──恥ずかしい……。  
 歩くと乳房が揺れる。ブラウスとタンクトップに隠れてはいるものの、ぷるぷると震えて  
いるのは誰の目にも明らかだ。  
 スカートを捲れば晒されてしまう秘処はとろとろに濡れている。  
 それどころか、ぬるぬるとした感触は内腿にまで伝わってしまっている。スカートの中の  
空気が揺れ、ひんやりと感じられる。  
──垂れちゃったらどうしよう……。  
 更衣室を出て、擦れ違う三年生たちの奇異の視線に耐えながら校舎に入った私は、  
一階のトイレへと急いだ。  
 空調の涼しい風が、腿に伝う雫をいっそう意識させる。  
──急がないと……。  
 早足に進むが、胸が激しく揺れて刺激されてしまい、雫がさらに溢れ出す。  
 学校でこんなにもそこを濡らしてしまっている自分は、なんて淫らなのだろうと思う。  
 三年の男子たちの下品な会話を聴きながら、クラスメイトに身体を許し弄ばれる自分を  
妄想していた私は、なんといやらしい女の子なのだろう。  
 羽山君に責められ、保健室で自慰をしてしまい、笹野先生にもされておきながら、今も  
また熱く潤ませてしまっている。  
 ドアを挟んでいたとはいえ、向こう側には三年生の先輩がいたというのに、乳房を揉み、  
乳首を抓んでしまった。スカートを捲り上げ、雌蕊に指を伸ばしてしまった。  
 ブラを着けていない事が、クラス中に知れ渡ってしまった。保健室に現れた三年生にも  
気づかれていた。今頃は、より多くの生徒たちに、私の噂が広まっている事だろう。  
 数人の生徒や教師と擦れ違う。彼らの全てが、私がブラをしていない事を知っているの  
ではないかと思ってしまう。  
 それどころか、ショーツも穿いていないのだと気づかれ、スカートを捲り上げられて  
しまうのではないかとまで思ってしまう。  
 淫らな気持ちが抑えられない。いやらしい事ばかりが浮かんでしまう。  
 恥ずかしいのに、恥ずかしさが身体を熱くしてしまう。  
 乳房が揺れて生地に擦れた突起が、もっと刺激して欲しいと言っているようだ。  
 スカートの下の剥き出しの秘処が、自分も刺激して欲しいと言っているようだ。  
 今ここで、乳房を揉んでしまったらどうなるのだろう。  
 下から持ち上げるように、大きな乳房を強調させてしまうのだ。ブラウスに浮き上がった  
乳首を抓み、くりくりと指で転がすのだ。  
 スカートを捲って、秘処を露にしてしまったらどうなるのだろう。  
 制服のスカートを持ち上げて、とろとろになったそこを露出させてしまうのだ。指を伸ば  
して蕾に触れ、びくびくと身体を震わせながら嬌声を上げるのだ。  
──廊下でそんな事……。  
 生徒や教師が歩いている廊下で、こんな想像をしてしまうなんて──  
 身体中が熱く火照り、タガが外れてしまいそうだった。  
 そんな事になってしまう前に、理性を保っていられるうちにトイレに入らなければ──  
 あとほんの数メートルの距離が、永遠にも感じられる。  
 行き交う生徒に、ちらりと視線を向けられただけで、びくんと震えてしまう。そんな視線  
ですら、私の身体を刺激する力になってしまっている。  
 もし今私が教室にいたのなら、三十七人七十二もの視線を浴びて、全身を震わせて達して  
しまうのではないだろうか。だらだらと涎を垂らしながら、淫らな露を滴らせ、びくびくと  
四肢を痙攣させて──  
 ふらふらと歩きながら、ようやくトイレの前に辿り着いた。  
 一階のトイレは普段あまり使われていない。壁に手をつきながら一番手前の個室へ入る。  
 早くこの淫らな気持ちを拭き取ってしまわなければならない。  
 ロールペーパーを三十センチほど引き出す。折り畳んで右の掌に乗せ、左手でスカート  
を捲って和式の便器を跨ぐと──  
 ぴちゃ、と小さな音が響いた。  
──垂れちゃった……。  
 こんな事は初めてだった。  
 そこから溢れた淫汁が脚の付け根を濡らす事はあったが、零れ落ちるほどになった事など  
初めてだった。  
 つまり、私がそれほどにまで淫らになっているという事なのだ。  
 無意識に──  
 掌に乗せたペーパーごと右手でスカートを握り、空いた左の指を伸ばしてしまう。  
「ひゃぅっ!」  
 触れた瞬間、驚くほど大きな声が出てしまった。  
 
 冷や水を浴びせられたように身を縮めた。  
 自分の発した嬌声のおかげで、理性が戻ってきた。  
 淫らな気持ちがすっかり消えてしまったわけでもないが、判断力が持ち直しただけでも  
よしとするべきなのだろう。  
 耳をそばだて、周囲を窺う。  
──大丈夫、誰もいない……。  
 トイレの中に人の気配は無かった。あまり使われない一階のトイレでよかった。ここが  
各学年の教室のある二階から四階までのトイレだったら、きっと今の声は誰かに聴かれて  
しまっていただろう。  
 そんな事にならなっていたら──  
──ダメダメ、また変な事考えちゃう。  
 くしゃくしゃになったペーパーを内腿へと当てて雫を拭う。  
 便器に落として、もう一度ペーパーを引き出した。  
 自分のものとは思えないほどに濡れそぼった秘処を、丁寧に拭ってぬめりを取る。  
 火照った身体はペーパーの刺激に反応してしまう。  
 ぴくぴくと震えてしまうが、刺激に身を任せてはいけない。  
 しかし、拭っても拭っても溢れてくる。  
 いっそこのまま最後まで達してしまえばと思ってしまう。  
──流されちゃダメ……。  
 そんな気持ちをなんとか堪え、痛みを覚えるぐらいにまで拭い取った。  
──ひりひりする……。  
 こすりすぎて粘膜が炎症を起こしてしまったかもしれない。  
 じんじんと痛むが、これ以上淫らな気持ちになるよりはましだった。  
 積み重ねられたくしゃくしゃのペーパーと一緒に、そんな気持ちが流れていってしまえば  
いいと思いながら、流水レバーを下ろした。  
 スカートを調えてドアを開けると、チャイムが鳴った。  
 五時間目が始まってしまったようだ。  
──次は、たしか……。  
 国語だった。  
 担当の教師は、杉山──  
 線が細い割に角張った印象を受ける杉山という男性教師は、見た目通り融通の利かない  
性格のようで、授業時間をオーバーして休み時間を潰してしまう事がしばしばあった。  
 当然、生徒からは疎ましがられ、まだ二十代半ばと若いこともあって、陰では新米や素人  
などと、あまり好ましくない呼ばれ方をされていた。  
 杉山はもう教室にいるだろう。いつも、チャイムとほぼ同時にやってくる。  
 遅れて教室に入ったら、なんと言われるだろう。  
 水谷のように粘着質ではないし、ねちねちと責められる事も無いとは思うが──  
 授業中の教室に一人で戻れば目立ってしまう。  
 クラス中に知られてしまっているし、またみんなに見られるのは恥ずかしい。  
──それに……。  
 ブラウスに突起が浮かんでいる。  
 また淫らな気持ちになってしまうかもしれない。  
 三年男子の先輩たちの言葉──クラス中の性奴隷にされてしまう私の姿が甦る。  
 考えてはいけないと解かっているのに考えてしまう。  
 きっと、私が淫らな子だからなのだ。  
 普通の子はこんな想像なんてしないだろう。好きな男の子との関係は妄想したとしても、  
好きでもない男子たちに身体を弄ばれる想像なんて、誰がするというのだろう。  
 ブラも着けず、ショーツも穿かずにクラスメイトの前に出るなんて、そんな子は私以外に  
いないだろう──  
 洗面台で手を軽く流す。  
 気が滅入る。またこんな格好のままで教室に戻らなければならないのだ。  
 私は更衣室へ何をしに行ったのだろう。擦れ違う生徒たちの視線に晒され、先輩男子たち  
の下らない猥談に身体を火照らせただけだった。  
 私の下着は、彼女らのうちの誰かのバッグに仕舞い込まれているのだろうか。  
 だとしたら、誰のバッグだろうか。  
 楠井舞香──だろうか。彼女は私と同じ小学校の出身で、その頃から私への嫌がらせを  
していたのだ。きっと恨みも深いだろう。  
 脇田千穂だろうか。彼女はグループのリーダー格だし、クラスでも発言力がある。彼女を  
敵に回す事は、クラス全体を敵に回すに等しい。  
 それとも、木嶋深雪だろうか──  
 
 いっそ彼女たちに声をかけてみるのも良いかもしれない。  
「私の下着を隠したの、あなたたちでしょう?」  
 そう言ってしまいたい。  
 彼女らはどんな顔をするのだろう。  
 きっと──嘲笑われて、逆に辱められるのが落ちだろう。  
 私一人ではどうしようもないのだ。  
 助けてくれる人など──  
──羽山君なら……。  
 彼なら、助けてくれるだろうか。  
 羽山君の言葉になら、彼女らは素直に従うのだろうか。  
──羽山君に頼るのはダメだよね……。  
 確かに彼はさっき、金森から助けてくれたが、また助けてくれるという保証は無い。  
 私は彼に酷い事をしたのだ。  
 さっきはきっと、金森の暴挙を止めようとしただけなのだろう。押し倒されたのが私で  
なくても、羽山君なら止めに入っていただろうから──  
 蛇口を閉めて水を止める。  
 手を拭こうとして、ハンカチが保健室で借りた下着ごと机の中なのを思い出した。  
 ぷるぷると手を振って水気を飛ばす。  
 手を振るたびに、胸も揺れてしまう。  
──なんでこんなおっきいんだろ……。  
 この濡れた手で、ブラウスの上から乳首を抓めば、透けてしまうかもしれない。急に降り  
出した雨に濡れ、制服がぴったりと張り付いて透けてしまった事があった。その時はブラを  
していたからまだ良かったが、今はきっと、鳶色に透けてしまうのだろう──  
──またこんな事……。  
 頭を二、三度振って溜め息をついた。  
 考えても仕方が無いのだ。私はこのまま教室へ戻るしかない。  
 そう思って廊下に出ようとした時、外からぺたぺたとだらしない足音が聞こえてきた。  
 くたびれたスリッパでも履いているのか──五時間目の授業へ向かう教師だろう。  
 人がいるとなると、躊躇してしまう。  
 その足音が不意に止まった。  
「お〜い、お前そこでなにしてんだぁ?」  
 低くて太い間延びした声だった。聞き覚えはあるが名前が思い出せない。  
──私の事じゃなさそうだけど……?  
 他に誰がいるのだろう。廊下から人の気配は──  
「ちょっと、クラスメイトを待ってます」  
──今の、声って!?  
 すぐそばから聞こえた声は、耳に馴染んだ声だった。  
 落ち着いた調子の、よく通る澄んだ声色──顔が脳裏に浮かぶ。  
「すぐ教室に戻りますから」  
──やっぱり……。  
 間違えようが無い。  
 羽山君の声だ。  
「おぉ? もう授業始まっとるぞぉ」  
「はい」  
「急いで戻れよぉ。でも、廊下は走るなよぉ〜」  
 教師は、羽山君を咎めるでもなく、のんびりした声で言った。  
「はい、走らず急ぎます」  
「階段は気をつけろぉ。転ぶと痛いぞぉ〜」  
「はい、転ばないように気をつけます」  
「おう、じゃあなぁ〜」  
 ぺたぺたという足音が外を通り過ぎてゆく。  
 羽山君が動いた様子は無い  
 私はぺたぺたが遠ざかるまで待って、トイレを出た。  
 そこにいたのは、やはり羽山君だった。  
 羽山君がわずかな微笑を浮かべて私を見た。  
「長かったね」  
「えっ……」  
 妙な想像をされているのではないかと思ってしまう。  
 彼がいつからそこにいたのかは判らないが、もし私がトイレに入った時からいたのだと  
したら──  
 
──聴かれちゃった……?  
 そこに触れたときに漏らしてしまった声──  
 トイレが長かったという意味ではなく、その声から想像される行為が長かったと──  
──そんな……。  
 彼は、内心を読ませてくれない笑みを浮かべたまま、私を見ている。  
 どういうわけだか、眼が逸らせない。  
 恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまうのに、私は彼の瞳から視線を逸らせない。  
 彼の微笑みが私の心を惹き止めて離さない──  
 くすりと彼が笑った。  
「冗談」  
「え……?」  
「ちょうど俺しかいなくて良かった」  
 それは──  
「可愛かったよ、声」  
「──ッ!」  
──やっぱり、聴かれてた……。  
 羽山君に聴かれていたのだ。  
 触れたときに出てしまった声を。  
 そんなにも大きな、廊下にまで聞こえるような声だったのだ。  
「わ、私……して、ない……から」  
 私は何を言っているのだろう。  
 勝手に言葉が出る。  
「ちょっと、だけ……ちょっと、触ったら、声が……」  
 しなくてもいいのに、言い訳をしてしまう。  
「勝手に、出ちゃったの……変な声……」  
 私の他には彼しかいないといっても、ここは学校の廊下なのだ。  
 そんなところで、私は何を言ってしまっているのだろう。  
 自分で自分が解からなくなる。  
 ふふっと笑った彼の右手が、すっと持ち上がった。  
 首を竦ませた私の頭に、ぽんと乗せられた。  
「触っちゃったんだ?」  
「ちょっと、だけ……すこしだけ……当たっただけ……」  
 頭を撫でられる。  
 親に責められている小さな子供のようだ。  
「してもいいのに」  
「え……えっ?」  
 気が付けば、彼の左腕で腰を抱かれてしまっている。  
 咄嗟に身を縮ませると、ぐいと抱き寄せられ、彼の肩口に顔を押し付けてしまう。  
「胸、柔らかい」  
「あっ、や……」  
 彼の右手が私の首にふわりと巻きつき、優しく抱き締められる。  
 幻ではない。  
 彼はまた、私のもとに現れてくれた。  
 私は彼を突き放してしまったのに、彼の差し出してくれた手を払い除けてしまったのに、  
彼は教室で私を金森から助けてくれた。  
 今、どうして彼がここにいたのかは解からないが──  
 彼の体温が布越しにはっきりと感じられる。  
「こうされるの、嫌?」  
 耳元で囁く彼の言葉が、私の心を揺るがせる。  
「……嫌じゃ、ない」  
「こういう事も?」  
 腰に回された彼の手がするすると下がり、スカートの上からお尻に触れた。  
──ここ、廊下なのに……。  
 ぴくんと震えてしまう。  
 小さな丸みを確かめるように、ゆっくりと撫でられる。  
 首に回された手が髪を撫で、耳たぶをくすぐられる。  
 ぞくぞくと震えて、私もまた、彼の身体に腕を回してしまう。  
 私には、彼のようにストレートに大胆に抱く事はできないが──  
 おそるおそる腰を抱き、ワイシャツをきゅっと握った。  
 いつまでもこうしていたいと思った。  
 
「パンツ、まだ穿いてないんだ?」  
 スカートの下にショーツの感触が無いのに気づいたのだろう。  
 彼はきっと、私が保健室でショーツを借りたと思っていただろう。それなのに今の私は、  
相変わらず下着を身に着けていない。  
「う……うん」  
「借りられなかったの?」  
「借りた……けど……」  
「けど?」  
──恥ずかしい……。  
 便器に落としてしまったなんて──  
 彼のワイシャツを握る手に力が篭もる。  
「わ、私……」  
「うん?」  
 頭を撫でられる。  
 お尻に触れていた手は、腰に戻っている。  
 彼の身体が温かい。  
「私、せっかく、借りたのに……」  
 言いたくない。便器の中に落としてしまったなんて、馬鹿みたいではないか。  
「ごめん、なさい……」  
「なんで謝るの?」  
 彼が私の耳元で苦笑した。  
「だって……」  
「ノーパンが癖になった?」  
「そんなっ──!」  
 そんなわけない。癖になるなんて──  
 でも、ほんとうにそう言えるのだろうか。  
 下着を盗られて以来、ずっと淫らな気持ちに囚われている私は、ほんとうはこの状態を  
望んでいるのではないだろうか──  
 そんな事は無いはずなのだが、違うのだと言い切れない。  
「冗談」  
 彼がぎゅっと私を抱き締めた。  
 どこまで本気なのか解からない。  
 けれど、このぬくもりは本物に違いない──  
「パンツ……」  
「うん?」  
「落としたの……トイレに」  
「トイレに?」  
「うん……トイレに落としちゃって、穿けなくなって……」  
「……そっか」  
 髪を撫でられる。  
 ほんのりと香る彼の汗の匂いが心地良い。  
「ドジだなぁ、夕菜は」  
「う、うぅ……」  
 くすりと笑う羽山君。  
 笑われて恥ずかしいのに、名前で呼ばれて嬉しい。複雑だった。  
「これからどうしようか」  
「え?」  
「教室戻ったら、またみんなに見られちゃうだろ?」  
「……」  
 自分で解かっていても、改めて言われると、余計に意識してしまう。  
 またクラスメイトの視線に耐えなければならない。  
 授業中に、よからぬ妄想に耽って身体を熱くしてしまうかもしれない。  
 ショーツの無いままで、さっきのように零れるほどに潤ませてしまっては、スカートに  
大きな染みを作ってしまいかねない。  
 そんな事になったら、席を立つことすらできなくなってしまう。  
「見られたい?」  
「えっ──」  
「見られて、感じちゃうんでしょ?」  
──そんなっ、そんな事……。  
 彼の手が、スカートを捲ってゆく。  
 
 午後の授業が始まり、周りには羽山君と私以外に人の気配はない。  
 だが、ここは一階の廊下なのだ。ほぼ東西の方向に延びた校舎の、百メートル近くも  
続いているまっすぐな廊下なのだ。  
 そんなところでスカートを捲られてしまう。  
 スカートの下には、肌を隠すものが何も無いのに──  
「は、羽山君……」  
「大丈夫、誰も見てない」  
「でもっ」  
 正面から抱き締められている私には、自分の後ろ側はまったく見えない。彼がそちらへ  
と注意を向けているであろう事が解かっていても、不安で身体が震えてしまう。  
 彼は、ふふっと笑って手を止めた。  
「エッチな気分、続いたままなんだね」  
「そんな……」  
「あのあと、保健室で何があったの?」  
「えっ──」  
 羽山君の気持ちを踏み躙り、独り保健室に残った私──  
 彼を想って自慰をしてしまった。  
 笹野先生に責められ、達してしまった。  
 それを説明するなんて──  
「夕菜、昼休みになるまで戻ってこなかった」  
「……」  
「笹野先生に、されてた?」  
「──ッ!」  
──気づかれてた……?  
 いや、違う──  
 彼の耳にも、笹野先生の噂は届いているだろう。生徒を喰っている──更衣室の前で  
三年の先輩たちが話していた事からも、その噂は事実なのだ。  
 もしかしたら、羽山君も彼女と──  
「俺もされそうになった事あるよ」  
 なった事ある──けど、しなかった、という事なのだろう。  
 彼は私を責めた時、その手の行為は知識だけだと言っていた。  
「笹野先生の噂、知ってるでしょ?」  
「……うん」  
「夕菜は、されたの?」  
「わ、私は……」  
 されてしまった。彼女の指に身体を震わせ、達してしまった。  
 でも、それを彼には言いたくない。好きな人を目の前にして、そんな事をされただなんて  
とても言えない。  
「夕菜──」  
 彼の両手が私の肩を掴み、正面から向き合う。  
 羽山君のいつもと変わらぬ微笑が、私の眼を捕らえて離さない。  
「夕菜は、可愛いなぁ」  
「羽山君……」  
 見つめられるだけで、くらくらしてしまう。とろけそうなほどの穏やかな視線──  
 吸い込まれそうになって、眼を開けていられない。  
 刹那、唇が──  
「んっ……」  
 温かくて柔らかい。  
──キス……こんなとこで……。  
 ちゅっと音を立てながら、彼の唇が触れては離れ、離れては触れを繰り返す。  
 小鳥が木の実を啄ばむように──  
 ふらふらとよろめきそうな私を、背中に回された腕が支えてくれる。  
「んっ、んぅ……」  
 ミントの香りが口に広がる。彼の舌が、私の唇を割って侵入してきた。  
「んぅ……ふぁ」  
 くちゅ、と小さな音がした。  
 彼の舌と、私の舌とが触れ合う。  
 肩と腰を抱かれ、逃げる事は叶わない。  
 いや──私には逃げる気など無い。  
 自ら、彼の舌を求めてしまっていた。  
 
 二人の舌が絡み合う。  
 彼はまだ私を想っていてくれた。  
 あんな風に突っ撥ねてしまった私を、こうやって抱き締めて、深いキスをしてくれる。  
 私はなんて愚かだったのだろう。  
 彼はこんなにも私を想ってくれていたというのに──  
 自分の事ばかり考えて、彼を信じられなかった。今まで彼が助けてくれた事が無いから  
といって、保身に走ってしまった自分が情けない。  
 私だって──  
 他の男の子たちとは違う雰囲気をもつ彼に、一方的に密かな想いを密かに抱いていた  
だけだったではないか。気持ちを表に出さずとも、彼に手助けした事など一度も無かった  
ではないか。  
 いくら彼が優秀で抜きん出ていると言っても、同い年の男の子なのだ。彼にだって、でき  
ない事はいくらでもある。  
 さらりと受け流してしまうが、彼もからかわれる事があったし、上級生や、たちの悪い  
教師から無理難題を吹っかけられる事もあった。  
 それを見ていた私は、彼になにかしただろうか──  
 なにもしてはいない。  
 自分には関わりが無いと、眼を逸らしていたではないか。  
 なのに、自分の事を棚に上げて、彼にはそれを求めるなんて。  
──私、やっぱり自分勝手だ……。  
 頭の中で、くちゅくちゅと響く音が不意に止んだ。  
「どうした?」  
 唇が離れ、眼を開けると、彼が心配そうに覗き込んでいた。  
 頬を伝う感触──  
 涙だった。  
「夕菜?」  
 伝い落ちる雫を、彼の指がそっと拭う。  
「羽山君……」  
「うん?」  
 彼に謝らなければ──  
「保健室で、私……ごめんなさい」  
「夕菜──」  
「私、羽山君に助けてもらって……なのに、私……」  
 眼を逸らしてしまいたい。  
 でも逸らしてはいけない。  
 彼の眼を真っ直ぐに見ながら言わなければ、嘘になってしまうような気がした。  
「ごめんなさい、羽山君。私……」  
 彼は黙って私の眼を見つめ返している。口元に、ほんのわずかな笑みを湛えて。  
「私、自分が可愛くて、羽山君を、傷つけた」  
「……」  
「だから……ごめんなさい」  
 彼が眼を伏せる。  
 ゆっくりと瞼が閉じられ、少しだけ首を傾げ、眼を開いた。  
「俺、すごくショックだったな」  
「──ッ!」  
 身体中の血液が、一瞬にして凍りついたようだった。  
 彼の腰にまわしていた腕が、ずるずると落ちてゆく。  
「夕菜は俺の事、好きなんじゃないかなって思ってた」  
 抑揚の無い声だった。  
 私は顔を伏せた。  
 彼の言葉を正面から受ける事なんてできなかった。  
「階段であんな事したのに、本気で抵抗されなかったし……いや、それ以前から、夕菜が  
俺の事を好きなんじゃないかって思ってた」  
 淡々と続ける彼。  
 ここから逃げ出したい。  
 けれど、脚が竦んで動けない。立っているだけでやっとだった。  
「保健室で胸まで見せてくれた時、やっぱりそうだったんだって思った」  
 聞きたくない──  
「なのに、あんな事言われて──」  
 彼の言葉をこれ以上聞いたら、私は──  
 
「……ごめ……なさ……」  
 俯いたまま、だらりと下げた両手を握り締めて言った。  
 かすれて、声にならなかった。  
「ごめんなさい……」  
 もう一度言った。  
「夕菜──」  
 彼の声が、耳元で──  
 私は、抱き締められていた。  
「俺の話、まだ途中だってば」  
「羽山君……?」  
 声色が、変わった。  
「ここからがいいところなんだからさ」  
 凍りついた私の身体を優しく解かしてくれるような、冗談めかした声音だった。  
「あんな事言われてさ、俺、ショックだったんだよ」  
 彼の手に、髪を撫でられる。  
「ああ、俺は失恋したのかな、って」  
 口元に浮かんだ笑みは──自嘲、だろうか。  
「それで、気づいた」  
 髪を撫でていた指が、すっと頬に触れた。  
「──本気だったんだな、俺、ってね」  
 羽山君は、私を──  
 本気だったと言った彼の言葉は、震えているように思えた。  
「俺、昔は泣き虫だったんだよ。だから──」  
──羽山君が、泣き虫……?  
 今の彼からは想像ができない。  
 けれど、ならば、だとしたら──  
「あの時、俺ほんとは、泣きそうになっちゃってね」  
 振られて泣くなんて、かっこ悪いだろ? と彼は笑った。  
 あの時彼は、泣きそうな自分を見られるのが嫌で、背を向けたという事なのか──  
「色々と鍛えられて……もう泣く事なんて無いと思ってたのになぁ」  
 独り言のように呟く。  
 濡れた頬を撫でる指も、私を抱き締めている身体も、わずかに震えているようだった。  
「教室まで独りで戻る間……正直言って、寂しかったな」  
 ほんとに泣きそうだったよ、と続けた羽山君の指が、私の涙の痕を拭う。  
 ならば──  
──同じなんだ……。  
 私も──寂しかった。  
 自分の言葉に悔やみ、やりようのない気持ちを、自ら慰めて誤魔化した。  
「まぁ、当たり前だよね」  
 彼の身体が離れる。  
 両手で頬を挟まれ、上を向かされた。羽山君の、照れたような笑みがそこにあった。  
「あんな事されて、好きなんて言われても、信じられないよな。夕菜は謝らなくていい」  
 彼ははにかんだように少しだけ眼を逸らした。  
 手が離れ、彼が背を向ける。  
 背を向けたまま、天を仰ぎ──  
「でもさ、俺って諦めが悪いんだ」  
 どういう意味かと思う間も無く、彼が振り向いた。  
「何度でも言うよ」  
 透き通った暗褐色の瞳に、真っ直ぐに見つめられる。  
「俺は、夕菜の事が好きだ」  
 はっきりとした、曇りの無い言葉だった。  
 私は遠回りをしてしまっていたのだ。  
 今なら確信できる──彼はこんなにも、私のことを想ってくれていたのだ。  
「夕菜、好きだよ」  
「羽山君……」  
 もう迷う事などない。  
 思うままを口にしよう。  
 私は素直に、その言葉を紡ぐ──  
「私、羽山君の事が……好き」  
 二人の唇が、重なり合った。  
 

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