が破壊力があるのは当然だ。
さらに砲弾を対象の内部で爆裂する炸裂弾にする事でもっと威力を上げている。
もっとも、あの程度の威力ならわざわざ重火器を用意するより、魔法を使用した方が運用的、戦略的に遙かに効率がいい。
その証拠にたった一発撃っただけで、砲身が熱で駄目になっている。
いくら耐熱構造と耐熱使用に加工した幼智賎無鋼を使っているとは言え、火の精霊石の熱量と衝撃には耐えられなかったらしい。
「いや、実に素晴らしい威力ですね。これだけの威力の重火器はどこでも作れる物では内でしょう。金属加工の技術もさることながら、火の精霊石を正確に扱うには錬金術の高い知識と技術が不可欠なのに、その点もちゃんと押さえている。実に基本に忠実ですね」
「ええ、そうです。実に素晴らしいでしょう彼女の技術は―――」
自分の事のように誇る所長の言葉に軽く相づちを打ちながら、セリスは視線をエリスの方へ向ける。
彼女らのグループは砕いた精霊石を、ドーム型の箱に詰めていた。
「あれは雷の精霊石――ではなく精霊晶のようですね。あんな物をどうするのでしょうか?」
金より高価と言われる精霊石の中でも特に高純度で貴重な物質をエリス達は惜しげもなく、破砕し消費していく。
「ええ、全く理解出来ません。あの娘は一体何を考えているのか、一応あれは砲身のようですが、火の精霊石ならともかく雷の精霊晶では爆圧で砲弾を押し出す所か、砲身自体が持たないでしょうな。第一、あのドーム型の箱をどうやって砲弾と合わせるかが謎です」
エリス達の方では爆圧を発生させるための、火の精霊石どころか火薬すら使っていない。
これでは爆圧を使っての発射は無駄だろう。
その証拠にエリスはドーム型の箱を砲身に組み込まず、凄まじく太いケーブルを接続している。
接続する途中でよろけて、ケーブルの下敷きになったのはご愛敬である。
しかも、砲弾に使用するのは炸裂弾ではなく普通の徹甲弾だ。
普通に考えれば、エリスの負けはほぼ確定的だろう。
ウィネッサもそのことに気付いているらしく、勝利を確信した笑みを浮かべていた。
「全く、本当に無駄な時間を使いましたな」
やがてエリスがライトの点滅で発射の合図を送ってきたが、所長は耳当ても嵌めずにセリスに同意を求めてきた。
セリスは当然、耳当てを嵌めた。
「はは、そんな事をしなくてもどうせ弾は飛び―――」
所長の言葉を遮って砲弾は発射された。
その発射を認識出来たのは、その場にいた者達の中でセリスだけだった。
発射された弾丸は障害であるはずの壁を何事もないように粉々に粉砕して吹き飛ばし、背後の岩壁に命中すると、そこで溜め込まれた運動エネルギーを解放、地の果てまで届くのではないかという大音声と共に岩盤を爆砕する。
砲弾のエネルギーが納まった時、岩山に巨大なトンネルが完成して向こうの景色が丸見えになっていた。
数秒後、自らの構造に致命的な欠損を抱えた岩山が自重で崩壊し崩れ落ちていく。
「大当たりだね。これは―――」
真横で泡を吹いて痙攣する所長に構わず、岩山が崩れる轟音の中セリスは最高の掘り出し物を見つけた商人のような笑顔で笑った。
自分の作った試作品が巻き起こした大破壊を見ながらエリスはへたり込んでいた。
予想外の衝撃波に三半規管が麻痺して立つ事が出来ないのだ。
しかし、本人にはどうでも良い事だった。
目の前の光景は彼女の理論を証明し、その正しさを見せつけているのだから―――
爽快だった。
誰もが嘲笑し侮蔑した論理が、今まで誰もなしえなかったであろう結果を導き出したのだ。
何度と無く挫折しそうになった。
嘲罵の声と侮蔑の視線を浴びせられるたびに自己嫌悪に陥り、研究を放り出そうとした回数は決して少なくない。
それでも自分は進み続けたのだ。
そしてとうとうその努力が報われ、彼女の前にその成果が現れた。
心の底から歓喜が湧き上がってもおかしくない。
「面白い表情してるね」
回復してきたらしい聴覚が拾った幼い声の方を向けばセリスが立っていた。
「君さ、泣きながら笑ってるよ」
「うぇ?」
セリスの言葉に顔に指を這わすと確かに涙が頬を伝っていた。
それに気付くと、急に気恥ずかしくなって急いで白衣の袖で涙を拭う。
セリスの方はエリスの涙など特に関心がないようで、試作された重火器を眺めている。
「この世界で電磁加速砲の概念を思いつくとは非常識にも程があるけど、それを完成させてしまう才はさらに非常識だね」
砲弾の衝撃力は内包する運動エネルギーに依存し、運動エネルギーは質量と速度の二乗に比例する。
事実上、光速に近くなるほど運動エネルギーは無限に近づいていく。
確かにウィネッサのやった通り、砲弾を炸裂弾にして質量を増やせばある程度までは容易に破壊力を上げられるが、それ以上に速度は恐るべき武器なのだ。
音速の十数倍と言う常識外の速度で発射された砲弾は衝撃波を纏い、立ち塞がる物全てを貫通し微塵に粉砕、あらゆる防御を突破して大破壊を繰り広げる神槍と化す。
しかし、一般的な魔法や火薬などでは此処までの非常識な速度は出せない。
魔法で此処まで加速しようとすれば、それこそ規格外と言われるクラスの術者でなければ不可能だろうし、火薬や火の精霊石を使っても、その総エネルギーのほとんどが熱量に変換され無駄になり、運動エネルギーに使われるのは微々たる物だ。
対して電気エネルギーは熱エネルギーに対して非常に変換効率が高く、ほぼ入れたエネルギーをそのまま運動エネルギーに変換出来る。
つまり、エリスが雷の精霊晶を使ったのは熱エネルギーよりさらに効率の良い電気エネルギーを使う事によって、この超加速を得るためだ。
発生した莫大な電圧は砲身内で磁場に変換され、それによって砲弾を加速させる。
この世界でも、電気と磁力の関係ぐらいは知れているだろうが、未だ剣と魔法が主流の自体でそれを兵器に転用するなど思いつく物はまず居ないだろう。
そんな事を思いついてしまうのは、余程の馬鹿か、常識外の天才だけだ。
そしてセリスの目の前のへたり込んでいるのは後者だった。
「あ、あの」
「ん、何?」
非常に機嫌が良いため、フレンドリーな笑顔でセリスが振り向くとエリスは耳まで真っ赤にして俯いてしまう。
(これが正常な反応なんだろうけどな)
自らの上機嫌な笑顔を見るたびに、全力で逃げ出す主を思い浮かべながらセリスは嘆息した。
全く持って失礼な事である。
自分はただ単にちょと斬新的な悪戯を思いついて、それに付き合って貰おうと思っただけなのに―――
まあ、最後には強制的に付き合って貰うので大した問題はないが―――
「あ、ありがとうございました。セリスさんのおかげでようやく研究の証明が出来ました」
「別にお礼は良いよ。これを造ったのは間違いなく君の力なんだし、僕はその手助けをしただけだよ」
礼を述べるネコの少女にセリスは素直な賞賛を送った。
他人の能力を正当に評価出来ないほどセリスの心は狭くない。
もっとも、他人をおちょくるためにあえて侮蔑の言葉を吐くのを躊躇うほどユーモアを理解していない訳でもない。
「それより、僕に付いてこない?」
「え?」
唐突に呟かれた誘いの言葉にしかし、エリスは事態を飲み込めない。
「実はさ、僕がここに来たのは領地の産業を発展させるために、そのための技術者を探しに来たんだよ。ついでにご主人様の家庭教師を探しにもね」
言葉と共に出た嘆息は出来の悪い主に向けた物だろう。
本人が聞いたら全力で抗議しそうな物だ。
「で、最初はあのウィネッサって言うお姉ちゃんを連れて行こうと思ったんだけどね。でも、この実験の結果を見て気が変わったよ。君の方が彼女より優秀だ」
未だ困惑の表情を浮かべるエリスに構わずセリスは続ける。
「過去の理論から積み上げ続け、高みに登るのは誰にでも出来る。だけど、何も積み上げずに高みを歩む事は凡人には無理なんだよ」
天才と秀才の違いは、自ら新しい物を生み出すか、その生み出された物を扱うかの違いである。
そして、前者と後者の差は僅かでありながら絶対的な断裂を持っている。
秀才が十の努力と百の研鑽と千の時を積み上げ辿り着く領域に、天才はたったの一時で到達する。
秀でた才ではなく、天性の才である故にその理を覆す事は出来ない。
得てして、そのような突出しすぎる才の持ち主は周りに理解されず孤立するが、エリスの場合はそれが顕著なのだろう。
あまりにも先走りすぎた彼女の理論は、彼女と同じ才を持たない他人に理解される事はない。
しかし、セリスにとって彼女は非常に魅力的だった。
その才は無論の事、常に新しい物を得ようとする探求心は研究者にとって何よりも必要な物だ。
「君には資格があるよ。僕の知識を学び、自らを高める資格がね。君達が及びも付かない事を僕は知っている。僕と来るならそれを学ぶチャンスを君にあげよう。その全てを得られるかどうかは君次第だけどね」
言われたその言葉は、聖者を堕落させる悪魔の甘言のように魅力的だ。
あまりに甘いその言葉にエリスはしかし躊躇った。
この少年は何かが違う―――そう考えたからだ。
その紅い瞳に見える知性は深く底が見えない故に、踏み出す一歩を躊躇する。
「どうしたの? 何も怖い事はないよ」
優しげな声でセリスがそう勧誘した時、しかし辺二人の間に割ってはいる影があった。
「一体どういう事よっ!! これはっ!!」
エリスの眼前に立ち塞がった影、ウィネッサは怒声と共にネコの少女の襟首を掴み上げる。
電磁加速砲の発射の際に砂埃でも被ったのか、その姿は全体的に薄汚れていた。
「何で、こんな結果になったのっ!? 何であたしの理論があんたに劣っているのよっ!!」
現実が受け入れないかのようにイヌ少女は叫ぶ。
つい今まで彼女は自分の勝利に何の疑問も持っていなかったはずだ。
しかし、その確信は即座に叩き潰された。
今まで見下していた相手が自分より優れていると、証明されてしまったのだ。
プライドの高い彼女に許せる訳がない。
「私があんた何かに劣っている訳「お取り込み中申し訳ありませんが―――」
割り込んだ冷ややかなその声は、ヒステリックに叫ぶウィネッサの怒声すら遮った。
「これはどういう事ですか? ウィネッサさん」
事務的なその口調は刃のように鋭く固い。
「私はあなたが、この研究所でもっとも優秀な方だという事でお誘いしたんですよ。なのにこの結果は、納得いかないのですが―――」
「ち、違うわ。これは何かの間違いよ」
「科学者としては、いささか論理性を欠いたお言葉ですね。それはそうと、その手を放して頂けませんか、その方は我が領地の客人なので―――」
「――客人?」
セリスの言葉の後半にウィネッサは異世界の言葉を聞いたような顔になった。
「ええ、我が主の領地にお招きするんですよ。当然、あなたの代わりにね」
「え、あの――」
「だから、その手を放してもらえませんか? もう、あなたには用がないんですよ」
エリスはとまどいの声を上げたが、セリスは勿論の事、頭に血が上ったウィネッサは全く聞いていない。
「ふ、ふざけるんじゃないわよっ!! あんたに何が分かるって言うのよっ!?」
「そんな事は関係ありませんね。何事も出した結果によって評価されるのは当然でしょう。そして、その結果であなたはエリスさんより劣っていた」
そう言って、セリスはわざわざ言葉を切った。
心の底から失望と侮蔑の色を浮かべた表情こそが、目の前の少女のプライドをずたずたにする事を知っているからセリスはあえてその表情をする。
「その程度の事も分からないなら、あなたの底も知れますよ」
「っ!?」
奴隷階級、本来ならば自分達の足下に跪き奉仕する役割であるはずの格下の者に見下されウィネッサの怒りが頂点に達する。
しかし、その手がセリスの襟首を掴む前に逆に伸ばした腕を掴み返されてしまう。
「は、放しなさいよ」
如何に女性とはいえ、イヌの身体能力にたかが人が敵うはずがない。
それが彼女の常識であったが、そんな物はセリスには関係なかった。
振り払おうとするウィネッサに対して、彼の腕はビクともしない。
そしてそのまま少女を引き寄せ、その耳元で優しげな声で呟く。
「あのですね。ウィネッサさん。いい加減にしてもらえませんか、さもないと―――排除しますよ」
最後に紅色の瞳を細めて言い添えられた一言は、その幼い声とは裏腹に凄まじい重みがあった。
そしてその言葉を聞いた瞬間、ウィネッサの産毛が逆立つ。
(な、何よこれ――)
初めて感じる感覚に、イヌの少女の心は戸惑いと驚愕で満たされていく。
体中の筋肉が硬直して全身にいやな汗が噴き出る上に、さらに体の震えが止まらないのだ。
まるでこれでは自分がたかがヒトの奴隷に怯えているようではないか―――
咄嗟に出た考を一笑に伏そうとした所で、セリスの瞳と目があった。
ヒトでは非常に珍しいその瞳は冷え切り、無邪気でありながら攻撃性と残虐性、そしてそれ以上の狂気が溢れ出ていた。
(……あ)
その一瞬でウィネッサの全身から力が抜ける。
それは恐怖を克服した訳ではなく、限界値を超えた恐怖に感覚が麻痺してしまい一時的に機能不全に陥ったのだ。
「……………」
へたり込んだイヌの少女にセリスは、飽きた玩具を見るような視線を向ける。
黙らせるために多少の殺気を込めたのだが、戦士でもない小娘に少々刺激が強すぎたようだ。
普段なら殺気で相手を黙らすなどと言う短絡的な事はせず、もっと上手くスマートにして念入りに壊すのだが、彼の今の興味はネコの少女の方にあった。
「で、君はどうするの?」
セリスがエリスに向けた視線は、ウィネッサに向けた物とは全く別の穏やかな知性を宿した物だった。
「……………」
しかし、ネコの少女は未だに戸惑っているようで、まだその目には迷いがある。
「君は知りたくないの? この世界に無限に溢れる膨大な疑問に問い、謎、それらを分析し解析し、全てを探求し突き詰めて知り尽くしたいとは思わないの」
セリスの言葉一つ一つが、エリスの好奇心を刺激する。
元々科学者は好奇心の強い人種だ。
自分の手の届く範囲に今までにない英知があるとすれば、それを求めずにはいられない。
事実、エリスもセリスの言葉に拒否出来ない魅力を感じていた。
ただ、最後の一歩を踏み出す事が出来なかっただけだ。
そして、それも無くなりかけていた。
(助けてくれたんだ)
詰め寄られていた自分を助けてくれた。
その事実は、好感度と言うにはあまりにも些細で矮小な感情をエリスの中に生み出す。
ただそれだけの事―――
しかし、非常に微妙な均衡を保っていた彼女の心の天秤を傾けるには充分だった。
躊躇いは消え去り、エリスはセリスの手を取った。