この世に神様がいるとしたら、私の事など見守ってはくれないのだろうか。
──どうしよう……。
泣いてしまいたくなった。
せっかく笹野先生が貸し出してくれたのに、こんなあっけなく役目を終えてしまった。
呆然としていても始まらない。私はまだ濡れていないところを抓んで持ち上げた。
ぽたぽたと汚水が垂れる。汚物入れに捨ててしまおうかとも思ったが、これも学校の備品
なのだし、勝手に捨てるのはまずいだろうと思い止まる。
洗って返すべきなのだが、どうやって──
今なら、トイレには誰もいない。他の個室も空いていたし、私が用を足している間に
誰かが入ってきた様子も無い。まだ昼食を摂っている子がほとんどだろう。
──今のうちに……。
私は、水の滴るショーツから少しでも水分を抜こうと、ロールペーパーで拭いてみた。
雫が垂れる事はなくなったが、それでもかなりの汚水を吸っている。
──自分のおしっこでも……やだなぁ。
それに、一年生だけでも、百何十人もの女子生徒がいるのだ。そんな大勢の排泄物を受け
止める便器に落ちたものを、素手で洗わなければならないと思うと気が滅入る。
──洗った後、どうしよう……。
しっかり絞っても、湿ったまま穿くなんて考えられない。どこかに干せるわけもないし、
机の中や鞄の中に仕舞うのは問題があるだろうし──
──あ、あるじゃん。
体育は水泳だったのだ。水着やタオルを入れるバッグなら、濡れていても平気だ。
しかし、絞ったショーツを教室まで持っていかなければならない。小さく丸めても、
私の手にすっぽり収まるほどにはならない。
──ハンカチで包めば……。
教室まで行く間なら、ハンカチで包み、ポケットに入れておいても、スカートまで染みる
事はないかもしれない。
──うん、そうしよう。
急いで水を流し、誰かがいきなり現れない事を祈って個室を出た。
大丈夫だ、誰もいない。
私は洗面台に駆け寄り、蛇口を捻った。ハンドソープを少し出して、ショーツに染み込ま
せる。ばしゃばしゃと音を立てながら、さっと洗う。
──誰も来ないで、お願い……。
願いも虚しく、複数の女子生徒がトイレへと入ってきた。
──気づかないで、ほんとに、お願いだから!
大丈夫、気づきはしないはずだ。じっと見られない限り、私がショーツを洗っているなど
とは思われないだろう。ハンカチかタオルでも洗っているのだと思うだろう。
彼女たちは何やら話しながら私の後を通り過ぎ、それぞれ個室に入っていった。
──よかったぁ……って、また来たぁっ。
安堵するのも束の間、また別の女子生徒が現れる。私は身体を屈め、手元が見えないよう
にする。
その子もまた、こちらの事など気にも留めずに個室へと入っていった。
もし私が洗っているのがショーツだと判れば、私が粗相をしたのだと思われてしまう
かもしれない。中学生にもなって、トイレを我慢できない、恥ずかしい子だと思われて
しまうかもしれない。
小さい方ならともかく、大きい方だと思われたらもっと大変だ。そんな噂が広まったら、
私は今まで以上に肩身の狭い思いをしなくてはならないだろう。
──スカトロ……。
そんな言葉が浮かぶ。
世の中には排泄物で性的に興奮し、欲情する人たちがいるという。ただ見るだけでなく、
互いの排泄物を掛け合ったり、頬張ったりする事もあるらしい。汚物と悪臭にまみれて
恍惚を得るのだそうだ。
そんなもののどこが良いのか解からないが、性的な嗜好も十人十色なのだろう。私だって
人の事は言えない──校内だというのに羽山君に責められ、保健室では自慰もしてしまった。
同性の笹野先生にも──
水泳が終わってから、いろいろ起こりすぎて感覚が麻痺してしまいそうだった。
これだけ濯げば大丈夫だろう。ショーツをぎゅっと絞る。あまりきつく絞ると型崩れして
しまうかもしれないが、そんな悠長な事は言っていられない。ショーツをハンカチで包み、
スカートのポケットに押し込んだ。嵩張るが仕方が無い。
私は結局、さっきまでと何も変わらない心細い姿のまま、教室へ戻る事になった。
しかし、誰にも気づかれずにバッグに入れるにはどうすればいいのだろう──
結局良い案は何も浮かばない。羽山君に助けられたて喜んだのも束の間、こんな事に
なってしまうとは思いもしなかった。
迂闊な自分を悔やみながら、私は教室へ戻った。
何人かの生徒がちらちらと眼を向けてくる。あいつやっぱりノーブラだ、と確認されて
いるようで恥ずかしい。
私が羽山君に──階段で、保健室で、彼に責められた事を、みんなが知っているのでは
ないかと思ってしまう。
だとしたら、私はどう思われているのだろう。学校で身体を弄ばれ、刺激に身を震わせ
ている淫らな子だと思われているのだろうか。だから金森は私に襲い掛かって──
ふと気づく──あいつの姿が見えない。私のすぐ後が金森の席だが、小太りの身体が
見えなかった。もちろん教室の入り口で横たわってもいない。
クラスメイトたちの面前で私を──犯そうとしたのだろうか。理性が切れて我を忘れて
しまったのだろうか。あの時の金森の眼は、狂気に満ちていて、とてもまともな人間の
ものとは思えなかった。
でも、羽山君が助けてくれた──
──あれ? いない……。
羽山君の姿も見えない。金森を職員室にでも連行していったのだろうか。それにしては、
クラスの雰囲気がいつもと大差無いように思える。それとも、私がいない間に彼らの興味
は他へ向いてしまったのだろうか。
自分の机の上には、数学の教科書とノートが開かれたままになっていた。
席に着いてそれらを仕舞う。
──今なら……。
ポケットに手を入れる。
みんながまだ食事をしている間に、水泳のバッグにショーツを入れてしまおう。みんなが
食事と雑談に夢中でいる今なら、きっと気づかれない。
ポケットの中で握り、なるべく不自然にならないようにそっと引き出す。
──机の下だし、大丈夫。
そう言い聞かせて身を屈め、バッグの口に手を伸ばす──
「柏原さん、大丈夫?」
──ッ!
慌てて手を引っ込めた。
いつもは話し掛けてくることの無い、斜め前の席の少女がこちらを向いていた。
──こんな時に……。
「あいつ、どっか行っちゃったけど」
「え?」
「金森。みんなに笑われて、顔真っ赤にして出てったよ」
ショーツを握った手を机の下にしたまま、身体を起こす。緊張して目を合わせられない。
「ほんとに、大丈夫?」
「別に……平気だけど」
「そう? でも驚いたぁ。あんな事するなんてね」
私が素っ気無いのはいつもの事だが、今はいつも以上に気の無い声に聞こえるだろう。
彼女は、私がショーツを握っている事に、気づいてはいないようだ。だが、このままでは
いずれ気づかれてしまう。握ったままでいるわけにはいかない。
「なんかふざけて、って感じじゃなかったじゃん」
「あいつおかしいって思ってたけど……ねぇ?」
彼女と一緒に弁当を食べていた他の子たちも混じってくる。
「あいつ絶対そのうちこういう事すると思ってたよ」
「だよねー。将来絶対あれ、レイプとかして捕まるって」
「えー、犯人の金森竜介は、中学時代、教室でクラスメイトの少女に乱暴を働こうとした事
があります。その時は、別の男子生徒が止めに入って事なきを得ましたが──」
「また始まったよ、千華のワイドショーごっこ!」
「ええ、はい。驚きませんでした。あの人ならきっとやると思っていました──彼を知る
同級生の女性は、そう語ります──」
「あははっ、ありそー!」
「お前らレイプとか何言ってんだよ」
「うるさいなー、関係ないじゃーん」
「つーか誰がお前らなんか襲うんだよ」
「ちょっ、失礼な!」
盛り上がる彼女らの話に、近くにいた男子までもが加わって、私は眩暈すら覚えていた。
これでは、ショーツをバッグに仕舞う事などできそうもなかった。
大勢の生徒たちがこちらを見ている中では、ポケットに戻すのも難しい。
──机の中なら……。
自分の身体もあるし、気づかれ難いだろう。ショーツを入れては、教科書やノートまで
湿ってしまうかもしれないが──他に手段が無い以上、どうしようもなかった。
気取られぬように机の中に手を入れ、一番奥にショーツを押し込み、直接触れないように
位置を工夫する。
──大丈夫、誰も気づいてない……。
「羽山君すごいよねー」
唐突に彼の名前を耳にして、びくっと震えてしまう。
助けてくれた彼は──たとえその相手が私なんかでも、彼女らにとってみればヒーロー
のようなものなのだろう。
「ほんと! やっぱりかっこいいよ〜」
「あれ、なにしたの? あたしよく見えなかったけど」
「蹴ったんだよ、キックキック! すごかった〜」
「喉に爪先めり込んでたよな。追い討ちのローキックもすげー」
「あいつ何者だよ?」
「あんたらとは大違いだね」
「うっ、うるさいなぁ!」
「なんにもできなかったくせにー」
「ねー。男の癖に女子も助けれないなんてさー」
「べ、べつに、柏原なんか──」
どうなってもいい、助ける必要なんかない──とでも続けるつもりだったのだろう。
だが、さすがに、一応は被害者である私を前に、言い澱んだのだろう。
「つ、っつーか、あいつはどこ行ったんだよ」
「そうそう、リュウどこ行ったん?」
「知らないよそんなの、どーでもいいじゃん」
確かにどうでも良い。そんな事より──こんな格好でいるのが嫌だった。
いつもなら私などに構いもしない子たちが、私の周りで盛り上がっている。囲まれている
わけではないし、皆が私を見ているわけでもない。
それでも、ブラを着けていない、ショーツも穿いていない時に、すぐ近くに人がいると
思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
きっと何人かの生徒は、私の胸を見ているのだろう。いくら羽山君のタンクトップがある
といっても、ブラジャーほどには隠してくれない。
そう意識すればするほど、身体が火照り、スカートに直に触れている秘処までもが、熱く
潤ってくるような気になってしまう。
ブラを着けていないのは、もうみんなに知られてしまっている。どうしようもない。
だが、ショーツはまだ知られていないはずだ。気づかないで欲しい。お願いだから気づ
かないでもらいたい。
そのためには、私は極力平静を装うのが良いのだろう。胸を見られてもそうと意識せず、
いつもの事だと思っていれば良い。そう、いつもの事なのだ。
いつもはブラを着けていて、今は着けていない、それだけの違いだ。たったそれだけの
違いなのだ。
けれど、その違いは、あまりにも大きすぎる。ほとんど膨らんでいなければ──小学生
の頃、まだ胸が膨らむ前は、こんな気持ちにはならなかった。
いや、小さければ小さいで、早く大きくなりたいと思うのかもしれない。実際、ほとんど
胸が膨らんでいない子が、そう言っているのを聞いた事もある。
大きくたって良い事なんて無いのにと思っていたし、今もそう思う。
──でも、羽山君は好きだって言ってくれた……。
それがせめてもの慰めかもしれない。
いや、しかし──もし私の胸が平均以下だったなら、きっとこんな目に合う事は無かった
のだろう。けれど、もしそうだとしたら、羽山君から好かれる事も無かったのだろうか。
──こんな事考えても、意味ないか。
周りにいる子たちは私の話題から離れ、好きなアイドルグループの話や、ファッションの
話へと変わっていた。安堵するとともに、空腹感が込み上げてきた。
バッグから弁当を取り出し、机の上に広げる。仕事で忙しい母親が作ってくれる弁当は、
いつも朝食とほとんど同じメニューだった。
心の中で手を合わせ、いただきますと呟いてから食べ始めた。
ふと思う──食べ終わった弁当箱に、洗ったショーツを隠すというのはどうだろう。
ダメだ──私は即座に否定する。トイレに落とした下着なんて、入れるものじゃない。
ひとつ大きな溜め息をついて、梅干しを口に運んだ。強い酸味が心地好かった。