「拓海君!拓海君!!」  
 私はぴょんぴょん飛び跳ねながら名前を呼ぶ。  
 拓海君だ。また来てくれた。拓海君だ!  
 通りの向こう側で、照れたような顔で拓海君が小さく手を振ってくる。  
 また、中庭で拓海君とお話ができる。  
 嬉しいな。楽しいな。  
 
 
「あ、そういえば」  
 いつものように、中庭のコンクリの段差に座りながら拓海君とお話をしてると、  
拓海君は何かを思い出したかのように言った。  
「え? なに?」  
「あの、先輩に聞いたんですけど、○女って、ストッキング可になったのってここ10年くらいなんですって」  
「え?」  
「夕子さん、黒いストッキングじゃないですか」  
「あ、そういえばそうだね」  
 私は自分の足を見た。確かに、私は黒いストッキング履いてる。  
「だから、きっと夕子さんって……僕と10歳以内の歳の差しかないですよ」  
「そっかー。じゃ、もしかしたら私と生きてるときにすれ違ってたかもしれないんだね」  
「そうですね。でも、もしすれ違ってたら絶対僕は覚えてると思います」  
 マジメな拓海君の顔。  
「ん? なんで?」  
「だって、夕子さん美人ですから」  
 拓海君はときどき真顔でヘンなことを言う。  
 困る。だって、顔が赤くなりそうだから。  
 体の奥がムズムズして、なんだか体温が上がっちゃいそうな気持ちになる。  
 胸の一番奥がほっこりと暖かくなる。  
 どうしてだろう。コンクリの段差の上に座ってるはずなのに、雲の上にいるみたいな気持ちになる。  
 
「…あっ、そういえば、昨日スーパーの特売って言ってたけど、拓海君お料理できるんだ?」  
 私は慌てて話題を変える。  
「家ではいつも僕がやってます」  
「へー。昨日はナニ作ったの?」  
「昨日はピーマンとひき肉が安かったから、野菜ハンバーグにしました」  
「すごいね拓海君。私、お料理とかたぶんできないからすごいと思うよ」  
 
「…岳志は野菜食べたがらないんですけど、肉や魚ばっかり食べてるとすぐ風邪ひいちゃうんで  
野菜ハンバーグとか、カレーとかにすると食べてくれるんです」  
「すごいねえ。まるでお母さんだね拓海君」  
 と、私は言ってしまった。  
「母さんが死んでから、僕が家のことは僕がずっとやってますから」  
 あ。  
 イヤなこと思い出させちゃったかな。  
「…ゴメン、拓海君」  
「え? どうかしたんですか?」  
 拓海君は強い。拓海君はいい子だ。私が悪いことを言った、と思ってしまわないように、気を使ってくれてるんだ。  
「母さん、二年前に死んじゃったから。僕がするしかないんです」  
 そう言いながら、夕焼け空を見上げてる拓海君。  
 その目がとても嬉しそうで。その色がすごく優しくて。  
 だから、私はさらに訊いてしまう。  
 
「ねえ、拓海君のお母さんってどんな人だったの?」  
 
「ねえ、拓海君のお母さんってどんな人だったの?」  
「えーと。まあその、病弱で、ずっと入院してました。えと、その、優しくて…その…キレイな人でした」  
 拓海君はとっても大切な事を話してくれてる。  
 その表情からそれが判った。  
「……拓海君、お母さんのこと大好きだったんだね」  
 私にはそうとしか言えない。  
「僕と岳志の名前は母さんがつけてくれたそうです」  
「……いい名前だね」  
「はい」  
 
 拓海君はお母さんの話をしてくれた。  
 もともと身体が弱く、病弱だったこと。  
 拓海君と岳志君を産んでさらに体力を失ってしまったということ。  
 でも、拓海君と岳志君のことを一番に思ってくれていたということ。  
 亡くなるまで、拓海君に料理をいろいろ教えてくれたということ。  
 嬉しさと哀しさ、暖かさと寂しさの入り混じった拓海君の声が中庭に響いていた。  
 その声色だけで、拓海君がお母さんのことがどれほど大好きだったかというのがわかる。  
 
「…ゴメンね。辛いこと思い出させちゃって」  
「ははは。まあ、そんなに悲しくは無いんですけど。もう慣れちゃったし――で…」  
 そこで口をつぐむ拓海君。  
 まだ何か言いたいっぽい。  
「…でも、何?」  
 
「…あ、いや、別になんでもない、です」  
「――拓海君」  
「なんですか?」  
 
 私は拓海君の前に回って、拓海君の顔を真っ直ぐ見つめながら言う。  
「……私、拓海君には絶対ホントのことしか言わないよ。私ね、拓海君には絶対ウソつかない。誓うよ」  
「あ、ありがとうございます」  
「だからね、拓海君。私には、遠慮とか、そういうのいらないよ」  
「え?」  
「拓海君が言いたいことは全部素直に言って欲しいんだよ。私、拓海君がどんなことを言っても、  
絶対に笑ったり、バカにしたり、怒ったり、嫌ったりすることは絶対絶対ないから!  
 だから、言いたいことは何でも言って欲しいんだよ」  
 
「……」  
 黙ってしまった拓海君。  
「……」  
 そんな拓海君は目を伏せると、搾り出すみたいに、言った。  
「父さんが……父さんめったにお酒は飲まないんだけど、年に一度くらい、母さんの命日近くになると、  
たまに酔っ払って帰ってくるんです」  
「…」  
「…フラフラになって、玄関のドアをガンガン叩きながら、母さんの名前を呼ぶんです」  
 拓海君の切なげな瞳。もう止めて、もういいよ、そう言おうとしても、私は拓海君の声に言葉を差し挟めない。  
「『かなえー、カナエー』って言いながら、父さん、玄関マットに突っ伏したまま母さんの名前を呼ぶんだ」  
 
 拓海君は目の前1mくらいの地面を見つめながら言葉を続ける。  
「そのままゴロンと仰向けになって、『かなえいないのかー、かなえ死んじゃったのかー』って泣きながら、  
そのまま寝ちゃいそうになるんです」  
「……」  
「僕と岳志で父さんを寝室まで運ぶんだけど、そのとき、父さんが言うんです」  
「………」  
「『拓海も岳志も、体が丈夫で元気な女を嫁にしろよー』って。  
 『先に死なれちまって、俺みたいな悲しい思いをするのは俺だけでたくさんだー』って。  
 父さん、母さんのこといまだに大好きだから。でも、ガマンしてガマンして、いつもはそんな事言わないのに」  
 
 拓海君が泣いてる。涙は流してないけど。  
 
 拓海君が泣いてる。涙は流してないけど。  
 私にはわかる。目から涙は流してないけど、泣いてるんだ。  
 私のすぐ横に座ってる拓海君は、涙を流してはいないけど、泣いてる。  
 
 
 私の手が空を切る。  
 思わず、拓海君の肩を抱こうとしてた。  
 私の手は拓海君の肩をすり抜けてしまう。  
 胸に抱きしめてあげたい。  
 いい子だよって。  
 お母さんいなくて寂しいのに、気丈に頑張ってる拓海君を抱きしめてあげたい。  
 
「拓海君。私、嬉しいよ。拓海君がなんでも言ってくれて」  
「…僕、ヘンですよね。カッコ悪っ」  
「ヘンじゃないよ。拓海君、絶対ヘンじゃない! カッコ悪くなんかないよ!」  
「……」  
「拓海君が、そういう気持ちを話してくれることでちょっとでも楽になってくれたら私、嬉しい。  
 悲しかったり、辛かったら、ちょっとだけでもいいよ。私にもそんな気持ちわけて欲しい。  
 私もそんな気持ち、一緒に分かち合ってあげたいよ」  
 座ってる拓海君の真っ直ぐ前に立って、拓海君の瞳を覗き込む。  
 その目に私が映ってるのが嬉しい。  
 拓海君。…拓海君。  
 
 そんな拓海君は急に立ち上がると、私のすぐ前に立った。  
 私のすぐ前。顔の前10センチに拓海君の顔がある。  
 
 真っ直ぐな瞳の色が私を見つめている。  
 どきん、と胸の中が甘く痛くなる。  
 全身にその脈動が広がり、心拍一つごとにその甘い疼きは強さを増していく。  
 ズキ、ズキ、という甘い疼きはいつまでも消えない。  
「…夕子さん、優しいです」  
 拓海君は、私のすぐ前に立って、私の肩に頭を預けるようにしながら言った。  
 触れ合えないけど、まるで恋人同士みたいに、私と拓海君は夕暮れの廃ビルの中庭で確かに抱きしめあっていた。  
 
「優しいから……」  
 そのあとのつぶやきは小声過ぎてうまく聞き取れなかったけど。  
 
 
 
 
 
「また明日来ます」  
 そう言って拓海君は手を振って帰って行った。  
 どうしよう。拓海君。  
 私、もっと拓海君の力になりたいよ。  
 拓海君を元気付けてあげたい。  
 どうすればいいんだろう?  
 私に何ができるんだろう?  
 ちょっと欠けた月を見ながら、それだけを考えてた。  
 
 

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