「エリス、エリス、エリスっ!!」 
「ふ、ふぁいっ!!」 
耳元で叫ばれた声にエリスの意識が強制起動し、反射的にその声の方を見る。 
「一体どうしたんだよ?」 
眼前にセリスの顔があった。 
「ひ、ひぃやぁっ!!」 
変な悲鳴と共にセリスを突き飛ばすエリスであったが、やはり突き飛ばしたエリスの方が吹き飛んでしまう。 
「……………本当に一体どうしたんだよ?」 
「な、何でもありません。ほ、本当に――」 
可能な限りセリスの顔から視線を外して、エリスは必死で言葉を紡ぐ。 
「…………なら、別に良いけどね。呆けられるほど僕の授業は低レベルなのかな?」 
「そ、そんな事ありません」 
「ふ〜ん」 
何か含みのあるような視線であったが、幸いにもそれ以上追求してこなかった。 
「そ、それよりも今日はミリア様の授業はしなくて良いんですか?」 
「ご主人様はちょっとお疲れでね。今日一日は授業は無しだよ」 
あまりにもあらか様な話題の転換だったが、セリスは律儀に答えた。 
(や、やっぱり昨日の事でしょうか――) 
昨日覗き見てしまったセリス達の情事は、経験皆無のエリスから見てもかなり激しい物だった。 
(ああ言う事をすると、体力を使うって言いますけど、そんなに――――) 
書物による知識だけあるエリスは、その手の行為がかなりの体力を消耗する事を知っている。 
確かに肉体的な疲労もさることながら、精神を興奮状態にして行うため精神的疲労も凄まじいだろう。 
しかし、ともすれば疑問が残る。 
目の前の少年はミリアの相手をしていたというのに、疲労どころか精彩の翳りも見えない。 
これが、狼や虎の大の男だったりしたら納得いくが、セリスはどう見ても人のそれも子供だ。 
あのような行為をしながら、翌日平然としていられる訳がない。 
「じゃあ、気を取り直して授業を始めようか――」 
「あ、はい」 
反射的にそう返事をしてエリスは思考を打ち切ったが、やはり普段通りという訳にはいかない。 
セリスの言葉も右耳から入って左耳から流れていく。 
(やっぱり、二人とも両想いなんでしょうか―――) 
普段のミリアとセリスはそれこそ犬猿の仲とでも言おうか、いや一方的にセリスがミリアを玩具にしているのだ。 
一般的な主従の関係ではまずあり得ない。 
人というのは、この世界で間違いなく最下層の存在だ。 
頼るべき祖国も集団もなく、肉体的にも脆弱で他の種族に劣っている。 
だがらこそ、彼らは奴隷として生きるしかない。 
力持つ者達に頭を垂れ、その下に付くしかないのだ。 
僅かながらの幸運な者はある程度の自由が保障される事はあるが、それでもこの世界の認識は人=奴隷の図式なのだ。 
その支配関係は絶対であり、引っ繰り返る事などあり得ない。 
だが、実際にセリスはそんな物を嘲笑うかのようにミリアに接している。 
公的な場ではともかく、普段の彼はミリアをからかって弄んでいるのだ。 
セリスがミリアの神経を逆撫でし、怒る主を見て悦に入っているのが、普段の彼らの主従関係だ。 
二次的影響としてミリアの最終ストレス発散地として、シルスが叩かれたり、シルスが殴られたり、シルスが蹴られたり、シルスが壺で殴打されたり、シルスが階段から蹴り落とされたりしているが、それはあまり関係ない。 
さらに夜ともなればセリスはミリアの肉体を思う存分貪っている。 
昼間あれだけ、色気がないとか胸がないとか馬鹿にしながら、セリスがミリアを抱く時は本当に楽しそうだ。 
ミリアの方は嫌がる素振りこそ見せているが、あれは絶対内心で喜んでいる。 
そもそも二人とも、好きでもない相手と肌を重ねるような性格には見えない。 
そんな関係が続いているのは、それこそ両者が憎からず思っているからだろう。 
そうでなければこのような歪な関係が続く訳がない。 
『僕があんな小娘に入れ込むと本気で思っているの?』 
拗ねたミリアにセリスが発したその言葉はエリスの胸に深く焼き付いている。 
彼の言葉は間違いではない。 
セリスはエリスに入れ込んでなどいない。 
自分の知識を学ばせ、役に立つ道具を作ろうとしているだけだ。 
彼女を気遣うのも、道具の手入れ以上の意味はない。 
そう考えると気分が沈む。 
セリスの事を好きか嫌いかと言われれば、好きだと即答出来る。 
しかし、それが男女関係の好きかと聞かれれば言葉に詰まる。 
そもそも彼女は生まれてこの方、恋とか愛とか言う物に無縁だった。 
元々が学問に没頭するような性格で、恋人どころか友達ですらそれ程多いとは言えない人生を送ってきたのだ。 
しかも、実際に社会に出て行けば科学者の道に進んだため、その傾向がますます増していった上に、ここ最近では周りの全ての人間達が自分を嘲笑していた。 
そうすれば、ますます人間関係は薄れ、ある意味その極みと言っても過言ではない恋や愛といった物には全くの無縁になるのも無理無い。 
理論と論理を何より大切にする科学者である彼女は、比較するべき経験がないために自身の気持ちを判別する事が出来ないのだ。 
(…………私はマスターの事が好きなんでしょうか?) 
もしも自分がセリスに好意を寄せてるすればどうなるのだろう。 
やはりミリアのように肌を重ねてみたいと思うのだろうか――― 
セリスと自分が情事に耽る様子を想像してみる。 
セリスが自分の唇を奪って服に手を掛けてくる。 
自分は反射的に身を捩るが、彼は構わず身体を引き寄せて服を乱暴に脱がしていく。 
シャツの下の下着が捲り上げられ胸が露わになると、それをセリスが面白そうに揶揄する。 
呟いた口から伸びた舌が、エリスの肌を這い回るその感触に体が震え、喘ぎ声が出てしまい、それを元にまたセリスが何かを言う。 
嘲るような言葉とは対照的に、その愛撫は驚くほど優しい。 
時間が経つほど体が火照り、喘ぎ声が大きくなる。 
そして、気付いた時にはセリスの指は自分の物で濡れていた。 
舌の愛撫が上半身から下半身に移る。 
敏感な所を舐められた瞬間、エリスは仰け反り一際大きな声を上げる。 
濡れ出た液体がそこを濡らし、いつの間にか下着が剥ぎ取られていた。 
セリスがエリスに確認を求めると、数秒の逡巡の後顔を両手で覆って了承する。 
そして、そのまま――― 
(何考えてるんですかっ!! 私はっ!?) 
数式を解くかのように自分とセリスの情緒を冷静に分析する自分に気付いて、慌てて想像を振り払った。 
昔からの癖で、集中しすぎると感情と思考を切り離し物事に取り組んでしまう。 
多くの場合は重宝するのだが、こう言う恥ずかしい事も素面で冷静に分析してしまうと言う問題もある。 
そして、今がセリスの講義の途中である事を思い出して慌てて顔を上げる。 
『通常空間と限定空間における分子工学理論の差異』と書かれたタイトルがエリスの視界を埋め尽くした。 
「へ?」 
次の瞬間、紙で人肌を叩いた音と少し遅れて固い物が床に激突する音が部屋に響いた。 
 
 
 
 
 
 
「うう」 
文字通り床と衝撃的なキスを果たした後頭部をさすりながら、エリスは自室の扉をくぐった。 
自分が顔を上げた瞬間が、ちょうどセリスが小冊子で頭を叩こうとした瞬間と重なり微妙な角度で入った打撃が力を伝達、顔を上げた拍子に重心を上に移動していたので、首を支点に体が仰け反り、そのまま椅子と共に引っ繰り返って後頭部を殴打したのだ。 
セリスにとっても予想外の事態だったらしく、一瞬唖然とした後に慌ててエリスを抱き起こして介抱した。 
幸いにも少しは責任を感じたのか講義の途中での失態については言及しなかった。 
さすがに、あなたと肌を重ねたらどうなるか思案していましたとは言えない。 
その代わり、体調が悪いならさっさと帰って寝ろと言われてしまったのだ。 
「………………どうしましょう」 
白衣を着たままボフっとベットに身を投げ出し、エリスはシーツに顔を埋めた。 
このままの状態が続けば、近いうちにセリスは自分を見限るだろう。 
彼は役立たずな人間を飼っておく程、甘い人物ではない。 
かと言って、エリスには具体的にどうすればいいのか分からない。 
研究や発明なら自信があるが、愛や恋などについては全くの埒外だ。 
エリスがそう悩んでいると、視界の端に部屋に備え付けてある棚が入った。 
その中には、ブランデーなどのアルコール類が置かれている。 
(飲んでみましょうか―――) 
適量のアルコールの摂取は、血行を促進させ神経を高ぶらせストレスの解消などの効能がある。 
無論取りすぎは危険だが、そう言う事をエリスは充分熟知している。 
酒に頼るとは何とも情けない話だが、この悩みずっと続くなら一時的にでも楽になりたい。 
緩慢な動作で身を起こすと棚に近寄り、ラベルも見ずに小振りな瓶を選んで取り出す。 
そして部屋の中を見回し、入れ物を捜す。 
数秒の視察の後、机の上にあったマグカップを発見する。 
先日片付けたはずなのに、早くも散らかり始めた机の上にあったカップには幸いな事に何も入っていなかった。 
そのまま琥珀色の液体を注ぎ込み、口元まで持ってくる。 
アルコールの匂いに一瞬躊躇するが、一気にそれを口に含む。 
酒の種類のせいか酒を飲むのはこれが初めてだったが、それ程飲みにくくはなかった。 
そしてそのままベットに取って帰って、再び横になる。 
「ふみゅうっ」 
アルコールの影響か、体が火照りだして思考力が低下していく。 
そのまま体を回転させて、大の字になる。 
(本当にどうしましょう――) 
結局アルコールは一時的な逃避の手段に過ぎず、根本的な解決にはなりはしない。 
思考が低下しても結局同じ事を考えてしまう。 
自分は実際どうしたいのだろう。 
やはり、そう言う関係になりたいのだろうか――― 
好きになる切っ掛けならたくさんあった。 
誰もに侮蔑され卑下されていた時、彼は自分を見出し認めてくれたのだ。 
それだけでも充分だが、さらに彼は自分に研究する環境を整えてくれた。 
(でも、こう言うのって好きになる切っ掛けであって理由じゃないんですよね) 
いくら恋愛に疎いエリスもそのぐらいの事は分かる。 
愛の証明、それは他人には勿論の事本人にすら難しい事である。 
そもそもが、愛の定義自体が曖昧なのだから容易な事ではない。 
ふと、エリスはある事を思い出した。 
人間は性欲を抑え、慰める時に自分が憧れを持ったり好意を寄せたりしている相手の事を想像してそう言う行為に行うと言われているが、ならば逆にそう言う行為を行って性欲が高まればその対象に愛情を寄せていると判断出来ないだろうか―― 
普段ならば、思いついた所でとても実行しないような事であるが、アルコールに浸食された脳はそれが至上の閃きのように判断する。 
経験はないが、しかし彼女には知識があった。 
胸元のシャツのボタンを外してそこから手を差し入れる。 
つたない手付きで自らの乳房を撫でさする。 
アルコールの影響かすぐさま体が火照り始めた。 
「う……あう……」 
悲しくなるぐらい女としての魅力が欠如している身体だが、反応だけはしてくれるようだ。 
ただでさえ呆けている頭に、霞が掛かり始める。 
(これは、マスターの指――) 
自分自身に言い聞かせて五指を動かす。 
そう思うと、何となく指の動きが強く感じられるようになった。 
少し力を入れて擦る。 
掴む事が出来ないのが少し悲しいが、すぐに頭の中からその事は消え去った。 
敏感な突起に指が触れると体がぶるっと震え、そこが固くなってくる。 
「ふ……や……あ」 
無意識に声を押し殺そうとシーツを噛む。 
口の中に湧き出した唾液が布地に染みこんでシミを作る。 
そのまま体をベットに擦り付けると、シーツに服が擦れ、その裏地が肌に刺激を与える。 
「………ん」 
そうやって微細な刺激を得ていたが、すぐに物足りなくなってスカートのホックを外し、そのまま手を差し込む。 
そこに触れる寸前はさすがに躊躇したが、やがて恐る恐る手を伸ばす。 
にちゃ、、、 
指先に感じた感触は粘着質な物だった。 
これが性交の時に分泌される愛液という物なのだろう。 
「ひゃあっん――」 
そのままその出所に無造作に触れたが、胸の時とは比べものにならない刺激に反射的に手を引っ込める。 
(………凄い) 
指先を眼前に持ってくると、どろどろに濡れた指先同士が粘着質な糸を引いている。 
普通にこのぐらいの量が出る物なのか、それとも自分がおかしいのかエリスには判断がつかなかったが、そんな事は今考えるべき事ではない。 
問題は自分がセリスのせいで興奮しているかどうかと言う事だ。 
確かに体は火照っているが、これがセリスのせいかただの生理的な反応かは判断しかねた。 
ふと、ベット横を見るとセリスが立っていた。 
脳に回ったアルコールが自分に幻影まで見せているのか、もしくはいつの間にか寝入ってしまって夢でも見ているのだろうか――― 
「………マスター」 
「何?」 
幻ならば返事などある訳がない。 
ならばこれは夢だろう。 
そして、幻より夢の方が彼女にとって都合が良い。 
「少しじっとしていてください」 
「…………別に構わないけど」 
腰に手を回し、そのままセリスを引き寄せようとするがその小柄な体躯は地に根を生やしたかの如くビクともしない。 
逆にエリスの方が引き寄せられてしまう。 
しかし、それは大した問題ではない。 
四つん這いのままセリスの胸に顔を埋める。 
まだ性が分化する前の肉体は男の固さとは無縁であるが、しかし少女のそれとは異質な物だ。 
服越しに感じる薄い胸板に、ヒトとしては低めの体温は火照った頬に心地よい。 
そのまま息を吸い込むと、微かながら匂いがする。 
どんな匂いかと聞かれたら答えに窮するが、あえて例えるなら月夜の草原のような匂いだろうか――― 
どこか冷たく暗いが、何となく落ち着く匂いだ。 
そして、もう片腕は再び脱ぎかけのスカートの中に入れる。 
「…………ん」 
先程とは違い次は慎重に指を動かす。 
下着越しに軽く撫でるようにすると、強すぎず弱すぎずの丁度良い感じがする。 
「んんっ!?」 
手が滑って敏感な所に触れた拍子にセリスの服を噛んでしまう。 
上等な布地で作られた衣服は、舌の上での触覚もなかなかの物だった。 
どうせ夢なのだからと、そのまま口の中で服を咀嚼する。 
自分の唾液が服を汚していくと、セリスに自分の印を付けているようで心地よい。 
そんな事を続けていると、いつの間にか指の動きも激しくなってくる。 
「ふっ………う」 
羞恥心を興奮が、痛みを快楽が、理性を本能がそれぞれ上回ってもはや躊躇いは跡形もなく溶けていく。 
下着を下ろすのももどかしく、そのまま布と肌の間に指を差し入れ一気に指を差し入れる。 
予想に反して指は簡単に中に入っていった。 
「ひゃあっ!!」 
指が粘膜に触れた途端、下腹部に電流が流れたように痺れた。 
咄嗟に抱き付いている腕に力を込めると、尚のことセリスの事が強く感じられた。 
いつの間にか這いずるように少年の体を登り、そのまま正面からセリスを抱きしめる。 
現実世界では絶対出来ない事でも夢の中でなら充分可能だ。 
少年の体の感触を全身で思いっきり味わう。 
勿論片手は下着の中に入れたままだ。 
強い刺激さえもセリスに抱き付いていると、もっと貪欲に欲しくなる。 
いっそのこと服を脱がしてしまおうかと思ったが、僅かに残った理性がそれを押し止めた。 
抱き付いているだけでもこれだけ気持ちいいのに、そんな事をしてしまったら自分がどうなるのか――― 
その一点に置いては好奇心や興味より、恐怖にも似た感情が先に立っていた。 
「んあ――」 
激しく動いていた指が、秘裂の上の敏感な突起を弾いた瞬間半ば意識が漂白される。 
しかし、意識が吹き飛びかけても腕だけは無意識のうちに動いてしまう。 
セリスの服を力強く噛み締めながら、少女の指は自らを高みに押し上げていく。 
そして終わりの瞬間はやって来た。 
刺激を求めた指先が、中に入り込み外の指がその上にある突起を捻り上げる。 
「っ!?――――」 
正に声なき絶叫と同時に少女は頂点まで上り詰めた。 
同時にセリスをこれ以上ないほど抱きしめ、絶頂の衝撃を逃がそうとする。 
「……………ん、ふぁあ、はあ、はあ」 
一瞬の硬直が解けると共にそれまで止めていた息を吐き出しベットに突っ伏す。 
興奮冷めやらぬ体はいつの間にか汗にまみれ、冷えた室温に鳥肌を立てている。 
「…………で、気は済んだ?」 
自らの前で繰り広げられた少女の痴態に動揺した様子も見せずにベットの縁に腰掛ける。 
エリスは無言でセリスに這い寄るとそのまま抱き付く。 
そのさい、故意か偶然か丁度彼の膝に自分の頭を乗せて下腹当たりに顔を埋める形になった。 
ぎゅうっ―― 
「何か様子がおかしいと思ったら―――」 
ぎゅうぎゅう―― 
「まさかこう言う事になっていたとはね」 
ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう――― 
「……………ちゃんと聞いている?」 
ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう――― 
「…………………………僕は無視されるのが嫌いなんだけど」 
ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう――― 
「……………………………………」 
セリスは無言で腕を持ち上げると、肘を下にして高速で打ち下ろした。 
ごふぅっ!! 
落下したエルボーがエリスの頭頂にクリティカルヒットして、その威力を存分に頭蓋骨内で炸裂させる。 
「っ!? っ!?」 
再び声なき絶叫を上げるエリス、頭部は下から膝で押さえられているため、衝撃の逃がしようが無いのだ。 
力加減も絶妙で意識はハッキリしていながら、痛みは最大限というえげつない制裁だ。 
セリス自身は、悶える弟子の姿を特に興味なさげに見下ろしている。 
「…………ひ、酷いです。ゆ、夢の中なんだから、ちょっとぐらい好きにしても良いじゃないですか」 
「夢?」 
頭を抑えて恨みがましく自分を見上げる弟子に、師匠は訝しげな表情を浮かべるがすぐにその理由が分かった。 
僅かながら鼻につくアルコールの匂いは酒の物だろうかと思ったが、そこに嗅いだ事のある匂いが混ざっていた。 
匂いの出所は二カ所、エリスと机の上のマグカップからだ。 
一旦エリスの側から離れ、机の上に置かれた小瓶を手に取る。 
『試作薬 AK-27 ネコ型種族への投与は注意』 
そう書かれたラベルを見てセリスは眉を潜めた。 
この瓶の中に入っている液体は、限定ドラッグと言う一種の麻薬で特定の種族のみに作用する性質を持っている。 
そしてこの中身はネコや虎などの種族にのみ有用な物であり、その効果は精神の高揚と快楽の増幅だった。 
いわゆる媚薬という物だ。 
どういう訳か、目の前のネコの少女はそれを服用したらしい。 
しかも、普通はジュースなどに混ぜて服用する物を原液そのまま飲んでいるのだ。 
そんな事をすれば、今現在のエリスのような状態になってもおかしくない。 
しかし、問題はどんな事情でこんな物を飲んだかという事だが、開けっ放しになっている棚の扉を見た瞬間、おそらく酒か何かと間違って飲んでしまったのだろう確信した。 
セリスは軽く嘆息すると、ベットまで戻り抱き付いてこようとするエリスを押し止めてその頭を固定する。 
そして、指先でコツンと額を打った。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ふぇっ?」 
まるで波が引くように火照った体から熱が引いていく感覚に、エリスは戸惑った。 
頭に掛かっていた霞が急に晴れていき、高揚していた精神が静まっていく。 
「酔いは醒めた?」 
夢にしてはやたらハッキリとしているセリスがそう言い、エリスは――― 
「………………………」 
ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう―――― 
「……………………」 
せっかくの夢なのだから、醒めるまでこのままいてもバチは当たるまい。 
セリスの体は夢とは思えないぐらいハッキリしている。 
この絶妙な固さと手触りは癖になりそうなぐらい心地よいのだ。 
現実ではとても出来ない事だが、夢の中ならいくらでも大胆になれる。 
だから、そんな事を言われても離す気など無い。 
「……………忠告しておくと、これは現実だよ」 
「何言ってるんですか、夢ですよ。そうじゃなかったら、こんな事出来る訳無いじゃないですか――――」 
セリスはもう何も言わず、エリスの頬に手を伸ばすとそのまま捻り上げた。 
「い、痛っ!?」 
かなりの力で抓られた頬に鋭い痛みが走り、ネコの少女は涙目になった。 
「って、えと―――痛い?」 
此処が夢の中であるならば、痛みを感じるはずがない。 
薬に侵されていた先程とは違い、ハッキリした頭脳は現在の状態を冷静に分析していく。 
夢にしてはやたらリアルなセリス、 
腕に伝わるハッキリとした感触、 
ヒリヒリと痛む頬、 
自分を見下ろす冷えた視線―― 
此処まで揃えば子供でも事態を飲み込める。 
これは現実であり、夢ではない。 
「…………………」 
「…………………」 
事態の認識と同時に、師の冷え切った視線と弟子の凍り付いた視線が絡み合う。 
「……………」 
「……………」 
さらに五秒、弟子の脳内でこの事実を否定する理論が二百四十七通り構築されたが、全て立証不可能という判断が下される。 
「………………」 
「………………」 
さらに三秒、弟子の顔から血の気が失せて蒼白になる。 
「……………」 
「……………」 
そこから六秒後、羞恥心によってか失せた血液が逆流して顔が真っ赤になる。 
同時に凍り付いた弟子の口が動きを再開する。 
「………………い」 
「…………………い?」 
「いやああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!」 
肺の中の酸素を全て吐き出すような絶叫と共に、エリスはベットから飛びのいた。 
「………………」 
「え、あや、これはそのちょっとした実験で、その別にいやらしいことをしてたわけじゃなくて―――わ、私は普段あんな事何かしないんです。き、今日はたまたまお酒の勢いで、で、でも気持ちよくなかった訳では――べ、別に他意があった訳じゃあなくて――そ、そうこれは星の巡り合わせのせいなんですっ!! この星の軌道に恒星から有害な光線が降り注いで、それが海上で反射した時大気中の微量な魔力で変質してから、私の三半規管に影響を与えてこんな事になったんですっ!! もしくは、世界征服を企む悪の組織の陰謀とか―――」 
身振り手振りで大仰にともかく言葉を喋りまくるが、そんな物に他人を納得させる力がある訳が無い。 
言っている本人ですら思いついた言葉を継ぎ接ぎして何を言っているのか分かっていない妄言だが、セリスは特に表情を変えず言い添える――― 
「何言ってるか分からないけど――――まず前を閉じた方がいいと思うよ」 
「ひやああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 
その場にあった毛布やら何やらを全力で掻き集めて前に持ってくると、そのままへたり込んでしまった。 
(うう、もう終わりです。何もかも―――) 
理由はどうあれ当の本人の前で、本人を使って自慰をするなど痴女と思われても仕方ない。 
軽蔑されるだろうか、彼からも今まで自分を嘲笑してきた者達と同じ目で見られると思うととても耐えられない。 
だから次のセリスの言葉を聞いた瞬間、エリスは自分の耳を疑った。 
「別に構わないよ。君が僕を想像の中で慰み者にしていようが陵辱しようがそれは自由だからね。第一本能から来ている衝動に文句を付けるほど僕は野暮じゃないしね」 
別段嫌悪した様子も見せずにそう言って肩をすくめる。 
それどころか、どこか気の抜けたような表情すらしていた。 
「だ、だって嫌じゃないんですかっ!? こんな風に私なんかの妄想の対象になって―――」 
「別に気分の良い事じゃないけど―――僕は全然気にしないよ。君にはそれだけの価値がある。その程度の事は許容するさ。これで欲求不満なんかになられて君の頭脳が鈍ったら困るからね」 
「…………価値がある」 
理解していたはずの言葉はしかしエリスの胸を強く締め付けた。 
「何なら、ヒトの娼婦でもあてがってあげようか? さすがに他の獣人は機密保持がまずくなるから無理だけど―――どうしてもって言うなら僕が相手してあげても良いよ」 
最後に付け足された言葉は半分冗談で半分本気だ。 
彼女にはセリスが相手するだけの価値がある。 
それだけ彼女の頭脳は重要だ。 
「……………一つ聞かせてください」 
「何?」 
「マスターはミリア様の事が好きなんですか?」 
「……………それはどういう意味?」 
唐突に投げかけられた問いに答えられないと言うより、何故そんな疑問が出てきたのか理解出来ないという感じで聞き返す。 
「そ、その女性として好きなんでしょうか?」 
「全然全くこれっぽっちも欠片も好きじゃないよ。胸はないし色気はないし、頭は悪いしそのくせ意地っ張りで、行き当たりばったりで行動するし、気品なんぞ期待するだけ無駄で、あるのは食い気ぐらいかな―――――」 
「……………………」 
あまりにもハッキリした否定にエリスの目が点になる。 
「あ、あの――じゃあ、何であんな事するんですか?」 
気を取り直したエリスの問いにミリアの召使いは首を傾げた。 
「あんな事?」 
「…………………昨日見たんです。夜中に……その、お二人がそう言う事をしている所を」 
意を決して説明するエリスに、さすがのセリスも一瞬虚をつかれたような表情になった。 
あくまで一瞬だが――― 
「―――ああ、そうなんだ。そう言えば周りに気を遣ってなかったね」 
セリスは気恥ずかしいと言うより、うっかりしていたと言うように苦笑を浮かべる。 
「ミリア様の事が嫌いなら、何でそんな事を―――」 
「したいからしてるんだよ。そう言う意味では好意を持っているとは言えなくとも無いだろうけど―――これと言った理由はないね」 
即答した答えはあまりに単純な答えだった。 
「そんないい加減な―――」 
「いい加減と言われてもね。結局人の行動の根源にあるのは、そんないい加減で適当な動機だよ。したいから、する。やりたくないから、止める。好きだから愛して、嫌いだから拒絶する。物理現象から、人の感情まで、そんないい加減な物が折り重なって編まれてこの世界を構築しているんだよ。そして、それを完全に理解しようとする傲慢な大馬鹿者が科学者という人種じゃなかたっけ? 特に君みたいなのはね」 
多くの者達が本人達でさえ忘れがちだが、科学者ほどいい加減で傲慢な人種はそうはいないのだ。 
彼らは自分達の理論を証明するためにあらゆる事象を決めつけてきたのだから―――― 
「そしてだからこそ、君はその矛盾をよく知っているはずだよ」 
証明は仮定の上に成り立っていると言う言葉があるが、人は根底たる基準を勝手に決めつけその上で自分達の理論を展開してきた。 
例えば、1+1=2と言う簡単な数式があるが、答えは簡単に分かっても、どうしてその数式の答えがそうなるか証明するのは至難の業だし、その証明が絶対正しいと証明するのはほぼ不可能だ。 
だからそれが正しいとそう決めつけて、さらにそれを元に高次の理論を展開している以上は、いくら上辺を高尚な言葉と高度な数式で埋め尽くしても、それが絶対的な物になる事はない。 
しかし、その絶対的な物を追い求めるのが科学者と魔法使いだ。 
どちらも、万能無限、もしくは真理と言う夢物語を追い掛けるロマンチスト達であり、大馬鹿者達であり、さらに言うなら世界の全てを知る事が出来ると思っている傲慢な者達だ。 
エリスはその中でも特にその傾向が強い。 
そうでもなければ、他人に嘲笑され罵倒されて認められない研究を続けられる訳がない。 
故にこの世界がどれだけいい加減かも理解している。 
「………それは分かっています。で、でもそんなのは駄目だと思います」 
「どうしてさ? 君に関係は無いでしょう」 
何気なく呟いたセリスの言葉がエリスの胸を抉った。 
「関係なく何かありませんっ!!」 
自分でも驚くような大きな声を上げてしまう。 
「マスターはミリア様の奴隷なんですよっ!! ミリア様の方から迫るならともかく、マスターの方から関係を望むなんて身の程をわきまえてくださいっ!!」 
欠片もそんな事を思っていないのに、言葉はエリスの意志とは裏腹に溢れだして行く。 
「いくら何でも、そんなのはおかしいですっ!! 何で好きでもないのにそんな関係を続けるんですかっ!? 好きじゃないなら、嫌いなら止めればいいじゃないですか―――」 
そう言いながら、エリスはようやく自分の気持ちに気付いた。 
自分はセリスの事が好きなのだ。 
何時、何処で、どうしてなど分からないし関係もない。 
気が付いたら好きになっていたのだ。 
そしてどうしようもなく好きでたまらない。 
だが、同時に自分の好意が報われるとも思っていない。 
エリスがどんなに好意を寄せても、セリスは自分の事を道具としてしか見てくれない。 
だから散々理屈を付けて自分の気持ちを誤魔化していたのだ。 
しかし、ミリアに対してはその好意が注がれている。 
それが我慢出来なかった。 
自分を含めて誰にも好意を注いでいないのなら耐えられた。 
だが、自分以外の誰かに好意を注がれているとなると我慢出来ない。 
しかも、いつも口では嫌いと言っている癖に、都合の良い時だけセリスと逢瀬を共にするなど卑怯だ。 
少なくともエリスはそう思う。 
自分の方が何倍もセリスの事を見ているのに、何十倍も役に立っているのに、何百倍も想っているのに――――それなのに自分を選んでくれない。 
気付くとエリスは泣いていた。 
目の前が涙で濡れて視界が滲みしゃっくりを上げている。 
「私は―――マスターの事が好きです」 
そして、勢いそのままに泣きながらそう呟いた。 
しかし、返される言葉はあまりに冷たい。 
「それがどうしたのさ」 
激情を露わにするエリスとは対照的に、セリスの言葉は無関心その物だ。 
「君がそう言った所で、僕の気持ちが傾く訳でもなければ、君の気持ちが無くなる訳でもない。言った所で無駄で無意味な事が君なら分かるだろう」 
「……………」 
そんな事は分かっている。 
目の前の少年は自分が興味のない事にはとんと無関心なのだ。 
例え、エリスが泣こうが喚こうが眉一つ動かす事はないだろう。 
例え、どれだけの思いを募らせようとその心を毛筋も振るわせる事は出来ないだろう。 
セリスはそう言う人間だ。 
そんな事は知って理解している、いつも彼を見ていたのだから――― 
だが納得は出来ない。 
望めば彼と関係を持てるだろう。 
だけど、それは自分が望んでいるだけで彼が望んでいる訳ではない。 
体が欲しい訳ではない。 
ただ、少しで良いから、ミリアの万分の一でも自分に対して道具以外の価値を見て欲しいのだ。 
だから理性が止めるのも聞かず、言ってしまった。 
言えばどうなるのか分かっていたのに―――― 
「止めます。もう、こんな所に居たくありません」 
本気ではなかった。 
もう嘘でも何でも良いから引き留めて欲しかった。 
本当に僅かな可能性、奇蹟というのもはばかれるような微少の可能性で、上辺だけでもセリスが自分の想いに応えてくれる事を期待していたのだ。 
「無理だね。君は此処を去る事何て出来はしないよ」 
反論は即座に返ってきた。 
「君の考えを理解出来る人間は、この世界にはそうはいない。そして、君の研究を続けさせるだけの資金と設備を提供出来るのは此処だけで、君の探求心を満たせ続けられるのは僕だけだよ」 
言葉面は傲慢な物でしかないが、淡々と言われた事は全て事実だった。 
おそらくエリスの思考を理解して、それに設備と資金を出すのはこの世界でもこの所領ぐらいだろう。 
それだけ彼女の理論は異質で飛躍しすぎているのだ。 
そして彼女は自らの研究を途中で投げ出せるほど弱くも無ければ無責任でもない。 
セリスは彼女の事を本当に良く理解している。 
彼女はもう知ってしまったのだ。 
自分の事を、その一部だけでも認めてくれる人が居る事を――― 
誰もが嘲笑し、見下されていた時ならば何処となりへと行く事が出来ただろう。 
何処に行こうと誰も認めてくれないなら、どこも同じなのだから――― 
しかし、此処は彼女を認めてくれた。 
たった一人で冷たい雨の中を歩んでいた彼女は、セリスに手を引かれこの場所まで連れてこられたのだ。 
もう一度一人で雨の中を歩く事など出来はしない。 
あの時、セリスの手を取った時から、彼女は逃げ出せない悪魔の契約書にサインをさせられていたのだろう。 
いや、もしもあの時手を取らなくても自分はいつか此処にやってきたはずだ。 
セリスと出会って時から彼女の運命は決まっていたと言っても良い。 
自分はここから去る事は出来ない。 
どれだけ苦しもうが、彼女自身の才能と信念が彼女を此処に縛り付ける。 
そのこと自体、彼女は理解している。 
この繰り言に意味はない。 
延々と同じ言葉を繰り返しても、望まぬ答えしか出ず状況は変わらない。 
言えば言うだけ惨めになるだけで、思いは成就せず此処から去る事も出来ない。 
それを理解していても、エリスは言わずにいられなかったのだ。 
「………………私は」 
言葉を紡ごうとしてもその先に何も思いつかない。 
言いたい事は山程あるが、その百倍を目の前の少年に叩き付けても何も変わらないと言う確信めいた虚脱感がある。 
「――――仕方ないな」 
軽い嘆息と共に一瞬前まで離れた所にいたセリスが突然エリスの眼前に現れる。 
「早く吹っ切れるように手伝ってあげるよ」 
ネコの少女が反応する前に、その胸に少年の指先が押し付けられる。 
空気が抜ける音と共に注射器の中身が打ち込まれる。 
「…………え?」 
一瞬自分の中に冷たい液体が流れ込んだ感触に呆然とするエリスに、セリスは指を振って説明した。 
「君には二つの選択肢を用意しよう。一つは今まで通り此処で研究を続ける事、勿論僕の事は完全に忘れてね。もう一つは、僕との関係を手に入れる事、この場合研究に関する援助は一切打ち切らせて貰うよ。さあ、君はどっちを選ぶの?」 
「え、あ―ひぃぐぅっ!!」 
セリスの質問の意図を理解する前に、エリスは全身を駆け抜ける感覚に膝を付く。 
全身の産毛が逆立ち、体が炙られるように熱い。 
そしてその中でも一際下腹部に集まった熱に小柄な体が震える。 
「こ、これは―――」 
「試作薬 XO−8、君らの種族専用の媚薬だよ。体中の神経が剥き出しになったみたいでしょう?」 
自分の身体の異常に絶句する弟子に師匠は楽しげに手を伸ばす。 
「こんなふうにほら」 
「はひゃああっ!?」 
冷たい指がうなじに触れた瞬間、体から脳髄に激烈な衝撃が走った。 
「っはぁ………はっひぅ………きふぅゆ」 
衝撃の正体が快楽と分かった時には全身から力が抜け、その場に引っ繰り返ってしまう。 
「それにこの薬には面白い性質があってね。時間が経てば立つほど性的快楽が増していくんだ。だけど、自分や同姓から受ける刺激じゃあ、いわゆる絶頂と言われる現象まで到達する事は出来ないんだよ」 
天井を見上げて喘ぐエリスの顔を覗き込みながら、セリスは楽しそうに少女の頬を撫でる。 
「ひぃぅっ!?」 
それだけでエリスの体は陸に揚げられた魚のようにはね回った。 
あまりの刺激に鳥肌が立ち、全身から冷や汗が吹き出る。 
「あ、いくら快楽が上がっても心が壊れたりしないから安心してね。そう言う薬だから―――どんなに気持ちよくても頭は冴えてるでしょう?」 
セリスの言う通り、上り続ける体に反してエリスの頭は冷静にこの状況を認識している。 
しかし、だからこそ叩き付けられる快感に流される事も出来ず苛まれ続けるのだ。 
「そのまま聞いてくれればいいよ。まず一つめの選択肢は、僕はこの後あっちの部屋に行くけど、もしもその体を慰めて欲しいなら来ればいい存分に可愛がってあげるよ」 
隣の部屋への扉を指さしそう言うが、その表情はどこかめんどくさそうだ。 
「だけど、もしもそうするなら二度と僕に教えは請えないと思ってね。そして君の研究に対する援助も一切打ち切らせて貰う。僕と関係を持つならそれぐらいの覚悟はしてよね」 
隣部屋を指さした手とは反対の手の中には、緑色の液体で満たされた小瓶があった。 
「で、これが解毒剤だよ。これを飲めばすぐにその状況から解放されるよ。そうすればこのまま此処で研究を続けられる事を保証しよう。でもね―――」 
悶える弟子の傍らにしゃがみ込んで、その耳元で優しく囁くとその吐息が触れてエリスの体がさらに跳ねる。 
「そしたら、二度と僕の事を好きなんて言わないでね。僕は二番目以降は嫌いなんだ。君の知的好奇心より劣る愛情なんてはなはだ不愉快だからね」 
解毒薬の入った小瓶をエリスの眼前に置き、セリスは指を一本立てる。 
「君が選ぶべき選択肢は、二つの内の一つだけ、僕を取るか研究を取るか―――手に入るのは一つだけだからよく考えてね」 
「そ、そんな――――ひゃあっ」 
反論しようとしたエリスだが、背筋を駆け抜ける快感に言葉を止められる。 
しかし、セリスはネコの少女のそんな様子にも頓着せずに勝手に話を進めていく。 
「制限時間は君次第で、君が快楽に耐えられなくなるまでだよ。それじゃあ、僕は隣の部屋に居るからね」 
そう言うと、セリスはさっさと隣の部屋に引っ込んでしまう。 
後に残されたのは媚薬に侵された弟子ただ一人だけだ。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あ、ふぁっ―――」 
残された部屋の中でエリスは身悶え続ける。 
体を揺らせば肌が下着に擦れ、それだけで高まってしまい無意識のうちに体を床に擦り付けてしまう。 
厚い絨毯が引いてある物のシーツの柔らかさや、セリスの感触とは比べものにもならない程固く無機質な物だが、媚薬に呆けた体にはそれで充分だった。 
(す、凄い) 
さっきまで自分が感じていた物とは次元が違う。 
人間の体にこれ程までの性感があったのかと思うほど感覚だ。 
(で、でもこんなのは嫌) 
素面のまま快感に取り残された意識は、薬で無理矢理発現された快楽に嫌悪を感じて床から震える体を引き離し立ち上がろうとする。 
「ふゃうっ」 
体を少し動かすだけで服に肌がすれて喘いでしまうが、何とか立ち上がる事は出来た。 
しかし同時に、それまで感じていた快楽が急激に減少する。 
(…………うやっ) 
取り上げられた快楽に反発するかのように力を込めた足腰が震え、その場に尻餅を付いてしまう。 
その衝撃さえも快感となり、体が反応してしまう。 
必死で体を動かして再び挑戦するが、今度は立ち上がる前に足がもつれて転んでしまう。 
「ひぃうぅうっ!!」 
体に走る衝撃や、絨毯に擦れた摩擦が快楽に変換されエリスは床を転がる。 
そうすると余計体が床に触れて、悪循環のごとく刺激が増加していく。 
セリスの言う通り時間と共に快楽の度合いが増しているらしい。 
(ちょ、ちょっとぐらいなら――――) 
精神に入った亀裂から妥協案が示されると、肉体は一も二もなくそれに従った。 
数秒の躊躇いの後、はだけられた胸に手を伸ばす。 
乳房と言うにはあまりにも平坦なその部分に触れた瞬間、背筋に電流が駆け抜けて仰け反る。 
「あ…………あ…………あ」 
まともに声を出す事も出来ずに仰け反った姿勢のまま固まった。 
小刻みに痙攣してい無ければ硬直した死体のようにも見えるだろう。 
(こ、こんなのって―――) 
床に押し付けたりして得た無機物の刺激とは、明らかに一線を引く感覚にエリスは目を白黒させた。 
(こ、こんなの耐えられる訳がない―――) 
そう思えば後は簡単に転げ落ちてしまう。 
もっと快楽が欲しい、もっと気持ちよくなりたい。 
心の隅でそんな言葉が聞こえる。 
(だ、駄目、これ以上は駄目えぇっ!!) 
心の中でどれだけそう叫んでも、体が勝手に動いてしまう。 
動く腕をもう片方の腕で押さえ付けると体全体が震えた。 
まるで、欲している快楽を無理矢理抑える事に反発するように体が痙攣していく。 
しかし、反乱は長く続かなかった。 
押さえ付けた腕ごと両手がスカートの中に潜り込み、そのまま下着の中に達する。 
(いやぁあっ!!) 
先程の自慰と薬の効果で、そこは水でも掛けたかのように潤んでいる。 
そのまま中指が下着の間から膣内に驚くほどすんなり入り込む。 
「ふあああぅうっ!!」 
ほぼ同時に指が激しく動き出す。 
撫でるや擦る、揉むと言うよりも掻きむしるという方が正しい表現であろう程その指の動きは凄まじい。 
呼吸が苦しくなるほど喘ぎ、顔を涙と鼻水、そして涎で顔を汚しながら突っ伏してしまう。 
しかし、決して達しはしない。 
すでに先程の自慰で頂点を極めただけの快楽は超えているというのに、全くそのような兆候は見られないのだ。 
(いやあぁ、こんなのは嫌あぁ) 
泣きながら頭を振っても、その表情は快楽に緩んでしまう。 
自分の意志に関係なく快楽を感じさせられ体を操られるなど、女の、否、生物としての尊厳を穢される行為だ。 
意志がハッキリしているのがなおさら救えない。 
快楽に溺れる自分を冷静に見せつけられるなど、これ以上の屈辱はそう無いだろう。 
しかも、決して達する事のない快楽は無限に積み上がっていくのだ。 
その事に気が狂いそうな焦燥を感じても、実際に気が狂う事などあり得ない。 
強引に叩き込まれる快楽を発散させる事も出来ずに、ただただ快楽の池に漬け込まれ続ける。 
(マ、マスターの所に行けば―――) 
そう想像するだけで、秘裂から蜜が溢れた。 
セリスの所に行けば、この体を慰めてくれるだろう。 
彼の小さく冷たい指が体中を這い回り、愛撫してくれるはずだ。 
(だ、だけど―――そんなの―――) 
結局それは体だけの関係にしか成り得ない。 
性欲に任せ快楽を貪るだけの、憎愛も何もない交わりだ。 
そんな関係など自分は望んでいない。 
しかも、そうなればもう二度と研究は出来なくなる。 
例え此処以外の場所で研究を続けようとしても、セリスは全力で邪魔するだろう。 
そして最後に残されるのは、何の感慨もない冷め切った関係だけだ。 
科学者としても女としても敗北し、惨めな人生を過ごす事になるだろう。 
(でも、これを飲めば―――) 
眼前に置かれた解毒薬を飲めば、少なくとも研究は続けられる。 
女としては敗北するが、科学者としての将来は残されているのだ。 
つまりは、初めから選ぶべき結果など決まっているのだ。 
全てを失うか、半分だけを手に入れるか――― 
誰もが後者を選ぶことだろう。 
本当にセリスは自分の事を理解していると思った。 
おそらく、彼女が選択の結果を予想できることを承知の上で、この取引を持ちかけてきたのだ。 
二択でありながら、その実選ぶべき答えは一つしかない。 
結局自分はあの少年に良いように操られる道具であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。 
(あ、はははははは―――こんなのずるいじゃないですか) 
自分のやっている事があまりにも滑稽で馬鹿らしくて、心の中だけとは言え笑いがこみ上げてきた。 
こうなる事は分かっていたはずだ。 
セリスへの気持ちに気付いた時点で、予想出来たはずの事態である。 
そしてその事を覚悟した上で自分は言ったはずなのだ。 
それなのに何故こんなに悲しくなるのか――― 
エリスは自分のあまりの愚かさに笑い、その何倍もの惨めさに絶望した。 
しかし、現実は何も待ってくれない。 
「ふやぁっ!?」 
それまで押さえ込んでいた快楽がエリスの精神を現実に引き戻す。 
「うっやあぁっ!!」 
時間の経過と共に増大し蓄積した快楽の前に、抵抗などは無意味だった。 
もはや、体の自由などほとんど無く、持ち主の意志に関係なく快楽を貪り始める。 
「あ…………が…………あ………はっ」 
明瞭な意識は明瞭なままに暴力的に叩き込まれる快楽は、心地よさどころかもはや苦痛の領域に達していた。 
体中の筋肉が硬直し始め、喘ぎで呼吸すらままならなくなり――――最後には吐き気さえ覚える。 
 
 
もう良いじゃないか――― 
 
よく頑張った。 
 
もう充分だ。 
 
此処までやったんだからセリスも認めてくれるはずだ。 
 
薬を飲めばセリスは手に入らないが、研究は続けられる。 
 
それで充分じゃないか――― 
 
もう諦めても誰も責めはしないはずだ。 
 
 
ひび割れた精神が、妥協と自己弁論を語り出しエリスの正気を侵していく。 
決して実らぬ想いに、突き付けられた二択の答えは初めから決まっていて、止めとばかりに拷問まがいの快楽を与えられ、すでにエリスの精神はぼろぼろだった。 
震える手が解毒薬を入れた小瓶に伸ばされ、指がそれをしっかり掴む。 
これを飲めばこのつらさから解放される。 
そうなれば、もうセリスへの想いは諦めるしかないだろう。 
だが逆にそうすれば、踏ん切りが付くかも知れない。 
此処で自ら解毒薬を飲めば、自分はセリスへの愛情よりも研究を重要視していると証明されたも同然だ。 
本当にセリスの事が好きならば、例え研究を捨ててでも、例え愛情が報われなくても平気なはずなのに、自分はこんなに迷っている。 
その時点で自分は彼に愛される資格など無いのかも知れない。 
「……………」 
出した結論にエリスは快楽に震えながらも小瓶を握りしめた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「………もう朝なんだ」 
寝ぼけた眼を擦りながらセリスはあくびをかみ殺し、『う〜ん』と背伸びをした。 
魔族と言えども決して万能の存在ではない。 
肉体自体は生命活動が完全に自己の体内で完結しており、さらに体内活動などにより発生した疲労物質などは即座に分解されてエネルギーに変換されるため、疲労を感じる事もなく何の補給も無しに半永久的に活動出来るのだが、精神の方はそうも行かない。 
その気になれば十年ぐらい寝ずに生きていられるだろうが、そんな無意味な事をする必要はないのでセリスは毎夜睡眠を取っていた。 
覚ました目で部屋の入り口を見ると、セリスが入ってきてから開かれた形跡はない。 
エリスに突き付けたあの条件は、二択でありながら答えは決まっていた。 
研究を諦め薬を飲まずにこちらに来ればセリスとの関係は手にはいるが、それは体だけの関係だ。 
エリス自身そんな物は望まないだろう。 
結局彼女は何も手に入れる事は出来ない。 
逆に薬を飲んでセリスとの関係を諦めれば彼女は研究に専念出来る。 
一見無意味に思えるが、後々の事を考えれば形はどうあれ現在の中途半端な関係はさっさと精算しておいた方がいい。 
そして、エリスはその事を正確に理解しているからこそ、尚のこと薬を飲むだろう。 
わざわざ負ける博打に金を掛ける人間はいない。 
快楽を与えたのは、決断するべき勢いを付けるためだ。 
積み上げられた快楽に耐えられなくなればどちらか一方に決めるしか無くなる。 
二つの道を突き付けて、快楽で制限時間を設ければ一晩で全て片が付く。 
そして一つしか道がなかったとは言え、自分自身で選択してしまえばその決定にエリス自身が異を唱える事はない。 
形はどうあれ、彼女は自分自身が選んだ答えに責任を持たないほど愚かでも身勝手でもないのだから――― 
「……………ん」 
ふと、それに気付いた瞬間、セリスは隣の部屋に移動していた。 
「……………」 
隣の部屋、エリスの自室の惨状は酷い物だった。 
本や書類が散乱し実験用のフラスコや試験管などの器具は無惨にも砕け散っており、漏れた薬品が床に染みを作っていた。 
もっとも、先日の惨憺たる様子に比べれば全然マシなレベルではあるが――― 
しかし今注目するべきはそこではない。 
部屋の真ん中で倒れ伏しているこの部屋の主だ。 
かなり激しく乱れたらしく、その服はほとんどはだけられていたが、何より目を引くのはその左手の甲だ。 
そこには割れたガラス片が突き刺さっており、そこから流れたであろうおびただしい量の血が絨毯にどす黒いシミを作っていた。 
これだけ出血すれば意識を失ってそのまま死亡してもおかしくない。 
しかし、意識を失えば快楽を完全にシャットアウト出来るのも事実だ。 
「…………何をやっているんだか、この娘は――」 
その真横にしゃがみ込んだセリスは、粉々に砕かれた解毒薬の瓶を一瞥してそう呟いた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一番初めにエリスが感じたのは、後頭部にあった柔らかい感触だった。 
そして次に感じたのは、体中に鉛が詰まったようなだるさだった。 
腕を動かすのは億劫だったので、そのまま首を動かし目を開く。 
「…………やっと起きたね」 
「ひあっ!?」 
突然目の前に現れた師匠の顔にその場で飛び上がりそうになったが、実際は体がビクリと震えただけだった。 
「あんまり動かない方がいいよ。血を流しすぎているんだから――――」 
「は、はい」 
穏やかなその声が、エリスにとっては逆に不気味だった。 
「………………………」 
「………………………」 
沈黙が二人の間に落ちた。 
エリスは緊張のため口がきけず、セリスは何のつもりか無言で弟子の茶色い髪を弄っている。 
沈黙が落ちてから数秒経ってようやく、エリスはセリスに膝枕されている事に気付いたが、今はそれどころではないかった。 
可能な限り顔を背け、目を合わせないようにする。 
「………………………」 
「………………………どうして、あんなことをしたの?」 
意外な事に先にしびれを切らし、声を発したのはセリスの方だった。 
「…………………………」 
エリスは一瞬口を動かすような素振りを見せたが、何かを躊躇うように結局口を閉じた。 
「……………………言えないなら言わなくても良いよ。言えるようになるまで待つから―――どうせ、何か言うつもりなんでしょう」 
それだけ言うとセリスは再び弟子の髪弄りに戻っていった。 
再び二人の間に沈黙が落ちる。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どれぐらいの時間が経っただろう。 
おそらく客観的に見れば大したことはないだろうが、エリスには半日以上に感じられた。 
「……………………諦めたくなかったからです」 
唐突にエリスが口を開いたが、セリスは聞いているのか居ないのか相変わらず髪の毛を弄っている。 
「マスターが私に言った事は、どっちを選んでも結局何かを諦めた事になってしまうんです」 
突き付けられた選択は、薬を飲めば愛情を、セリスとの情緒にひたれば研究を諦める事になってしまう。 
どちらかの道を選ぶというのは、自分自身で何かを諦めるという事だ。 
「私はずっと一人で研究を続けていました。もしも途中で諦めていれば、マスターと出会えなかったでしょうね」 
セリスと出会うまで自分はたった一人で、誰に何を言われようと研究を続けていたのだ。 
どれだけ冷遇されようとも、諦めずに自分の道を進み続けた。 
「そして、マスターと出会いました。本当に嬉しかったんですよ。それまで誰も私の事を認めてくれなかったのに、それを証明する機会をくれて―――」 
「………………」 
セリスの動きに変化はないがエリスは言葉を続ける。 
喋り出してしまった以上、もう止める事は出来ない。 
「マスターが私を此処に誘った時、正直言って怖かったんです。ヒトなのに何でそんなに色んな事を知っているのかって―――でも、マスターは私がウィネッサさんに掴み掛かられた時助けてくれました。あれでここに来る決心が付いたんです」 
落ち着いて考えれば、とても恥ずかしい事を言っているのだが一旦口を閉ざしてしまえば二度と言えなくなってしまう。 
だから今だけは躊躇いも躊躇も殴り捨て、ただただ思った事を口にする。 
「多分好きになった切っ掛けは、それなんでしょうね。そして、マスターに連れられて、ここに来ました」 
「……………」 
弟子の告白を師は黙って聞いていた。 
「本当に楽しかったです。マスターに教えられている時はとっても充実していて、ミリア様もあんまり頭は良くありませんでしたけど、私に優しくしてくれて―――あ、後ついでにシルスさんも面白かったですし―――」 
本当にここに来てからの日々は楽しかった。 
セリスがミリアにちょっかいを出し、シルスがそのとばっちりを受け、自分はそんな三人を苦笑しながら見ている。 
そんな毎日がずっと続けば良いと思ったし、ずっと続く物だと思っていた。 
それで充分だと思っていた。 
「でも、それだけじゃあ満足出来なかったんです。ミリア様とマスターが、肌を重ねているのを見て気付きました」 
『僕があんな小娘に入れ込むと本気で思っているの』 
この言葉を聞いた時、否応なく自分が部外者である事に気付かされた。 
「マスターが私の事を道具としか思ってないのは、初めから承知の上でした。いえ、そのはずだったんです。自分の好きな研究が出来れば、それ以上は何も望まないはずでした。ミリア様とのマスターの情緒を見るまでは――」 
心底ミリアが羨ましいと思った。 
そして同時にとても妬ましく思えた。 
「初めは自分の気持ちを誤魔化していました。だって、気付いてしまったら辛いじゃないですか―――叶う訳無いって分かっているのに」 
届かぬ想いなら気付かない方がいい。 
自分の想いをセリスに伝えた所で、彼の自分への評価が変わる訳ではないと理解してしまったから――― 
「本当、そのまま気付かないふりをして、いつの間にか忘れられれば楽だったんでしょうね。でも、そもそも無理だったんです。私に何かを諦める事なんて出来るはず無いんです」 
おそらく、今回の事が無くても自分はいつかこの気持ちに気付いて、セリスにその事を告げていただろう。 
「諦めなければ、いつか叶う。それはマスターが教えてくれた事ですよ」 
「……………綺麗事の中でも最大級の戯れ言だね」 
呆れ果てたその言葉に、しかし弟子は勝ち誇った表情を浮かべて師を振り返る。 
「当然じゃないですか、私はとても傲慢でとても大馬鹿なんですよ。それぐらいの事は言います――――だから私はどっちも諦めません、マスターの事も研究の事も、例え私の事を永遠に好きにならなくても、最後の最後まで諦めません。それが私の答えです」 
誇らしげですらあり得る決意表明、だから彼女は自らの腕を差し貫いたのだ。 
用意された選択も決められた結果も全て拒否して、自分で用意して決めた選択を高らかに宣言したのだ。 
そして弟子に対する師の返事は、嘆息だった。 
しかし、それに含まれていたのは呆れでも失望でもなく、いちまつの悔しさであった事は本人以外に分からない事だろう。 
「………………何言っても、無駄みたいだね」 
「はい、無駄です」 
吹っ切れた笑顔で即答する弟子であったが、セリスは何となくその顔面に思いっきり拳を打ち込みたい衝動に駆られた。 
無論、そんな事をした日には頭蓋骨が陥没するどころか、首から上が素粒子まで分解してしまう事だろう。 
だから、やり方を変えた。 
不要な我慢はしないというのが彼のポリシーだ。 
ぺろ、 
「ひぅっ!!」 
突然、手の甲に感じた感触に、何事かと振り向いてみれば、自分の左手が持ち上げあれセリスがそこに舌を這わせていた。 
「マ、マスター、何をっ!?」 
「…………………」 
エリスの問いかけに、セリスは一瞬だけ目を合わすと再び無言で舌を這わせ出した。 
手の甲とは言え、未だ薬の影響が残っている体には過度な刺激だった。 
「ひぃあっ―――」 
一舐めごとに体が震えてしまう。 
振り払おうにも、薬に侵された体はほとんど動かせずセリスの行動に何ら制限を掛けられない。 
舌の愛撫が手の甲から指筋に移っていくと、そのまま小指から順に口にくわえられる。 
ネットリと指を舐めしゃぶるセリスの表情は、特に色欲に染まった様子も見えないが、その対比が行為の淫らさを何倍にも高めていた。 
指から伝わる舌の感触にエリスの背筋は泡立ち、体から力が抜ける。 
「……………」 
全ての指を唾液まみれにさせると、セリスは一旦口を離した。 
唾液の糸が指と唇の間を伝い、そのままエリスの服に落ちてシミを作るのに頓着せず、自分の手とエリスの手を合わせて握り込む。 
唾液越しに伝わるねちゃりとした手の平の感触さえ、今のエリスには気持ちよく感じられた。 
そのまま腕を持ち上げ、今度はエリスの手首に口づけて舌を這わす。 
やがて、白衣の袖口をくわえこみ、そのまま白衣とシャツの袖を食い千切った。 
手首から二の腕、そして肩へと舌は伝っていき――― 
「そ、そこは止めてくださいっ!!」 
舌の行き先がどこか悟ったエリスが、制止の声を上げるが無論無駄な事だった。 
セリスの顔が、エリスが嫌がった場所脇の下に潜り込む。 
「……………汗くさい」 
ポツリと呟かれたその言葉にエリスの顔はかあっと真っ赤になる。 
自慰や媚薬による痴態によって彼女の全身は汗にまみれていた。 
必然的に蒸れやすい部分である脇の下には匂いがこもる。 
しかし、その部分にさえセリスは舌を伸ばした。 
「うひぃっ!?」 
それまでと違う、敏感な場所への刺激にエリスは仰け反る。 
まるで自分の唾液で汗を洗い流そうとするかのように、セリスは執拗にその部分を舐め尽くした。 
「あ、やっ――」 
左の指先から肩まで舐め終えると、セリスはエリスの胸に馬乗りになった。 
ぽすん、と小気味よい音と共にエリスに体重が掛かる。 
本人にとっては非常に心外な事ではあろうが、平坦なその部分は腰を落ち着けるのに丁度良かった。 
そしてそのまま、前に倒れ込む。 
「むぐっ」 
突然顔に覆い被さってきた少年の体に呼吸を阻害されるが、同時にその身の感触が存分に堪能させられた。 
頭をセリスの胸に抱え込まれ、そのまま抱きしめられる。 
「…………何で僕が妥協しなくちゃいけないんだよ」 
耳元で囁かれたそれは、聞き慣れた声だった。 
いつもエリスが聞いていた声なのだから当たり前だが、何か違和感があった。 
そう、まるで幼い子供が何かを我慢させられて拗ねているような―― 
いつもは飄々としていてやたら大人びている少年が、そんな声をする訳無いのにエリスには確かにそのように聞こえた。 
しかし、次の瞬間にはそんな違和感は頭から吹き飛んでいた。 
セリスの小さな唇が耳をくわえたからだ。 
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」 
綺麗な歯並びの前歯で耳たぶの先をこりこりと甘噛みするのは反則だと思う。 
ほとんど不快と紙一重の快感に体を火照らすどころか、逆に鳥肌を立たせられた。 
そのまま、一気に耳全体を口にくわえ込まれてしまう。 
歯で甘噛みしつつ耳を固定して、さらにそのまま舌を耳の穴にねじ込まれる。 
(す、凄い) 
世界にこんなに気持ちいい事があるなんて知らなかった。 
愛しい人に愛撫されるのがこんなに幸せなんて知らなかった。 
自分が行った自慰にはなかった快感と、薬によって暴力的に与えられる快楽にはなかった幸福感がエリスを満たす。 
「ひ、あっ!!」 
そしてセリスの体の感触と匂いに、耳への愛撫、さらには媚薬の後遺症も手伝ってエリスの体は高みに押し上げられて行く。 
「………あっ………はっ!」 
セリスにのし掛かられ、歓喜の絶頂のその声はくぐもった物にしかならなかった。 
「思い知ったでしょう。君を快楽に溺れさせる事何てとても容易いんだ。それに、やろうと思えばこのまま君の頭を潰す事も出来るよ」 
身の程を知らぬ愚か者にそう囁く声は、穏やかであるが氷のように冷たい。 
「君は貴重であるけど、唯一でも無二でもない。あんまり我が儘言うなら―――壊すよ」 
幼い声に込められた殺意はエリスを怯えさせるには充分な物であったのは間違いない。 
その証拠に猫の少女の顔は蒼白になり、その身は恐怖に激しく震えている。 
しかし、魔王を名乗る少年はその表情に苛立ちにも近い感情を覚えた。 
「……………何で笑っているのさ?」 
「え、あ――」 
指摘された初めて分かった事だが、自分の顔の筋肉がいつの間にか笑顔を形作っていた。 
確かにセリスは怖い。 
見た目は幼いヒトの子供その物で、賢いとは言え普段も年相応の言動や行動が目立つ。 
だがその反面、その姿には分不相応な知識や、何者も平伏せさせるような威厳を持っている。 
矛盾するようなその存在は、しかし現に実在しているのだ。 
人は自分達が理解出来ない物に恐怖を抱く。 
知恵と知識と言う大きな武器を持つ故に、それを持ってして対応出来ない物を極端に恐れるのだ。 
今のセリスは幼い容貌に対して矛盾する高い能力に、さらに莫大な殺意が加わっている。 
理解出来ない物が、自分を害する意志を持っており、さらにそれを実行するだけの能力を持っているとなれば恐怖心を抱かない方がおかしい。 
当然のようにエリスも恐怖心を抱いている。 
(…………ああ、そうなんだ) 
しかし、自分が笑顔になった理由はすぐに理解出来た。 
嬉しいのだ。 
ただ単純に歓喜が恐怖を上回っていて、それが表情に出たに過ぎない。 
なぜなら、今セリスは自分に対して興味を持っているからだ。 
愛情の反対は憎悪ではない。 
愛情と憎悪はどちらも相手に対して並々ならぬ執着を抱いている点では同一であり、感情のベクトルが違うだけだ。 
愛情の反対は無関心だ。 
何の執着も持たれず、何の感情も抱かれないそれは並の悪意や憎悪より人を傷付ける。 
さっきまで、セリスにとってエリスと言うネコの存在は、能力以外何の関心もない路傍の石同然の存在だったはずだ。 
だけど今はどうだろう。 
これ程の殺意を向けられるなら、少なくとも自分は彼にとって路傍の石ではないはずだ。 
その事が何よりも嬉しい。 
(はは、おかしいですよね) 
死んでもおかしくないと思える程の恐怖を感じているというのに、それ以上に嬉しいなどと狂っているとしか思えない。 
おそらく自分は何処か、もしくは何かがおかしいのだろう。 
だから、怯えながらも、笑顔を止められないのだ。 
だが、眼前の少年にはそれがはなはだ不愉快な事であったらしい。 
「……………」 
苛立ちに奥歯を噛み締めながらも、見た目は見事な無表情を装いながらエリスの顎に手を掛け持ち上げ、そのまま掛けられた眼鏡をむしり取る。 
一瞬不安そうな表情になったが、すぐに元通りの笑顔が浮かぶのが尚腹立たしい。。 
ネコの骨格は、人間のそれとは比べものにならない程に強靱な物だが、セリスにとっては竹串を折るような気安さで破壊出来る程度の物だ。 
その震える喉元にセリスが歯を突き立てる。 
「っ、ぅ――」 
くすぐったそうに身をすくめる少女の体を強引に押さえ付け、そのまま喉から下に下がっていく。 
胸元を覆うシャツを力任せに引きちぎり、露出した肌に舌を付ける。 
同時にスカートの中に手を滑り込ませて、ショーツの上から濡れた部分を指で押さえた。 
「わひぃっ!?」 
身体でもっとも敏感な部分を触られエリスは仰け反るが、セリスはそんな事お構いなしに胸に口を付けて指を動かす。 
そして身体から力が抜けた瞬間、下着の隙間に入れた指を一気に膣内まで押し込んだ。 
「………っあっ!?」 
媚薬の影響か、はたまた本来の資質か膣内にセリスの指を感じた瞬間、少女は達していた。 
しかし、濡れそぼったそこに入った指は大人しくなどしていなかった。 
指の腹で擦り上げ、尖った爪先で掻き上げると、本人は絶息したように息を吐き出し身体を固くする。 
無論、舌で胸の敏感な突起を愛撫する事も忘れない。 
やがて、少女の反応に満足したかのように指が抜かれた。 
「ふぁはぁっ」 
絶頂の連続に呆け、喋る気力もない少女に、しかしセリスは責め手を緩めない。 
そのまま体を下げていくと、どろどろに濡れそぼったそこは既に下着を剥がされ、少年の眼前にその姿をさらしている。 
少年の息がその部分に吹きかけられた瞬間、両側にあった足がビクッと震える。 
「だ、や、少しまひぃぅぅぅぅぅぅっ!!」 
制止の声など当然無視して、セリスはそこに口を付けた。 
割開いた膣の入り口に舌をねじ込むと、入り口が収縮して舌を締め付ける。 
上の方にある突起は爪先で弾いて剥かれ、そのまま爪を立てられた。 
愛撫に比例して滾々と湧き出る液体を喉に流し込むたびに、エリスの体は跳ねてその口からは擦れた絶叫が上がる。 
「………あ、あ、ああ」 
凄まじい快感の荒波に、何度と無く意識が飛びそうになるが、最後まで目覚めていられるようにエリスは歯を食い縛って耐える。 
やがて、その時が来た。 
鋭敏化された感覚は、下腹部に当てられたその感触をしっかり捕らえていた。 
「は、初めてだから、や、やさ、しく、してください」 
拒絶どころか、もはや制止の言葉すらない。 
「嫌だね」 
しかし、食い縛った歯の隙間から息も絶え絶えで呟かれたその言葉に返されたのは、たっぷりと悪意が染みこんだ拒否の言葉だった。 
ほぼ同時に身体に衝撃が走る。 
「痛ぅっ!!」 
いくら媚薬や愛撫で濡れていたとは言え、加減無しに強引に一気にねじ込まれれば、激痛に苛まれて当然だ。 
しかし、所詮それも一瞬の事であり、次の瞬間には今までの物と比べものにならない程の快感がエリスの脳髄を侵す。 
引き千切るように揉まれる乳房も、吸い付くかのようにキスされる肌も極上の快楽を感じている。 
そしてなりよりも自分の膣の中を満たす感触がたまらなく心地よいのだ。 
動かずとも、その感触とそこから伝わって来る体温だけで達し続けてしまいそうになると言うのに、セリスはじっとなどしていない。 
膣内を遠慮無く削り、刮ぎ、突く度に半ば意識が漂白され度に、さらなる快楽で強引に覚醒され、その意識がまた飛ばされるという事の繰り返しだ。 
「ひぃうっ!!」 
漏れ出した悲鳴は苦痛ではなく歓喜を表していた。 
体中の自由をほとんど奪われ、人形のように玩具にされているというのにエリスは笑っていた。 
しかし、それは快楽に溺れ壊れた者が見せる笑みとは微妙に異なっており、まるでゲームに勝った子供が見せるような得意げな笑みだった。 
だが、それに気付いたセリスは半ば強引にエリスを持ち上げて、自分と向き合うようにした。 
そして持ち上げた少女を、重力そのままに叩き落とす。 
「っ!! ……あっ!」 
叩き付けられた衝撃はそのままエリスの膣内で炸裂して、彼女は反射的に仰け反ろうとしたが、セリスは強引に抱き留めた。 
そのまま、持ち上げて再び叩き落とす。 
自らの自重と勢いでもっとも深い所に衝撃が届く度に、エリスの体は跳ねるがそれを強引に押さえ込んだままセリスは同じ動作を繰り返すが彼女の笑みは消えはしない。 
その上、無意識のうちに彼女は相手の背中に手を回して抱きしめている。 
まるでその事に苛立つかのように、セリスの動きが激しくなった。 
叩き付けられる度に長く尾を引く絶頂を味わわされ、エリスが完全に意識を失ったのは、彼女が数えた三十六回目の絶頂を感じてからだった。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
目覚めた時エリスは体に違和感を感じた。 
何というか、何もないはずなのにそこに何か挟まっているような感覚と共に下腹部がやたら熱いのだ。 
(………そうでしたね) 
呆けていた頭にさっきの出来事が蘇る。 
自分はセリスに半ば強引に犯され、純潔を散らされたのだ。 
しかし、その事に関しては屈辱や悲しみ所か恐怖すら感じていなかった。 
それどころか、喜びすら感じていた。 
例え怒りであったとしても、セリスは自分に感情をぶつけてくれたのだ。 
ひょっとしたら、このまま殺される事だってあり得るかも知れない。 
セリス自身、理性的な人間だと思うが、理性的であろうが感情的であろうが殺意を抱く時は抱くのだから、先程の様子を鑑みれば充分あり得る話である。 
(…………仕方ないですよね) 
未練は山程あるが、後悔は全くない。 
自分自身が信じた道を貫いた結果なのだから、エリスは何があっても受け入れようと覚悟した。 
非常に後ろ向きな決意を胸に秘めた少女は、手探りで眼鏡を捜すと相手の裁断を仰ぐため辺りを見回すがその動きが急に停止する。 
結論から言えば、相手はすぐ見つかった。 
なぜなら彼女が寝ていたベットの縁に腰掛けていたからだ。 
しかし、数秒間それがセリスだと確信出来なかった。 
何というか、落ち込んでいた。 
肩を落とし膝に肘をつけて、その上に頭を乗せている。 
そしてなりよりその雰囲気が、周りの空間に重力異常でも起きているのではないかという程重いのだ。 
そして、止めは――― 
「はあぁ――」 
溜息である。 
セリスが溜息を付くのは珍しい事ではない。 
人(主にミリア)の神経を逆撫でするためにわざとらしい溜息を吐く事は、彼の日常業務と言っても過言ではないのだ。 
しかし、今目の前で吐かれている溜息はまるで落ち込んだ人間がやるような物ではないか――― 
それがエリスには信じられなかった。 
セリスは何というか、そう言う人間らしい悩みとは無縁の存在のように思っていたからだ。 
「あの…「話しかけないで、今自己嫌悪にひたってる所だから」 
凄まじく不機嫌な声音でエリスの言葉をぴしゃりと遮った。 
そしてこれ程あらか様に苛ついているセリスを見るのも、エリスにとって初めてだった。 
いつも自信に満ちているかその表情や雰囲気さえ何処が澱み、影を作っている。 
(本当、何やっているんだろうね) 
自分のあまりの大人げなさにセリスは再び嘆息した。 
初めは少し脅かすだけだったはずだ。 
だが、エリスがあまりにも強情なため、こちらも意地になってしまった。 
そもそも、彼女が目覚めた時二つ返事で了承してしまえば丸く収まったはずなのだ。 
彼女自身が、例え自分を好きにならなくても最後まで諦めないと言ったのは、セリスがエリスの事を好かずとも自分の役目は果たすという事だろう。 
その決意を素直に認めていれば、今頃全ての問題は片づいていたはずだ。 
それを認められなかったのは、ひとえにセリスの持った幼稚な感情が原因だ。 
自分はエリスが必ず研究を選ぶと確信していたのに、それが真っ正面から否定された。 
それに少しカチンときて、脅かしてやろうとした結果がこれである。 
思い返してみると、完全に子供の八つ当たりだ。 
知っている事ではあるが、自分は未だに子供っぽい。 
それはまあ、魔族としてこの世に生を受けた年はそれ程ではないが、それでもそろそろ魔族としては一人前と見なされてもおかしくないぐらいの年月を経ている。 
普段はわざわざ子供っぽく演じてるつもりだが、たまに感情を制御出来なくなる事があるのはいかんともしがたい欠点だ。 
(………いっそ、無かった事にしちゃおうかな) 
記憶を消すというのはそれなりに手間暇の掛かる作業だが、不可能な事ではない。 
しかし、自分より能力的に遙かに劣っている相手に対して、自分の失敗をもみ消すような事をするのはセリスのプライドが許さなかった。 
だからと言って言い訳がましく抗弁するのも、彼の主義に反している。 
結局その二つを抜かすと必然的に道は一つしか無くなってしまう。 
「………………………僕の負けだよ」 
潔く敗北を認めるという選択肢しか―――― 
「……………………………………………え?」 
「…………………だから、僕の負けだって言ってるんだよ。君の決意を読み間違えて八つ当たりした時点で僕は負けたんだよ」 
「…………………」 
呆けているのは現状を認識出来ていないのか、それとも目の前の少年が自分が負けたなどと言い出す事など夢にも思っていなかったのか――― 
おそらく後者なのだろう。 
だから、次に致命的な事を言ってしまったのだ。 
「…………………えと、本物のマスターですか?」 
 
ゴン、 
 
欠片の悪意もからかいもなく、素でそう言う事を言ってしまったのだろうが、その代償は頭頂への殴打だった。 
「茶化さないで」 
「ちゃ、茶化した訳じゃないんですけど―――」 
弁明は、しかし、師匠の半眼によって遮られた。 
「……………君の覚悟がどうした所で覆らないのは理解出来た。好きにすればいいさ」 
「それって―――」 
「僕はね。君が研究を選ぶと確信していたんだ。それなのに君は僕の予想を上回った答えを体を張って提示した。その事については認めよう。その点において僕は敗北した。だけど、僕が君を好きになる事なんて万分の一可能性もないよ。本当にそれで良いの?」 
「………はい」 
自分自身で決意した事であるが、本人に指摘されるとやはり少し寂しい。 
セリスは短く嘆息すると、何の前触れもなくいきなりエリスを押し倒した。 
「な、マ、マスター!?」 
「………………やっぱり、ちょっと癪に障るね」 
目を白黒させるエリスに、師匠は皮肉っぽい笑みを浮かべる。 
「だから、もう少し虐めちゃおうかなって思ったり思わなかったり――」 
「い、虐めるって――」 
「さっきと同じ事するんだよ」 
その言葉を聞いた瞬間、エリスの顔が真っ赤に染まる。 
「大丈夫だよ。今度はさっきみたいな無理な事はしないから―――それに何より、君に少し興味が湧いたしね。君の能力じゃなくて、エリス・ウィリエムと言う個人に対してね」 
「はぇっ!?」 
自分がこれからされる事よりも、言い添えられたその一言にエリスは驚いた。 
セリスにとって自分は先程まで道具以上の興味は無かったはずだ。 
それなのに何故急にそのような事になったのか――― 
「何でだろうね。何となく、君と肌を重ねたい気分なんだよ―――駄目?」 
「だ、駄目って言うか――なんて言うか心の準備が――」 
既に一度体を重ねているとは言え、それはあくまで勢いやら何やらがあったおかげで面と向かって同意を求められても困る。 
「いいじゃない、もう純潔はなくなったんだし――それに拒否した所で止める来はないよ」 
真っ直ぐにエリスと視線を合わせる少年の態度は、新しい玩具を手に入れた子供のような物だったがエリスは背中に薄ら寒い物を感じていたた。 
彼女は知らないが、奇しくもそれはセリスに押し倒された主が毎回感じる危機感に近い物だった。 
「わ、分かりました。でも一つお願いがあるんです」 
「…………何?」 
「その―――まず、キスから始めてください。さっきは出来ませんでしたから」 
自分にだって人並みの願望がある。 
初めては半ば強引に奪われたこそ、二度目は本当の恋人同士がするように肌を重ねたいと思うのは当然だ。 
顔を真っ赤にしながら懇願するエリスに、答えたのは不敵な笑みだった。 
一瞬却下されるかと思ったが、それは杞憂に終わる事となる。 
顎を上げられ、合わせられた唇から舌が入り込む。 
それに反応して顎の力を抜いた瞬間、強引に歯をこじ開けて口の中を蹂躙する。 
エリスも何とかそれに応じようとするが、素人のつたない舌使いではセリスに合わせられる訳もない。 
小さく柔らかい唇とそれに似つかわしい小さな舌は、しかし性感帯を探る事に関しては正に機械のように正確で悪魔のように容赦がないのだ。 
一方的に口の中を弄ばれ、頭の中が痺れ真っ白になる。 
口を離された時、エリスは無意識のうちに舌を突き出してセリスの唇を求めていた。 
その求めにセリスが応えようとした時、彼の視界にエリスの左腕の甲が入る。 
其処には醜い傷跡があった。 
何かが刺さったと言うより、何かがねじ込まれたような傷跡だ。 
皮膚と肉が切断されると同時に無理矢理引き裂かれ、凶器がねじ込まれたために、普通の切り傷や刺し傷と比べものにならないぐらい広範囲に傷跡が広がっているのだ。 
しかし、出血や壊死した細胞はセリスの力によって完全に回復させられ、後は傷跡を消すのみとなっている。 
わざわざ彼が傷跡だけ残したのは、その部分の回復は本人の意見を聞きながら行うためであった。 
前に重傷のシルスを回復させた時に、背中に大きく人面のような傷跡が残った事があるのだが、シルスが動くたびに背中の顔が変な表情になるのを、ミリアと共に爆笑したら一週間程落ち込んでしまったと言う事実があるのだ。 
シルスなら落ち込もうが殴られようが吹き飛ぼうが爆発しようが構わないが、エリスがそんな事になると困る。 
そのために傷跡の治療は最後まで残しておいたのだ。 
「安心して、此処の傷は後で綺麗さっぱり消してあげるから―――」 
エリスの視線が自分と同じ場所に向いているのに気付き、分かっているとばかりに苦笑しながらすぐに補足するが彼女は首を横に振った。 
「あの、この傷跡は出来たら残しておきたいんですが―――」 
「別に構わないけど―――何で?」 
弟子の言葉に怪訝な表情をするセリスだが、次の一言でその表情が引きつった。 
「ええと、マスターに勝った記念という事で―――」 
エリスの言葉と同時に押し倒していた師匠の肩がビクリと震える。 
「自分の決意の証という意味もありますけど、マスターが私の事を認めてくれたという記念に残しておきたいと思いまして―――」 
「……………」 
「ちょっと安心したんです。マスターって自分一人で何でも出来そうに見えますけど、絶対じゃないんだって――」 
「…………………」 
「それに、落ち込んでいる時のマスターってちょっと可愛ふぎぃっ!?」 
目にも留まらぬ速さで伸ばされた腕が頬の肉を捻り上げ、そのままエリスの頭を吊り上げる。 
「あはははは、何を勘違いしているのかな君は――君が僕に勝ったのは単なるまぐれだよ。うん、隕石が大気圏で燃え尽きずに地表に落下してそれに付着していた原子生命体が、その星の環境に適応して霊長類まで進化するぐらいの確率、もしくはご主人様がマークシート五百問テストで満点を取る確率で奇跡が起きたって言うだけの話だよ。そんな事をさも実力のように吹聴すると―――頬の肉が千切れちゃうぞ♪」 
内容に反して声音は朗らかで笑顔だが、目は全く笑っていない。 
「ひょ、ひょひょひふぇひょっひょうきひふぇひひえひゅ(ひょっとして結構気にしてるんですか?)」 
頬を抓られたために変な発音になっていたが、生憎とセリスの聴覚はそんな物で内容を取り違う程性能は低くない。 
しかも、エリスが涙目になりながらほぼ反射的にそう述べた言葉は、限りなく真実だった。 
その証拠に非常に微妙な変化ではあるが、セリスの口の端が引きつっている。 
「回る〜回る〜何処まで回る〜一番初めは九十度〜二回目は百八十度〜三回目は二百七十度〜最後の仕上げに三百六十度〜」 
調子っぱずれの歌を楽しげに歌うセリスだが、その目は本気である。 
その歌詞に連動して頬肉の捻り具合も増していく。 
「ひゃぃひゃふぇふぇひ!! ひゃぃひゃふぇふぇひ!! ひょひょぇひょひょぅひょうひょうひょひょひぃひひょひょぃひょひょひょ!! (すいません!! すいません!! それ以上やったら本当に千切れちゃいます!!)」 
「聞こえない〜聞こえない〜何も聞こえない〜」 
本気で泣きを入れる弟子の声を完全に無視して、セリスは引きつった笑顔のまま腕を回す。 
「ひぃひゅひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ!!」 
結局、その後エリスの部屋に響いたのは艶を持った悲鳴などではなく、色気も何もない絶叫だった。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翌日、ミリアの勉強部屋、別名『不毛で永久なる空間』で、セリス達は勉学の才能を欠片も持っていない主に勉強を教えていた。 
「え〜と、トイレ用洗剤と納豆菌が合体して味塩になるのよね」 
「………………トイレの洗剤じゃなくて塩素と納豆菌じゃなくてナトリウムです。それが合体じゃなくて、化合して塩、つまり塩化ナトリウムになるんです」 
『化合物を一つあげて、その元になる元素を答えよ』と言う問いに、大真面目に『味塩はトイレの洗剤と納豆菌から出来ている』と次元を超越したウルトラ驚理論答える雇用主に、ややたじろぎながらもエリスは可能な限りやんわりとした訂正を差し入れた。 
「似たようなもんじゃないの?」 
此処まで来ると頭が良いとか悪いとか言う以前に、脳に致命的欠陥があるとしか思えない―――とエリスが思ったかどうかが分からないが、少なくとも知能指数の低い主の真横に居た奴隷はそう思った事だろう。 
「だったら、舐めてみれば舌が爛れて面白い事になるよ。主に僕がね」 
奴隷があからさまに小馬鹿にしたような表情でそう言えば、当然ながら主は反論する。 
「な、何よ。ちょっと間違えただけじゃない」 
「ちょっと? 学問と言うより一般常識に近い問題を間違えていてよく言うよ。ご主人様、本当に産まれてきた今の今まで、その脳味噌の中に何を詰め込んできたの? どうせ、理数関係の授業全般で間抜けな顔して惰眠を貪っていたんじゃない」 
何の気兼ねなしに呟いた皮肉であったが、セリスは主が瞬時に目を逸らしたのを見逃さなかった。 
「……………まさか、本当に?」 
「そ、そんな事無いわよっ!! ちゃんと起きてたわよっ!!」 
「いや、思いっきり寝てただろう。そのせいで先生が三人ぐらい辞めたし―――」 
奴隷の視線に耐えられずそう答えたが、すぐに幼なじみに突っ込まれた。 
当然、裏拳で黙らせるが、過去に彼女の居眠りが原因で教師の自信を粉砕されその道を断念した人達がいた事実は変わらない。 
「……………学業レベルからやり直すって言う君の考えは、合っていたようだね」 
「は、はい、この調子でゆっくりっていけば、そのうちミリア様も勉強が出来るようになります」 
「そうだと良いんだけどね」 
ハッキリ言って、どれだけの労力を支払えばミリアを賢くできるのか魔王であるセリスにも全くの不明だ。 
ひょっとして自分は、途轍もなく途方な事をやろうとしているのではないのだろうか――― 
(まあいいか―――) 
自分には無限の時間がある。 
退屈しない限りあり続ける命の中で、たまにはこう言う回り道も良いだろう。 
「二酸化炭素はコーラを振ると発生する、と」 
「………………」 
無限の時間でも足りるのだろうか――― 
セリスがそう思ったかどうかは分からないが、彼は馬鹿な事をのたまう主に対してやや呆れたように嘆息した。 
「あの、マスターそろそろ講義の時間ですけど―――」 
「あ、もうそんな時間なんだ」 
いつの間にか時間が経っていたらしく、弟子に指摘されてミリアの横にある時計で確認すると、予定の時間にさしかかっていた。 
「ご主人様、これからエリスに講義するけど―――課題はちゃんとやっておいてね」 
「勿論よっ!!」 
待ってましたとばかりに手を振るミリアであるが、おそらく彼女はその課題のほぼ全てを隣にいる幼なじみに押し付けるつもり満々であろう。 
「言っておくけど、手伝って貰うとかならともかく――――もしもしシルスお兄ちゃんにやらせたりした場合は―――まあ、面白い事になるだろうね。僕にとっての事だけど――それでも良いって言うならやらせればいいよ。さらに言うなら、誰が課題をやったかぐらい僕はお見通しなんだからね」 
「そ、そんな事しないわよ」 
冷や汗を流しながら目を逸らす主に、セリスはどんなペナルティを課そうかと思案しながら出口へ向かう。 
しかし、そこで突然歩みを止めると当然思い出したかのように呟いた。 
「ああ、そうだご主人様に言わなきゃいけない事があったんだ」 
わざとらしく大きな声でそう言うと、くるりとミリア達の方に振り返る。 
「おとといの言葉、訂正させて貰うよ」 
咄嗟にそう言われて、何の事かと悟れる程ミリアは鋭くないがセリスは気にせず続ける。 
「あんな小娘に入れ込まないって言ったけど、どうやら少し入れ込んじゃったみたいなんだ」 
セリスの言葉が何を意味するかも、勿論すぐさま理解出来ないミリアだがそんな事はこの際関係なかった。 
なぜなら彼女の目の前で、強引にエリスの顔を掴んだセリスがそのままキスしたからだ。 
『っ!?』 
ミリアは無論の事、キスされたエリス自身も目を驚愕に見開いている。 
「つまり、こう言う事だよ」 
してやったりとばかりの表情で、セリスは弟子と触れ合ったであろう自分の唇を舌で舐め回す。 
そして、キスされた体勢のまま固まっているエリスを引っ張りながら部屋を出ていく。 
「まあ、なるようになったか―――」 
それまで事態を静観していたシルスは、特に驚いた様子も見せず辞書を引きながらそう呟いた。 
ほぼ同時に飛んできた教本が彼のこめかみを直撃し、次の瞬間には屋敷中に聞こえそうなぐらいの怒声が響いた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あの、あんな事していいんですか?」 
「別に構わないよ。どうせすぐにばれるだろうし―――」 
響いた怒鳴り声に反射的に身をすくめたエリスとは違い、セリスは堂々とした物だ。 
「で、でもマスターはミリア様の奴隷な訳ですしやっぱりまずいような気が――」 
「あれれ、今更怖じ気ついたの? あれだけ堂々と僕の事好きだって言った癖に――」 
セリスは悪戯っぽい笑顔でエリスの手を取り、そのまま体ごと抱き付く。 
「あ、あれは、その場の勢いと言うか何というか――」 
幼い肢体の感触に昨晩の事を思い出し、顔を真っ赤にする弟子を見ながらセリスはとことん意地の悪い笑顔を浮かべる。 
「そんな言い訳が通用する程、僕は安くないよ。僕が認めた以上、僕が飽きるまで付き合って貰うからね。例え君がどんなに泣きわめこうが、地獄の底まで引きずっていくからその覚悟してね」 
「は、はい、これからもよろしくお願いします」 
楽しげに呟かれる内容は物騒極まりない物であり、言っている相手が相手だけに冗談に聞こえないのが恐ろしいが、エリスは律儀に頭を下げた。 
「そう言えばまだ僕の秘密を言っていなかったね」 
「え、秘密ですか?」 
さりげなく言われ、エリスはキョトンとした表情を浮かべる。 
「そう、とっても重要な秘密なんだ。僕を除けば、ご主人様とシルスお兄ちゃんしか知らない秘密だよ。どう、聞きたい?」 
確認を求めてはいるが、その紅い瞳は言いたくてしょうがないと語っている。 
「あ、はい、聞きたいです」 
軽い気持ちで同意したエリスに、セリスは本当に愉快げに唇を吊り上げた。 
「僕は人間じゃないんだ」 
「…………………………」 
さすがに予想していなかったのか、エリスの表情が硬直する。 
「今、証拠を見せるね」 
言うやいなや、セリスの人差し指の先に光球が現れる。 
文字通りの完全な球形の白い光の固まりだった。 
「触って見たいだろうけど、やめといた方がいいよ」 
持ち前の好奇心で手を伸ばそうとしたエリスを制止し、無造作に指先の光球を近くの扉に押し付けると、灼けた鉄板の上に水を垂らして蒸発する時のような音が響いた。 
そして再び指を引っ込めると、其処には丸い穴が空いていた。 
空いた穴の周りは、まるで研磨されたかのような綺麗な断面をさらしている。 
その時になって、エリスは初めてセリスの指先にあった光球が莫大なエネルギーを凝縮した物だと気付いた。 
空いた穴は、光球が物質を完全に気化させるだけのエネルギーを秘め、綺麗な断面は光球の範囲以外に一切のエネルギーが漏れていない事を示している。 
「ね、こんな事は魔法が使えない普通の人間には出来ないでしょう」 
空気中に漂う魔素から物質を完全に蒸発させるだけのエネルギーを抽出して、さらにそれをコイン大の大きさまで圧縮し、指定した範囲内に完全に止めておける魔法使いなどそうはいない。 
ましてや、魔法を使えないヒトが出来る芸当ではない。 
「―――マスターは亜種なんですか?」 
息を呑みながらも、エリスはそう問う。 
亜種、他にも妖種や、変異体と呼ばれる事もあるそれらは、一種の異能者達の事を指す。 
その種族にしてはあり得ない能力を獲得した個体の事をそう呼ぶのだ。 
例えば、猫の癖に犬より鼻が利いたり、マダラの癖に同種族の普通の男より力が強かったりと言う、種族の特徴には含まれていない能力、もしくは同系統の個体から逸脱した基本能力を持つ者達の事だ。 
無論、ヒトもその中に含まれる事がある。 
ヒトの癖に魔法が使えたり、下手な獣人などよりも身体能力が優れていたり、もしくはそれ以外の能力を獲得していたりする事があるのだ。 
エリスはセリスがそれらと同じように、突然変異した者達の一人かと思ったのだ。 
「残念、ハズレだよ。僕はそう言う突然変異体じゃないんだ」 
外れる事を当然予測していたとばかりに、セリスは満面の笑みで弟子の意見を否定する。 
「僕は魔族って言う生物だよ。これでも、君が想像出来ないぐらい生きているし、物理的攻撃や時間的劣化に対してはほぼ無敵で、魔法だって君達の言う普通の魔法使いとは全く別の理論で使えるんだから―――」 
途中まで自慢げにそう語ると、次の瞬間には小さい唇を三日月型に歪める。 
「そして、僕はその生物の王の位に付いている。その気になれば遙か彼方から指一本動かさずに君を消し去る事だって出来るんだよ――――そうだ、試しに腕の一本でも消し飛ばしてあげようか」 
紅い瞳が細められ、その輝きが狂気を孕んだ。 
向けられる殺気に、エリスは腰を抜かしてへたり込む。 
セリスの腕がエリスの肩に触れて、そのまま腕に向かうがその動きは途中で止まった。 
「本当に可愛くないね。少しは怯えればいいのに―――」 
「だ、だってマスターが、そんな事する訳無いじゃないですか」 
殺気に身を竦ませ、顔を引きつらせ、舌をもつらせながらもエリスの瞳に恐怖の色はない。 
セリスが自分に危害を加える事など、あり得ないと信じているからだ――― 
「そんな根拠が何処にあるのさ」 
そう言いつつも、殺気を納めるのは彼女の言葉が的を射ていたからだろう。 
だからと言ってセリスの殺気を受けながら、喚き声一つあげないというのは並大抵の事ではない。 
あまりに愚かな弟子の判断にセリスはついつい苦笑を漏らしてしまう。 
「本当に馬鹿な弟子だね。こんなんじゃこれから心配だよ」 
「だ、大丈夫です。頑張りますから――」 
慌ててそう叫ぶ弟子に、さらに苦笑を深めてセリスは彼が初めてエリスと出会った時同様に手を差し出した。 
「……………冗談だよ。これかもよろしくね」 
「は、はい」 
エリスの方も同じようにその手を取る。 
「こちらこそよろしくお願いします。マスター」 
自らの覚悟と決意を示すかのように、エリスはセリスの手を力強く握りしめた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
自分の左手の傷を見ながらエリスは頬を赤くした。 
今になって思い出すと、自分は凄まじく恥ずかしい事を言っていたような気がする。 
この傷は結局あの後記念として残したのだが、セリスにとってははなはだ不本意な物らしく、彼の前でうっかり話題にでもしよう物なら、例え講義の途中でも、例え情緒の途中であろうとも、頬を抓られ気が済むまで虐められるのだ。 
(結局、あの後講義が終わってから、部屋でしちゃったんですよね) 
思えばあれから、二人っきりになるとその手の行為に走るという習慣が出来てしまったのではないのだろうか――― 
(で、でも、それはほとんどマスターが求めてきたからであって、別に私がイヤらしい訳じゃあないはずです) 
コンコン、 
言い訳がましい思考は、しかし唐突に響いた音に遮られた。 
「エリス、居る?」 
扉の外から響く幼い声にエリスは身を固くした。 
時計を見やればかなり時間が経っている。 
部屋を見やれば全く片づいていない。 
もしも、この部屋をセリスが見たらどうなるだろう。 
多分、自分の言い付けを全く護らない弟子に気分を激しく害する事だろう。 
その様子は容易に想像出来る。 
まずとびきりの笑顔を浮かべる事だろう。 
それはもう、誰もが見惚れそうなぐらい綺麗な表情を――― 
そして言うのだ。 
「エリス、掃除して♪」 
とっても可愛らしい声で目だけは全く笑わずに――― 
逆らう事など出来はしない。 
例え逆らったとしても、彼の魔法で勝手に操られるだけだ。 
現に過去何度も、エリスの部屋の有様に笑顔で怒ったセリスが魔法で彼女の体を操って何日も徹夜無休で掃除をさせ続けたという事実がある。 
強制的に肉体のリミッターを外され、普段の運動音痴が信じられない程のスピードとパワーで掃除させられるのだ。 
全ての掃除が終わり魔法が解けた瞬間、全身を主に筋肉痛などによる激痛が襲い、一週間はトイレに立つのもままならなかった程だ。 
このままではその悪夢が再来してしまう。 
「ちょ、ちょっと待ってくださいマスターっ!! まだ片づけの途中なんですっ!!」 
エリスは可能な限り全力で扉に飛びつくと、そう言って師匠を制止した。 
この扉の鍵は電子ロックだが、セリスはマスターキーを持っているため鍵の意味など無い。 
そもそも彼ならば、金属の扉一枚ぐらい容易く突破できることだろう。 
「……………まだ片付けてないの?」 
「ええと、少し手間取ってしまって。でも、もう少しです。後三十分ぐらいで片づきますっ!!」 
不穏な気配を纏った師の言葉にエリスは脂汗と冷や汗を浮かべながら言葉を紡ぐ。 
「だ、だから三十分後ぐらいにまた来てくださいっ!! 絶対、ちゃんと片付けておきますから―――」 
「…………………まあ、それぐらいなら待つけど」 
多少の不愉快さを滲ませながらも、セリスは大人しく引き下がった。 
エリスは壁に耳を密着させ、聴覚をフル起動させて幼い足音が遠ざかるのを確認すると、全力で部屋を片付け始める。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
染みだらけの床は一応水拭きされ、机の上や本棚には本や書類がほとんど無い。 
「―――――意外と片づいているね」 
部屋の中を見回したセリスの感想はまずまずだった。 
そもそも彼が人を誉める事自体希なため、これだけの感想が貰えれば充分合格点なのだ。 
「は、はい頑張りました」 
ボロボロになりながらも何とか部屋を片付けたエリスに、師匠は残念そうな表情を見せる。 
「せっかく、面白い物が見れると思ったのに―――」 
「あはははははははは」 
セリスの言っている面白い物とは、泣きながら掃除を続けるエリスの事だろう。 
何せこの師匠の性格は最悪なのだ。 
未だに何故好きになったか、その理由はエリス自身にも全くの不明である。 
「まあ、君の醜態は今度見るとして―――一度お風呂に入ってきたら? そんな格好で食事にするのはさすがに御免でしょう」 
急いで片づけをしたせいで、エリスの全身は埃や色々な物で薄汚れている。 
さすがにこんな姿で食事をするのは、エリス一人だけならともかくセリスと一緒にだと問題がある。 
「どうせなら、大浴場に行ってきたら?」 
「そ、そうですね」 
この屋敷に置ける大浴場は年中無休で、各地から取り寄せた秘湯名湯を堪能出来る作りになっており、さらには各種暖房設備や光化学機器により好きな環境を演出出来るのである。 
無論、そのために屋内で満月を見ながらの雪見酒と言う暴挙も可能なのだ。 
しかし、エリスはほとんどこの大浴場を利用しない。 
元来が出不精なため、部屋に風呂が付いているのにわざわざ部屋の外まで風呂に入り行くという考えがないのだ。 
しかも、本人は他人に指摘されなければ平然と一週間ぐらい入浴しないような人種のため、彼女が大浴場を利用する事はまず無い。 
だが、何故か今回ばかりは素直にセリスの言葉に従った。 
「……………何かやたら素直だね。いつもは、シャワーだけとかで済ますくせに」 
「た、たまには温泉でお酒も良いかなと思って」 
 
「前に風呂場でマタタビ酒を飲んで溺死しかけてから、入浴中のお酒は金輪際止めるって言ってたよね。そもそも、君は普段からお酒を飲まないでしょう」 
「あはははは、そ、そうでした。それじゃあ、行ってきますね」 
乾いた笑いを上げるエリスに、セリスは多少不審な目をしながらも何とか納得したようだ。 
「ああ、エリス」 
「は、はひっ!?」 
安堵の吐息を漏らすと同時に背に掛けられた声は、小さかったがエリスの身を竦ませるには充分だった。 
「何なら一緒に入る?」 
「け、結構ですっ!!」 
こればかりは決然と拒否しないと、本当にセリスが付いてきて大変な事になる。 
と言うか、裸で一緒の湯船に入って何も起きない確率は限りなく皆無に近い。 
利用者がかち合う確率は少ないとは言え、公共の場所でその手の行為を行える程エリスの神経は図太くない。 
セリスの方も、本気ではないらしく慌てる彼女を見ながら苦笑をしている。 
「まあ、その間僕は食事を作っているよ。昨日面白い食材が送られてきたから、楽しみにしていてね」 
「あ、はい………………」 
反射的に返事をした表情のままエリスは固まった。 
「マ、マスター」 
「何?」 
口の周りの筋肉のみ動かしてやっと声を絞り出すエリスに、セリスは首を傾げた。 
「此処で作るんですか?」 
「勿論だよ。わざわざ、運ぶ手間は掛けたくないからね」 
エリスの部屋にはキッチンが備え付けられている。 
無論、部屋の主がそんな物を使うはずもなく、実際にはセリスが料理をする時ぐらいにしか開けられない部屋だ。 
当然、セリスは此処のキッチンを使って料理するつもりであった。 
「あ、あの今日は外食なんてどうでしょう? 中華料理とか――」 
「じゃあ、メニューは麻婆豆腐にする?」 
「ええと、カレーライスとか―――」 
「辛口甘口、好きな方を言って」 
「パスタを食べたいような―――」 
「ミートソース? カルボナーラ? 温製冷製?」 
今更ながらに思うが、魔王の癖に何故セリスのレパートリーはこれ程幅広いのだろう。 
奇妙な不条理さを感じながらもエリスは引きつった愛想笑いを浮かべる。 
「いえ、自分で作らなくても外に食べ行けば」 
「……………僕の料理がそんなに食べたくない訳?」 
「ち、違いますっ!!」 
半眼を向けるセリスにエリスは慌てて言い繕う。 
彼は魔王の癖に自分の料理の腕にかなりのプライドを持っているのため、侮辱されたと感じたのかも知れない。 
無論、セリスの料理は美味しいのだが、今回ばかりはキッチンに立ち入らせる訳にはいかないのだ。 
「ほ、ほらその日の気分とかそう言う物で――今日は外食がいいかなって」 
「……………………………」 
「マ、マスターの料理は勿論美味しいんですけど、やっぱりその時自分が食べたい物を食べた方がいいじゃないですか―――」 
「………………………………」 
「マ、マスターも今日は疲れているようですし、その、たまには二人だけで外食もよいかなって―――」 
最後の言葉だけは本気であるため、言ってしまってから顔が赤くなる。 
「…………………そこまで言うなら、行かない事もないけど――」 
「ほ、本当ですか?」 
弟子の必死さに妥協を提示する師にエリスは顔を輝かせる。 
「じゃ、じゃあすぐにお風呂に入っちゃうんで、マスターはご自分の部屋で待っていてください」 
「そうさせて貰うかな」 
それだけ言うとセリスは出口に向かい始める。 
その姿を見た瞬間、エリスは心の中で安堵の息を吐き出した。 
しかしながら、安心するのは少し早かった。 
「あ、そう言えば包丁を此処のキッチンに忘れていたんだ」 
「…………………………え?」 
思い出したように呟いたセリスはその場で反転すると、そばにあったキッチンのドアに手を掛けた。 
「ちょ、ま―――」 
制止の声を掛ける間もなく、セリスはドアの開閉スイッチを押している。 
 
 
 
ドン、ガシャ、カン、ドス、ギン、ゴン、バシャ、ゴフ、 
 
 
 
ほぼ同時に扉が勢いよく開き、様々な音と共に色々な物が飛び出してきた。 
飲み終えたドリンクの瓶、辞典、データーを挟んだファイルに各種書類、フラスコや食べかけたまま放置されたハンバーガー、汚れたぞうきんに使い終わったティッシュ、その他諸々――― 
そもそもどだい無理な話だったのだ。 
エリスの部屋の惨状は三十分程度で片づけられるような物ではなかった。 
だから彼女は、見える所だけ掃除した。 
まず初めに邪魔になりそうな物やゴミを他の部屋に移動して、セリスが見るであろう一部屋だけを何とか納得して貰えるぐらいのレベルまで掃除したのだ。 
その後、セリスと一緒に外に食事に行って、有耶無耶にしようとしたのだが、その目論見は失敗に終わった。 
「…………………………エリス」 
辞書を頭に載せ、カップ麺の汁と変色したトマトで顔に化粧して、汚れたぞうきんを服に貼り付けた魔王様のお顔はとても穏やかだった。 
「あ、あはははははははは、や、やっぱり怒ってます?」 
「そんな事はないよ」 
恐怖に引きつったまま、脂汗と冷や汗を滲ませ顔中の筋肉で愛想笑いを浮かべるエリスの質問に、辞書を頭に載せた魔王様は穏やかな表情のままゆっくり首を左右に振った。 
「だって、君の醜態を思いっきり見られるんだから――――」 
魔王様は穏やかにそう宣告した。 
 
 
 
 
 
 
結局、数日間エリスの部屋には持ち主の悲鳴やら、絶叫やらが響き続けることになった。 
 
 
 
 
 

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