第三話 前編 
 
 つー・・・と唾液の糸を引いて、俺の首筋から向日葵の唇が離された。 
先程よりはやや赤みが差した――ような気がする―――頬、まだ少し茫洋とした視線で俺を見つめてくる。 
 
「・・・ごめんね、徹さん。痛かった?」 
 
俺への呼び名を徹さんに戻して、妹はそんなことを聞いてくる。 
 
「いや・・・ちょっとムズムズするけど、べつに痛くはない」 
 
口の端から少しだけ垂れた涎をティッシュで拭ってやりながら、俺はそう答えた。 
 
「そっか・・・」 
 
「ああ」 
 
「でも・・・これじゃなんだか、子供みたいだよね」 
 
 申し訳なさそうな表情から一転、照れくさそうな表情を浮かべて向日葵はそんなことを言ってきた。 
たしかにそのとおりである。 
 女の子座りでぺたんと座り、目を細めてこちらを見やりながら、口元をなすがままに兄に委ねているその姿。 
 
「ああ・・・赤ちゃんみたいだ」 
 
「やだ、もう」 
 
照れた笑みを浮かべながらも、向日葵は抵抗しない。そんな姿に悪戯心を覚えて、もっとからかってやろうと 
俺は口を開いたが─── 
 
その唇を、俺は意識してしまった。 
 
 小さな唇。 
薄く色づいた桜色のそれは柔らかそうで、涎を拭った後だというのに少しだけ湿っている。 
半開きにされたその奥には赤く柔らかな舌先がちろりと見えて、唇は俺の首筋をついばみ、舌先は丹念にそこを舐めとり─── 
 
ゾクリ、ときた。 
 
それが恐怖によるものか、性的興奮によるものかはわからない。 
ただ、これ以上の思考は───危険だ。 
頭をぶんぶんと振り、高ぶりを無理矢理吹き飛ばす。 
 
「どうしたの、徹さん?」 
 
「あ、いや。ところで」 
 
話題を作らないと───なにか、とんでもないことをしでかしそうだ。 
 
「血、吸ってるよな」 
 
「うん」 
 
「その、血以外にも普通のメシは減るのか?」 
 
「ん・・・」 
 
小首を傾げ 
 
「わからない。でも、多分いらないと思う・・・」 
 
「・・・そっか」 
 
「・・・」 
 
「・・・」 
 
会話が途切れてしまった。 
 
いかん。 
この沈黙はまずい。よくわからんが、とにかくまずい。 
二人の間の空間に重くのしかかったこの沈黙、ほとんど物理的質量を伴った圧迫感、しかしながらそれは同時に 
部屋に漂う向日葵の匂いはシャットダウンしてくれず、ああまずい、とてもまずい、桜色、鎖骨、舌先ダメだ 
ダメだ話題を話題を探せ話題を探せ────! 
 
「徹さん」 
 
「はいっ!」 
 
「ひゃっ」 
 
なにを過剰反応しているのだ、俺は…。 
 
「あ、いや。ごめん。なんだ?」 
 
「ん・・・あのね」 
 
もじもじとしてから。 
 
「わたし、眠ってもいいかな?」 
 
「あ、ああ。べつに構わないけど。具合でも悪いのか?」 
 
「ううん・・・なんだか、体がだるくて」 
 
そうか。 
考えてみれば、向日葵の吸った血の量はごく微量なのだ。 
俺は血の気が多いので比較にならないかもしれないが、貧血も起こさないところを見ると、おちょこ一杯分の量ぐらいしか 
飲んでいないことだろう。 
 
「・・・もっと、吸ってもいいんだぞ」 
 
俺の言葉に、一瞬顔を輝かせかけた向日葵だったが―─―結局すぐに俯いた。 
 
「ダメだよ、それは」 
 
平坦な声。 
 
「これ以上吸ったら私、きっと我慢できなくなる」 
 
 我慢が出来なくなる―――その言葉の持つ意味に思い至って、俺の背筋が凍りつく。 
紛れも無い恐怖が俺の中に浮上する。 
 
「おやすみ、徹さん」 
 
 そんな俺の内面を知ってか知らずか。 
向日葵はさっさと布団の中に潜り込んでしまった。 
 
「・・・徹さん、そのかわりにお願いがあるの」 
 
「なんだ」 
 
「手、握って」 
 
毒気を抜かれたように、すぅ・・・と心が落ち着いた。さっきまでの高ぶりが馬鹿みたいだ。 
 
「・・・そんなの、おやすいご用だ」 
 
ゆっくりと近づき、布団から出された掌をぎゅっと握ってやる。 
小さく柔らかなそれは―――やはり、氷のように冷たかった。 
 
「ありがとう」 
 
「いや・・・」 
 
安心したように目を閉じる。 
すると瞬く間に頬に赤味が差し、手のひらが温かくなった。 
 
眠った―――のだろう。 
 
「・・・はぁ」 
 
 とにかく、これからのことを考えなくてはならない。 
そもそも最初に聞くべきなのは、向日葵を吸血鬼にした張本人の特長なのではないか。それも聞かずに俺は、なにを 
一人相撲を取っていたと言うのか。 
やはり混乱していたということなのだろうが、自分の頭の回転の鈍さに今更ながら嫌気が差す。 
 
とにかく、夜はそのへんの路地裏を見てまわろう。吸血鬼の行動パターンなんて知らないが、とりあえず 
人気の多い場所で凶行に及ぶということはないだろう。そういった怪しげな場所を探っていけば、いつかは尻尾をつかめるかもしれない。 
 我ながらなんともアバウトな計画だが、俺はつい昨日までただの喫茶店店員だったのだ。 
そんなまるっきり一般人の俺がそうそう機転を―――って、ちょっと待て。 
 
「くそ・・・そうだよ、喫茶店」 
 
 完全に忘れていた。 
ただ一人の正規店員である俺は、シフトなんて関係ない。開店前には出勤して、料理の仕込みを手伝わないといけないのだ。 
それなのに連絡もせずに遅刻をするなんて―――しかも、昼のランチタイムはけっこう忙しい―――おそらく店長は、林檎を片手で 
握りつぶすぐらいの勢いで怒っているだろう。 
 行くとしたら、喫茶店の昼休み・・・しかし、店長は怒りを持続させるタイプだ。 
 
「うわ、行きたくねぇ」 
 
だが、それこそ行かなくてもいいのではないかという気もする。 
俺は今夜から―――吸血鬼を探さなくてはいけないのだ。 
そんな笑えない非日常に足を突っ込もうとしている俺が、昨日までの日常をなぞるような形で仕事場へと思いを 
馳せるなんて―――それこそ、笑い話に等しい。 
 
しかし、だ。 
だからこそ、と俺は思うのだ。 
別れを告げに行く、というわけではない。少なくとも俺はそのつもりだ。 
 これは、なし崩し的に非日常へと突っ走るわけではなく、自分の意思でそこへと踏み込むという一つのケジメ。 
そして、向日葵とともに必ず元の日常へ戻ってくる―――そんな、自分への確約なのだ。 
 そのために喫茶店へと赴き、日常からのつかの間の離脱を表明する。 
  
 だから、あともう少し。 
それまでは、この代えがたい手のひらの温もりを感じていよう――――― 
 
  
                                           続く 
 

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