思えば、俺がそれに気がついたのは、義務教育も半ばに差し掛かった当たりだったろうか。
物心付いたときには縁側に座る祖母の横でまどろんでいた、猫。
幼い時分はただ『可愛い』とじゃれていただけだった。
だが、小学校も高学年をすぎた辺り、
艶やかな黒の毛並みに陽光を反射させ悠々と過ごすその猫に、まず、僅かな違和感を覚えた。
祖母や祖父、両親が年々衰えていくのに対し、猫はその毛並みにも足取りにも一切の衰えを見せなかったからだ。
人よりも寿命が短い分、人の数倍の速度で老いていくはずの獣にもかかわらず。
ある夏の日、あの猫は何時からいるのか、と山仕事の合間に休憩をとっていた祖父に聞いた。
手ぬぐいで玉の汗を拭い、祖母が淹れた煎茶をぐびりと飲み干した祖父はただ
「よくわからんなぁ……気がついた頃にはいたんじゃなかろうか」と、あいまいに濁した。
祖父が仕事に戻り、ふ、と眩暈を覚えながら後ろを向くと。
いつの間にか、俺の足元に件の猫が座っていた。
ぎょ、と目を見開いた俺に、その猫が金色の目を細めて、「にい」と嗤う。
いや、そのときはただ俺の目にそう見えただけだったのかもしれない。
だがその時の俺からすれば、その猫は得体の知れない何かにしか映らなかった。
俺は、悲鳴を上げながら自分の部屋に向かって遁走した。
祖母が老衰で逝き、後を追うように祖父が倒れた後も我が物顔で縁側を占領していた猫が、
ふ、と姿を消したのは、俺が義務教育を終える直前の冬だった。
可愛がっていた両親は必死になって捜したらしいが、俺は全く手伝わなかった。
高等学校の入学試験が差し迫っていたのもあるし、
丁度そのころ、裏の山の小さな稲荷で少しばかり楽しいことを見つけたのも、それに拍車をかけたのかもしれない。
ただ、恐ろしかった、というのが最も大きな理由だろう。
あの、嗤う金の瞳をもう見なくて済むと、逆に安堵したほどだ。
そのまま年を越し、三箇日を終え、見つからぬまま二月も過ぎようとしていた。
入学試験が終わった当夜、気味が悪意ほど明るい月の晩。
試験の疲れもあったのか、20時を過ぎたあたりにストンと眠りに落ちた俺は、真夜中に便所に立った。
一通り済ませ部屋に足を向けるが、その途中、急に寒さを感じた。
どこかの窓か扉が開いているのか、と思い足を止める。
何故かはわからないが、縁側の戸が開いているような気がした。
―閉めねばなるまい。態々廊下を逸れて、そちらへと向かう。
虫の知らせか何かだったのか。
それは、そこにいた。
嘗ての祖母のように、縁側に座り庭を眺める――黒い着物の女。
ぞ、と背筋が粟立った。
俺がそこで立ちすくんだのに気がついたのか、女が、俺の方を向く。
その垂れたような金眼と白い顔に「にい」と笑みを浮かべながら。
金縛りにでもあったように、身動きが取れない俺。
気がつくと、縁側に引き倒されていた。
「久し振りだねェ、坊。ただいま、って言っとこうかい? 私は寂しかったよ」
俺に覆いかぶさり、耳元に唇を寄せてくつくつと婀娜っぽく、嬉しそうに笑う女。
胸板に押し付けられた柔らかい質量と、最高級の白粉のような甘ったるい、劣情を催すような香りに眩暈がする。
体の一部、俺の牡としての部分が熱を持つのがわかった。
「力抜きなよ。別にとって喰っちまおうってわけじゃあないんだからサ」
まあ、別の意味じゃあ“喰う”けどねェ。
そう言って笑みを浮かべる女の柔らかい唇が、俺のそれと重なる。
隙間からは侵入ってきた蛇のようなザラついたモノが、俺の咥内を嘗め回す。
「ん、ん…ちゅ…上の初物、頂いたよ。やっぱり坊の口、見立てどおりいいもんだネエ。正直、嬉しいよ」
これで白星二つってとこかねエ、と女が呟く。
呟きながら、俺の下穿きの中にもぐりこむ女の指。
滑々としたそれが、起ち上がり掛けていた俺のモノを掴む。
女がまた、「にい」と嗤った。
気がつくと俺は、雪の降り積もった縁側に寝転んでいた。
夜が明ける寸前。慌てて寝床に戻る。
月明かりのしたのアレは夢か、と思った。
だが。日が昇って、朝餉を食いに居間まで行くと、両親が妙に喜んでいた。
聞くと、いなくなっていた猫が今朝方玄関に丸まっていたのだという。
ぞっと、血の気が引くのがわかった。
台所に向かった母と入れ違いに、件の猫が居間に入ってくる。
そのまま俺の足元までとことこと歩を進め、俺の顔を見上げる。
「にい」と嗤う。黒い尾が、先端から二つに裂ける。
「昨晩のこと。誰にも言うんじゃないよ、坊」
云ったら八つ裂きにして喰っちまうからネェ。
そう言って、二股の尾を持った猫はくつくつと嗤った。