俺には妹がいる。今年で16になる妹だ。 
笑うと三日月型になる大きな瞳と、丸みをおびた細面。肌なんか雪のように白くって、 
身内の欲目を差っ引いたとしても可愛いと言える、そんな娘だ。 
長く伸ばされた色素の薄い黒髪も、希少価値が高くてイケてるんじゃないかと思う。 
氏名は春日向日葵。夏に生まれたから向日葵。なんとも安直なものである。春の日と向日葵を掛け合わせるとは、 
はっきり言ってセンスの無さを感じずにはいられない。 
 しかしこればかりは俺の両親―――すでに死んでいるが―――を文句を言うわけにはいかない。 
  
 なぜなら向日葵は義理の妹、他所からもらわれてきた娘なのだ。 
 
「ごめんね・・・徹さん」 
 
 だからだろうか。 
 引き取られてかれこれ8年、俺と二人っきりになってからは三年もたつというのに、向日葵は俺を 
兄と呼んでくれない。 
 
「気にするなよ…その、急に冷え込んだんだから」 
 
 兄妹なんだから、という言葉はなんとなく切り出せなかった。 
向日葵は昔から体が弱い。今だって布団を鼻まで被って、俺のほうを上目遣いに見つめている。 
丈夫で元気な娘に育って欲しいとの願いから向日葵と名づけたんだろうが、これじゃ皮肉としか言い様がない。 
 
「なにか欲しいものはないか?」 
 
「ううん、いいの。…もうだいぶ良くなってきたし」 
 
嘘だ。 
頬は依然として紅いままだし、息も荒い。 
無理して強がっているのだ。本当なら、仕事を休んででも一日中看病をしていたい。 
 
「…そうか」 
 
だけど、それはダメだ。 
俺に迷惑をかけることを極端に嫌がる向日葵は、それこそ無理をしてでも元気なふりをするだろう。 
それで病状が悪化したら・・・体の弱い向日葵のことだ、ただではすまない。 
 
「じゃあ、俺はもう仕事に行くから。…おかゆ、冷めないうちに食えよ」 
 
「うん」 
 
後ろ髪を引かれる思いだった。真っ白なシーツからはみ出た黒髪が所在投げに揺れていたのが、何故か印象に残っている。 
そうして俺は背を向けて、大事な妹のそばから目を離したのだ。 
 
今思えば、これがいけなかった。 
無理矢理にでも一日中そばにいて、きちんと見てやっていたならあんなことにはならなかったはずなのだ。 
そもそも病気でぶっ倒れている状態で、夜遅くまで帰らない兄貴を待っている状況が、寂しくないはずがない。 
だからこれから起きる出来事は、きっと俺の責任に決まってるのだ。 
後悔しても遅い。 
あの出来の悪い冗談のようで、かと言って説得力がないのかと言うとそんなはずもなく、悪夢そのものだったとしか 
言いようがない数日間。日常からかけ離れた、しかし俺達兄妹に対して容赦なく牙を剥き、そして変容させた数日間。 
 
 
妹は、吸血鬼になってしまったのだ。 
 
 
 
第一話 
 
「5時か・・・」 
 
 職場の壁に掛けられていた時計を見た俺は、そう一人ごちた。 
ここは、商店街のやや奥まった場所にひっそりと佇んでいる喫茶店『ローマの休日』である。 
ひっそりと佇んでいると言っても別に不景気ということはなく、むしろ客の入りは良いほうだろう。 
それもこれも店長の煎れるコーヒーと、特製小料理が美味いことの賜物である。 
 
 ローマの休日店長兼料理長、山田大五郎。 
彼の見た目を一言で表すなら、悪人面の人面岩だ。こけた頬とがっちりしながらも高い背丈、細まった目つきだって随分と悪い。 
 身に付けている花柄のエプロンも大胸筋を際立たせるだけで似合っていなければ、観葉植物など置かれたりして明るい 
雰囲気の店内からだって浮きまくっている。黒の背広などを着せて、廃工場に立たせてみれば―――もちろん二丁拳銃だ――― 
そっちのほうがよほど違和感がないことだろう。しつこいようだが悪人面である。 
 
「春日」 
 
「は、はいすいませんでした!」 
 
「なに謝ってんだお前は」 
 
「あ、いえ・・・」 
 
俺のなにげに失礼な思考を読まれたわけではないらしい。 
 
「お前な、今日はもう帰れ」 
 
「ええ!?」 
 
午後五時と言えば、忙しくなり始める時間帯だ。たしかに今こそ店内に客はいないが、それにしたって俺を帰らせたら 
仕事がハードになること請け合いである。 
 
「いいから帰りやがれこのスカタンが、一日中そわそわそわそわしやがって。落ち着かないったらありゃしねぇ」 
 
スカタン。 
い、いやそれはどうでもいいとして、確かに今日の俺は落ち着きがなかった。 
もちろんそれは家に残してきた向日葵が心配だからで、本当ならば一刻も早く帰路につきたいところだ。 
 
「いえ、でもいいですよ。俺が抜けたらこれからキツイだろうし・・・」 
 
「いいから帰れっての。そんな状態で仕事されて、皿でも割られたらたまったもんじゃねぇ。 
 ほら、邪魔だ邪魔だ」 
 
そんな感じで。 
結局俺は、帰る支度を済ませてしまった。 
 
「あ、徹くん徹くん」 
 
更衣室から出たばかりの俺を呼び止めたのは、背が低くてお下げ頭な童顔の娘だった。 
いや、娘というのは無理がある。なにせこの人はこの見た目で、29歳のお姉さんなのだから。 
 
「徹くん、今日妹さんの具合が悪いんだよね?」 
 
「はぁ、まあ・・・」 
 
 多く見積もっても高校生ぐらいにしか見えない顔立ちと、くりっとした瞳で俺を見上げてくるのは山田可奈穂さん。 
ああなんと不釣合いなことか、この可愛らしい―――他に適当な表現が見つからない―――人は、あの岩石店長の奥さん 
なのである。 
 
「いや、あれであの人も可愛いところあるんだよ?」 
 
「エスパーっ!?」 
 
「はい、これ。徹くんにって」 
 
 そういって可奈穂さんが俺に差し出したのは、両手で包み込むほどの大きさの小瓶だった。 
 
「これは・・・?」 
 
「うん、ほら。今日徹くんソワソワしてたよね? あいつが落ち着きを無くすなんて、妹が風邪でも引いてるに違いないから、って」 
 
「店長が?」 
 
「うん。仕事の合間に作ってたんだよ? 大ちゃん特製生姜湯。よく効くよ〜」 
 
全然気が付かなかった。 
 
「これは・・・ありがとうございます」 
 
「ううん、別にいいよ。明日大ちゃんにお礼を言ってあげてね」 
 
きっと照れるだろうから、と楽しそうにくすくす笑って。 
それじゃ、と手を振って可奈穂さんは調理場へと戻っていった。 
 
「ありがとうございます」 
 
最後に頭を下げて、俺は外へと続くドアに手を掛けた。 
 
 
「う〜っ、さっむー!」 
 
 徐々に近づきつつある冬は確実に大気を冷やし、道行く人々の吐き出す吐息を白く煙らす。 
それは俺だって例外ではないわけで、着古したジャンパーの襟をそばだてて俺は帰路を急ぐ。 
右側のポケットに突っ込んだ生姜湯の瓶は、不自然に重くて少し歩きづらかったが、それはありがたい重みだった。 
 
 ローマの休日の人たち―――といっても俺以外の従業員は店長と可奈穂さんしかいないのだが―――には、本当に 
いつも世話になってしまっている。死んだ親父の友達だったらしいが、その縁で俺をあそこに雇ってくれていなければ、 
当時高校を卒業したばかりの俺と、まだ中学生だった向日葵は揃って路頭に迷っていたことだろう。 
 本当に、感謝してもしきれない恩義があの人達にはある。 
 
「・・・とりあえず、さっさと家に帰って向日葵に店長自慢の生姜湯を飲ませないとな」 
 
たとえ兄と呼んでくれなくても、向日葵は俺の大事な妹だ。早く家に帰り着いて、その控えめな笑顔を見て安心したい―――。 
 
そのとき俺は、ほとんど無意識で帰路を辿っていた。三年間繰り返し繰り返し、同じ道を歩きつづけてきたのだ。 
はっきり言って、目を瞑っていてでも俺は家に帰り着く自信がある。 
だから俺は、ことさら周囲の風景の変化に気を配ってはいなかった。 
 
カラン 
 
「ん?」 
 
足先で大き目の石ころを蹴飛ばして、その動きを目で辿ってみるまでは。なんとはなしに目をやった、その視線の先は。 
 
「・・・なんだよ、これ」 
 
そこは、破壊されていた。 
 
 待て。 
とりあえず落ち着け。  
俺の記憶が確かならば、ここは確か廃墟があったはずだ。コンクリートの塊って表現がそのままの無骨な外観の 
三階建てビルが右側に。建設途中で放棄されて、鉄骨剥き出しのアスレチックのような建造物が左側に。 
まるで運慶快慶のように俺を見下ろしていたはずだ。少なくとも朝の時点では間違いなく鎮座なさっていた。 
 
 それが今は―――無い。 
 
 いや、無いと言うのは語弊がある。正確には面影が無かったと言うべきで、端的に言うと二つとも半壊していた。 
これで工事現場にありがちな立ち入り禁止の立て看板でもあったなら、それは単なる日常の風景でしかなかっただろう。 
 
 そんなものではないのだ。 
 右側のコンクリートの壁面は、まるで戦車の突撃かなにかを受けたかのように瓦解して、道路の真ん中までなだれ込み、 
 左側の鉄骨アスレチックは、ガスバーナーに炙られた飴細工のようにぐにゃりと曲がっている。 
 
そして、ああ気付いてしまった。 
そこここに飛び散る赤黒い染み、その先に倒れこんでいる白い人影を――― 
 
「向日葵ッ!?」 
 
間違いない。 
型遅れの白パーカー、オーバーオール。無粋なアスファルトにぱっと広がる綺麗な黒髪。 
 
「向日葵! おい向日葵ッ!」 
 
 抱き起こし、肩を揺すってみるが反応が無い。 
幸い、怪我はしていないようだ。朝の具合の悪そうな様子から比べると、むしろ健康そうにも見える。 
だが、初冬の外気に晒され続けて再び体調を崩したら大事である。 
 
「くっそ・・・!」 
 
いや、そんなことはどうでもいい。どうでもよくはないが、まずはこんな剣呑な場所から一秒でも早く向日葵を引き離すことが 
先決だ。。 
 わきの下から手を回し、膝の下から抱え上げ―――いわゆる、お姫様抱っこだ―――ると、俺は一目散に 
家へと走る。 
 
全く意味がわからない。 
崩壊した廃墟、赤黒い謎の染み。そして何故寝込んでいたはずの向日葵がこんなところでぶっ倒れていたのか。 
 
疑問は尽きないが、そんなことは今はどうでもいい。とりあえず今は向日葵を温かい布団の中に入れるのが先決 
である。 
 
とにかく全速力で走ったおかげで、すぐに家へと帰りつけた。 
もつれる指先で鍵を開け、どたどたと階段を駆け上がり、向日葵の部屋へと突撃し、布団の中に放り込んでようやく 
―――俺は一息ついた。 
 
「なんだってんだよ・・・ったく」 
 
額の汗をぬぐう。 
久しぶりの全力疾走だったから息がなかなか収まらない。 
鼻から大きく息を吸い込んで・・・ふと、甘い香りが鼻腔をくすぐった。 
 
それは、俺の妹の匂いだった。 
 
ずっと締め切って寝ていたからだろう。わずかに攪拌された空気はいまだに滞ったままで、室内には少女の香りが濃厚な 
までに漂っている。 
無闇に興奮した。 
 
「いやいやいや、興奮しちゃマズイだろう」 
 
妹の自室で興奮して、息を荒くしている22歳の独身男―――それではただの変態ではないか。 
 
「空気の入れ替えをしないとな。篭った空気は風邪にも悪い」 
 
我ながらわざとらしく呟きながら、窓をがらりと開ける。 
途端に冷たい空気がすぅ、と室内に入り込んできた。火照った体には心地よかった。 
 
 ふと視線を転じてみれば顔色の良くなった向日葵が眠っている。長い睫が窓から差し込んだ月明かりで影を落とし、ぱぁ、と広がった 
黒髪は真っ白なシーツとコントラストを描いてとても綺麗だ。 
ぴくりとも動かないその姿は整った顔立ちとあいまって、まるでよく出来た人形のようだった。 
 
「・・・あ?」 
 
そこで俺は、違和感を感じた。 
身じろぎしないで眠る、というのはわかる。実際、向日葵の寝相はとても良いようだ。 
だがそのことと・・・布団のかぶせられた胸元が全く上下していなということは違う。 
 
動いていないのだ。 
息をしていないのだ。 
それこそ人形に布団をかぶせただけのように。 
 
「おい・・・起きろよ向日葵。からかうのはやめろって」 
 
普段なら、ただの悪戯だと笑って済ませるだろう。 
だが今の俺は不安感が胸いっぱいに広がっていた。重くのしかかるような、それは不快な感覚だった。 
あるいはそれは、先程見た異様な破壊風景も影響していたのだろう。 
 
ごくりと唾を飲み込み、恐る恐る妹の華奢な首筋へと手を伸ばす。 
 
そこは温かかった。 
だがそこは―――脈を刻んでいなかった。 
 
そしてその瞬間、俺の手に妹の手の平が重ねられた。 
 
「・・・・!」 
 
血の気が引く、というのはこのことを言うのだろう。 
いや、引いたのは俺だけではない。 
むしろ引いたのは妹のほうで―――急激に、温かかった肌の感触が凍えつくほど冷たくなっていった。 
ゆっくりと・・・本当にゆっくりと、向日葵が目を開けた。 
 
「…おにい、ちゃん」 
 
夢見るような口調で。 
妹は俺をそう呼んだ。 
その言葉はまるで呪いのように、俺の体を絡め捕る 
 
妹が体を起こす。 
そのぶん俺は後ろに下がる。 
足に力が入らない。 
依然として妹は俺の手のひらを包み込んだままで、俺の頼りない足取りにエスコートされるように、布団から立ち上がった。 
もとから頼りなかった俺の足から、完全に力が抜けた。 
背後の安物のドアは、大げさな音を立てて俺の体を受け止める。ポケットから落ちた小瓶が、ゴロゴロと音を立てて部屋の隅へと 
転がっていく。 
 ずるずるとへたり込んだ俺の胸元に―――向日葵がうつぶせに覆い被さっている。黒髪が俺の腰を経由して、床にまで 
広がっている。 
 
「…おにいちゃんの、匂いがする」 
 
俺の胸に顔を押し付け、くぐもった声で妹が呟く。 
俺は全く動けない。 
 
開け放たれた窓から、風がびょうと吹き込む。 
 
向日葵が顔を起こす。風が黒髪を絡め捕り、無茶苦茶にかき回す。さっき嗅いだばかりの妹の匂いが漂ってきて、 
俺の脳内を痺れさせる。 
 
その黒髪の奥で。 
窓に縁取られた月夜を背に、冷たい肌の質感とは正反対の、熱の篭ったぼうっとした視線で、向日葵は俺を絡め捕る。 
 
「ねぇ…お兄ちゃん」 
 
まるで睦言のように。 
 
「…お兄ちゃんの血、吸ってもいい?」 
 
妹は、そんなことを聞いてきた。 
 
「…ああ」 
 
ほとんど躊躇いも無く、俺はそう答えていた。 
何故かはわからない。ただ、向日葵が俺のことをお兄ちゃんと呼んだ、ただその事実だけが俺の頭の中をぐるぐると渦巻いていた。 
 
「うれしい」 
 
妹が首筋に腕を回す。 
愛らしい顔が俺へと迫る。 
わずかに開いた柔らかそうな唇の隙間からは―――鋭く尖った犬歯が、ちろりと覗いていた。 
 
柔らかく、冷たい唇が俺の首筋へと触れた。 
 
「ああ…おにいちゃん、おにいちゃん…」 
 
うわごとのように呟きながら、首筋を妹の上唇と下唇が噛む。 
頭ががんがんとした。向日葵の唇の感触が、俺の頭を完全に蕩けさせていた。 
向日葵はひとしきりそうしてから…おそらく舌先だろう。そこだけ熱い舌先で首筋をちろりと舐め…俺はたしかに、 
ザクリと言う音を聞いた。 
わずかな痛みが走ったが…それは何故か、甘美な痛みだった。 
 
「ああ…」 
 
熱っぽい口調と共に。 
 
「これが、おにいちゃんの血…」 
 
ぴちゃぴちゃという音が、聞こえてくる。 
妹の熱い舌先が、兄である俺の首筋を舐めとっている。 
 
「向日葵…」 
 
呟いた俺の言葉に、ビクリと向日葵の体が揺れた。 
ぎゅっ、と俺を抱きしめてくる。 
 
「ごめんね…お兄ちゃん」 
 
舐めとられる感触が止まり、さらに向日葵が体重を預けてきた。 
 
「わたし…吸血鬼になっちゃった」 
 
「…そうか」 
 
それぐらいのことしか言えなかった。なにか言わなければいけないと思った。 
 
「べつに…お前が悪いわけじゃない」 
 
「…」 
 
結局出てきた言葉はそれだけで。 
妹は返事を返さなかった。 
 
「…向日葵?」 
 
ふと気が付けば、向日葵は目を閉じていた。 
それが合図だったかのように、体全体が温かみを取り戻す。 
 
「…」 
 
だが、息はしていない。 
ただ、温かくなっただけだった。 
 
得体の知れない喪失感が、心を覆い尽くした。急激に鼻の奥が痛くなって、とめどなく涙が流れてきた。 
妹に寄りかかられたままの姿勢で、しばらくの間俺は泣きつづけた。 
 
涙の温度と、向日葵の体温はほとんど差が無かった―――――。 
 

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