第二話
目の前に、女の子がいる。
俯いていて顔はよくわからないけど、髪の毛が太陽に反射してとてもきれいだ。
「ほら、徹。挨拶なさい」
お母さんが、そんなことを言ってくる。
「今日からお前の妹になる子だ。仲良くしてやれよ」
これは、お父さんの言葉だ。
僕の、妹・・・?
女の子は、さっきからずっと俯いたままだ。ぴくりとも動かないものだから、僕の目にはキラキラ光る髪の毛
しか写ってない。
ふと、その子の髪の毛を触ってみたくなった。ふわふわとして、とても柔らかそうだったから。
す、と手を伸ばす。
「・・・!」
そのとたん、女の子の体がビクン! と動いた。そのままブルブル震えだす。
そんな女の子の反応に、思わず僕は手を引っ込めてしまった。
震えながら女の子は、本当にゆっくりと顔を上げた。
ゆっくりと、おずおずと、僕のほうを見て───すぐにまた俯いた。
「ごめんなさい」
あやうく聞き逃すところだった。
蚊の鳴くような声ってのはこういうのを言うんだと思う。
「向日葵ちゃん、この子は徹って言うのよ」
お母さんは一瞬だけ表情を曇らせたけど、すぐに笑みを浮かべて優しい口調で女の子に語りかけた。
「徹、向日葵ちゃんよ」
そっと、女の子───向日葵の背を押して、僕のほうへと示してくる。
「優しくしてあげなさい」
そんな風に語りかけたお母さんと、無言のままのお父さんの表情はいつになく真面目で。
だから、この子は僕が守るんだという誓いを、誰に言われることもなく立てたんだ────。
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そして俺は、目を覚ました。
「・・・」
なにか夢を見ていたような気もする。
詳しい内容は思い出せないが、多分昔のことだとは思う。
昔のこと───そう、向日葵に関することだろう。
頭を二、三回振り、視界がはっきりして意識も明瞭になってくるにつれて───俺は、昨日の晩のことを思い出していった。
ふと視線を下に向けてみれば、向日葵が俺の胸元に寄りかかったままの姿勢でいる。
昨日の晩となにも変わらない。
無理な姿勢で寝ていたせいだろう、体の節々が痛かった。向日葵だって、よくこの姿勢を保ったまま眠れたものだ
いや、それは眠っていると言えるのだろうか。
向日葵の体は軽く、柔らかで温かかった。ふと息を吸い込んでみれば、昔から慣れ親しんだ甘い香りがする。
近頃急に女らしくなってきて、その匂いの持つ意味が俺の中で変わりつつあると言えども────やはり、今俺の腕の中で
目を閉じているのは、紛れも無い俺の妹だった。
一瞬、昨日の妹の姿は夢だったのではないかと錯覚する。そんな甘い希望を抱かせてしまうほどに、向日葵の体の重みは心地よい。
だからこそ───呼吸もせず、胸の鼓動も感じないその体を、強く意識してしまう。
「ん・・・んぅ・・・」
俺が身じろぎしたせいだろう、向日葵の小さな口から声が漏れた。
そして────昨晩をなぞるかのように、向日葵の体から熱が失われた。
「ん・・・ぁ・・・とおる、さん・・・?」
徹さん。
その呼び方に、がっかりしたような、ホッとしたような・・・複雑な気分が俺を覆う。
「とおるさんだぁ・・・」
身を起こして上目遣いに、寝ぼけ眼で俺を見つめ。
「おはよう・・・」
にへらと、弛緩した笑みを浮かべ・・・そしてその顔に、恐怖とも悲しみとも取れる表情を浮かんだ。
「わたし・・・わたし・・・!」
身を離そうとしたので、慌てて手を伸ばして抱きしめる。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
ブルブルと震えるその細い背中を抱く腕に、俺はそっと力をこめた。
「ごめんなさい・・・本当に・・・だから、だから私のこと嫌いにならないで・・・!」
いやいやをするように振られる頭を優しく撫でながら・・・俺は、抱きしめる腕に力をこめた。
「嫌いになんか、ならないよ」
「ぁ・・・」
「なるわけが、ないじゃないか・・・」
強張っていた体から、すぅと力が抜けていく。
「うん・・・」
くぐもった声で、向日葵は小さく頷いた。
「・・・なぁ、向日葵」
「ん」
「その・・・血って美味しいのか?」
上げられたその表情には、陶然とした表情が浮かべられていた。
「ん・・・わかんない」
そう言いながらも頬は赤く。
「でも、昨日のお兄ちゃんの血は、なんだか甘い感じがした・・・」
そんなことを、向日葵は言ってくる。
お兄ちゃん。
ここで俺をそう呼ぶのかと複雑な気分になったが、それを無視して言葉を続ける。
「だったら・・・俺以外の血は吸うな。誰彼構わず血を吸うような、そんな奴になっちゃいけない」
そうなったら完全な化け物だ、という言葉はなんとか呑み込んだ。
「うん・・・」
嬉しそうな顔で。
「私も、お兄ちゃん以外の血は吸いたくない・・・」
妹は、そんなことを言ってくる。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「血、吸ってもいい?」
「ああ・・・いいとも」
蕩けるような表情を浮かべ、俺の首筋へと唇を近づけ・・・そして小さな舌先でぺろりと舐める。
熱くぬめった感触にぞくぞくとしながらも、俺の頭の中では別のことが既に考えられ始めていた。
───吸血鬼。
血を吸う鬼。
人間をはるかに凌駕した力を持つ絶対者でありながら、十字架とニンニク、そして太陽の光に敗北する未完成の不老不死。
昔、なにかの映画で見たことがある。
吸血鬼になってしまった者が人間に戻るためには、その人間を吸血鬼に仕立て上げた宿主を殺せばいいと。
体液を介して体内に取り込まれた吸血鬼の因子は、それで消えるのだと言っていた。
どこまで信憑性があるのかはわからない。
しかし、今の俺にはそれぐらいしか縋るものがない。
向日葵は───俺の妹は、恍惚とした表情で首筋に唇を近づけながらも、その両の瞳からは涙を零していたのだ。
そう。
心にどうしようもない痛みを感じながら、俺の妹は血を吸っているのだ。
その苦痛を取り除くためならば、俺は吸血鬼だろうがなんだろうがなんでも殺す。
邪魔があろうと、夜を彷徨い傷を負おうとも、なんとしてでも見つけ出す。
見つけ出して追い詰めて───向日葵にこんな苦しみを負わせたそいつに、一刻も早く引導を渡してやる。
───そして妹は、俺の首に牙を立てた。。
長い夜になりそうだと。
首筋から響く淫靡な音を聞きながら、俺はそう思った。
──────第二話 完