野々宮理々子は呆然としていた。
「う……そ……」
そんな言葉がつい出てしまう。
ここは理々子が勤める会社の最寄り駅。そのトイレの個室内である。
彼女はなぜか便器にも座らず、スカートだけをまくりあげたまま立ち尽くしていた。
視線は自分の足元を見ていた。そこには水溜りができている。
さらに股間からはポタポタとしずくが垂れていた。
しかし、パンティーとパンストは穿いたままである。
つまりどういう事かというと……
「こ、この歳でお漏らししちゃうなんて……どうすんのよぉ……
今から仕事なのよぉ!!」
…………こういう事である。
目覚まし時計が止まっていて、いつもの時間に起こしてくれなかった。
すべての元凶はこいつだ。
慌てて家を飛び出し、トイレに行くのを忘れていた。
これが元凶の二つ目。
最寄り駅で小用を足そうとしたら、満室だった。
これが元凶の三つ目。
電車内で痴漢に遭い、こってり股間を刺激された。
これが元凶の四つ目。
ついに限界をむかえ、この駅のトイレに駆け込んだがまたもや満室だった。
これが元凶の五つ目。
そしてようやく開いたトイレに駆け込んで、スカートをめくりあげたとたん……
決壊したのである。
「お、落ち着け……落ち着けわたし……とにかく現状把握をして対処を……」
まずは腕時計を見て時刻を確認した。
始業時間には、まだだいぶ間がある。
とはいえ今日は大事な商談があるため、資料の確認やらなにやらでできれば
早く着いておきたいところだった。
しかしもうそれどころではない。少々の遅刻には目をつぶるとして……
えーっと……
理々子は足元の水溜りに目がいく。
「とにかくこれをなんとかしておいて……」
まくりあげたスカートの裾を腰にはさむと、自由になった両手でトイレットペーパーを
カラカラと出していく。
それを水溜りに入れ充分吸い込ませてから、拾い上げ便器に捨てる。
この作業を何度かくりかえし恥辱の水溜りが消滅すると、再度今後の対策を練っていく。
考えられる選択肢は以下のとおり……
@家に帰って履き替えてくる。
A乾くのを待つ。
Bスカートが濡れるのを覚悟でこのまま出社。
Cノーパン、生足にて出社。
Dもう、休んじゃう。
E田舎へ帰る。
F死ぬ。
E、F番は論外として、Bもちょっと厳しい。
普通の水ならともかくアレなわけだから……臭いもするだろうし……
Aをするくらいなら@だろうが、今日はとにかく大事な商談がある。
それこそ、彼女の人生を決めるくらいの……というとオーバーだが
とにかくその商談に遅れるわけにはいかない。
同じ理由でD番もダメだ。
となると……
「やっぱり……Cですか……」
ノーパン、生足……これで出社だ。
「ま、まあ会社に着けばロッカーに替えのパンストはあるはず」
伝線したときとか用に、替えのパンストは置いてある。パンティはないけど……
「覚悟決めました……」
理々子はパンティとパンストを脱ぎ、それをトイレットペーパーにくるむと、
なにくわぬ顔で個室を出た。
そして駅のゴミ箱にそれを捨てると、改札を出て会社へと向かったのである。
「ふぅ……」
思わずため息が出る。
ここから会社までは歩いて約10分。早足なら7,8分、走って5,6分というところか。
しかし、下手な動きは却っておかしい。
ここはなるべく、普段と変わらない行動をとるべきだ。
「ふ、普通に歩こう……」
あたりまえだが、下半身がスースーする。布切れ一、二枚のことなのに
こんなに心細いとは……
生足にハイヒールという以外、外身におかしいところがあるわけでは
ないからノーパンなのを気づかれることはないのだが、周りの誰かが
気づいているような、そんな疑心暗鬼にかられるのだ。
ふと、コンビニエンス・ストアが目に入る。
「そ、そうか……ここで売ってるかも……」
パンストを買ったことはあるのだが、下着をこんなところのお世話に
なったことが無いため、あるかどうかはわからなかった。
しかし一縷の望みをたくして、理々子は店内へと入って行った。
別のものを物色している振りをしながら(そんなことをする必要は無いのだが)
下着類がおいてありそうな陳列棚へと向かう。
パンストが置いてある棚を見つけた。あるとすればこの周辺だ。
(パンストも買っておく方がいいか……)
ここのトイレで穿いておけば、わざわざ会社でまた穿くこともないわけだ。
理々子はパンストをひとつ手に取り、本命のパンティの方を探す。
(ない………)
パンストとメンズのパンツ(ブリーフ、トランクス両方ある品揃えのよさ)
はあるのだが、肝心のレディースものの下着は皆無なのだ。
(置いとけよ……ごるァ!!)
心の中でこのコンビニを呪いつつ、パンストだけでも穿いておこうと
レジへと向かう。
バックから財布を出し……出し……出しぃぃぃぃぃ
(……わ…す…れ…た………さいふ……)
そういえば昨夜、新聞の集金が来たときに財布を出してそのまま
テーブルに置きっぱなしのような気がする……
(口座引き落としにしとけばよかったぁ……)
後悔先に立たずとはよくいったものである。
カード類も財布の中のため、今の彼女には何ひとつ買うことは
できない。
理々子はパンストを棚に戻すと、頭を抱えてコンビニを後にした。
(つまり会社のロッカーにある、予備のパンスト穿くしか
手はないってことね……)
店を出た理々子はさすがに少し足早になり、会社へと向かう。
考えてみればこういう時にかぎって、普段より短いスカートのスーツを
着てきていることに今さらながらに気づいた。
とにかく、早く会社に着かなくては……そう思って急いで歩いていく。
「野々宮主任!おはようございます!!」
後ろから若い男の声がして、理々子を呼び止める。
誰?と思い振り向く理々子。
「珍しいですね。いつもはもう少し早いでしょ」
同じ部署で一年後輩の若松祐二だ。
実は理々子は○×商事の営業部二課の主任職である。昨年昇格したところだ。
二十五歳の女性としては初めての昇格ということで、社内でも評判になった。
社内的にも社外的にもできる女として認知されており、仕事の鬼として
上司や取引先からの信頼も厚い。
美人でモデルなみにスタイルもよく、そして仕事もできる。
一見、非の打ち所のないように見える理々子だが、私生活ではどちらかと
いうと結構ドジだったりする。
食器を割るのは日常茶飯事だし、お湯を沸かそうとして空焚きをし火事に
なりかけたこともある……
その他ドジぶりを書き出すときりがないのだが、仕事上ではこういった
ことはしていない。本来のドジな自分を知られたくないという意識が働き、
他人に対して隙を見せないのである。
仕事以外のつきあいは極力さけ、他人とは少し距離をおいて接している。
だから今日のように財布を忘れても誰にも言わないだろうし、ましてや
駅のトイレでお漏らしをし現在ノーパンであるなどということが知れたら
マジで自殺を考えるかもしれなかった。
そんな理々子に唯一気軽に話し掛けてくるのが、この若松祐二なのである。
「き、今日の商談の書類の確認で、昨夜遅くなって少し寝坊したのよ…」
「へえ……主任でも寝坊するんですね。珍しい……」
そんな祐二の言葉に少し顔を赤らめる理々子。
「わ、わたしだって人間だから、少しくらい寝坊することもあるわよ……
さあ、無駄口たたいてないでさっさと歩く」
そういって先を急ぐ理々子だったが、次の祐二の言葉に氷ついてしまう。
「あれ、主任。生足なんですか?」