──ふざけるなよ冗談じゃないぞ。  
 金森竜介の眼は暗く澱んでいた。  
──なんであんな下らない連中に従わなくちゃいけないんだ!  
 四時間目が終わり、昼休みとなってすぐ、クラスメイトに買い物を頼まれた。  
 購買室はそれほど賑わうわけではないが、順番待ちがあるし、一年生の自分は上級生に  
割り込まれても文句を言えない。自分の分だけならすぐに済むのに、他人のものも買わなけ  
ればならないのが煩わしかった。  
 竜介は、いわゆるパシリをさせられていた。  
 ビニール袋に詰め込まれたパンとドリンクは、ほとんどがクラスメイトに依頼された分だ。  
自分のものは菓子パンふたつとコーヒー牛乳だけで、これだけならさほど時間は取られない  
はずだった。  
 一階の廊下を歩いていると、見知った横顔が目に映った。  
──あれは……夕菜ちゃんじゃないか。  
 竜介の正面、教室ふたつ分ほど前にあるドアから出てきたのは、クラスメイトの柏原夕菜  
だった。彼女は竜介に気づかず背を向け、階段の方へと進んでゆく。  
──保健室か……夕菜ちゃん、教室に戻るところなんだ。  
 彼は夕菜と自分の境遇を重ね合わせて仲間意識のようなものを感じていた。  
 仲間意識と言っても一方通行的なものだ。夕菜はもちろん彼がそんな想いをもっている  
などとは知らないし、彼がそういう素振りを見せた事もない。  
 いつも背中を丸めている気の小さな彼は、彼女がクラスメイトたちにからかわれていても、  
自分に飛び火するのを恐れて、ただ傍観──あいつらはいつか僕が倒してやるよと、意味  
不明な言葉を心の中で呟いていただけだった。  
 そんな夕菜が眼前に現れた事で、竜介の苛立ちは消し飛んでいた。  
──偶然だね、すごい偶然だ。  
 きっとこれは何かの縁だろうと、勝手な事を想う。  
──夕菜ちゃん、ブラジャーしてないのに、歩いてたらダメだよ……。  
 体育を終えて皆より遅れて教室に戻ってきた彼女の背中に、二時間目まではあったブラ  
ウスに透ける白いブラジャーのラインが無いのに、竜介は気づいていた。  
 夕菜の真後ろの席に座る竜介は、いつも彼女のブラウスに透ける下着を見て妄想を膨ら  
ませていた。彼女の大きな乳房を揉み、つんと尖った乳首を抓み上げると、夕菜は切ない  
吐息を漏らしながら、もっとして欲しいと喘ぐのだ──  
 彼の席は彼女の真後ろであり、手を伸ばせばいつでも触れる事ができる。  
 竜介は一度も彼女の膨らみに触れた事は無い。  
 だが、彼は小学生の頃、別の少女の胸を触った事があった。クラスメイトにからかわれ、  
無理矢理触らせられたのだ。彼女は泣き出してしまい、その後どうなったのか、竜介は  
よく憶えていない。  
 しかし、彼は彼女の膨らみの感触は今もまだ憶えている。竜介にとって、女の子を泣かせ  
てしまった事よりも、乳房に触れたという事の方が衝撃だった。  
 彼女の乳房は歳相応の小振りなものだったが、初めて触れた女の子の乳房は柔らかく、  
思い出すだけで興奮してしまう。夕菜の乳房はもっと柔らかく、もっと揉み応えのあるもの  
なのだろうと、竜介は妄想を膨らませていた。  
 彼女はきっと、大きな乳房を自分に揉んで欲しくて、その感触をもっと味わってもらいた  
くて、ノーブラで戻ってきたのに違いない──  
 竜介は数学の授業が始まってから、そんな下品で独り善がりな妄念を膨らませながら、  
どうやって彼女の気持ちを受け止めてあげればいいのだろうと、頭を悩ませていた。  
 そこに、邪魔が入った。  
──羽山の奴ッ!  
 数学教師の水谷に、有無を言わさず夕菜を連れ出したクラスメイト──羽山恭也。  
 竜介にとって彼の存在は不可解だった。  
 自分と同じく、あまり他人と接する事のないタイプでありながら、彼はクラスで孤立して  
いない。無口で人を寄せ付けない雰囲気なのに、彼は周りと協調できている。それどころか、  
なにかと頼りにされているようなのだ。  
──あいつがいなければ、僕が夕菜ちゃんを助けてあげたのに!  
 助けるもなにもない。  
 竜介は、水谷に詰め寄られた夕菜がどういう気持ちでいたのか全く理解していなかった。  
 恭也が水谷に追及の間を与えず、保健室へ連れて行くと言い放った時など、あいつは  
彼女を独り占めするつもりだ許せない、などと考えていたのだ。  
 それはあながち間違ってはいなかったのだが、しかし恭也が夕菜を助けたのだと理解  
したのは、隣の席の女子が別の女子に、柏原さんなんか助けなくたっていいのに、と囁い  
ているのを聞いてからだったのだ。  
 
──あいつ、きっと僕と夕菜ちゃんの仲が羨ましいんだ。  
 他人が聞いたら呆れ返る以外ない事を平気で考えている。  
──でも、点数稼ぎなんかしたって無駄だよ。  
 竜介はほくそえんだ。  
 夕菜を連れて教室を出て行った恭也は、二十分ほどしてから独りで戻ってきた。いき  
なり指名され、解答させられるという陰湿な水谷の攻撃を受けた恭也が、意にも介さず  
さらりと答えたのは気に入らなかったが、独りで教室に戻ってきたという事は──  
──きっと夕菜ちゃんに振られたんだろう。  
 くくくと、喉を鳴らした。これもまた間違ってはいなかったのだが、竜介にそれを知る術は  
無い。全くの独善的な想像の産物だ。  
──これで夕菜ちゃんは僕のものだ……。  
 どこをどうすればそういう話になるのかは、竜介自身にも解かってはいない。  
──こうやって偶然夕菜ちゃんと会えたんだ、やっぱり僕の勝ちだ。  
 廊下を歩く夕菜の背中を追いながら、竜介は勝ち誇る。夕菜が今、自分の前を歩いて  
いるのは、恭也と自分との戦いに天が味方したからなのだ。  
──夕菜ちゃんはあいつじゃなく僕を選んだんだ。  
 もちろん彼女は、彼を選んでなどいない。  
 夕菜は、恭也の気持ちを汲み取れず、保身に走ってしまっただけなのだ。そこに竜介が  
介在する余地は無いのだが、そんな事は竜介にとって知る由も無い。竜介にとって自分が  
知らない事、想像できない事は、存在しないに等しい。逆に、単なる自分の思いつきでも、  
それは彼にとって真実となる。  
──夕菜ちゃん、これからは僕が守ってあげるからね……。  
 幾人かの生徒と擦れ違う。彼らが夕菜を狙っているのかもしれないと思う。  
 あと数メートルまで近づく。夕菜が今もブラをしていない事を確認し、しかし違和感を  
覚えた。  
──シャツ、着てる?  
 教室では着ていただろうか。ブラウスの直下にブラジャーのラインが透けていなかった、  
という事しか思い出せない。  
──やっぱりノーブラじゃ恥ずかしいんだね。でもだめだよ、そんな格好じゃ……。  
 大きなおっぱいが揺れて目立っちゃうよ──そう思ったとき、不意に彼女が立ち止まった。  
つられて竜介も足を止める。彼女は廊下の左手、一階のトイレに目を向けていた。  
──夕菜ちゃん、トイレに入るのかな?  
 竜介は、彼女が便座に腰掛け、排泄する姿を思い浮かべていた。  
 スカートを捲り上げ、細い足に可愛らしいショーツを引っ掛けて、便座に腰掛ける夕菜。  
 恥ずかしそうな顔で竜介を見上げながら、ちょろちょろと尿を滴らせる。  
 おしっこ我慢してたんだね、と竜介は言う。上目遣いのまま、こくんと頷く夕菜。  
 竜介が彼女の股間に指を伸ばすと、受け入れるように股が開かれた。  
 もっと勢いよく出して良いんだよ、という竜介の言葉と、濡れた秘裂に潜り込んだ指に  
促され、顔を赤らめた夕菜は、しゃーっという水音が響かせて排尿する。彼女の温かい  
小水が指に跳ね、反対の手で夕菜の大きな乳房を包み込む──  
 下衆な妄想に、竜介の股間が膨らんでゆく。  
 小太りの身体に比してあまりにも貧相な竜介のそれだが、男としての機能はきちんと  
備わっている。血液が充填され、学生ズボンと下着の中で膨らんで自己主張を始めた。  
 実際に使われた事は当然ながらまだ無いが、竜介の創り出した仮想現実の中では、  
既に幾度となく夕菜の身体を貫いている。  
 竜介は妄想につられるように夕菜に近づいていた。手を伸ばせば届く距離。つんとした  
塩素のような、それでいてほんのりと甘い、不思議な香りがした。  
 気配に気づいた夕菜が、振り返る。  
「ゆう──あ、か、柏原さん」  
 思わず声をかけていた。夕菜ちゃんと呼びそうになり、あわてて言い直す。  
 夕菜は、一瞬眉をひそめたが、すぐに顔を伏せた。  
「と、と、トイレ?」  
 竜介がどもりながら言うと、夕菜はちらと一瞥し、べつにと小さく答えた。  
 彼女は、竜介が気づかない程度の小さな溜め息をつくと、背を向けて歩き出した。  
──おしっこしなくていいの? それとも、おっきい方なのかなぁ?  
「が、我慢はよくないよ!」  
 彼なりの親切のつもりだったが、夕菜は応えずに歩いてゆく。  
──やっぱり恥ずかしいんだ。恥ずかしがるのが可愛いなぁ、夕菜ちゃん……。  
 羞恥心の欠片も無いようなちゃらちゃらした女子とは違うよと、にんまりする。  
 竜介は、自分が彼女に疎まれているなどとは小指の爪の先ほども考えていなかった。  
 
 
 保健室を出た私は、往き交う生徒たちの姿を見て、自分の格好の心許無さに改めて  
気づかされた。  
 更衣室から教室へと戻った時よりは、幾分かましであると言えるのだけれど、それでも  
歩くたびに揺れる乳房を意識しない事はできなかった。  
──Fカップか……。  
 自分の身体のサイズを知るというのは、あまり気持ちのいいものではなかった。小学生  
の頃からそうだ。胸ばかりが膨らむ自分の身体に気づかされる。けれど、羽山君と笹野  
先生、二人に立て続けに胸を褒められ、悪い気はしなかった。  
 ブラを着けていないというのは、やはり不安だった。購買室へ、パンや飲み物を買いに  
降りてくる生徒も多い。何人かと擦れ違い、その度に視線を気にしてしまう。  
 それに、ポケットの中には笹野先生から受け取ったショーツが入ったままだ。早くこれ  
を穿かなければ──  
 トイレの前で足を止めた。この時間、一階のトイレはほとんど使われないはずだ。  
 ショーツを穿かないままで教室へ戻るなどできない。何段もの階段を登らねばならない。  
スカートは膝まで隠してくれているが、それでも気になってしまう。  
 それに、二度の絶頂の刺激で、少々もよおしているのもあった。  
──今のうちに穿いちゃおう。  
 そう思ったとき、すぐ後に人の気配を感じて振り返った。  
「ゆう──あ、か、柏原さん」  
──なんでこいつが……。  
 同じクラス、私の後の席に座っている金森だった。  
 咄嗟に顔を伏せる。露骨に嫌な顔をしてしまったのではないだろうか。  
「と、と、トイレ?」  
 彼は普段から、どもった喋り方をしているわけではなかった。という事は緊張──いや、  
興奮しているのだろう。小さな眼を大きく見開いていたのも相まって、嫌悪感を抱かずに  
いられない。  
 デリカシーの欠片も無い。水谷と同類だ。  
 きっと膨れた頭の中には妄想がいっぱい詰まっているのだろう。空想の中で、私の身体  
を好き勝手に弄んでいるのだろう。  
 こんな奴に毎日背中を凝視されていると思うと、吐き気がする。  
 羽山君に連れ出されるまでの数学の時間、彼は私がなぜブラをしていないのか考えて  
いただろう。今も私の後ろ姿を見て、ブラをしていない事を解かっているだろう。  
 私を見る、濁った眼。まるで妄想の世界に生きていると主張しているかのようだ。  
 案外私と彼はお似合いなのではないだろうか。二人ともクラスの爪弾き者だ。  
 だが、彼の方がまだ他者との交流がある分、まともなのかもしれない。  
 彼が手に下げている白いビニール袋にたくさん詰まったパンとドリンクは、きっと男子  
たちに買い出しを強要されたものなのだろう。ただの使い走りだとしても、ほとんど会話  
もしない私より、一年三組という社会に溶け込んでいるのではないだろうか。  
 私には、羽山君のような人に好かれる男の子より、こういう地味で陰気な妄想壁のある  
男の方が似合っているに違いない。  
 きっと今も金森は、よからぬ妄想に耽っているのだろう。私が排泄する姿でも想像し、  
身体の一部分を滾らせているのではないだろうか──  
「べつに」  
 意図したわけではなかったが、ずいぶん素っ気無い声だなぁと自分でも思った。  
──私も人の事は言えないか。  
 溜め息が出てしまう。  
 トイレに入りたかったが、私が用を足し、ショーツを穿いている間、金森がずっとここで  
待っている姿を想像して嫌になった。  
 私は彼を置いて歩き出した。  
「が、我慢はよくないよ!」  
 その我慢とは何を我慢する事なのだろう。お前と一緒にいる事か?  
 きっと金森は追いかけてくるだろう。私の少し後ろから、ついてくるのだろう。  
 スカートが気になる。ブラウスの背中は、教室では着ていなかったタンクトップが透け  
ているはずだ。  
 彼はどう思うのだろうか。保健室で、肌着を借りてきたのだと思うのだろうか。  
 いや、きっと彼にはそんな想像力は無い。妄想力は逞しくとも、状況から物事を推測し、  
判断する能力には欠けているだろう。  
 案の定、彼は私の後をついてきた。スカートを抑えながら階段を登る。見られないとは  
判っているが、どうしても意識してしまう。  
 とにかく教室に戻ろう。そして、ショーツを穿きにトイレへ行こう。  
 
 階段を登る私は、すぐ後にぴたりとくっついてくる金森を鬱陶しく思っていた。  
 時々歩調を速めてみたり、遅くしてみたりしても、彼も同じように速度を変える。これ  
では、ストーカーのようなものではないか。  
──こいつならやりかねないかも。  
 ストーカー犯罪を起こすような人物は、きっと思い込みが激しく自意識過剰で、周りが  
眼に入らないのだろう。ちっぽけなプライドを後生大事に抱え込み、社交性に乏しく、自分  
の世界を第一に考えるような人間なのだと思う。  
 私の彼に対する印象はこれにことごとく当て嵌まる。  
 もっとも、私も似たようなものだとも思う。人付き合いが苦手なのは、自己中心的で協調  
性に欠けるからだし、薄っぺらなプライドを守るために他人を見下している。  
 やはり、彼と私は似た者同士だ。お似合いのカップルかもしれない。  
 苦笑せずにいられない。  
「ど、ど、どうしたの?」  
 耳聡いというか、目敏いというか──後にいながら私の溜め息を聞きつけるのは大した  
ものかもしれない。  
「べつに」  
「そ、そう? き、き、気をつけてね」  
──何を?  
 階段に躓いたらスカートが捲れて中身が丸見えになるよ、とでも言いたいのだろうか。  
 いや、彼はそこまでは気づいていないはずだ。ブラを着けていないのは判っていても、  
ショーツまで穿いていないとは思わないだろう。  
──でも、もしかしたら。  
 私が教室を出てから、彼が買い出しに出るまでの間に、例のグループが、更衣室で私が  
下着を着けずに制服を着ていたと言い触らしているかもしれない。  
──さすがに、それは……。  
 無いと思う。いくらなんでもそこまでは──と思いたいが、下着を盗って私が困惑する  
ところを愉しんで見ていたような連中だ、何をしでかすか判ったものではない。警戒する  
に越した事は無い。  
 けれど、今更警戒してもどうなるというのだろう。  
 私はすでに下着を奪われているし、仮に彼女らがそれを周知させていたとしても、私に  
はどうする事もできない。羞恥に耐えるしかない。  
「か、柏原さん、あ、あ、あのさ」  
 また金森が話しかけてくる。水谷と同じ、くぐもった聞き取り難い発音が耳に障る。  
「し、した、し……の、ぶ、ぶ」  
「なに?」  
 階段の途中で立ち止まり、肩越しに言う。かなりきつい口調になってしまった。  
「あっ、いや、え、ええと」  
 はっきり喋れと言いたい。  
「ぼ、ぼぼ、僕が、僕──」  
 お前の話など聞きたくないと突き放してしまいたい。  
「僕っ、が、ま、ま、守ってあげる……」  
──は?  
 私の脳の言語野は、その音を言葉として処理するのに手間取った。  
 まもってあげる? 守ってあげる──と言ったのか?  
 何を? 何から? 何故? 如何やって?  
「の、のー、ぶ、ぶら……」  
──ッ!  
 ノーブラ──と彼は言った。  
 昼休みの階段、まだ皆が食事を摂っている時間だろうから、それほど人通りが多いわけ  
ではないが、しかし、こんなところで、何を言い出すのか。  
 守るって、金森が? 私を守るというのか? 私がブラをしていないから?  
「……え?」  
「だ、だからっ、ゆ、ゆ……ぶぶ、ぶ、ブラ……ぼ、僕……まもっ……」  
 教室から響いてくる雑音が廊下にこだまし、彼の声が掻き消される。  
「う、後から、見守って……」  
 彼は自分が何を言っているのか解かっているのだろうか。  
 私には、理解できない。  
 彼の言葉が全く理解できなかった。  
「ぼ、僕がいるから、だから……へ、平気だよ」  
 ただ、下着を着けていない事を改めて意識させるにはじゅうぶんだった。  
 

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