夏直前、春の終わり、ぽかぽか陽気が肌にまとわりつく熱気に変わろうかという季節。
半袖の制服を身に付ける彼女は階段を上って自室に隣接する部屋へと向かい、扉を開く。
「太一。朝だよ、早く起きなさい」
あまり抑揚を感じさせない落ち着いた声を、ベッドで丸くなっている者にかけた。
「んんん……おはよ、姉ちゃん」
ゆっくりと上体を起こして彼女に返事をしたのは、三歳年下の弟である。
「ちゃんと顔洗ってくるのよ」
寝惚け眼の太一に母親のような口調で言葉を投げかけると、短いスカートを翻して彼女、
穂村煉は階下のダイニングへと戻った。
二人の朝食はトーストが主である。今朝も例に漏れることなく狐色に焼けたトーストだ
った。煉が食事を終える頃、ようやく太一が姿を現すのはいつものことである。身長体重
体格外見、どれをとっても全く特徴がないことが彼の特徴だったりするのだが、中学での
成績はいつも高いことが、彼女は姉ながら不思議に思っていたりする。
「お姉ちゃんおはよ」
「おはよ。先に食べたよ」
本日二度目のおはよう。そして先に食事を終えたことを口にするのもいつものこと。そ
れが二人にとっては当たり前だった。
トーストを乗せていた皿を流しで水に浸し、洗面所へと足を運ぶ。歯を磨くのは当然だが、
それよりなによりしなくてはいけないことがある。
「うぅん……」
鏡を睨みつけながら頭に……重力に逆らうかの如くはねっ返る癖っ毛を指先でいじって
いた。捻りを加えたり手の平で押さえ込んだりするが、針金のように反り返った毛はすぐに
元に戻ってしまう。櫛で梳く、整髪料で固める、今までいろいろと手を講じてみたがどれもま
ったく成果を上げることはなかった。父親似であることに誇りを感じている煉だが、この癖っ
毛だけは譲り受けたくなかったと心底思っている。
鏡の前に立った時から別段変わった様子を見せない髪形に、今日はまあこのくらいでいい
か、と自分を納得させて早々にそこを離れた。彼女が次に向かったのは仏間である。
仏壇を前に正座し線香をあげ、数回鐘を鳴らして手を合わせる。
「………………」
無言で見つめているのは、すっかり色褪せてしまった両親が映る写真である。二人は十四
年前、まだ生まれたばかりの太一と幼い煉を残して命を落としている。
(父さん、母さん。私と太一は今日も元気です……)
いつものように報告を終え、煉は仏間を後にした。
「姉ちゃん先に行くよ」
ダイニングに戻ると、太一はテレビを見ながらトーストを齧っていた。ついつい太一の、
母親譲りのさらさらな髪質に羨望の眼差しを向けてしまう。
「うん。行ってらっしゃい」
顔はテレビに向けたまま視線だけを煉に送り、そしてすぐにテレビに戻した。テレビには
朝のニュースでお馴染みの女性キャスターが、昨日の戦闘の惨状をレポートしていると
ころだった。その場面を目にし煉の表情は曇りかけたが、すぐに目を背けて家を出た。
家を出る。後ろ手で扉を閉める。一息ついて、門から正面の通りに踏み出す。
「おぉ、うぃっす」
「おはよう」
家の前で出くわしたのは、隣に住む幼馴染みの青年だった。背の高い彼は、煉が上目遣
いで話さなくてはならない数少ない者の一人である。
「相変わらず髪はねてるなぁ」
「こらっ、触るな!」
ピンとはね返る毛先をねじねじと触る彼に、他の誰にも見せない強い調子で注意するが、
手で払い除けたりしない。というか、できない。彼に触れられている時の胸の動悸が、普段
気丈な彼女にとってたまらないものだからだ。少し俯いた顔は微かに赤いが、彼の目線か
らその変化は見て取れなかった。
「いいだろ別に。このはね方気に入ってんだし」
「え……そうなの?」
彼は大仰に頷いた。実を言うとこの癖っ毛を直そうと考えたのはつい先日、彼が好きな有
名人の髪型が美しい艶のある髪、ちょうど太一のような髪質だったからである。
「そ、そうか。……そっかそっか」
父にありがとう。彼女は何度も心の中で繰り返した。
「あっと、そういえばさ……」
思い出したように彼が手を離して煉に聞いた。手が離れた時に彼女の表情が少し寂しく
なったのは……言うまでもない。
「どうかした?」
「今日の数学の宿題をな」
「写させてくれ」
「そうそれ! よく分かってくれたな」
彼女が先回りして言ったことに意思の疎通を感じてその表情がぱっと晴れるが、
「毎日人のやった宿題を写させてくれって言われてたら、嫌でも分かるようになるって」
当然のことだったらしい。いい感じに気分が――勝手に一人で――盛り上がっていたとこ
ろに水を差され、ついつい小さな溜め息を漏らすが、彼に甘い煉が断れるはずもなかった。
「学校に着いてから、ね」
「サンキュー! ほんっとお前が幼馴染みでよかった! いやいやホントに」
彼の笑顔に、再び顔が熱くなった。
「ま、まったく……。すぐ笑ってごまかす……」
「ん? 何か言ったか?」
「たまには涼も自分で宿題やったらどうって言ったの!」
兵藤涼、それが彼の名前。幼稚園以来の腐れ縁――彼はどう思っているか知らないが、
煉はそれを赤い糸だと信じている。
太一にさえ秘密にしている己が使命。父の仇を討つという自誓。そして世界を悪の手から
守るという、まだ若い高校生が担うにはあまりにも重い『正義』の二文字を一身に受ける戦士。
そんな彼女が唯一高校生らしく振舞える世界が、彼――兵藤涼の傍らに存在している。
私立世衣木高等学校。現在四限目数学の授業、残り時間十三分。分かりやすく言えば
十二時三十七分である。
グラウンド側の席でぐっすり熟睡しているのは兵藤涼。すぐ隣では穂村煉が迷惑そうで
心配そうな、だがやはり迷惑な顔をしていた。気持ちよさそうな寝息が授業に対する彼女
の集中力を乱していた。
宿題の写しを授業開始直前に終え、それからたっぷり熟睡中。本当なら煉が叩き起こし
てもいいのだが、寝ていてくれればまた宿題を見せてくれと頼まれる……。それが嬉しかっ
たりする。
ブルッ――
「ッ――! 先生、トイレ行ってきます」
挙手すると同時に煉は席を立ち、教師の言葉を待たずしてすたすたと教室のドアに向か
った。
「ん? おお、いっといれ」
薄ら寒いギャグにあちこちから失笑ともとれる笑い声が起こった。いつものことだが、その
教師のギャグに背筋が震えるのを感じながら彼女は教室を後にした。
足音を立てずに走るのは彼女の特技である。誰もいない廊下を疾走し、女子トイレの前
を素通りし、階段を長いストライドを生かして軽く六段近く飛ばして駆け上がる。左胸ポケッ
トにまるで束縛されているかのようにぱっつんぱっつんに収められていた折り畳み式の携
帯電話を手にすると、それを開き耳に当て、
「私です」
ボタンを操作することなく会話を始めた。よく見るとその携帯電話にはボタンの類はなく、
上部に全面を覆う画面と通話に必要な部位しかない。そもそも彼女は授業中に携帯を鞄の
中に――しっかり電源まで切って――しまっている。
『こんにちは』
電話から聞こえてきたのは幼さを含む女性の声。日本防衛企業特務課のオペレーターの
女性である。何度か面識もあり、歳もあまり変わらない。
『エビル・ネイションの攻撃が確認されました』
「場所は」
『世衣木高校から南南西に五十五キロ。臨海都市予定地域周辺が被害を受けています』
「直接向かいます」
『気を付けて』
屋上へ通じる扉を開け放つと上方に跳躍し、給水タンクの上に着地し首を巡らす。
(南南西……五十五キロ……)
携帯電話らしきものを胸ポケットに戻し、受けた情報を頼りにその方角を視認する。身体が
次第に熱くなる。戦闘に向けて力が漲っていく。
「――見えた」
壇ッ、左足で踏み切ると、先程とは比較にならない跳躍を見せた。
「炎武ッ――」
振りかざす右腕に炎が蛇……いや龍のように渦を巻き、
「――超甲ぉぉッ!!」
炎龍が煉の頭から爪先までを見事に覆いつくす。
「っはぁ!!」
掛け声とともに火球から常識離れしたスピードで飛び出して行ったのは、紛れもなくバーン
フォウスであった。一条の紅い線が世衣木高校上空数百メートルから南南西へと尾を引き、
瞬く間に消え去った。
それはまるで重戦車を髣髴とさせた。
「…………」
一見しただけでも分かる強固な外穀。ヒトに例えると頭部の、額に当たるところから生える
長大な角。さながらカブトムシである。
「…………」
エビル・ネイションの怪人は本能の趣くままに生きている。一匹一匹それぞれが曲者揃い
であるが、圧倒的な『力』の元で怪人どもは統率・管理されている。
「…………」
そんな怪人の中で黙々と破壊を行うこのカブトムシは、特殊といえばそうである。だが、こ
いつの後ろは灰塵となり、押し潰された人間の亡骸が電光に集まり死んだ小虫のように点在
していた。
「――そこまでだっっ!」
「…………?」
カブトムシ怪人の聴覚が遠方より迫り来る声を、見上げた視覚が紅く輝く光点を捉えた。
「バァァニングゥゥッッ」
バーンフォウスの拳から生じた炎が再び空を真っ赤に灼く線を創り出す。
「ナァァァァッッッックゥゥ!!」
マグマの熱を凝縮したような超高熱を誇る拳が怪人の角を瞬時に粉砕、蒸発させる。
ピキッ
「なにッ!?」
今までの戦闘からその結果を確信していた煉は状況が不利と判断すると背後に大きく飛び
退いた。
「ちぃっ」
バーンフォウスの右手甲には小さなひびが走っていた。対して怪人の角は未だ健在。奇襲
からの懇親の一撃にも拘らず、だ。
(あ、でも奇襲は違うか。だって私から叫んでたし)
などと呑気に考えている場合ではない。これは敵の硬度がバーンフォウスの超甲より勝って
いるということを知らしめている。
「向こうは私を調べてる……ってことか」
そのせいで今回の怪人は苦戦しそうだと煉は直感した。が、彼女はできる限り早く始末し学校
に戻るつもりである。四限目終了まで、後十分。
「ッんぁ――ッッ!?」
バーンフォウスの身体が後方に弾け飛ぶ。勢いはひどく、一度後転してしまってから二つの脚
でようやく制動をかけた。粉塵を巻き上げ数十、百メートルいやそれ以上の距離を慣性に従い
飛ばされた。
「っっっ痛ぅ……、何を……」
されたかは至極単純であった。怪人の体当たりである。顔を上げた煉は先程まで自分がいた
位置に甲骨をまとう怪人がいるのを目にした。
「馬鹿っ速いじゃないか」
気を抜いていたわけではない。しかし距離を詰められた瞬間を目で捉えることができていなか
った。
「…………」
「?」
絶対的に優位にいる怪人が自分を見据えたまま巨角を指で示すのを怪訝な表情――顔は
超甲で覆われて見えないが――で見返していると、
「…………」
「ッ――!」
バーンフォウスに、いや煉に対して中指を突き立てる仕草をして見せた。それはつまり、
あの角で煉の女性を貫くというやつなりの挑発であった。
「――――下衆が」
腹の深奥で何かが熱く滾った。超甲をまとい始めて数ヶ月も経たない煉はいとも簡単に理性の
箍が外れ、本能に任せるだけの攻撃的な戦闘スタイルにシフトした。
――憎い
『……ん』
――父を殺したあいつらが
『れ……ん』
――母を殺したあいつらが
『煉……』
――やつらを殺すことだけを考えているのに
『煉さ……』
――さっきから耳に張り付く雑音は、何……?
「――ダメです、応答ありません!」
オペレーターの叫びが防衛企業特務課作戦司令室に木霊した。
「トランス状態に堕ちました!」
報告を受け、社長の顔が険しくなる。こうなってしまうと戦闘を終えるまでこちらから
できることは皆無である。煉を信じて待つしか、彼らにはできない。
今までも何度かトランスに陥っていたが、その都度危機を脱している煉の実績は驚嘆に
値するが、今度の相手は闘争本能に任せた戦い方では勝てないかもしれないと彼は考えて
いた。
「社長。先程からの戦術兵器開発部の轟博士のエマージェンシーはどうされます?」
「私が出よう」
戦闘中に煉へ呼びかけたのは、轟博士が緊急に煉と連絡が取りたいと要求があったから
である。攻撃が通用していないと兵器開発部へ即座に報告したところ、すぐさま返事があ
った。
『そんなこともあろうかとこいつを開発しといたのじゃ』
最強の台詞とともにバーンフォウスの新型兵器のデータが送られ、いざこれから……と
いう時になってのトランスであった。
煉の動向を見守りつつ、最悪の事態に備え何か手はないかと思案していた。
「はああぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」
愚直とも思えるほど煉は真っ直ぐ突っ込んだ。カブトムシ怪人はその巨体に似つかわし
く緩慢な動作で腕を振り上げ、煉が交差する一瞬を待った。
紅い弾丸が目にも止まらぬ速さで距離を詰める。タイミングを見計らう敵の腕が、まだ
待ち、待ち続け、そして、
「っ――」
轟音を上げ空気を切り裂き、いや空を切った。
「遅い!」
声がしたのは背後。踏み込む左足。捻る腰。振り返る暇も与えず力を込めた渾身の右拳が、
甲殻に覆われるカブトムシの背に突き刺さる。
「…………く」
突き刺さったと思われた拳は、怪人の固い外甲の表面で止められた。超甲に入る亀裂が
音を立てて一段と大きくなる。
もしその怪人が表情を浮かべるなら勝ち誇った笑みを顔中に滲ませているだろう。――が。
「うおぉぉぉぉぉぉっっっっ!!」
止められた動きを強引に再動させる。左足はコンクリートを踏み砕き、腰は限界まで捻り回す。
「――」
怪人は微かな呻き声を残し、振り抜かれたバーンフォウスの右腕から弾け飛んでゆく。大地を
転がる巨躯を立て直して顔を上げると、そこには始めと同じく炎塊が弾丸のように迫っていた。
怪人が腰を落とし一撃に備えるのと、一撃が腹を捉えたのはほぼ同時だった。
確実な手応えが豪拳に伝わる、勝利を手にしたと確信した瞬間、右腕全体に亀裂が拡がった。
「な……っ!?」
驚愕。そして一瞬の隙。刹那、バーンフォウスの胴を怪人の腕が締めつける。
「かはっ――」
肺の中の空気が絞り出され頭が真っ白に塗りつぶされる。意識が途切れかけるが、ぎりぎりと
締めつけられる背部の鈍痛がそれを許さなかった。
「くぁ……、はっぁ」
鯖折りから逃れようとするも右腕は戦えるだけの力がない。左腕だけで外せるほど敵の力も弱く
ない。
この時、煉はトランス状態から回復していた。一瞬意識が遠のいたために興奮状態が
醒めていた。そして、自分の愚かしさを激しく悔やんだ。一時の感情に任せたための失態、
しかも今回は致命的な結果を招いている。
「く、そぉぉ……っ――!」
己の愚行に打ちひしがれるのに追い討ちをかけるように、煉の腰が鈍い音を立てた。
(背骨が、砕けた……?)
自覚するが、不思議と痛みは感じられなかった。だがこれでもう戦えないかもという絶望
の感が煉に重く圧し掛かった。
怪人が腕の力を緩めると、煉の身体が面白いように力なくコンクリートの大地に崩れ落ちた。
転がる煉を足蹴にして仰向けにさせたカブトムシ怪人は、まるで値踏みでもするかのように
ねちっこい視線をその身体に落とした。その目に頭が熱くなるが、今度はぶち切れたりはしな
かった。代わりにどうすればこいつを倒せるか、それだけを考える。
右腕は使い物にならない。下半身も、腰から下は動かないかもしれない。本当に感覚がない
気がする。残されたのは……左腕。
(どうする? これだけで、どう戦う?)
いかにシミュレートしても有効な手は思い浮かばない。心は焦れ、自然と左拳に込められる力
も増し、それは見逃されはしなかった。
重量級の怪人の右足がコンクリート諸共煉の左腕を踏み砕いた。
「……はっ――」
一瞬間の後、断末魔の叫びが一帯の大気を震撼させた。
その悲鳴に司令室の多くの者――特に女性は耳を塞ぎ、モニターに映る凄惨な光景から
目を背けた。
「ぐ……っ。せ、戦闘時間、五分突破。右腕、腰部中破。左腕……大破」
ざっくばらんにスーツを着こなす青年がいち早く気を持ち直し、現在の煉の状態を苦しげに
報告する。
「社長! これ以上は生命に危険が」
「分かっている。木崎くん、轟博士に繋いでくれ」
「あ……は、はい!」
社長の一声がきっかけとなり全員が気を取り直した。新人ばかりのこの課において、今しがた
の映像は衝撃が大きかった。しかし、慣れてもらわなければ、困る。
「轟博士。例のあれは準備できましたか?」
『おお。ばっちりじゃ。今すぐにでもかっ飛ばせるぞい』
「頼みます」
それだけで通信を切る。司令の目はすでに正面の大画面モニターに映し出される怪人と煉の
姿に戻されていた。
「煉くん、あと少し……あと少しだけ耐えてくれ」
「――があああっっっっ!! っっっあああ!!」
左腕に走る激痛。頭を振り乱す煉の姿がその凄まじさを物語っている。
「……」
足元でもがき苦しむ彼女に向けられる視線はひどく落ち着き払っていた。冷静に煉のもがく
様を見ている。
「……」
ようやく動いたカブトムシ怪人の手が煉の腰、無数に亀裂が走る超甲へ伸ばされた。亀裂の
隙間に指を捻じ込み、力任せにそれを剥ぎ取った。
頼りない音を立てて剥ぎ取られた装甲が大地を転がる。白日の下に晒されたのは、女性らし
い艶やかな肌をした。首から上で醜く騒ぎ立てる女性とこの肌の持ち主が同じだというギャップ。
その差が怪人の変態的な欲情を駆り立てる。
「……」
腰から下を覆う装甲に手をかけ飴細工のようにそれを容易く剥ぎ取ると、薄い恥毛が茂る女性
が現れた。
「あ……っ、あ、……」
そんな辱めを受けても、煉は苦しげに呻くことしかできない。左腕から全身に広がる痛苦に犯さ
れ、もはや虫の息、といったところだ。
そんな状態に構うことなく、怪人の無骨で醜悪で汚らわしい指が彼女の女性部に這わされた。
撫で、さすり、強く抓りあげられようが煉の身体はまったく反応を示さなかった。
「……」
手を離したカブトムシの股間から長い肉塊がじゅるりと粘液を垂れ流しながら飛び出し、その身
を太く固く剛直にしていく。
未だ超甲に包まれる煉の脚を大きく開脚させ、すでに限界まで充血したものを彼女の秘孔へと
近づけた。
(私……どうなった、の?)
霧散する意識。白く染まる視界。左腕を締めつける激痛……いや痛みは感じなくなり
始めていた。まるで肘から、肩から先までが消失してしまったような感覚に蝕まれ、彼女
は堕ちていく気分に襲われた。
(――あ。触られてる……)
闘争心の剥げ落ちた頭が、今何をされているのかを冷静に伝える。まだ誰にも晒した
ことのない純潔な箇所をどんなに弄られても、闘う意思を忘却した彼女は立ち上がること
ができなかった
(……やだな。こんなところで終わるなんて)
心が拒んでも、身体がついてこない。敵に対する憎しみも、何もかもが消え失せていた。
しかし、せめて自分のバージンをここで喪失してしまうならいっそ、左腕と同じく何も感じな
ければいいのにと心の片隅で願った。
(………………あ、れ……)
そこで体感していることの喰い違いに気が付いた。左腕は潰された。だからあんなに痛か
ったのに、じゃあどうして腰は痛みを教えてこないのか。
「――――ッグ」
痛くない……なら、動くんじゃないのか。鈍い音を聞いて腰が砕けたと思い込んだだけ
じゃないのか。
「っあ、……く」
手にした一縷の望みは、彼女を奮い立たせるには十分すぎた。彼方に飛ばされた意識を、
闘うための勇気を引き寄せる。
「くっ、ど――」
一度は死んだ心が甦った時、彼女の腰から下は思い通りに動いた。太腿の間に身を割り
込ませていた甲殻生物の腹回りに両足を絡ませ、
「退けええぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!」
「……!」
腰を巧みに捻り、脚に挟んだ怪人を開放し竜巻のように吹き飛ばした。超速で身体を弾き
出された甲虫は地面を削りながら欠損した道路をどこまでも転がっていった。
息を荒げる煉は立ち上がり、腰に小さな痛みを感じながらもまだ動くことをようやく意識した。
右腕だって超甲が損傷しただけだ、動かせる。左腕も力強く握り締める。
「――ぁああっ!!」
まだ動くじゃないか!痛みを感じる、神経は通ってる。……闘える!
「はっ、はは……はははっ」
彼女は笑った。痛みで気が触れたわけではない。まだ闘えることが、人のために闘える
ことが、私怨を晴らせることが嬉しかった。
今度は感情に囚われない。溺れない。クールに冴え渡る意識に身を委ねる。ようやく自分
を取り戻したのと同時、通信が入った。
『煉くん』
聞き慣れた渋い男の声。戦闘中に聞くのはこれで何度目かである。
「社長!」
『説明している暇はない。轟博士に代わる』
『……よお煉くん、苦戦しとるようじゃのお』
「用件は何です? 急いでください」
『いやいや何とも魅力的な格好しとるじゃな』
「殴りますよ?」
『冗談じゃ。さて、そろそろ君の元に新たな力が届くはずじゃ』
「力……?」
轟博士の言葉どおり、それはすぐにやってきた。彼女の聴覚が、遠方から聞こえてくる
甲高い音を捉え、次第にそれが近づいてくる。耳を劈くほどの音響をともなった時、彼女
の前にそれはを大気を振動させて落ちてきた。というより地面に突き刺さった。
「な……っ?」
銀色に輝く物体。高出力のブースターによって強大な推進力を得たそれは未だに火を噴
き出し、その先端……ではなく本体は高速で回転している。螺旋を描いて刻まれた溝が円
錐状の体に巻きつくその様はまさに、
「――ドリル……?」
『そうじゃ! これこそ敵の装甲を貫く破壊力と男のロマンを兼ね備えた最強の兵器・ブース
タードリルじゃ!』
熱弁する轟博士に対し、いつもなら少し呆れ気味になる煉だが、今は心底感謝していた。
「これは……使える。ありがとう、博士」
目の前ですでに回転を止めたドリル、後部に取り付けられている火の噴きやんだブースター。
その中央に空けられている丸い空洞にひびだらけの右腕を突っ込んだ。中に挿し込んだ腕
が種々のケーブルに絡めとられ、きつく締め上げられる。
「んくっ……! き、つい……っ」
強度を失った超甲では耐え切れずに苦しげに漏らすが、腕を引き抜こうとは考えもしなかった。
完全に接続が終了した時、彼女の脳裏にこの兵器を扱うためのマニュアルが焼き付き、同時
に欠損、欠落していた超甲が活性化し、瞬時に再生していく。左腕の神経深くまで染み込んだ
痛み以外、違和は感じられない。
「セット!」
ドリルを装着した腕を振り上げて叫ぶと、一瞬にしてドリルが秒間五千回転という阿呆みたい
な最高回転速度に達する。
「行くぞぉ……っ」
今しがた吹き飛ばしたばかりの敵めがけ、煉は勢いよく突き進んだ。
「……」
どうにか体勢を立て直したカブトムシは、こちらに一直線に迫り来るバーンフォウスの姿を
捉えた。直線上から逃れようと身体を動かすが、思うように動かない。吹き飛ばされた衝撃で
身体の機能が狂ってしまったらしい。こうなってしまえば、後は自分が信じる強固な装甲で身
を守るしかない。
「……」
両腕を身体の前で交差させ、敵がどこを狙うのか確実に見極めて防ぐつもりだ。
「はあっ――」
引き絞られたバーンフォウスの右腕が突き出される。ドリルの切っ先、そこが狙っているのは
……胸。
「……」
冷静に対処する。切っ先が身体に触れる寸前、強靭な外穀に覆われる両腕を二人の隙間に
滑り込ませ、ドリルを完全に受け止めた。
瞬間、怪人の肘から先は粉砕された。
「……!」
「甘いっ!」
凶悪な回転を続けるドリルの先端が怪人の胸に捻じ込まれる。茶色がかった汚物が無数に
飛び散る。
「バーストッッ!」
怒号とともにドリル本体が爆炎に包まれる。貫かれた傷口が香ばしい音を立てて焼け爛れて
いく。バーンフォウスの能力を生かした獄炎の味である。
「ブーストォッッ!」
再びブースターが火を噴き始める。その威勢は飛んできた時の倍、数倍以上に膨れ上がっ
ている。
「吹き飛べ!!」
ブースタードリルは怪人の身体を貫いたまま、バーンフォウスの腕から飛び離れた。凄まじい
音を轟かせ空気を切り裂くその勢いに、強靭な外骨格に覆われていた怪人の身体は無残にも
粉となり、塵と化した。
「…………」
空に捧げる右腕に舞い戻ってきたのは、妖しいほどに光を放つ銀色の凶器だけだった。
空が橙色に染まるかという時刻、煉は自宅へ帰り着いた。
戦闘終了後、本部に向かってから体の熱を鎮め、負い過ぎた傷の治療をしてもらった。
「……」
左腕は肘から先まで包帯が巻かれている。外傷はほとんど癒えているが、神経が未だに
悲鳴をあげていた。数日はこのまま過ごすようにと念を押されて注意された。
「…………」
ひどく反省していた。今回もなんとか切り抜けたが、もしあの兵装が間に合っていなければ
自分は犯され、生命も奪われていただろう。
「はぁ……」
もっと自身の感情の制御を上手くしなければ……それが彼女の最大の課題である。
自室に入るとベッドに大の字に寝っ転がった。
「――あ」
そこで鞄を学校に置きっ放しであることをようやく思い出した。午後の授業を欠席してしまっ
ていたことも同時に。
「……参ったな」
これから取りに行こうかとも考えたが、すでに帰りのホームルームも終わっている時間だ。
今からのこのこと学校に出向くのも気が引けるし、何よりベッドに横になった瞬間から下腹部
がまた疼き始めていた。
「……ほんとに参った」
鞄は明日でいいか。今は腹の底で蠢く不快な欲求を解消しなきゃ――解消したい。
身体を丸め、水色縞柄のショーツを膝まで下げると、玄関からチャイムの音が聞こえてきた。
「――!」
さっとショーツを上げ制服の乱れを正すと、太一の部屋の前を通り階段を駆け下り玄関の
戸を開いた。
顔、ちょっと赤くないかな?という思いがよぎった時にはすでに戸を開け放っていた。
「よう」
煉の前に立っていたのは、肩を上下させ額に汗を浮かばせる涼だった。彼の熱気が彼女
の鼻腔をくすぐった。
どうして彼がここにいるのか分からない彼女が目を丸くさせていると、視界が真っ暗に覆
われた。
「お前の鞄。持ってきたぞ」
「え……、あ、うん」
突き出されたのは煉の鞄だった。おずおずといった風に両手で受け取った。
「早退すんのはいいけどな、鞄忘れていくなんてポカやらかすんじゃねえよ」
「ご、ごめん」
「……いいけどさ、別に」
存外に素直にしおらしく謝られ、居心地の悪さを感じた涼が言葉を付け足した。
「でも今日は部活があるんじゃないの? 持ってきてくれるなら涼が帰る時でよかったのに」
「ん? ああ、まあ……うん」
困ったように目を泳がせる涼を不審に思い見ていたところ、彼の目が鞄を手にする彼女の
左手で留まった。
「その手どうした?」
「これ? ちょっと捻っちゃって」
「気を付けろよな。どれどれ」
「あ――」
涼が煉の手を取ると、不意のことに驚いた彼女はその手を振り解いた。
「わ、悪い! そんなに痛がるって思わなかったから……」
「ちっ、違……」
歯切れ悪くもじもじと黙り込み、気まずい沈黙が数秒だけ流れた。
「俺……部活行くわ」
「う、うん……行ってらっしゃい」
じゃあと言い合い、煉は振り解いてしまった左手を振って涼を送り出した。彼が角を曲がり
完全に見えなくなったのを確認してから、煉は玄関の戸を閉めて家に戻った。
「はぁっ」
途端に腰が砕け、扉に背中からもたれかかった。最早立っていることさえ困難な状態である。
「やだ……」
スカートの中ではショーツがぐっしょりと濡れ、粘液が膝まで伝い流れていた。頭の中まで
刺激するような彼の汗の匂いと触れられた手の温もりが彼女の理性をがたがたにしてしまった。
自身の制御――を誓ったはずだが、これは、この想いだけは抑えることはできそうになかった。
今にも倒れそうな危な気な足取りで自室へと戻った。
(太一……帰ってこないよね?)
沸騰し蒸発し霧散しそうな意識の中で最後に思ったことは、唯一の家族にだけは自分の卑し
い姿を見せたくないな。という顧慮であり、そう思ってもやめることのできない自分への蔑みの
念だった。