ベッドの上に押さえつけられ若い娘は必死に抵抗する。
「やめてください旦那様!」
この屋敷の主人は右手を振り上げ、メイドの白い頬を打つ。パシンと肌を打つ音が寝室
に響く。
「汚い男に股を開けても、主人の私には股を開けないのか?私がお前を買った金はお前の
兄弟達の学費になっているんじゃないのか?それにお前は恩も感じないのか?どうなんだ、
リリー」
リリーはぐっと下唇を噛む。貧しい一般家庭の長女として生まれたリリーは父親の死後、
幼い兄弟達を養うために体を売っていた。毎日のようにありとあらゆる男をその小さな体
に受け入れていたが、次第に兄弟達の成長に体を売った金が追いつかなくなってきていた。
そんな時にどこからともなく現れたのがヴィルヘルムと名乗る三十代半ばほどの貴族の男。
彼は自分の屋敷のメイドとして彼女を買いたいと申し出、高額の小切手を彼女に渡した。
さらに彼は将来的に兄弟の面倒を見てもいいとも言ってくれた。リリーは虫が良すぎる話
に慎重になっていたが、母親は嬉々としてヴィルヘルムの話を飲み、リリーは渋々ヴィル
ヘルムの屋敷に奉公に出ることになった。
リリーもこの話がけして嬉しくないわけではなかった。兄弟のためとはいえ毎日男に体
を売る生活に疲れ果てていた。そんな時に突然現れた優しそうな紳士。彼のもとで働けた
らどんなにいいか。ヴィルヘルムの屋敷へとやって来て、メイドとして働くようになって
からも、ヴィルヘルムは何かとリリーのことを気遣ってくれた。屋敷の他の使用人達も年
配の者が多いせいか若く働き者のリリーを娘のように可愛がってくれた。自分のような汚
れきった女が高貴な人のお屋敷で働いていいものか、苛められるのではないかと不安に思
っていたリリーは娼婦のような生活を送っていた日々に比べると夢のような生活に一度で
もヴィルヘルムを疑ってしまったことを申し訳なく思った。
ヴィルヘルムに買われた日から数年。少女だったリリーはすでにいつ結婚してもおかし
くない年頃の娘へと成長していた。使用人達には「恋をしないのか」とか「結婚しないの
か」と冗談まじりに聞かれるが、リリーはいつも困ったように笑って「相手がいないわ」
と答えた。実際はリリーの心の中には恋する相手がいた。頭に白いものが混じり始めたが、
それでもまだ充分に若々しく魅力的なヴィルヘルムが――。親子ほどに歳が離れている上
に身分が違うことは頭ではわかってはいても、ヴィルヘルムへの想いだけは捨てられなか
った。勿論相手になどされないことはわかっている。自分が想いを伝えてもヴィルヘルム
を困らせるだけだ。だからその気持ちを胸の内に仕舞い、ヴィルヘルムのメイドとして一
生を彼に捧げようとリリーは密かに心に誓っていた。
なのに――、ヴィルヘルムの突然の暴挙にリリーの頭の中は真っ白になった。いつも通
り彼がベッドに入る前に寝室へと酒とグラスを持って来ただけだった。酒を絨毯の上にぶ
ちまけたり、態度が悪かったりというそんな初歩的なミスはしていない。それなのに無言
でベッドに押し倒され、抵抗すれば頬を打たれ、さらには言葉で過去の傷を抉られる。ヴ
ィルヘルムの豹変にリリーが呆然としている間にもヴィルヘルムはリリーの服を剥ぎ取っ
ていく。いつしかリリーの瞳からは涙が溢れ、言い知れぬ恐怖に全身を震わせる。
「旦那様、やめてください。こんなこと……今ならまだ」
ヴィルヘルムは顔を青くして震えるリリーを見下ろし鼻で笑う。
「今さら淑女ぶる気か?未だに男に媚を売る娼婦が」
「今は、媚など売っていません……」
かつては生活のために仕方なく男に媚びなければならなかったが、生前の父親が厳しか
ったせいか、リリーは元来男好きではない。学校に通っていた頃はその気の強さも手伝っ
てか男よりも男らしいとまで言われていた男勝りの性格である。
「本当にそうか?私は昨日君が農夫の若い男とキスしているところを見たぞ。今思い出し
ても情熱的なキスだったな」
リリーははっと息を飲んだ。確かに前々から農夫の若い男に交際を申し込まれ、しつこ
く付き纏われていた。そして昨日業を煮やした男から無理やり唇を奪われた。あんな場面
を恋焦がれるヴィルヘルムに見られていたとは――。リリーはショックからヴィルヘルム
を直視できずに目を逸らす。
「ふん。認めるのか」
すでに半裸となっているリリーの胸をヴィルヘルムは鷲掴む。
「痛っ!」
リリーの悲鳴を無視して、ヴィルヘルムはリリーの胸を捏ね繰り回し、リリーの顔を舐
めるように観察する。
「なかなか大きい胸だな。色んな男に揉まれて大きくなったのか?ちょっと揉んだだけで
乳首が硬くなってきたな」
悔しいがリリーは否定できず固く目を閉じる。男達の愛撫に慣らされた体は、乱暴に胸
を揉まれただけでも健気に反応を示す。望んだ形ではないとはいえ、相手が好きな男とな
ればなおさらだ。ヴィルヘルムの言うとおりリリーの豊かな白い胸の先端はつんと尖って
存在を主張している。
「お願いですから……」
そういって胸を揉みしだくヴィルヘルムの手を控えめに掴み、それ以上の行為を止めよ
うと試みる。またヴィルヘルムに罵られるかもしれないとリリーは顔を強張らせてヴィル
ヘルムの顔を窺う。するとヴィルヘルムは手を止めて何事かを考え込むようにしてリリー
を見下ろす。ふとヴィルヘルムの青い瞳が暗くなる。彼はシャツのボタンを外し、その年
齢にしては逞しい胸板をリリーの前に晒し、ズボンと下着を脱ぎ捨てて、ベッドから落と
した。
「君が今でも弟や妹を可愛いと思うならば、娼婦としての経験を発揮して私を喜ばせたら
どうなんだ?」
ヴィルヘルムの言いたいことをすぐにリリーは理解した。リリーの眼前にヴィルヘルム
の陰茎が突きつけられる。まだ完全には勃ちあがってはいないヴィルヘルムの陰茎を躊躇
なくリリーは口に含む。どうすれば男が喜ぶのか、どこを刺激すれば男は感じるのか、リ
リーは知っていた。唾液をたっぷりと口の中に溜め、舌を絡め、吸い上げながら頭を上下
させる。すぐに陰茎と口の結合部はいやらしい音を立て始める。ヴィルヘルムの感じる場
所を探る。手も使いヴィルヘルムを扱いていると、ヴィルヘルムの陰茎は完全に勃起し、
その先端はリリーの喉まで達する。
「その年齢でそんなにもいやらしくてどうするつもりだ?そんなに体を売る生活に戻りた
いのか?」
ヴィルヘルムに軽蔑された。もうそんなことは買われる前からわかっていたことだけれ
ど、改めて口に出されると涙がこみ上げる。翡翠の瞳から涙を流しながらも亀頭と尿道口
を刺激するとヴィルヘルムはリリーの頭上で息を荒くする。例え軽蔑されても、せめて愛
しいヴィルヘルムには感じてほしいという一心でヴィルヘルムの陰茎を口と両手で扱き続
けていると、ヴィルヘルムはリリーの髪を掴み、陰茎からぐっと引き離す。そしてリリー
の膝裏を掴み、左右に大きく割り開く。その中心はすでに愛液を垂らし、彼女の尻までも
濡らしていた。
「君は男のをしゃぶって濡れるのか。とんだ淫乱だな。慣らす必要なんてないんじゃない
のか?」
ヴィルヘルムがリリーの秘部に指を一本突きいれると、愛液のしたたるそこは易々とヴ
ィルヘルムの無骨な長い指を受け入れ、締めつける。
「もう二本でもいけるな」
指をもう一本増やすが、長いこと男を受け入れていなかったそこはたっぷりと濡れては
いるものの、口でいうほど緩くはない。意地の悪い質問やリリーの自尊心を傷つける言葉
を口にしながらも、指は丁寧にリリーの中を解し、時折花芯に触れてはリリーの快感を煽
る。リリーもかつての染みついた癖か、甘い嬌声をあげて、ヴィルヘルムの聴覚を刺激す
る。互いの興奮が頂点に達し、ヴィルヘルムはリリーの愛液を溢れさせる入り口に自身を
あてがい、ゆっくりと熱を沈めていく。
「やっあっああんっ」
抵抗をやめたリリーはヴィルヘルムを喜ばそうと、蕩けきった甘い声を出し、ヴィルヘ
ルムと繋がったそこはヴィルヘルムに絡みつき、ぎゅうぎゅうと締めつける。そんなリリ
ーにヴィルヘルムは眉間に皺を寄せて、何か言い出そうとして口を開いたが、力なく頭を
振り口を閉ざした。腰を引いて、また沈める。若い男のような激しさはないが、彼も女を
喜ばす術は熟知していた。リリーの感じる場所を探し、その場所を見つけては的確に擦り、
突く。
室内に肉と肉のぶつかる乾いた音と結合部から漏れる水音が響き、むせ返るような雄と
雌の匂いが充満する。汗ばんだ肌と肌を密着させ、足を絡ませ合う。もし第三者がこの
場にいれば、この行為が無理やり始められたものだとは思わないだろう。いつの間にかリ
リーの胸元にはヴィルヘルムのつけた赤い痕が散っていた。激しさを増すヴィルヘルムの
腰の動きに合わせリリーも腰を振り、ヴィルヘルムを絶頂へと導く。リリーの中でヴィル
ヘルムがびくびくと震え始めるのを感じ、はっと我に返ったリリーは顔色を変えた。
「膣内だけは、膣内だけはやめてっ」
十年以上前に正妻を亡くし、それから妻を持とうとしないヴィルヘルムには子供がいな
い。もしヴィルヘルムとの間に子供ができてしまえば、もし将来ヴィルヘルムが妻を娶り、
その妻との間に子供が産まれれば、争いの元になりかねない。ヴィルヘルムの名誉にも関
わる。もしかすると、ヴィルヘルムは子供だけは可愛がってくれるかもしれないが、母親
が身売りをしていたような卑しい身分の女など子供の心境を考えると子供が可哀想だ。リ
リーの懇願にもヴィルヘルムは無言で腰を振り、腰を打ちつける。彼も己の限界を感じて
いるのか額に汗を浮かべて顔を歪める。
「ああぁっ、いやぁっ!」
「くっ……リリー、リリー!」
ヴィルヘルムはリリーの快感に震える細い体をぎゅっと抱きしめる。挿入がさらに深く
なり、リリーの体がぶるっと震えた。次の瞬間、奥深くにヴィルヘルムの熱い精が吐き出
された。体の奥に熱いものを感じ、恋焦がれたヴィルヘルムの腕の中で、夢と現実とのあ
まりのギャップに絶望を感じながら、リリーは静かに瞼を閉じた。
由緒ある貴族の家に生まれ、何不自由なく育ったヴィルヘルムの悲劇は、彼の成人後に
始まった。彼の結婚直後の両親の事故死。正妻との間にできた子供は死産。その妻も産
後の肥立ちが悪かったのか一年も経たずに病死。それから十年。仕事の方は順調にいって
いたが、私生活の方はいまいちぱっとしなかった。複数の女性と付き合ったが、燃え上が
るような恋ではなかった。皆彼の元から去っていった。そうこうしているうちに、彼も頭
に白髪の混じる歳になっていた。親戚や友人に跡取りのことを心配され、彼も密かに焦り
出したが、元々好き嫌いの激しいヴィルヘルムが見初める女はどこにもいなかった。
そんな時、馬車の中から街の様子を眺めていると、ふと一人の少女が彼の目に入った。
歳の頃は14、5歳だろうか。淡い茶色の髪を軽く結い上げ、翡翠の瞳を優しげに輝かせ
て、彼女の弟らしき小さな少年の手を引き歩いていく。年齢の割に大人びて、小奇麗な顔
をした少女だった。自分にはあのくらいの年齢の娘がいてもおかしくないなと彼は人知れ
ず苦笑した。それからも同じ時刻、同じ場所で少女を見かけた。弟を連れていることもあ
れば、妹を連れていることもあった。次第に彼は馬車をその場に止めてまで、夕刻の短い
間彼女を観察するのが日課になっていた。くるくると変わる表情。友人らしい少年に向け
て発する気の強い言葉。幼い兄弟にみせる優しい笑顔。そのどれもに夢中になっている自
分にヴィルヘルムは戸惑いを感じた。親子ほどにも歳の離れている少女に自分が惹かれて
いるなど、世間に知られれば何と批判されるだろう。
年甲斐もなく暴走しそうになる感情に頭を悩ませていたある日、その日はたまたま仕事
で遅くなり、日もほとんど暮れかけている中、ヴィルヘルムは無意識の癖で馬車から彼女
を探した。するとどうだろう、珍しく一人であの少女は歩いているではないか。もうすぐ
辺りは真っ暗になる。そんな時間に無用心だと心配になり、ヴィルヘルムは馬車を降りて、
彼女の後を追った。あわよくば彼女と言葉を交わし、顔見知りになれるかもしれないとい
う淡い下心を抱えて――。
ヴィルヘルムが止める間もなく、少女は路地裏へと入っていく。通い慣れているのかそ
の足取りに全く躊躇はない。悪い予感を感じながらも、彼は足音を忍ばせ、少女を追う。
ほどなくして少女の先に男を見つけた。長い外套を纏った男だ。表情は暗くてよくわから
ない。少女は男と小声でいくつか言葉を交わし、男の前で膝を突いた。ヴィルヘルムがぎ
ょっと驚いている間に、少女は鳴れた手つきで男の下衣を下ろし、男の萎えたものをその
小さく可憐な口に含んだ。雲の隙間から路地裏に月光が射しこみ、卑猥な行為をそこに浮
かび上がらせる。男が少女の髪を梳くと、少女は気持ち良さそうに目を閉じ、男への愛撫
を続ける。ヴィルヘルムははっと息を飲むが、どうしても男と少女から目が離せない。次
第にヴィルヘルムの中にふつふつと黒い感情が沸き起こる。男のうめき声。少女の唇から
滴り落ちる白濁色の液体。その瞬間、ヴィルヘルムの瞳に暗い嫉妬と憎悪の炎が燃え上が
った。
少女の身元を割り出すのは容易だった。彼女の名前を知ることも、そして彼女の家が貧
しく、兄弟を養うために彼女が体を売っていることも、簡単に情報は手に入った。リリー
の顧客の情報までも手に入れると、ヴィルヘルムはリリーの顧客を買収し、リリーを経済
的に苦しめた。彼女と彼女の家族を追いつめた頃に、適当に理由をでっちあげ、リリーと
母親を落としにかかった。罠にかけ、弱ったところで、確実に獲物を仕留めにかかる。リ
リーは素性も知らぬヴィルヘルムに警戒を抱き、なかなか首を縦に振ろうとはしなかった。
ヴィルヘルムはもどかしかったが、リリーの賢い一面を知る事ができたと密かに喜び、さ
らにリリーへの歪んだ愛情は増していった。母親に口説き落とされる形でリリーが渋々と
だが、ヴィルヘルムへの奉公を承諾した時は、ヴィルヘルムは飛び上がらんばかりに嬉し
かった。これでリリーが手に入った!二人して馬車へ乗る時、初めてリリーの手に触れた
時は小さく手が震えた。リリーの前ではまるで初めて恋をした少年のように心が弾んだ。
いや、本当に初恋なのかもしれない。
リリーが屋敷で働くようになり、ヴィルヘルムにとってそれまでの生活が考えられない
ほど幸せな日々が始まった。屋敷の使用人達もたまたま若い働き手がいなかった時にリリ
ーがやってきたこともあり喜んでリリーを受け入れてくれた。ヴィルヘルムの機嫌が以前
よりもずっと良くなり、屋敷全体の雰囲気が格段に良くなった。屋敷のために、ヴィルヘ
ルムのために、一生懸命に働くリリー。自分へと楽しそうに笑いかけてくれるリリー。か
らかうと子供のように拗ねるリリー。他人の目もあり高価なプレゼントを贈ることはでき
ないが、健やかに成長し綺麗になっていくリリー。嗚呼、リリー、リリー。愛している。
君と共にいれるならば、どんな手段も使う。愛してるんだ、リリー。こんな私をわかって
ほしい。
そんな風にリリーがいるだけでヴィルヘルムの心は満たされ、それから数年間彼女を抱
きたいなどとは一度も思わなかった。そう、あの日までは――。リリーとの幸せな日々が
続いていたのと、仕事が忙しかったせいで、ヴィルヘルムはつい油断していた。屋敷に農
夫の若い男が出入りし、リリーに熱い視線を寄せていたことを。
呪わしきあの日の夕刻、書斎の窓から見下ろした庭先でリリーと若い男は何か言い争っ
ていた。リリーが若い男と話している。それだけでヴィルヘルムの胸の内に嫉妬の念が沸
き起こる。これは早々に追い払わなければならない。どうやって追い払ってやろうか。い
っそのこと事故に見せかけてあの男をこの世から消し去ってやろうか。ヴィルヘルムが頭
の中で暗い計画を立てていると、彼の視線の先で、ヴィルヘルムが彼らを見ていることも
知らずに、若い農夫の男はリリーの体を引き寄せて、彼女の薔薇色の頬を両手で包み、彼
女の唇を奪った。ヴィルヘルムの目の前が怒りで真っ赤に染まった。私のリリーに触れる
なと叫びたい衝動に駆られる。窓に怒りのままに拳を打ちつけると小さくガラスに亀裂が
入った。リリーは男を突き飛ばし、男の頬を張り飛ばすと、踵を返し屋敷へと駆け込む。
一瞬見えた彼女の顔は、今にも泣きたいのを必死に我慢しているようだった。そうだリリ
ー。それでいい。君を抱きしめていいのは、君にキスしていいのは、私だけだ。今のは何
かの間違いだ。リリー。昔の悪い癖であんな醜い男に媚を売ったんだね。いけない娘だ。
君が頼めば、私がいくらでも君の体を喜ばせてあげるのに。そうだ。ついでに君との間に
子供が出来ればなんて素敵なことだろう。リリー、そうしよう。きっと私達の子供は君に
似てとても可愛いよ。子供を作ろう。春にはみんなでピクニックに行こう。夏は湖の側の
避暑地でのんびりしよう。秋は一緒に子ども達に本を読み聞かせよう。冬は子供の分だけ
クリスマスプレゼントをたくさん用意しなければならないね。嗚呼、愛してるんだ、愛し
てるんだ、愛しいリリー。
「旦那様を誘惑するなんて!なんという恥さらし!ずっと腹に一物抱えていたのかい?金
が欲しいのかい?浅ましい雌猫め!」
長いこと屋敷に勤める老婆に顔面に水をぶちまけられ、リリーは顔と髪の毛から惨めっ
たらしく水を滴らせる。ヴィルヘルムとリリーが関係を持ったことが公になるのに時間は
かからなかった。ヴィルヘルムは時間があればリリーを寝室に連れ込み、リリーを犯した。
肉体的に追い込む。そして裏ではヴィルヘルムは使用人達にリリーにたぶらかされたとほ
のめかし、屋敷の中でリリーを孤立させていった。精神的にも追いつめられた可哀想なリ
リー。それでもリリーは気丈に振る舞い、仕事を続けるが、肉体的にも精神的にもそろそ
ろ限界が近いだろう。もしかするとすでにその身にヴィルヘルムの子を宿しているかもし
れない愛しいリリーをいつまでも働かせておこうなどとはヴィルヘルムも考えてはいなか
った。リリーをこの屋敷という悲劇の舞台の上で踊らせているのは、リリーに自分を選ば
せるため。一人ぼっちになって、身を震わせて自分に泣き縋ってほしい。そしたら想いを
伝えよう。身も心も私のものになってくれるのならば私はいつまでも君を愛し続けよう。
「ああっ!旦那様っだんなさまぁ」
ヴィルヘルムの額から汗の玉が滴り落ち、ほんのりと色づいたリリーの若い透き通るよ
うな肌に落ちて弾ける。最初にリリーを抱いた時に比べ、リリーの声はヴィルヘルムに甘
えるような響きを含んでいる。それほどにもうリリーにはヴィルヘルムしかいなかった。
リリーの過去の男の影を掻き消そうとするかのごとくヴィルヘルムはリリーの体を貪る。
リリーが絶頂に達し、彼女を追うように、ヴィルヘルムも彼女の中に吐精する。リリーの
中から陰茎を引き抜くと、彼女の秘裂から白濁がとろりと溢れ出す。それを見て満足そう
にヴィルヘルムは微笑む。胸を上下させはあはあと息を整えていたリリーは突然涙を溢れ
させ両手でその愛らしい顔を覆いわっと泣き出した。初めての事態にヴィルヘルムは目を
見開き、どうしたのかと彼女の肩を揺さぶるが、リリーは首を横に振り嗚咽を漏らす。彼
女を肉体的にも精神的にも追いつめたのは他ならぬヴィルヘルム自身であるが、実際に彼
女の涙を目にするとヴィルヘルムの心は痛んだ。何度となくリリーを言葉で泣かせ、暴力
で泣かせ、自分の痛む心を誤魔化すように、リリーを酷く犯してきた。抱いた後は一瞬の
征服欲で満たされるが、それが過ぎると、ヴィルヘルムはひどく惨めな気持ちになった。
そしてまた同じ事を繰り返してしまう。すでに彼は、そしてリリーも、悪循環に嵌まって
いた。このまま二人でどこまでも堕ちて行くのだろうか。愛しいリリーを手に入れたもの
の、ヴィルヘルムは人としての何か大切なものを確実に失いかけていた――。
また今夜も涙する歳若いリリーを力でねじ伏せるのか。強い力でリリーの手首を掴み、
顔を覆う両手を外す。現れた翡翠の瞳の暗さにヴィルヘルムは一瞬息を忘れた。
「旦那様、もう、私には、生きる価値もありません……死なせてください。私のようなも
のがあなたの側にいたら……駄目なの……許されないわ……ああっ、誰か私を殺してっ…
…!」
桜色の唇から紡がれる絶望に満ちた言葉の数々。ヴィルヘルムは余裕なく首を振り、必
死に否定する。
「何を言っているんだ。私に抱かれている限り、私の側にいる限り、君には生きる価値が
ある。馬鹿なことをいうな」
唇を噛み締め、とめどなく涙を溢れさせるリリーを見下ろし、舌を噛み切って死ぬので
はないかという不安がヴィルヘルムの脳裏を過ぎる。さらに釘を打っておかなかればなら
ない。
「それに」
一旦言葉を切り、ヴィルヘルムはリリーの下腹部に触れる。その手つきは優しい。
「君のここには、もう私の子供がいるかもしれない。君が死ねば、私の子供が死ぬかもし
れないんだぞ!」
ヴィルヘルムは声を張り上げるが、その声の震えは隠し切れない。
底なしの絶望の闇へと一人堕ちていこうとするリリーを繋ぎとめようと、いつの間にか
ヴィルヘルムはリリーの震える体を抱き起こし、しっかりと抱きしめていた。
「私のお腹から産まれてくるなんて……子供が可哀想です」
ヴィルヘルムの肩に頭を預け、リリーは力なくヴィルヘルムに寄りかかる。
「死ぬより不幸なことはない。昔、正妻との間に一人子供ができたが……死産だった。健
康に育てば、愛してやったのに。何の不自由もさせない。それなのに……」
リリーの耳元にヴィルヘルムの吐息がかかる。初めてヴィルヘルムの口から語られる彼
の過去。リリーの知らないヴィルヘルムがそこにいた。彼ならばどんなに美しく素晴らし
い女性を妻に持つ事ができるのに、どうして彼の腕の中にいるのは薄汚れた自分なのか。
それでも――、リリーはヴィルヘルムを抱きしめ返す。
「他に……女性は作られないのですか」
口ではそう問いかけながらも、もしヴィルヘルムが他の女性を連れてきたら、口では祝
福できても、きっと彼の愛を受ける女性に嫉妬してしまうことはリリーにもわかっていた。
「そんなことは君が決めることじゃない」
ぴしゃりと切り捨てる。それでも――、リリーを抱きしめる腕の力は緩まない。
「とにかく産むんだ。産めば周りの目も変わる。今君が死ねば、君は貴族の子供を殺した
殺人者と同じだ」
「そんな……」
死という唯一の逃げ道までも塞がれてしまい、リリーの頭の中はからっぽになった。
――自分はヴィルヘルムという籠の中から逃げられない。
その時なのか、その前にか、その後だったのかはわからないが、リリーはヴィルヘルム
の子を宿す。
そして十月十日後、リリーは彼らの第一子をこの世に産み落とす。
「お母様、プレゼントです」
「あら。ありがとう、ヨハン」
リリーは少年の手から綺麗に棘の抜かれた一輪の薔薇を受け取る。白い歯を見せて微笑
む息子にリリーも笑顔を返す。
「また学校で先生に褒められたよ」
「今度は何て?」
「学校で一番賢く、思いやりがあり、気品に富んでいるって」
ヨハンは自慢げに胸を張る。厳しくて有名な息子の家庭教師にも同じことを言われたば
かりだ。夫は子供をめったに褒めないので、リリーは夫の分まで息子を褒める気持ちで息
子の柔らかい茶髪を撫でる。
「あなたのいいところはすべてお父様譲りよ」
「そんなことはないよ。この僕のお気に入りの瞳は」
少年は自分の翡翠の瞳を指す。
「お母様のものだ。それに僕が女の子から大人気なのもお母様に似ているからだよ」
「女の子から人気なのも、あなたの力よ」
「そんなことはないよ。ああ、どうしてお母様はそんなにも謙虚なんだろう」
もっと堂々と自分を誇っていいのにとヨハンは嘆く。ヨハンはもどかしがるが、いくら
息子が優秀で、家が立派でも、リリーの過去が消えることはない。リリー一人ならば何と
言われてもいいが、血というものは、子供に少なからず親の過去を背負わせてしまう。そ
のことをリリーはずっと気に病んでいる。
「本当にヨハンは優秀な学生で、ルートヴィッヒとクラウス、エリザベータの良き兄だと
思ってるわ。でもね、あなたのことが心配なの。私のせいで辛い目に合ってないかしら?」
ヨハンは眉間に皺を寄せて考えるようにして低く唸る。
「確かに学校にはお母様のことを馬鹿にする愚か者がいるよ。……でもね、そうゆうやつ
らはまず家に連れてくるんだ」
小首を傾げる母に息子は悪戯っぽく微笑んでみせる。
「お母様に会わせれば一発で態度が変わるよ。あのレヴィンスキ家のだって、学校では行
儀知らずのくせに、お母様の顔を見るなり、姿勢をピンと伸ばして、行儀良くしてるんだ」
「この前の彼ね。私はレヴィンスキ家の行儀作法は素晴らしいとばかり思っていたわ……」
「我が家には及ばないよ。……お母様は僕の誇りだよ。そして僕はお母様の騎士だ」
ヨハンは身を捩って二人がけのソファの横に座るリリーの頬にキスをする。リリーもヨ
ハンの頬にキスを返す。
母子二人してヨハンの学校での話を続けていると、部屋のドアがノックされて、乳母の
ゾフィーがヴィルヘルムとリリーの娘エリザベータを抱いて顔を覗かせる。にこにこと笑
うヨハンの顔を見て、ゾフィーは大げさに驚いた顔を作る。
「あら!ヨハン様。とってもご機嫌ですわね」
「そう見える?貸して。エリザベータの面倒は僕が見るよ」
「ではお言葉に甘えて」
慣れた手つきでヨハンは幼い妹を受け取り、部屋を出て行く。ゾフィーは扉を閉めなが
ら肩を竦めた。
「お気に入りの本が見つからないとかでさっきまでかっかしてたのに、奥様の手にかかれ
ばイチコロね。ちょっと癇癪もちだけど、健康で、賢くて、兄弟思いで、ヨハン様に関し
て何も心配することなんてないわね。あのお顔だし社交界デビューが楽しみだわ」
歌うようにしてヨハンのことを褒めながら、ゾフィーはソファを弾ませて、リリーの横
へと腰掛ける。
「ゾフィーの目にはそうゆう風に私達が映るのね」
憂いを帯びたリリーの横顔を見て、ゾフィーは心配そうにリリーの顔を覗きこむ。
「リリー奥様はヨハン様が不満なの?あんな立派な跡継ぎ息子なのに、それはちょっと欲
張りだわ」
リリーは小さく首を振る。
「違うの。ヨハンも、他の子ども達もみんな良い子よ」
「旦那様もとっても素敵な紳士よ」
ゾフィーが片目を瞑ると、リリーは力なく微笑む。
「できすぎているなと思うの」
この十年間で四人の子供に恵まれた。特に第一子が男の子だったせいか、周りのリリー
に対する扱いは一変。さらに続けて第二子も男の子だったせいか、完全に周りからはヴィ
ルヘルムの妻扱いだ。どの子も健康優良児で、妙に賢いというおまけ付き。使用人たちに
もすっかりリリー奥様と呼ばれている。
「思うのよ。これはできすぎた夢なんじゃないかって」
一時期体を売り生計を立て本気で死まで考えた自分が今では夫と子供に囲まれて生きて
いる。実は自分はまだあの街から逃げられず、疲れ果てたまま、ずっと夢を見続けている
のではないか。
「リリー、失礼」
リリーの右手をひょいと取るとゾフィーはリリーの手の甲をぎゅうっと抓った。
「痛い!」
リリーは悲鳴を上げ赤くなった右手の甲を左手で擦る。一方ゾフィーは悪びれた様子も
なく、満足そうに口角を上げる。
「ほら。あなたは夢なんか見てないわ。ようこそ、現実へ」
リリーはありがとうという言葉の代わりに親友の手を握り締めた。手を繋いだまま、ゾ
フィーはリリーを立たせると、バルコニーへと出る。春風がリリーの髪を揺らし、頬を撫
でていく。様々な花が咲き誇る庭を前にゾフィーは大きく両手を広げる。
「リリー。あなたはヴィルヘルム様の妻なのよ。この屋敷の奥様なのよ。母親なのよ。現
実を見なきゃ。考えなきゃいけない問題はたくさんあるわよ。ヨハン様を将来どこの上級
学校に通わせるか、婚約者をどうするか、新しいクッションの柄はどうするか、私の給料
を上げるべきかどうか……絶対に上げるべきだけど、とりあえずアレをどうにかしましょ
うか」
ゾフィーが指差す先、息子二人が嫌がる飼い犬の尻尾を掴んで引っ張っている。リリー
はバルコニーから身を乗り出す。
「クラウス!ルートヴィッヒ!乱暴はおやめなさい!」
飼い犬の尻尾をぱっと離し息子二人は「はーい」と返事をして駆けていく。
「あのやんちゃ二人を叱り飛ばせて、なおかつ言うことを聞かせられるのはリリーだけよ。
きっと血ね。リリーを愛する血を旦那様から受け継いでいるのよ」
「ねぇ、ゾフィー。それだけはやめて」
「照れることはないわ」
「照れてないわよ」
「顔が赤いわ」
ガラス窓に顔を映し顔を確認したリリーを見てゾフィーはぷっと吹き出す。
「今日もわたくしの勝ちですわね、奥様」
リリーは苦い顔をするが、ゾフィーに負けるのは嫌いじゃなかった。
「あなたといると本当に楽しいわ」
「私もよ。あなたって元庶民で、貧乏臭くて、気を張らなくていいし、私よりもずっと子
供の扱いが上手くて仕事が楽になるから、最高の奥様だと思ってるわ」
「それは褒めているの?貶しているの?」
「最高の褒め言葉よ!もうこの先こんなに褒めないわよ。ああ、でもね、この際だからあ
なたの短所を言ってあげましょうか?」
リリーは素直に一度大きく頷く。
「真面目すぎるところよ。旦那様も真面目な方だから、お二人のうちどちらかくらい、も
って楽観的になってもいいと思うわ。わたくしをお手本にしてもよろしくてよ?」
「それは……遠慮しておくわ」
そう言いながらも、いつもどこか的を射ているゾフィーの言葉はその日もリリーの胸の
内に引っかかった。
「ただいま」
帰宅した夫の帽子を受け取り、リリーは背の高いヴィルヘルムの顔を見上げる。穏やか
な笑顔を浮かべるヴィルヘルムの目尻には深い皺が刻まれている。リリーと同じように、
彼もしっかりと十年分の歳を重ねていた。
「おかえりなさい」
「何か困ったことはなかったかい?」
自然な動作でリリーの腰を抱き寄せ、リリーの額にキスを落とす。
「何も。ヨハンが薔薇をプレゼントしてくれたわ」
ヴィルヘルムは片眉を上げ「何本?」と訊ねる。
「一輪」
「なら、私は百本の薔薇を君に贈るよ」
たった九歳の息子に嫉妬し張り合おうとするヴィルヘルムにリリーは溜息をつく。
「あなたはヨハンに嫉妬しすぎるわ」
「ヨハンが君を他の男に自慢しすぎるからだよ。すっかり君は有名になってしまって、是
非君に会いたいという男が後を絶たない。私は気も狂わんばかりだ」
米神に指を当て揉み解すヴィルヘルム。
「もう狂ってるわ」
彼が過去に犯した卑劣な手口も、どうしようもない嫉妬癖も、その根本にあるリリーへ
の深い愛情も、彼と長く時を過ごすうちに自然とリリーも知っていった。怒りも呆れもし
た。一時期ヴィルヘルムのことを軽蔑したこともあったが、愛する者に軽蔑される辛さを
身にしみて理解していたリリーは過ぎ去ったことをいちいち責めるようなことはしなかっ
た。それにずっと妊娠・出産・子育てに追われ、過去のことに構ってもいられなかった。
「すっかり私のリリーは強くなったね」
ヴィルヘルムの腕の中で泣きながら震えていたメイドはもういない。彼の目の前にいる
のはすっかり逞しい母親となったリリーだけだ。
「四人の子供の母ですもの。でもそうね……今からあなたの妻として話したいことがある
から、庭に出ましょう」
リリーに誘われるままにヴィルヘルムはリリーと共に再び夕暮れに染まる庭へと出た。
「私達、話すべきことを話さずにここまで来てしまったわね」
リリーは夫の書斎の窓を見上げる。十年前、ここでリリーは農夫の若い夫に唇を奪われ
た。その始まりの場所にヴィルヘルムを連れてきて、彼と向かい合うようにして立つ。あ
の窓からヴィルヘルムが何を思って自分のことを見ていたのだろうと思うと胸が苦しくな
った。
「あなたは威厳のあるいい父親よ。最近になって知ったのだけれど、五年前会社は苦しか
ったのでしょう?それなのにあなたはいつも家で使用人たちにとって立派な主人であり、
厳しくも優しい父親であり……こんな私の夫だったわ」
「五年も前のことなんて忘れたよ。私の会社のことは君は本当に心配しなくていい。暇な
貴族が道楽でやっているようなものだ。引き際は心得ているから、危なくなったら潰せば
いいだけだ。これ以上金を蓄えてもしょうがないしね。君も、いつだって子ども達の美し
く優しい母親であり、私を献身的に支えてくれる妻であり、永遠の可愛い恋人であったよ。
……おまけに、天下一の娼婦だ」
「おまけは余計よ」
ぷいっと顔を背けたリリーの頬は赤く染まっている。しかし甘い雰囲気を払うようにし
て、リリーは真顔でヴィルヘルムの顔を見上げる。ヴィルヘルムもリリーの真剣な雰囲気
を感じ取り、顔を引き締めた。
「私達、なんとか形になって歩んできたけど、一つだけまだ残されたわだかまりがあるわ」
「ああ。あのこと」
ヴィルヘルムは顔を曇らせる。彼にとっても、彼が犯した罪は、思い出したくもないと
なっていた。当時は感情のままに彼女を犯してしまったが、冷静になって当時を振り返る
と、人間とは思えない卑劣な手口に、自分で自分を悔いた。それからというもの、ヴィル
ヘルムはあの時のことを妻になじられることを恐れるようになった。リリーはまだ一度も
あの時の彼を責めたことはなかったが、多分今がその時なのだろう。リリーが眉を上げた
のを見て、ヴィルヘルムは妻に対して初めて怯えた顔を見せた。
「そうよ。あのことよ。ずっと言わなきゃと思ってたの。だから言うわね」
ヴィルヘルムは片手を上げてリリーを制止する。
「待ってくれ。覚悟を決めさせてくれ」
「十秒待ってあげる」
沈黙の十秒間が過ぎ、ヴィルヘルムは喉をからからにさせながら「いいよ」と声を絞り
出した。
「十年前このお屋敷で働いていたメイドのことを覚えてる?」
「茶髪の、翡翠の目をした魅力的なメイドだね。忘れるわけないじゃないか」
「よかったわ、あなたが彼女のことを忘れていなくて!あなたのメイドね……旦那様のこ
とが好きだったのよ」
そこでリリーは一旦言葉を切り、ヴィルヘルムの表情を窺う。ヴィルヘルムは目を見開
いたままその場に固まっている。
「初恋だったの」
リリーは頬を赤らめ、小さく笑みを零す。ヴィルヘルムは緊張の糸が切れたのかその場
に膝をついてリリーの両手を握り締め、妻の顔を見上げる。
「君はそんなこと一言も……」
「言えるわけないわ。だってあなたは貴族の男性で、とても大人だった」
「じゃあ、私は君に、なんてことを……」
ヴィルヘルムの目から一筋の涙が頬を流れ落ちた。リリーは腰を屈めてヴィルヘルムの
額に優しく口づける。
「許します、ヴィルヘルム。あの頃はとても傷ついて、あなたをひどく軽蔑した時もあっ
たけど……でも、あんなことがなければ、あなたと結ばれることも、私達の可愛い子供達
に会うことも、絶対になかった」
「……君はあの頃から私に甘いね」
「そんなことはないわ。許すまでに十年の時間が必要だったもの」
縺れていた過去の糸を解ききった二人は微笑みあうと、どちらからともなく愛しい相手
の体を抱きしめた。熱い抱擁を交わすヴィルヘルムとリリーを物言わぬ草花だけがただじ
っと見つめていた――。
おわり