四時間目の授業の終了を告げるチャイムが鳴った。  
 いつも通りに中途半端なところで授業を終えた、水谷という名の数学教師は、のたのた  
と教室を出て行った。  
──絶対あいつ、何も考えてない。  
 木嶋深雪は、小馬鹿にしたような溜め息をついた。  
 ほとんど全ての女子、いや、男子も含めて多くの生徒たちから嫌われ馬鹿にされている  
教師の、授業の時間配分のいいかげんさは、この数ヶ月で身に染みた。  
──あと五分とか、ちゃんと時計見てないんだよ。  
 もっとも、国語担当の杉山という教師のように、時間が過ぎても切りのいいところまで  
きっちりとやるというタイプよりはマシかもしれないとも思う。  
 四時間目が終わったという事は、昼休みだ。学校中が喧騒に包まれてゆく。  
 机に弁当を広げる者、購買にパンや飲み物を買いに行く者、弁当を持って部室へと向かう  
者など、様々だ。  
──ちょっとやりすぎたかなぁ。  
 深雪はほんの少しだけ後ろめたさを覚えていた。  
 彼女の机の横にかけられた水泳具用のバッグには、クラスメイトの少女──柏原夕菜の  
下着が押し込まれている。  
──D65って……サイズ合ってるの?  
 彼女の白いブラジャーに記されていたタグを思い出す。  
 数学の教科書とノート、筆記用具を仕舞いながら、自分のブラを思い浮かべた。深雪の  
サイズは、C65。どう考えても、夕菜が自分と一段階しか違わないとは思えない。  
──ちっちゃすぎるんじゃ……。  
 深雪自身、中学一年生としては胸の大きな方なのだが、夕菜のそれは彼女よりはるかに  
大きい。  
 ふと夕菜の席に目を向ける。  
 彼女はいない。机の上には、開きっぱなしのノートと教科書が放置されている。  
──う〜ん、やっぱりやりすぎたかなぁ。  
 三時間目は体育──水泳だった。  
 何日か前に、彼女はひとつの悪戯を思いついた。仲良しグループの仲間たちに伝えると、  
みんな面白そうだと賛成してくれた。そして、今日、それは実行された。  
 水泳の時間、こっそり夕菜の下着を隠してしまおうというものだった。  
 それはいともあっさりと成功し、夕菜はその大きな乳房を隠すブラジャーも、スカートの  
下で最後の砦となるショーツも身に着けないまま、教室へと戻ってきた。  
 夕菜の乳房は目立つ。夏服はブラウスとしては生地が厚めなのだが、誰が見てもブラを  
していないのは明らかだった。  
──さすがにかわいそうだったかなぁ。  
 深雪らのグループは、俗に言う虐めっ子グループだ。ただ、その対象は夕菜に限られる。  
 というよりも、いわゆる虐めを受けているような女子生徒は、このクラスに限れば夕菜  
以外にはいない。目立たない子なら他にもいるが、たいてい彼女らは彼女らなりにグループ  
を作って、小さな社会を形成していた。夕菜は、どこにも属さない、はぐれ者だった。  
──まぁいいか。保健室行ったなら、下着とか貸してもらえそうだし。  
 彼女は今終わったばかりの四時間目の最中に、保健委員である羽山恭也に連れられて  
教室を出て行ったきり戻っていない。  
 連れ出した恭也はしばらくしてから戻ってきて、「柏原さんはちょっと保健室で横になって  
いるそうです」と言っていた。  
 深雪は、夕菜の真っ赤になった顔を思い出していた。  
──そりゃ恥ずかしいよね。でも、なんていうか……。  
 恥ずかしいというだけでは表せない感情──情動が、夕菜の表情から見て取れた──  
ような気がした。  
──考えすぎかなぁ。まさか、ねぇ……。  
 あの子も──  
 その言葉が浮かび、複雑な気持ちになる。  
 深雪が、夕菜の下着を隠してしまおうと思いついたのには、もちろん理由がある。  
──みんな驚くだろうなぁ……っていうか、言えないって。  
 深雪の特殊な──性的嗜好がもとだったのだ。  
 深雪は独りで外出する時、下着を穿かずに出る事があった。  
 それはほんの短い距離──例えば、近所のコンビニエンスストアであるとか、近くの公園  
までであるとか、その程度の──ちょっとしたスリルと、興奮を味わうための秘密の趣味  
だった。  
 もちろん誰にも言った事は無い。深雪自身しか知らない事だ。  
 
 彼女がこういった趣味を持つに至った切欠は、小学生の頃から、歳の離れた兄の成人  
向け漫画雑誌を盗み見ていた事だった。  
──お兄ちゃんがあんなの持ってるから……。  
 今年大学を卒業して、晴れて社会人になった兄。深雪とちょうど十歳離れている兄は、  
高校生のころから、その手の漫画雑誌を愛読していた。  
 もちろん学校での性教育は受けていたので、漠然とした性の知識というものは備えて  
いたが、やはり教育として授けられた知識と、性的好奇心を満足させるために作られた  
成人向け雑誌では、あまりにも異なる。  
 露出、羞恥、ノーパン、ノーブラ──そういったものが性的興奮になるのだと知ったのは、  
深雪がまだ小学三年生の頃だった。  
 最初はただの好奇心だった。兄の雑誌を読み、下着を脱いで幼い秘処をいじっていた。  
──よくわかんなかったんだよね。  
 その頃は、淫ら、淫乱、卑猥、羞恥、陵辱、強姦、服従、奴隷といった、難しい単語の  
意味はさっぱり判らなかったし、読み仮名がなければ読む事もできなかった。ただ漠然と、  
エッチだなと思っていただけだった。  
──でも、濡れてたなぁ。  
 女性器が「濡れる」のは、なにも性的に興奮した時だけではない。性器というのは内臓  
なのだから、汚れや雑菌の侵入を防ぐため、それらを洗浄殺菌するための機能としても  
「濡れる」のだ。もちろん男性器を受け入れ易くするために濡れるわけでもあるが、決して  
それだけではない。考えようによっては、受け入れ難いものに汚染されないよう濡れている、  
と言い換える事ができなくもない。  
 もっとも、深雪はそんな知識は持ち合わせていない。濡れるイコール興奮と、単純に結び  
付けていた。  
 お兄ちゃんっ子だった彼女は、兄がそういう事に興味があるのだと知って、単純に真似し  
てみただけだった。  
──ちょっと、ドキドキしたっけ。  
 最初の時に感じたものは、性的興奮というよりは、常識外れの事をしているという、後ろ  
めたさだった。ほんの少しだけ家の前を歩き、すぐに部屋に戻った。  
 それは一回きりの、ちょっとした冒険のつもりだった。  
──なんで、またやっちゃったんだろ?  
 二回目がいつだったか、深雪ははっきり憶えていない。  
 だが、二回やれば、三回目もしたくなる。  
 最初は家の前だけだったのが、五十メートルほど離れた公園までになり、そこをぐるっと  
一周するまでになり、そのさらに先にある神社までになり──  
 その行為は常習化した。  
 いつしか彼女は、幼いながらも自分の行為がもたらす性的興奮を自覚しはじめた。兄の  
雑誌の内容も、次第に理解できるようになっていった。  
 自分の行為と、漫画に描かれた行為を重ね合わせ、気を昂ぶらせ、自慰をした。  
 最初に絶頂感を覚えたのは、小学五年の頃だった。  
──恥ずかしい……。  
 深雪は、机を合わせて弁当を広げはじめた友人たちに、自分の秘密がばれてしまうの  
ではないかと思ってしまう。教室でこんな事を考えているなんて──  
──勃ってた、よね。  
 自分よりひと回りもふた回りも大きな夕菜の乳房。ブラに覆われていないその天辺には、  
ぽつんと突起が浮いていた。  
──あの子も、同じなのかなぁ……。  
 彼女もまた、そうした嗜好の持ち主なのだろうかと、深雪は考える。だとしたら、自分の  
悪戯は、むしろ──  
──悦んでたのかなぁ。  
 夕菜に恥を晒させて、ちょっとした満足感を得ようとした行為が、逆に彼女を悦ばせて  
しまったのではないかと考える。  
──意味無いじゃん。  
 深雪は無性に苛苛してきた。  
 自分の性癖は、誰にも喋った事が無い。インモラルな行為であり、もし知られてしまえば、  
周りから白い眼で見られるだろうというのも理解している。  
 だから彼女は、人目につかないよう、ごく狭い範囲、ごく短い時間でしか、それをしない。  
せいぜい百メートルほど離れたコンビニまで行って帰ってくる間だけだ。  
 夕菜はプールそばの更衣室から教室まで、何人もの生徒と擦れ違っただろう。教室に  
戻ってきた彼女は、周りの視線を意識していただろう。指名され、その場に立たされ、クラス  
中の視線を浴び、すぐ眼前で水谷に──視姦され──  
 
──だいたいなんで恭ちゃん、あんな奴を庇うわけ?  
 深雪と羽山恭也は、幼馴染みだった。  
 といっても、それほど親しいわけではない。同じ幼稚園に通っていて、それなりに仲が  
良かったという程度だ。園内では一緒に遊んだりもしたが、家は遠かったし、親同士も特に  
交流があったわけではない。校区も違ったので、別々の小学校へと通うことになった。  
 中学が同じになり、六年ぶりに再会した恭也は、深雪が知っていた泣き虫の男の子では  
なく、落ち着いていて大人っぽい、どこか近寄りがたい少年になっていた。  
──おかしいよ、あんな奴のために……。  
 夕菜はクラスのはぐれ者、厄介者だ。水谷に詰め寄られた夕菜は、確かに危機に瀕して  
いたと言えるし、それは深雪にも解かっていた。  
 だが、なぜ夕菜を庇うような真似をしたのか、深雪には納得できない。  
──あんな奴のために、どうして恭ちゃんが……。  
 夕菜本人が体調不良を訴えたのなら構わない。だが、他人である恭也がそれを言い、  
水谷に何を言う暇も与えずに彼女を連れ出したのだ。  
 あの陰気な水谷を敵に回したら、きっと恭也は陰湿な復讐を受けるに違いない。そんな  
馬鹿馬鹿しい事を空想している。  
──恭ちゃん、まさか……。  
 深雪は夕菜と恭也が会話しているところを見た事が無い。もっとも、恭也が女子生徒と  
喋っている事がほとんど無いのだが、それは今の深雪の意識にはのぼっていない。深雪  
とは会話を交わす事もあるが、幼稚園の頃のような、小さくて泣き虫だった恭也と、お姉さん  
ぶっていた深雪という、二人の関係は今はもう無い。  
 深雪にとって恭也は、幼馴染みではあるが、全くの別人であり──  
──あいつの事が好きなの?  
 彼が夕菜を庇って行動を起こした事が気に入らないのだった。  
──あたしの方が恭ちゃんと仲が良いのに。  
 彼女の苛立ちは、嫉妬だ。  
──あんな、ノーブラで、ノーパンで……。  
 ブラジャーもショーツも身に着けずに教室に戻ってきて、クラスメイトの前で羞恥心に  
気持ちを昂ぶらせているような子を助けるなんて──  
 深雪の意識は混濁していた。  
 というより、彼女は自分に都合のいいようにしか物事を捉えていなかった。  
 夕菜の下着を奪った事を、深雪は悪戯程度にしか考えていない。された夕菜にしてみれ  
ば、そんな生易しいものではないのだと解かっていない。  
 クラスで浮いた存在の夕菜になら、何をしてもいいと深雪は思っている。夕菜だって一人  
の人間なのだという事を解かっていない。  
 たとえ深雪がそういった嗜好の持ち主だとしても、学校という数百人もの同年代の少年  
少女に囲まれた場所で、意図せずそんな状況に追い込まれたとしたら、どういう気持ちに  
なるのか──そういった想像力が欠如している。  
 たった今、自分の性癖が友人に知られる事を恐れていたというのに、そんな事はもう  
忘れているのだ。  
 夕菜を助けた恭也に、打ち明けてもいない自分の気持ちを押し付ける。  
 そもそも夕菜が下着を着けていないのは彼女たちのグループ所為なのであり、元を糺せ  
ば彼女の嗜好が発端なのだ。それをここで挙げるのは自分の首を絞めているようなものだ  
という事にも気づいていない。  
「ねぇ、深雪。どうかしたん?」  
 御幸の思考を中断させたのは、机を合わせて弁当を広げ始めた友人たちだった。  
「なんかさっきからぼーっとしてない?」  
「うぅん、なんでもない」  
「そう? ならいいけどさ」  
 彼女らに気取られぬよう、恭也の姿を眼で追う。  
 恭也も数人の男子たちと固まって、弁当を広げていた。  
──恭ちゃん、変わったなぁ。  
 幼かった記憶を手繰る。優しくて頼もしい存在だった兄と正反対の、ひ弱で泣き虫の男  
の子だった。恭ちゃんすぐ泣くんだから。独りじゃ全然ダメだね。一緒に遊んであげるよ。  
泣いてばっかじゃお嫁さんもらえないよ? そうだ、あたしがなってあげるね──  
──そういえば、そんな事も言ったなぁ。  
 苦笑してしまう。  
 あんなに頼りなかった男の子は、教師にすら一目置かれるような少年に成長していた。  
 恭也と夕菜への想いがごちゃ混ぜになり、深雪を苛立たせていた。  
──あの子が戻ってきたら、何してやろうかな……。  
 

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