四方からヴェルニカの街を一望できる、荒廃した塔の最上階。  
机と椅子、設置された機材。それだけの無機質な部屋に、二人は押し込められた。  
 
「暫らくここを貸してあげる。こういう誰も寄り付かない所の方がいいでしょ」  
 
ケルミス達は早々に姿を消し、『担当員』であるクレアが二人を見張る。  
この街から、決して逃がさないために。  
 
「そんなに警戒しないでもらえる?盗聴や監視なんて野暮な真似はしないから。じゃ、また後でね」  
 
クレアはディアナにだけ手を振り、部屋を後にした。  
ロイドはその後も、納得いかない様子で押し黙っている。  
 
「何か気になるの?」  
 
彼の気を悪くしないよう、ディアナはできるだけ遠回しに、ロイドの胸の内を探る。  
返事は左程期待していなかったが、彼は意外にもあっさりとディアナの疑問に答えた。  
 
ヴェルニカを始めとする小国や都市の密集地帯。個々の国は弱小で、ラストニアでなくとも落とそうと思えば  
簡単に落とすことができる。では何故今まで、どの国からも侵略されずに済んでいたのか。  
答えは強力な後ろ盾の存在。この一帯の北方に、諸国を守る大国が存在する。  
 
魔道帝国ロベリア。規律を重んじる、魔道士で構成された大帝国。  
位置的にこの大陸で最もラストニアに近く、この辺一帯を制圧するにはまずロベリアを落とさなければならない。  
 
「ラストニアは一切の魔道戦力を持たない。有効な策が無ければ、自滅するのが落ちだ」  
「魔道士がいないの……?」  
 
魔法の使い手がいないということは、魔法攻撃を防ぐ有効な手立てがないということ。  
ラストニアは今まで、何故その弱点を補わなかったのか。疑問を投げようと口を開き掛けた途端、机上に  
設置されている拡声器、つまりスピーカーから、男の肉声がノイズに混じって流れ始めた。  
 
『ロイド。そこにいるな?』  
「…………」  
『だから返事くらいしろ』  
「……俺にどうしろと?」  
 
マイクはスピーカーと一体化している。ロイドは機器に近付き、慎重に言葉を選ぶ。  
その様子からは、何かを詮索しているようにさえ感じる。  
この期に及んで、まだ彼らが何らかの企みを持っていると考えているのだろうか。  
ディアナは今回も、交わされる会話を黙って聞いていることしかできない。  
 
『寝返りでもされたら困る。おまえはそこから状況を見て、指示を与えるだけでいい』  
「主要戦力はロベリアの魔道兵だろう。あのプライドの高い連中が、名も姿も晒さない人間の指示を素直に  
 聞くと思うのか?」  
『思わねえな。だから直接俺に伝えるだけでいい。おまえの助言を、俺が密かに漏洩させる。必要に応じて  
 その机のモニターに戦況を映してやる。ちなみに、ラストニアはおそらく数日中には動き出すって話だ』  
 
二人の会話を聞きながらも、ディアナは始終ロイドの様子を観察していた。  
彼の表情は晴れることはなく、常に何か思い悩んでいるようにさえ見える。  
それ故、ディアナは安心していた。彼は自らの意志で母国に牙を向けるような人間ではない。  
故郷を失ったディアナにとって、それはロイドに同調する上で重要なことだった。  
 
ロベリアは既に臨戦態勢を整え、いつでも迎撃できる状態であるという。  
周辺の国々もそれなりに構えてはいるらしいが、事実、ロベリアが陥落すれば間違いなく周辺諸国も落ちる。  
機甲都市と謳われるヴェルニカも多少の科学兵器を保持してはいるが、如何せん指示を与える者がいない。  
 
戦略の鍵となるのは、ラストニアとロベリア両国を架け橋の如く繋ぐ、縦に連なる小さな列島。  
そこを足場にして攻めるか、逆に逃げ場を失い集中砲火を浴びせられるか。  
結局のところ相手の出方次第であると、開戦当日、ロイドはケルミスに告げた。  
 
「ねえ……、本当に協力するの?」  
「協力して貰わなきゃ困るのよねぇ」  
 
入り口に佇み、二人を監視するクレアが口を挟む。  
自分達の命運も掛かっているのだから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。  
それらしい助言を与えながらも、ロイドは常に冴えない表情を浮かべていた。  
気が進まない。態度がそう訴えている。  
 
やがて既に敵は島に上陸し、進軍を停止させているとの諜報が入ると同時に、モニターに島の映像が映し出される。  
遠方に小さく映る、軍の姿。ロイドは冷めた様子で画面を見つめているが、その瞳は微かな異変すら逃すまいと  
自軍の観察に徹している。  
暫しの沈黙が訪れた後、唐突にケルミスが呟いた。  
 
『……アルセストがいない』  
 
彼の言葉に、ロイドは明らかに怪訝な表情を示す。  
自前のデータを確かめるかのように、ケルミスはある人物の身の上の情報を示し始めた。  
 
宮廷騎士アルセスト。ラストニア軍の中で最も高い戦闘能力を保持し、これまでのラストニア戦役では必ず  
前線に姿を現した人物。同時に、国王の子息を主とする近衛騎士。つまり、ロイドの忠実なる下部。  
 
『構成も新兵ばかりだ。主力がいない。はっきり言って捨て石にしか見えん。どうなってんだ、元司令官』  
「……さぁな」  
『……ったく、どいつもこいつもやる気がねえな。勝つ気あるのかよ、おまえもこいつらも』  
 
ケルミスに悪態をつかれながらも、彼は腑に落ちない表情を浮かべている。  
その時だった。会話が途切れた直後、巨大な爆音が部屋中に轟いた。  
 
「!?」  
 
轟音の発信源は、モニター付属のスピーカー。誰もが乱れた映像を注視する中、戦地は即座に爆煙と炎に包まれた。  
ロベリアの先制攻撃に、ラストニア兵が逃げ惑う。素人目にも、対策が全く成されていないとわかる。  
ロイドはそこで初めて積極的な反応を見せ、食いつくようにケルミスに情報を求めた。  
 
「ラストニアの後援は?」  
『今のところない』  
「別部隊は」  
『回り込まれる気配もない』  
「……誰の指令だ」  
『まだそこまで情報は入ってねえな』  
 
戦況はロベリアが優勢。ロイドがわざわざ口を挟む必要性は皆無。  
ロイドもディアナも、戦火の広がる現場の映像を黙って見ているしかない。  
しかし、映し出された映像だけが全てではない。情報はすぐに錯綜を始めた。  
 
『ちょっと待て、やられているのはラストニアだけじゃ……』  
 
ケルミスが何かを言い掛けた直後、不自然にスピーカーの接続がぷつりと途切れた。  
機器の故障かと思いディアナはクレアに顔を向けるが、彼女は腕を組んだまま扉に寄り掛かり、黙って様子を  
眺めている。ロイドも無言のままモニター画面を睨み、思索を巡らせているようだった。  
程無くして、不意にスピーカーの接続が再確立されたかと思いきや、突如ケルミスの慌ただしい声が流れた。  
 
『ラストニアに味方している魔道士がいるぞ!』  
「魔道士……!?有り得ない、ラストニアは絶対に魔道士は雇わない!」  
『中継してやるが少しだけだ。いい加減こっちの諜報員も距離を置かせないと、流石に巻き込まれる』  
 
彼はケルミスの情報を猛然と否定するが、真偽の程はすぐに知れることとなる。  
画面に過る、一人離れて宙を漂う魔道士の姿。  
 
ディアナにとっても決して忘れられないその姿を、二人は確実に捉えた。  
ロイドの表情が強張る。ディアナ自身もそれを感じ取っていた。  
 
「ジーク……何故ここに……」  
「私、ロベリアの応援に行く!」  
 
居ても立っても居られず入り口へ駆け出すディアナを、彼は腕を掴んで強引に引き止める。  
 
「無理だ!また捕まるぞ!?」  
「今度はちゃんと応戦するから……!」  
「駄目だ、行くなら俺が……」  
「ダメよ」  
 
ロイドが参戦を宣言し掛けた瞬間、入り口を塞いでいたクレアが口を挟む。  
身を起こして懐から取り出した拳銃をロイドに突きつけ、彼女はディアナの背中を押した。  
 
「行きたいんでしょ?行きなさい。こいつはあたしが止めてあげる」  
「……何の真似だ」  
「わかるでしょ?ロイド。あんた自分の役割を全うなさい」  
 
表情豊かな普段の彼女とは一変し、クレアは無表情で、冷ややかな視線をロイドに送っている。  
彼には申し訳ないが、この機を逃すわけにはいかない。ディアナは意を決し、部屋の外へと飛び出した。  
 
「待て!ディアナ!」  
「まずくなったらすぐ逃げて来るから!」  
 
到底納得されるとは思えない口実を残し、塔の屋上へ向かう。  
ヴェルニカはロベリアに隣接している。戦場は近い。  
地上に降り立つも、走っていては日が暮れてしまう。  
失敗しない範囲で空間を歪めて移動を繰り返し、ディアナは短時間での移動を図る。  
 
参戦に際して迷いはなかった。答えを出さなければ、前へ進めないのだとわかっていたのだ。  
愛情と憎悪、どちらを取るか。取り得るのは一方のみ。  
ロイドを慕うのならば、ジークを憎んではならない。  
ジークを憎むのならば、ロイドを慕ってはならない。  
ロイドならばきっと、自己を中心とした立場で捉えるよう諭すだろう。  
しかしヘレナの一件がある以上、そんな都合の良い真似はできなかった。  
 
無我夢中で島へと向かい、黒煙が立ち上る争いの知へと降り立つ。  
その姿を捉えたラストニア兵が、武器を手にすぐにディアナに駆け寄る。  
ディアナは魔道士。ロベリアの援軍と思われてもおかしくはない。  
剣の切っ先をディアナに向け、ラストニア兵は声高らかに信じられない言葉を言い放った。  
 
「ロイド総督の命の下、敵である貴様を排除する!」  
「……!?今、何て……」  
 
意味を理解する間も与えられず、白刃がディアナに襲い掛かる。  
瞬間、背筋に走る悪寒。本能的に危険を察知し、ディアナは半ば倒れ込むように後方へと飛び退いた。  
その直後、ディアナを追うラストニア兵を襲った、空を切り裂く眩い閃光。  
天の裁きの如く稲妻が、悲鳴を上げることすら許さず、一瞬にして敵の肉体を焼き焦がす。  
 
狙われたのはラストニア兵ではない。  
おもむろに空を仰ぐと、忘れようにも忘れられない因縁の敵がディアナを見下ろしていた。  
 
「やっと出てきたな」  
「……!」  
 
ディアナは威勢良くジークを睨み付け、応戦の意思を露わにする。  
悩んでいる場合ではない。本気で戦わなければ、捕まるどころか命を落としてしまう。  
お返しに放った光の矢が、戦いの火蓋を切った。  
間合いの取り合い。攻守の駆け引き。持てる力を尽くし、適宜最良の判断を下す。  
しかし、やはり彼には遠く及ばなかった。隙を見て攻撃しては強烈なカウンターを食らってしまう。  
 
ロイドもジークと対等の力を持っている。そんな彼に、ディアナはまだ一度も勝ったことがない。  
指南を申し出ても毎回のように弄ばれ、貶められ、自信を失うほどに叩きのめされる。  
その感覚が蘇っていた。ジークもまた、全く本気を出していない。  
 
「この程度か?あいつの元で鍛えた結果がこれか?」  
「…………」  
 
返す言葉がなかった。自分でも惨めに思うほどに、実力に天と地ほどの開きがある。  
魔力が問題なのではない。戦略性、つまり経験と知能の違いが、実力の差を物語っていた。  
彼は蔑みを込めてディアナを見つめている。注がれる視線が、酷く痛い。  
 
「少しだけ待ってやる。おまえの力を見せてみろ」  
「言われなくとも……!」  
 
ジークは、最後のチャンスをディアナに与えた。  
ここで彼に手傷を負わせることができなければ、逆に彼に仕留められてしまうのだろう。  
最早憎しみを理由に戦っているわけではなかった。生きるために、戦っているのだ。  
 
クレアの情報により手に入れた杖を構える。ここで使わなければ意味が無い。  
禁呪魔法は使わない。知る限りで最も強力な力を秘める理を、確実に紡ぐ。  
彼は予告通り黙ってその様子を眺めているが、魔力だけが取り得であるディアナの魔法をおとなしく食らうとは  
考えにくい。それでもディアナは杖に魔力を注ぎ続ける。  
 
魔力が一定のレベルまで高まり、結界が生じたその瞬間、異変は起きた。  
杖に力を吸収され、消滅する結界。無尽蔵に吸い上げられる魔力。  
突如消え去った詠唱結界に、ジークが怪訝な表情を見せた。  
 
「な……、何、これ……!?」  
 
流出する力を抑えることができない。  
奪い取られた魔力は著しく増幅され、既に制御不能なほどの膨大な力と化している。  
憂慮すべき由々しき事態に気付き、彼は大声で叫んだ。  
 
「その杖を捨てろ!」  
「っ……、今、離したら……」  
 
今手離してしまったら、間違いなく暴走する。  
全力で魔力制御に当たっているが、手に負えなくなるのは時間の問題。  
ジークが援護に向かおうと踏み出した瞬間、それは訪れた。  
 
杖から解き放たれた、天空を裂く鋭い光。空気を震わす轟音。  
破滅の足音が、地上の全ての人間に恐怖を与える。  
優勢を守っていたロベリア兵でさえ、一人残らず動揺している。  
やがてその恐怖は現実と化し、灼熱の炎へと姿を変えて天から降り注ぐ。  
流星の如き数多の劫火が、生ある者全てを襲った。無論、術者も例外ではない。  
 
おとなしく、ロイドに従っていれば良かった。  
目前に迫る炎に、後悔と共に死を覚悟した瞬間。ディアナの前にジークが飛び出した。  
作り出された魔法障壁に全ての魔力を注ぎ込み、降り注ぐ裁きを防ぐ。  
 
「な……、何故……!?」  
 
彼は何も言わない。気を抜くことが許されず、とても話せる状態ではないのだ。  
両国の軍を壊滅させ、大地をも砕く狂炎。それを受け止める度に弱まり行く結界。  
最後の炎が直撃した瞬間、彼の魔法障壁は弾け、決壊した。  
そして、十分な威力を残した紅蓮の炎は、ディアナを庇ったジークの片腕を跡形も無く焼き尽くした。  
 
「くっ……!」  
「どうして、ここまで……!?罪滅ぼしのつもり!?」  
 
ディアナは本気で命を狙われているわけではなかった。力を、彼に試されていた。  
しかしそれは、自分を犠牲にしてまで成すべきことなのか。ディアナには到底理解できなかった。  
 
「……約束は守る」  
 
彼は苦痛に顔を歪めながら、ディアナの問いに答える。  
ディアナの母、エルネストとの約束。娘を生存させるという誓いを、彼は未だに守っている。  
それほどまでに、母に敬意でも払っていたのだろうか。自分で手に掛けた分際で、何故そこまで固執するのか。  
 
謎が絶えない。しかし、ディアナは彼に対する憎悪が薄れていることに気付いていた。  
彼もロイドと同じ。根っからの悪人ではない。  
そして、心に浮かぶ母の姿。憎しみに染まった人生を、母は望むだろうか。  
答えが出掛けた瞬間、ディアナはジークの叱咤で我に返った。  
 
「何を……してる……!早くここを離れろ!」  
「え……?」  
「ロベリアの奴らにばれたら面倒なことになるぞ!」  
 
何を言っているのかわからない。しかし、彼は異様な剣幕で撤退を迫る。  
彼の勢いに圧され、従う意志を僅かにも持った途端、再び杖が呼応した。  
ディアナはシシルほど正確に移動系の魔法を操ることはできない。  
見えない場所への距離感を掴むことが、どうにも苦手なのだ。  
 
にも拘らず、移動魔法が発動した。未だ魔力を蓄えている『レーヴァテイン』は、所持者の弱点を魔力で補い  
ディアナの意図した場所への転送を図る。  
そしてジークもろとも、ロイドの待つ荒廃した塔の一室へと、一瞬にして転送されてしまった。  
 
景色が歪み、その輪郭が鮮明になった瞬間、一時は再会を諦めた人物がディアナの瞳に映る。  
振り向いた彼の視線の先にあるのは、片腕を失い、地に膝をつくジークの姿。  
咄嗟に腰の剣に手を掛けるロイドの姿を認めた瞬間、ディアナは無意識のうちに彼の前に立ちはだかった。  
正に、宿敵を庇う形で。  
 
「ディアナ……?」  
 
ロイドの意識がディアナへ向いた瞬間、ジークは瞬時に姿を消した。  
完全に、ディアナが彼を逃がしたことになる。ロイドからの罵倒を覚悟した瞬間、助け舟を出すかのように  
スピーカーからケルミスの声が流れた。  
 
「……ロイド。まずいことになった」  
 
彼の視線が、ディアナから外れる。  
助かった。ディアナはそう思い内心ほっとしていたが、ケルミスの告げた内容はそれを覆すものだった。  
 
「ロベリアの連中が血眼でディアナを捜してる。姿を見られたな。危険人物と判断されたんだろうよ」  
 
『レーヴァテイン』が導いた破滅の呪により、前線に立っていた両国の軍は壊滅状態に陥り、生き残った者は  
撤退を余儀なくさせられた。  
これにより両国共に停戦状態となったが、元凶となった魔道士の姿を生き残ったロベリアの兵が捉えていたのだ。  
本職なだけに、流石に情報が早い。予想だしなかったディアナの失態は、既に彼らの耳に入っていた。  
 
「捕まったらエルネストの娘だと気付かれかねん。あの村を潰した主犯格はロベリアの最高司祭だからな」  
 
瞬間、ロイドが一層鋭い視線を声の元へと向ける。ディアナも動揺を隠すことができずにいた。  
本当の敵はロベリアにいる。しかし、他人を憎むことを止めたディアナにとっては最早何の意味も無い情報だった。  
 
その後、一部始終を扉の前で見守っていたクレアは撤収し、二人は解放された。  
しかしロイドは黙り込んだまま部屋から出ようとしない。  
残された機器を睨みつけたまま、相変わらず何か考え込んでいる。  
ディアナはこれを、気まずい空気を打開するチャンスであると捉えた。  
 
「あ、あの、そういえば、ラストニアの兵士が……、ロイドの指令で戦ってるって……」  
「…………」  
 
心だけは威勢良く、彼に新しい情報を与える。  
そこから会話を誘導し、ジークのことには触れさせずに遣り過ごそうという魂胆だった。  
しかし、彼の瞳を見つめていたディアナには、それができなかった。  
情報を耳にしたロイドの瞳が一瞬だけ湛えた、不穏な光。  
憎しみなどではない。彼が内に秘める静かな怒りを、ディアナは感じ取ったのだ。  
 
 
寝室は下階。窓から差す月明かりだけが頼りの、寂れた部屋。  
ロイドは窓際の錆びた椅子に腰を掛け、外を眺め一度もディアナと目を合わせようとしない。  
声を掛けても返事すらしない彼に、ディアナは困惑していた。  
ジークを逃がしてしまったことに対し、非難や罵倒でもされた方が余程気が楽だった。  
黙り込まれてしまっては、言い訳すらできない。  
 
彼を庇った先の行動こそが、ディアナの意志の表れ。  
残る問題はロイドに対する心のあり方。しかし、その心配も最早不要だった。そもそも迷う必要などなかったのだ。  
彼が、自分勝手で自己中心的で、意地悪で思いやりの欠片もない性格であることは最初からわかりきっていたこと。  
それを受け入れた上でディアナはロイドを慕い、道を外れる行為は自らの手で正してみせようと決めたのだ。  
 
初心に返った。ただそれだけのこと。それなのに。  
苦悩の末ようやく心の雲を払ったのに、何故こうも拗れてしまうのか。  
無言の重圧こそが、ディアナの身に最も応えた。  
 
「怒ってるの?」  
「…………」  
「ねえ、何か言ってよ……」  
 
消え入りそうな声で何度も彼の名を呼ぶも、ロイドは一向に言葉を交わそうとしない。  
しかし、ディアナが恐る恐る近付くと、それを阻止するかのように彼は唐突に沈黙を破った。  
 
「……何故止めた?」  
「…………」  
「何故止めを刺さなかった?自分の手で討つんじゃなかったのか?」  
「それは……」  
 
ロイドは振り返るなりディアナを睨み、言い訳すら許さず追及を続ける。  
 
「ディアナ。おまえの覚悟はその程度か?」  
「そんな……!私は、ただ……」  
 
憎しみから目を背け、ディアナは人を愛する道を選んだ。  
わだかまりを捨て、彼を愛するために宿敵を生かした。  
そのために決意を歪めることは、それほどまでに許されないことなのだろうか。  
 
「別に、許したわけじゃ……」  
 
敵を見逃す結果となってしまったものの、ジークが母親の仇であるということは不変の事実。  
しかしそれよりも、人として大切にすべき情がある。ロイドには、特に理解されたい根強い思い。  
ディアナが必死の思いで弁明を続けても、彼は窓の外へと視線を外し、全く聞く耳を持たない。  
 
「どうして……聞いてくれないの……?」  
 
言いたくないことは容赦なく追及する反面、聞いて欲しいことは全く聞かない。  
知られたくないことはすぐに察するくせに、気付いて欲しいことには何故感付かないのだろう。  
信念の相違。心の食い違い。焦りを感じるほどにもどかしく、憤りを覚えるほどに口惜しい。  
震える手が、彼の腕を掴んでいた。込み上げる感情を、最早抑えることができなかった。  
 
「いつも……、何でもわかってるような顔してるくせに……!肝心なことは何にもわかってない!」  
 
怒りに任せて食い掛かり、悲しみを湛えて心の内を曝け出す。  
涙を見せたところで、彼が簡単に意思を変える性格でないことはわかっている。  
ではどうすれば、彼に届くのか。  
 
ディアナの心底に見え隠れする、本人も気付かぬもう一つの心理。  
ロイドに幾度となく嬲られ続け、それ故植え付けられた歪んだ精神構造。  
そしてそこから導き出した、屈折した答え。  
 
突然静まり返り、自分の前で膝をつくディアナに、ロイドは訝しげな目を向ける。  
ディアナは思い詰めた表情のまま、目前にある彼のベルトに手を掛け、その下のものを引っ張り出した。  
 
「待て、何を……!?」  
 
止めに掛かるロイドの手を払い退け、勢いに乗ってそれを口に含む。  
ディアナが今まで彼から受けた仕打ちの中で、最も嫌がった行為。  
それは一転して、心に根を張る情愛を、切に伝える手段と化す。  
彼のためならば、散々拒んできた行為でさえ自ら進んでできるのだと。  
今のディアナには、そこにしか考えが行き着かなかった。  
 
ラクールでの経験を頼りに、裏筋を舐め、先端に吸い付くと、ロイドは意に反する快感からか顔を歪めて見せる。  
淫らな音に恥じらいを感じながらも懸命に舌を這わせ、口の中で増し行く彼の体積を感じ取る。  
その途端、ディアナはロイドに強引に引き剥がされた。  
 
「っ……何で……」  
「やめろ。そんな気分じゃない」  
 
自分はいつも、相手の都合などお構い無しに情事を強要するくせに。  
心の中で不平を訴えながらもロイドに抱きつき、膝の上に座り込む。  
恐る恐る自ら秘部に触れ、位置を確認してそこを曝け出す。  
未だ心から望んだことのない行為。確固たる決意を揺るがす恐怖。  
ディアナはそれを抑え込み、勃ち始めた彼のものを無理やり自分の中に埋め込んだ。  
 
「んっ……!く……」  
 
強引な挿入に伴う痛み。条件反射からかディアナ自身も僅かに湿ってはいたが、十分とは言えない。  
それでも構わない。快感を得ることが目的ではない。彼のために、自ら身を捧げることに意味がある。  
 
「……ディアナ。離れろ」  
「いや……」  
 
痛みに耐え、ぎこちなく、ゆっくりと腰を揺り動かしつつ首を振る。  
技術不足は承知の上。何を言われようとも頑なに動き続け、自らの思いを主張する。  
しかし、いくら動いてもロイドは表情一つ変えない。向けられ続ける刺すような視線が痛かった。  
ご機嫌取りとでも思われているのだろうか。こんな乱れた姿を間近で見て、彼は何を思っているのだろうか。  
ロイドの態度が、ディアナの決意を崩壊させる。顔色を窺うも、視界が滲み判断がつかない。  
恥を忍び、苦痛に耐えてまで強行した行為。全くの無駄に終わってしまうのだろうか。  
沈んだ面持ちでロイドから離れ掛けた瞬間、突然、腰が沈んだ。  
 
「っ……!?」  
 
先程の態度から一転し、ロイドはディアナを逃すまいと強く腰を引き寄せる。  
直後、両足を抱えて抱き締められたかと思いきや身体が浮き、背を壁に押し付けられた。  
その衝動で、より深くまで貫かれる感覚。同時に伴う鈍い痛み。  
 
ロイドは顔を歪めるディアナを一瞥すると、胸元を閉ざす紐を口で解き、露わとなった胸の先を口に含む。  
 
「は……、あ、ぁあっ……!」  
 
穿り出すような舌使いで舐めつけられ、抑え切れずに漏れる甘い声。  
先端を舐めずられ、甘く噛まれ、強く吸われ。終わったかと思えばもう一方の胸へ。  
ゆっくりと、確実に、ディアナの中に潤いが与えられる。  
これは、直にもたらされる堪え難い愛欲地獄の予告行為。  
 
「は、離れろって、言ったのに、ぁ、あ……」  
「気が変わった」  
 
唇が離された途端、脚を抱えられたまま腰を打ち込まれ、彼の求める声を無理やり引き出される。  
苦痛の消えた声を耳に入れ、ロイドは改めてディアナを見据え、口を開いた。  
 
「俺が何もわかってないって?だったら納得できる答えを返してみろ。答えられなかったら……」  
 
言い掛けた直後、全身を鋭い快楽が貫く。  
答えられなかったらどうなるか。腰を振り、彼は幾度となくディアナに教え込む。  
 
「んっ……!や、め……っ!いやぁっ!」  
「自分で仕向けておいて何を今更」  
 
一層激しく突き上げ、一頻りディアナを悶えさせると、彼は動きを止め詰問を始めた。  
 
「もう一度訊く。何故、生かした?」  
 
ロイドは微動だにせず、黙ってディアナの答えを待っている。  
ディアナは答えることができなかった。自分の主張が、決して相容れないものであると気付いたのだ。  
彼は力を求め、ディアナを味方につけている。  
故に彼は普段から、力を持つディアナを自分の元に縛り付けるために陵辱に及ぶ。  
そこには愛情など、決して存在しない。ディアナは常々そう解釈していた。  
つまり、ディアナはロイドに対する一方的な慕情から、彼の期待を裏切ったことになる。  
彼の天敵を、私的な都合で逃してしまったのだ。こんな理由で、果たして納得させられるだろうか。  
 
「どうした。答えられないなら……」  
「ま、待って、時間を……」  
「時間?何故今更必要なんだ」  
 
時間の代わりに与えられる、膣全体を抉るような抽送。上がる叫びを聞いて尚、彼は答えを要求する。  
喘ぎながらも口篭ると殊更激しく突き立てられ、愛液を掻き出すように腰を回され、息を吐く度に勢いを増す。  
思考が止まり、猛然と増し行く快楽に、ディアナは悶え続けるしか術がない。  
卑猥な水音。口を衝いて出る、耳を塞ぎたくなるような声。最奥を穿り回され、それらは一層大きくなる。  
 
「いや……ぁああっ!!ぅ……、んっ……!」  
 
ロイドの両腕を強く掴み、言動の矛盾に気付き声を押し殺す。  
嫌がってはいけない。受け入れなければならない。彼は、ディアナにとって愛すべき人なのだ。  
様子を窺いまだ余裕があると判断したのか、彼は変わらず責め続けながら別の質問を投じた。  
 
「何故邪魔した?何故庇った?」  
「あ、あっ……、ロイド、止まっ……」  
「あいつにどんな目に遭わされたか、忘れたのか?」  
 
露骨になり行く問い掛けに、ディアナは一層言葉を詰まらせる。  
感情のままに突かれ、揺すられ、要求される答えの代わりに口をつくのは、彼を煽る誘いの声。  
正に拷問。納得できる答えを得られるまで、終わりを迎えることはないのだろう。  
 
「ロ、ロイド……、お願……、止……め……」  
「いいから答えろ」  
 
目の前に迫る絶頂。快楽を受け止めることで精一杯で、言葉を成すことができない。  
彼はまるで怒りをぶつけるかのように力任せに突き上げる。  
全神経を支配する快感のうねり。身体の芯を突き抜ける熱い痺れ。  
脳が焼け、彼の言葉さえ耳に届かず、限界はすぐに訪れた。  
 
「ぅ……、あっ!ぁぁあああっ!!」  
 
絶叫すると同時に身体が震え、ディアナは息も絶え絶えに止まない拷問に悶え続ける。  
ジークと姿が被ったなどと口走れば、気分を害するに決まっている。  
素直に謝るべきなのだろうか。謝ったところで、彼は許すだろうか。  
絶えず喘ぎながらも僅かに残った理性で思慮を巡らしているうちに、不意に感じた浮遊感。  
繋がったまま抱えられ、今にも朽ち果てそうな古いベッドに身体を沈められた。  
 
「あれだけ大口叩いておいて、反論できないのか?」  
「…………」  
 
納得させられる自信がない。今ここで理解を得ることができなければ、今まで築いてきた信頼が音を立てて  
崩れ去る。  
言葉を詰まらせていると答える意志無しと見なされ、ロイドは再び腰を打ち始めた。  
始めはゆっくりと、徐々に強く。吐息の混じる声を漏らしながら、肌が悦びの色に染まり行く。  
 
恋慕い続けた相手だからこそ、身体は素直に彼を感じることができるのだ。  
決して心が通い合うことはないのだから、こうして身体を重ねることはむしろ悦ぶべきことなのかもしれない。  
それなのに、何故これほどまでに悲しいのだろう。  
悲しみの裏に存在する確かな愛情。それが、ロイドに伝えるべき言葉をディアナに与えた。  
 
「わ……、私……、あなたが、ぁ、あっ……」  
 
答える素振りを見せると、彼は止まることなく視線だけをディアナに向ける。  
 
「す、好きなの……」  
「……知ってる」  
「だから……、やっ、ぁああっ!!」  
 
ただ純粋に、思い続けていたいから、庇った。一見辻褄の合わない理屈を口にした途端、一層激しく奥を  
掻き回され、その先の言葉は切なげな悲鳴と化した。  
 
「矛盾だな。答えにならない」  
「っ……、ほ、本当に……」  
 
喘ぎながらも懸命に思いを伝えるが、やはり彼は耳を貸さない。  
代わりに怒涛の如く突き立てられ、ディアナは再び絶頂寸前まで追い詰められた。  
 
「あっ、ああっ!いや、許して……!」  
「許す?……何を」  
 
成す術なく、反射的に許しを乞うとまるで咎めるように最奥を突かれ、何度も抉り回される。  
部屋に響き渡る、空を裂くような悲鳴。二度目の絶頂を意味する叫びは容易には止まず、ディアナが意識を  
手離し掛けるまで執拗に責め立てられた。  
 
今のロイドからは、非難の意志しか感じられない。いつものような、自分の元に繋ぎ止めておくための  
行為ではない。もしかすると、このまま見限られてしまうのではないか。  
 
昔も覚えた猛烈な不安に苛まれ、ディアナの頬を涙が伝う。  
彼はそれを目に留めても、何事もなかったかのように腰を打つ。  
蜜を纏う狭い肉壁を押し分け、恥辱心を煽る水音を立てながら幾度も侵入を繰り返し、より深い快楽を  
ディアナに与え続ける。  
最早、僅かな時間で簡単に達してしまうほどに過敏になっていた。  
ロイドが速度を上げた途端、著しい昂りがディアナの身を大きく震わせた。  
 
「は……、っ……!いやああぁぁっ!!」  
 
室内に響き渡る絶叫。それは、絶頂の強要のみに向けられたものではない。忍び寄る孤独への、拒絶の叫び。  
ぼろぼろのシーツを握り締め、身を仰け反らせるディアナをロイドは強く抱き締め、精を注ぎ込んだ。  
これ以上続けても無駄と判断したか、もしくは休息でも与えるつもりか。  
彼は自身を引き抜き、ディアナを解放すべくシーツに手をつく。  
しかしそれは、解放を願っていたはずのディアナの手により妨げられた。  
 
「離れないで……」  
 
信頼の失墜。それに伴う存在理由の喪失。  
迫り来る現実に怯え、ディアナは涙を湛えてロイドにしがみつき、切なる願いを訴える。  
 
「見捨てないで……ロイド……」  
「…………」  
 
自分の下で啜り泣くディアナを、ロイドは黙って見つめていた。彼の瞳に僅かに宿る、慈しみの念。  
髪を撫でられ、静かに目を閉じると、唇に柔らかな感触が与えられた。  
触れるだけの口付け。ディアナを落ち着かせるには十分な行為。  
唇が離されたところで、ディアナは再び許しを乞おうと口を開く。  
 
「あの、私……」  
「もういい。もう何も言うな」  
 
全てを受け入れるかのように、ロイドはディアナを抱き締め安堵を与えた。  
伝わったのは意図した真実ではない。ディアナの根底に宿る、彼を絶対的存在とする不動の心理。  
今はそれでいい。彼に付き従うことが許されるだけで、今は幸せだった。  
乱れた呼吸も整い、ディアナの表情に安らぎが戻った頃。  
彼は思ってもみなかった台詞を口にした。  
 
「一度、ラストニアへ戻る」  
「……え!?」  
 
からかわれているのかと思ったが、彼はそんな冗談を言う人間ではない。  
本気で言っているのだ。しかし、あまりの気の変わりよう。  
 
「どうしたの?いきなり……」  
「……気に障る」  
「……?」  
 
彼は自国を敬遠しているように見えるものの、ここ数日の素行からは敵対心などは読み取れない。  
本来自分の率いるべき軍を捨て駒のように扱われ、怒りでも覚えているのだろうか。  
真意を推し測るも、それは彼の語る真相とは全く異なるものだった。  
 
ラストニアがロベリアを始めとする諸国に手を出した本当の目的は、勢力拡大などではない。  
それを彼に確信させたのは、ディアナが報告した指令者の名。  
素人から見ても目に余る愚策を、ロイドの名を語って強行させたのだ。それが、彼の琴線に触れてしまった。  
 
本当の目的は、いつまで経っても戻って来ない総司令官を煽り、呼び戻すこと。  
彼が何に対して怒りを感じるかを理解し、統率力ではなく強制力を備えた人物こそが、今回の戦の首謀者。  
思い当たる人物は一人しかいない。ラストニアの統治者である、ロイドの父親だ。  
 
そこまでわかっていながら、何故帰国に応じるのだろう。悔しくはないのだろうか。  
疑問が脳裏を過ぎったが、口には出さなかった。これは、ディアナにとって絶好の機会なのだ。  
もう何があっても心が揺らぐことはない。しかしそれとは別に、ロイド個人に興味がある。  
彼についてもっと知りたい。彼に理解を示したい。  
不謹慎ではあったが、この時ばかりは彼の父親に感謝せざるを得なかった。  
 
 
深い宵闇が、窓から覗く蒼白い月を一層美しく輝かせていた。  
近くに工場でもあるのだろう。静寂が落ちると同時に、ヴェルニカの象徴とも言える低い動力音が耳につく。  
深い安心感からか、途端に疲労が全身を襲い、ディアナはすぐに眠ってしまった。  
 
ラストニアの真の目的。防戦に踊らされたロベリア。ケルミスの計略。ジークの謎の出現。  
そして、ロイドとディアナのそれぞれの決意。  
 
幾重にも交錯した各々の思念。  
行き着く先を知る者は、誰一人としていない。  
 
 

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