「あっ、あ、ご、ごめん……」  
 深雪が階段を降りると、そこには竜介がいた。  
──聴かれてた……!?  
 真っ赤になった眼を慌てて擦る。  
 竜介の佇まいは、おどおどして怯えているようだし、自信無さそうに背は丸められている。  
深雪を真っ直ぐに見ないのは、女の子に免疫が無いからなのだろうとよく解かる。  
 それなのに、今までと違って感じられるのは、その眼が暗く濁っていないからだ。  
 恭也とどんな話をしたのかは解からない。だが恭也の言葉は、竜介に大きな衝撃を与え、  
彼の閉ざされていた心を解放したのだろう。  
 深雪は、さきほど覚えた印象を、改めて確認する。  
 彼はずっとここにいたのだろうか。だとしたら、きっと恭也と自分との会話も、泣き声も  
聴かれていただろう。こんな奴に聴かれたなんて──  
 そう思いはしたが、深雪は以前のような嫌悪を抱かなかった。  
「だ、だ、大丈夫?」  
「え?」  
──こっち見るなよぉ……恥ずかしいんだから。  
 そう思っても口には出せない。  
「あ、え、えっと、だから、その……な、泣いて──」  
「別に」  
 冷たく言い放ってから、ちょっと悪かったかなと思って言い直す。  
「別に……大丈夫だよ」  
 そんな自分に、深雪は違和感を覚える。以前なら、言いっ放しだったはずだ。  
──なんか、調子狂うなぁ……。  
 泣いた直後だからかな、と思って自嘲する。  
「ごめん……ほ、ほんとに……」  
 竜介はちらちらと深雪の方を見て、心底申し訳ないという顔をしている。  
──そんな顔されたら、余計恥ずかしいじゃん。  
「き、き、聴くつもりじゃ、な、なかったんだけど……」  
「別にいいって。どーせ他にも聴いてた人いるんでしょ?」  
「あ、え……う、うん」  
──やっぱ他にもいるのかぁ……恥ずかしすぎだよぉ。  
 屋上の手前の小部屋は、まず人が行く事は無いが、その下は深雪たち一年生の教室が  
並んでいる。  
 あれだけ泣けば、きっと誰かがそれを聴いていただろう。自分だと気づかれたかどうかは  
判らないが、それでも鳴き声を聴かれて恥ずかしくないわけはない。  
──ていうか、こいつには聴かれてたんだし……。  
 事実、深雪の鳴き声を耳にして、怪訝に脚を止めた生徒は何人かいた。  
 だが、竜介がそこに佇んでいたおかげで、上へ見に行こうと思った者がいなかったのだと  
いう事を、深雪は知る由もない。  
 竜介が意図してそうしていたわけではないにせよ、深雪は竜介に借りを作った事になる。  
 二人とも、そんな事は意識していなかったが。  
「か、か、顔、あ、洗った方が……」  
「解かってるよ、そんな事」  
「ご、ごめんっ」  
──ったく……調子狂いすぎ……。  
 今この瞬間まで、深雪と竜介はほとんど言葉を交わした事が無かった。  
 おそらく、入学から今までの数ヶ月間での会話は、この場でやりとりされているものと  
変わらない程度だろう。  
 竜介など、女子生徒と会話する事自体が稀なのだから、然もありなん。  
 深雪は竜介を置いて歩き出す。顔を伏せ、擦れ違う生徒たちになるべく顔を見られぬよう  
意識しながら。  
──なんでついてくんの?  
 すぐ後から、竜介が歩いてくる気配を感じる。  
 深雪は足早に歩き、手洗い場に着く。少し離れたところで竜介が立ち止まった。  
──なんで止まんの?  
 居心地の悪さを覚え、何か言ってやろうかとも思う。  
 けれど、それはそれで、自分が意識しているように思われそうなのが嫌だった。  
──まぁいいか……。  
 深雪は蛇口を捻り、冷たい水を顔に浴びせた。  
 恭也の顔が浮かび、また少し泣きそうになってしまった。  
 
──やっばー、鞄の中かぁ……どーしよう。  
 涙を流し終えてから、深雪はハンカチを持っていない事に気づく。  
 とにかく手を振って水気を飛ばし、顔を数度拭って雫を拭き取る。  
 当然、それだけで全て拭き取れるわけがない。  
 スカートに手を突っ込んでみるがハンカチは無い。反対側は携帯電話が入っているので、  
外側からぱんぱんと叩くだけだったが、やはりハンカチの感触は無い。  
──どうしよう……。  
「おいリュウ、なにしてんだぁ?」  
 突然掛けられた、クラスメイトの男子の声に、深雪はびくっとしてしまう。  
 竜介と二人でいる──そう思われたら嫌だと、反射的に思う。  
──あ、こういうのって、よくないかなぁ。  
 だが、すぐにそうも考える。恭也の言葉を思い出した。  
「お前今、ミッチーのスカート覗いてただろ?」  
「えっ? ち、ちがうよっ!」  
 ミッチーというのは、男子が深雪につけたあだ名だった。深雪っち、転じてミッチー。  
 あまり好きではない呼ばれ方だった。  
──ていうか……見えるわけないじゃん。  
 確かに、顔を洗っている間は前屈みだし、後に立っていれば、覗いているように見える  
かもしれない。だが、そう簡単に見える事が無いというのは解かっている。  
 一瞬、自分の秘密の趣味の事が頭に浮かび、深雪は慌てて掻き消した。  
 雫の滴る顔を男子の方へ向ける。二人の男子が深雪と竜介を見ていた。  
「やらしいなぁ、お前」  
「牛の次はミッチーかぁ?」  
 牛というのが夕菜の事であるのは言うまでもない。  
「あーそーか、お前巨乳好きなんだろ?」  
「ホルスタインだけじゃ満足できなかったんかぁ?」  
「途中で羽山に蹴られたしな」  
 二人はそんな事を言いながら笑っている。  
「べ、別に、そ、そんなんじゃ……」  
 横で竜介がおろおろしている。  
──なんか、腹立つなぁ……。  
 恭也に諌められたからだろうか──夕菜や竜介といった弱者を攻撃する彼らに、嫌悪を  
抱いている自分に気づく。  
「ってか、後からがばーって揉むつもりだったんじゃね?」  
「あー、やりそうやりそう!」  
「ち、違うって……」  
──こいつら……頭悪いなぁ。  
 彼らは竜介を馬鹿にしているつもりだが、すぐ横に深雪がいるのを意識していない。  
 自分たちの台詞が、深雪をもからかっている事になるのだと、彼らは気づいていない。  
「つかさぁ、教室であんな事しねぇよな、フツー?」  
「だよなぁー、お前アニメ見すぎでおかしくなってんだろ」  
「現実とアニメの区別ができません、って言われるぞ?」  
──ほんっと、腹立つ……ったく。  
 それは深雪自身に対する苛立ちでもあった。  
 今まで自分は、立ち位置に甘えて他人を蔑ろにする事をなんとも思っていなかったのだと  
改めて思い知る。  
 わはは、と下品に笑う彼らを、深雪は生ゴミでも見るかのような眼で睨みつけた。  
「あんたらさぁ──」  
 雫が流れてブラウスに垂れる。透けちゃうかも、と少し躊躇う。  
「あたしがいるのによくそういう事言えるねぇ」  
「え?」  
「な、なんだよ……」  
 相手はクラスの中心グループの一人、深雪だ。さっきまでの威勢が消える。  
「別にいいけどさぁ、女子の前でそういう話する?」  
「あっ──」  
「気づくの遅いよ、馬鹿」  
 深雪が吐き捨てると、彼らは、ばつが悪そうな顔をして背を向けた。  
──こういうのも、まずいかなぁ。  
 虎の威を借る狐、という言葉を思い出す。それとも、祖父が好きな水戸黄門だろうか。  
 まぁいっか、と呟いて振り返ると、竜介がハンカチを手にしていた。  
 
「あ、あ、えっと……こ、これ」  
 おずおずと差し出されたハンカチ。  
 深雪は無意識に受け取ってしまった。  
「ありがと」  
 そう言ってから、しまったと思う。  
 男の子のハンカチで顔を拭く? しかも相手は竜介、クラスの嫌われ者──  
 反射的に突き返しそうになり──しかし、押し留める。  
──ああもうっ! こういうのダメだって……。  
 恭也とのやりとりを思い出す。  
──後悔か……してるよ、後悔。  
 中学に上がってから、深雪は恭也とあまり会話していなかった。時々言葉を交わしても、  
素っ気無い態度で、軽く流されているような印象だった。  
 子供の頃はあんなにも親しかったのに、今では他の子と扱いが変わらない。むしろ避け  
られているように思う事もあった。  
 それは、自分自身の招いた結果だったと、深雪はようやく気づいた。  
──今のままじゃ、お嫁さんは無理かぁ……。  
 幼い頃の宣言──今のままでは無理と言った彼の言葉は、気持ちが夕菜に向いていると  
いうだけでなく、自分の心が醜いからだろう、と深雪には思えた。  
「……ありがとう」  
 深雪はもう一度、竜介に言った。  
 真っ白なガーゼのハンカチを顔に当て、水滴を拭き取る。  
──あー、なんか……うー。  
 竜介は学年でも有名人だ──悪い意味で。そんな彼と一緒にいて、しかも彼のハンカチで  
顔を拭いているところを、何人もの生徒に見られているのだ。  
 複雑な気分だった。  
 竜介なんかと親しくしていると思われるのは嫌だ、という気持ちは、簡単には抜けるもの  
ではなかった。ずっとそういう態度で接してきたのだから、当然だ。  
 だが、少なくとも、表に出すのはやめようと思う。  
 そう簡単にできない事だとは思うが、なるべく、少しずつでも、そうしてゆきたい。  
──恭ちゃんのお嫁さん……なんて、気が早いけどっ。  
 嫌われたくない。お嫁さんになれないのなら、友達でも良いから──  
「サンキュ」  
 顔を拭き、手も拭いて竜介にハンカチを返す。  
 ここはやっぱり洗って返すべきなのかな、なんて事を思っていると、  
「あ、あ、あの……ぼ、僕も、あ、ありがとう」  
 竜介は、深雪と眼を合わせようとしないし、言葉もどもってはいるが、以前のような  
陰鬱さは感じられない。彼もまた、変わろうとしているところなのだろうと思う。  
「た、助けて、もらったから……」  
──助けた? あたしが?  
 そういう事になるのかもしれない──けれど、それは彼のためではなく、  
「別に、あんたのためにやったわけじゃないけどね」  
「あ、あっ! そ、そうだね……ごめん」  
──あれ? これって、なんかどっかで……。  
 自分の言葉に、どこかで聴いたような台詞だと思ってしまう。  
 たしか、あれはティーン向けの情報誌で──  
「あーっ、あれだっ!」  
「えっ?」  
「あー、なんでもないなんでもないっ! さっさと教室戻るよ!」  
「う、うん……?」  
 男の子が大好きな女の子はこれだ! という見出しの躍る、馬鹿馬鹿しい記事だった。  
 少し前に流行った、オタクの青年と美女との恋物語──その影響で、オタク的な内容が  
その手の雑誌にも氾濫した事があった。  
──あー、きっと知ってるよね……好きそうだもんなぁ、そういうの。  
 自分の言葉にそんな意味を勘繰られては困る──と考えてしまう自分がどうかしている  
のかもしれないとも思う。  
 二人はそれっきり無言のまま、少し離れて教室へと歩いた。  
 教室に戻った深雪は、千穂と舞香を廊下に連れ出した。  
 二人だけに聴こえるように小さな声で、しかし、きっぱりと言った。  
「もう、やめにしない?」  
 竜介と同じく、深雪の眼から濁りが消えているのを、彼女自身まだ気づいていなかった。  
 

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