透明な悪魔  
   
   
 1  
   
 国語教師の神野一美が、調子悪そうにしているクラスの女生徒久保田香織に気付いた  
のは、授業終了まであと10分ぐらいのことだった。だから、  
(がんばって……)  
 と心の中で励ましていたのだが、かなりきつそうに見えたので、やはり保健室に行か  
せてやろうと思った。十分にかわいい部類に入る彼女は、涼しげな容貌でもともとクラ  
スでは目立っている。だからその時も放っておけない感じだった。  
   
 久保田香織は、正体不明の感覚に玩ばれていた。  
 スカートの奥の下着の、その中の柔らかな部分を得体のしれない指のようなものが這っ  
ている。最初は慌てて手で押さえ、それがまったく意味がないことに気付いて恐ろしく  
なった。自分の手がスカートの上から股間を押さえていてなお、その指のようなものは  
這っていたのだ。  
 
 一瞬授業中であることを思い出し、はっとなって手を離し、股間を押さえている姿を  
誰かに見られなかったかと周りを見渡した。  
 誰も見ていない。  
 そして、奇怪な感覚もいつの間にか消失していた。ほっとして授業に集中しようとし  
た瞬間だった。  
「えっ……、う、あああっ!!!」  
 股を引き裂かれるような激痛が全身を駆け抜け、反射的に身体が宙に持ち上がった。  
 自分で触れたことさえない身体の奥に巨大なものが侵入している。  
 その強烈な圧迫感が一瞬にして消え、と同時に香織は椅子の上に崩れようとしてバラ  
ンスを失なった。  
 香織の叫び声に顔を起こした生徒のうち、近くの席にいた何人かが駆け寄ろうと立ち  
上がる。その中、香織はリノリウムの床に叩き付けられようとして、寸前に男子生徒の  
身体が床と自分の間にすべり込むのを見た。  
   
 次に見たのは保健室の天井だった。  
 額に浮いた汗を拭い、身体を起こすと、そばについていたクラスメイトの男子がゆっ  
くり香織の方を見た。ニュートラルな眼差しにほっとする。  
 彼が自分を助けてくれたのだと、すぐにわかった。  
「冬川君」  
 普段あまり目立たないが、よく見ると結構綺麗な顔をしている、この冬川亮一という  
男子生徒に、香織はおそらく初めて自分から話しかけた。  
 
「助けてくれてありがとう」  
「いや、俺しか間に合わなかったし」  
 そう言って笑うでもなく、若干表情を崩す亮一に急に親しみを覚え、自分に起こった  
ことから目を逸らそうとおしゃべりをしようとしたとき、チャイムが鳴ってしまった。  
「もう一時間寝てた方がいいよ」  
 と言って教室に戻っていく亮一を残念そうに見送る。  
 同時に現実に引き戻される。  
 自分に一体何が起こったのか、身体にはっきりと残った痛みがいやというほど教えて  
くれていた。  
(いったいなんなの? どうして……こんなこと……)  
 香織は滅多なことでは泣かなかった。だから今も肩を震わせて奇怪な現実に耐えてい  
た。授業中でもいいから、亮一に戻ってきて欲しいと思った。  
 自分の内側に原因があるわけじゃないのがわかっていたので、三時限目には出席した。  
 そして次の恐怖に早くも出会った。  
   
 
 2  
   
 あと15分ほどで授業が終了する。  
 教室に戻る途中寄ったトイレで出血を確認していた香織は、それが気になっている。  
早くもう一度トイレに行きたい。  
 その時腸内に圧迫を感じた。  
(えっ……朝ちゃんとやってきたのに?)  
 便意を催しているとしか思えない感覚に、戸惑う。その圧迫感が、出現すると同時に  
急速に降下を始めていた。  
(や……だめ、だめっ)  
 懸命にお尻を締めて抗った。  
 そうすれば絶対に止まってくれるはずのものが、止まらなかった。同じスピードでお  
尻の穴をこじ開けて、それはさらに穴の半径を押し拡げていく。  
 恐怖の瞬間に、だが、なにも出ては来なかった。  
(??? ……なんなの……わかんない、わかんないよう……)  
 クマに襲われたりとか、痴漢に触られたりとか、経験したわけではないが、そういう  
ものと違ってありえないのが恐ろしかった。  
 なにも出てこないのに、香織のお尻は限界まで拡げられたままになっていた。  
 身体を震わせて耐える。  
 隣の席の友達や、流暢な英語を読み上げている先生に気付かれるわけにはいかない。  
 
 授業中に間違っても触ることの出来ない場所だ。どうにもならなかった。  
 ずっと拡がったままだった。  
 耐え切ってチャイムが鳴ると、礼もそこそこに、女子トイレに向かって走った。  
 拡がったそこに間違いなくあるモノの感触が、走る香織の、体内の複雑な動きにぐね  
ぐねと形を変え、苛んできた。  
 もう少しだ。トイレの一番奥のボックスに飛び込んで、死に物狂いで下着を下ろした。  
 そして、なにも出てこなかった。  
 もう気が狂いそうだった。  
 押し拡げているものは、なんなのか。震える指をお尻の方へ近付けていく。人さし指  
だけを立てて、ゆっくりとお尻の穴のあるところへ差し入れていった。  
 指に当たらない。  
 なんにも、当たらない。  
(なにもない……なにもな……なにも…………いや……)  
 拳が、ひんやりした自分のお尻に当たった。  
 ただ、拡がっているのだ。圧迫感だけがそこにある。怖い。  
 がたがたと、震えが止まらなくなり、便座の上から落ちそうになって身体を支える、  
反対の手も危うい。  
 そして、その時、不意にそれは消えてしまった。消滅してしまったのだ。  
 急速にお尻の穴が元の場所へ収束を始めていて、人さし指を食い締めようとしたので、  
慌てて指を引いた。そのあとおそるおそる、もう一度お尻を突いてみたが、なにもおか  
しなところはなかった。感覚が教える通りだ。  
 香織は途方に暮れてしまった。そうしてしばらく動けなかった。  
 自分はおかしくなってしまったのか。  
 
 
 3  
   
 昼食を食べる気にはなれなかった。  
 こんどこそ取り返しのつかない醜態をさらす羽目になるかもしれないのだ。水の一滴  
さえも許されないと思って香織は我慢していた。  
(こんなことを冬川君にもし知られたら、生きていけない)  
 いつのまにか、彼の事が頭の中を占め始めている。助けてもらったからだとは思うの  
だが、思い浮かべると、それだけとは思えない高揚感に胸が熱くなる。  
 不思議な気分だ。  
 こんな酷い目に遭わなければそんな気持ちにはならなかった。  
 だからなにに縋っても、悪夢のような今から逃れたい。  
 でも、どうすればいいのか、まったくわからなかった。  
   
 なすすべなく午後の授業が始まっていた。  
 先生の声は耳を素通りするばかりで、黒板に書かれた内容も知らない文字みたいで頭  
に入ってこない。  
 怯え、震えながら、何事もなくその授業が終わったのを知った時は、本当にほっとし  
ていた。  
(もしかしたら、もう大丈夫? でも……)  
 それにはなんの保証もない。授業はまだもうひとつあるのだ。  
 
 最後の授業、その半分が過ぎたころになると、香織は昼食を抜いた空腹感と精神疲労  
でぼんやりとしかけていた。頭の中には恐怖だけだったのが、終わりが見えてきた一日  
に別れを告げ、早く一人きりの部屋に逃げ込んでしまいたいという飢えに近い望みを抱  
いて、それだけを夢見ている。  
 一度大きく息を吐いて、大丈夫だと自分に言い聞かせようとした時だった。  
 少し開いていた口になにかが押し込まれていた。  
 考えなくてもわかった。なんの前触れもなく、そして抵抗は虚しく、香織の口はいっ  
ぱいに押し拡げられ、まるで大きなあくびをしているような顔になってしまって、慌て  
て香織は教科書で顔を覆った。  
 そのあまりに息苦しい状態に目を白黒させながら、なんとか周りの授業風景に溶け込  
もうと試み、さらに呼吸ができることを確かめた。下半身にも異常は起きない。  
 お昼に自分の身体に入っていたものと同じなのではないかという連想から、吐き気を  
催しかけるが、舌に重く載ったそれは、なんの味も匂いもしなかった。  
 なにかやわらかいものの気がしたが、形はしっかりしていた。  
 頭の中が真っ白になっている。  
 それ、がゆっくりと動いた。口の中いっぱいに拡がっていたものが、ほんのすこしず  
つ、じりじりと口の外へ向かって移動している。  
(あ……)  
 それにまとわりつくようになっていた香織の唾液が、唇の縁にこぼれかけていた。  
 教科書を落とさないようになんとか片方の手で拭った。  
 
 その時にもなんの感触もなかった。口の中はからっぽだと、確かめなくても思う。  
 移動するものの端が出ていくと同時に、すぐに口を閉じて強く引き締めた。  
 消滅するというよりは、口から抜け出ると同時にどこかに行ってしまった感じで、も  
うどこにもそれはなかった。  
 奇妙な感覚だった。  
 喪失感と言ってもいい。  
 かすかに名残惜しいと思ってしまって、羞恥で顔を赤らめそうになった。  
 ほんの少しでも、あんな得体のしれないものに気を許すようなことがあってはならな  
いのに。概ね退屈と言える日常に、刺激が欲しかった自分を思い出し、一瞬とはいえつ  
なぎ合わせてしまった。  
 だから悔しさがこみ上げてきた。  
 素敵な思い出もなにももらえないまま、ただ女になってしまった。  
 とぼとぼと帰宅の途につく頃にはそれのことを忘れて、空っぽになって歩いていた。  
   
 上水にかかった橋の上に恋しい同級生が立ちすくんでいた。  
 朝と変わらぬニュートラルな視線が心地よかった。  
 話し掛けようと近くに行って立ち止まる。  
 亮一が先に口を開いた。  
「処女喪失おめでとう」  
 驚く間もなかったと思う。  
 
「今日のところは一通り味見だけしてみたんだけど、思った通りだ。君は素晴らしい」  
 目を見開いて、亮一の使うわけのわからない言葉を懸命に解釈していく。  
「素敵だった。君はこれで僕のものになった」  
 寄せてきた唇が重なり、想像していた通りの柔らかい感触だと思いながら、香織は気  
が遠くなっていくのを感じた。  
 抱き締められて唇を開かれ、舌を舐め上げられ、下半身の二つの穴が同時に拡がって  
いくのは錯覚でもなんでもないのだと思う。  
 でも、なにもかも目を覚ましてから考えるのだ。  
 
 
 
了  
 
 

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