まさか、こんな時間まで付き合わされることになるとは。  
 ――と、車道の脇に積まれた雪を見ながら彼は考え、小さくため息を漏らした。  
 その吐息の意味を追求するものは、車内にはいない。  
 車中。まだ高校生の彼では運転することは叶わない。技術があったとしても、免許を取  
れる年齢ではないし。免許を取る必要性も感じていなかった。  
 彼が乗る車には、当然の如く運転手がいる。  
 運転席に座る、彼と十も年齢が離れているように見えない、体格のいい青年は、謹厳さ  
を示すかのように唇を引き結び、ただ運転に集中していた。  
 青年が彼お抱えの運転手となって、既に二年と半月。  
 その間、彼らの間に私事に関する会話というものは存在していない。  
 彼にとって、青年はただの使用人――極端な言い方をすれば、道具でしかない。移動手  
段が必要であり、それを運転するものが必要。車という機械を動かすパーツ。  
 車にプライベートのことを話す変わり者は少ないだろう。  
 ただそれだけのこと。  
 流れる車外の風景をただぼんやりと眺めながら、彼はもう一度ため息をついた。今度は  
走行音に掻き消され、誰も聞くことはなかった。だから、共に漏れた呟きも、彼自身聞く  
ことはなかった。  
「退屈だ」  
 短い。ため息に紛れるほど短い呟き。しかし、それは正しく彼の心情の零れだった。  
 彼は退屈していた。  
 学生生活はそれなりに忙しく。今日のように友人から誘われれば夜の街へも出歩き、朝  
帰りになることも。するべきことは多々ある。それこそ、退屈を感じる隙すらないほどに。  
 雲によって覆われていた月が、夜空に現れた。街灯の光が眩しい。  
「むっ」  
 無言を保っていた青年の口唇が開き、呻いた。  
 車は一段速度を落とした。  
 どうしたのだろうか? 彼は気になり、青年同様前方の夜の闇を見た。  
 そこに一点の光。  
 バイクのライトだろうか?  
 だとしたら光が小さい。  
 距離が縮まっていくほど、青年は恐れるように速度を弛めた。  
 とろとろと走る車を避けるように、一台の自転車が走っていった。  
 自転車が後方に消えるのを確認して、青年は速度を速めた。  
「ああ、新聞配達か」  
 ぼそりと彼が呟くと、  
「そうでしたか。そこまで見ていませんでした」  
 とだけ青年は応えた。  
 二年と半月、初めての雑談だった。  
 彼はまだ白む気配すらない闇の中へ消えていった自転車、その乗り手へ心の中で『真似  
できないな』と賛辞を送った。  
 退屈な。飽きるほどに忙しく、死にたくなるほどに退屈な日々の、一行にすらならない  
出来事。  
 ――だが、変転の機会は、どこに落ちているか分からない。  
   
   
***  
 
 
「パン喰い競争にすべきです!」  
 それまでの議論が嘘のように静まり返り、その場にいた人々は、その発言の主を見てい  
た。  
 どこかその少女は猫を想起させた。それも家猫ではなく、そうした上品さや優雅さとは  
縁遠い野良の猫。  
 それは起きてから十時間は経っているのに直らない寝癖のせいかもしれないし、爛爛と  
輝く大きな瞳のせいかもしれない。  
 拳を強く握り高く天に突き出した格好で、発言の主である少女ははたと周囲からの視線  
に気付き、健康的な色の肌を赤くし、着席した。  
 静まり返ったままの豊峰高校生徒会室。  
 その静寂を破ったのは、先の少女の隣に座った麗貌の少年は、わずかに口はしを弛め、  
こほんと咳をしてみせた。  
 わざとらしく、年齢に似合わない動作だというのに、どうにもしっくりときていた。  
「球技大会の種目については、各部――というより、生徒のみんなの意見も取り入れるべ  
きだと僕は思うから。まあ、ここではひとまず結論は先延ばしにして。可能な種目、避け  
るべき種目などを考えることとしよう」  
 落ち着いた。まるで湖に水滴が落ちたかのような声音だった。  
 それまで紛糾していたはずの生徒会会員たちは、一人また一人と頷き、同意した。  
 そこへ、  
「まあ、球技だから、流石にボールを使わないパン喰い競争を考えに入れるわけにはいか  
ないけどね」  
 と付け足すと、場の空気はほぐれ。後の会議はつつがなく進行した。  
 問題があるとすれば、一つ。  
 俯いた少女の頬に更に赤みがましてしまったことくらいのものだ。  
   
   
「さっきは悪かったね」  
 書記がまとめた会議の内容を思い出せる範囲で補足しながら、少年――豊日夕陽は清掃  
を行っている少女へ言った。  
「ふぇ?」  
 少女――菊地芽衣は雑巾で窓を拭く手を止め、振り返った。  
「菊池さんに恥をかかせる形になってしまって」  
「い、いえそんな」  
 先ほどの、会議中の芽衣の発言は夕陽の指図だったのだ。  
 机の下で交わされた一通の筆談。『みんなの注目をひいて』たったそれだけでの指図で、  
芽衣は夕陽の求めるところをなした。  
 普段のおっとりさとは裏腹に、芽衣は状況判断力とでも言うべきか。言葉一つ、動作一  
つで相手の求める行動を判断できる少女だった。  
「あんなことくらいならいつでも」  
 とんと威勢良く薄い胸を叩き、芽衣は満面の笑みをみせた。  
「お役にたてたのなら、それで」  
「そう」  
 夕陽もまた、静かに微笑みを浮かべた。  
 そこには芽衣への信頼がありありと見えて、芽衣の表情が一段と弛んだ。  
 二年前に創立したばかりの豊峰高校。生徒会も、できて二年目。夕陽は初代生徒会長と  
して去年就任し、今年も継続して生徒会長を務めている。  
 できて日の浅い生徒会へ与えられるのは――無理難題。  
 生徒の自主性を尊重する。  
 という名目で必要最低限の介入しかしてこない教師連中は、気がつけば年中行事の取り  
決めまで生徒会に一任していた。  
 
 そのことについては、放任主義だの、教師のやるきがないだのと言われていたが。だか  
らといって校則が厳しいわけでもない。  
 一例として、アルバイトは原則禁止され。発見されれば、学校側から雇用者へ辞めさせ  
るよう圧力がかけられるようになっている。  
 放任か。  
 拘束か。  
 どちらでもあり、どちらでもない。手探りの状態なのだ。  
 ルールを作っていく最中にあって、生徒会長を務め、教職員側と生徒側との間に立たさ  
れている夕陽の苦労は並大抵のものではないはずなのだが。夕陽はどこか余裕をもった態  
度でそれをこなしていた。  
 それを傍から見ているからこそ、芽衣は夕陽の言葉に素直に従えたし、そこに喜びを見  
出すことできた。  
 たった一つしか違わないというのに、間の抜けた自分とはどこまでも違う先輩。  
 そんな先輩の助けができているというだけで、芽衣は幸福であった。  
 最初は嫌々で始めた生徒会職であったが、今では芽衣は生徒会の誰より、熱心に仕事に  
励むようになっていた。  
 中学のころまでは、生徒会のような奉仕活動には興味なかったのだが――変化のきっか  
けはどこにあるか分からない。  
 夕陽は一瞬だけ、芽衣から視線を反らし、僅かに開かれたままの扉のほうを見、戻した。  
 ノートを閉じ机の上に放り出すと、夕陽は囁くように命じた。  
「見せて」  
 たったそれだけの指示。  
 芽衣の顔に赤みが増したが、それは些細な変化だ。  
「……はい」  
 掠れた声で返事をする芽衣は、「あ」とあることに気がついた。  
「あの、先輩」  
「うん?」  
 夕陽はゆったりと木製の椅子に身を預け、脚を組んだ。  
「扉を、鍵を締めていいですか」  
「ああ」  
 夕陽は芽衣の言いたいことを理解した。放課後になると、特別教室しかない四階を訪れ  
るものは少ない。特別教室を使う部活に所属する生徒や、生徒会員くらいの者。といって  
も、生徒会室の前を通る者が全くのゼロというわけではない。  
 偶然人が通り、わずかに開かれた隙間から生徒会室の中を覗くかもしれない。その可能  
性は極僅かだが、存在している。  
 芽衣はその可能性に恐怖し、それによって夕陽と自分の関係がばれることを酷く懼れた。  
 だが、  
「駄目だよ」  
 夕陽はそんなことは気にならないというように、平然と言葉を返した。  
「……でも」  
「少し危険性があったほうが、面白い。そう、思わないかな」  
「おもしろ……って」  
 芽衣の顔が僅かに歪む。  
 明らかな反抗の意思だったが、夕陽はそれすら愉しむように微笑みを深めた。  
「そう、きみはこの僕に雇われている。なら、クライアントの要求に応えてみせるのが雇  
われ者の矜持というものだろう」  
 それは微笑とは呼べない、呼んではならない類の表情なのかもしれない。それほどまで  
に夕陽の微笑には、暗い色が滲んでいた。  
「それとも、雇用関係を白紙に戻したいのかな」  
 
 その言葉の銃弾によって、芽衣の顔から躊躇いは消え、代わりに悲壮なまでの驚きが浮  
かんでいた。  
 芽衣は先ほどまでとは違う歪み方の顔をして、左右に二度ほど首を振った。  
 夕陽はそれを鷹揚に頷き、受け入れた。  
 彼は意地の悪い表情を垣間見せる時もあったが、従属している限り、どこまでも、誰相  
手でも優しい。  
「なら、ほら、僕の前に来て」  
「……はい」  
 芽衣は、それを夕陽の懐の深さだと思っていた。  
 ――けれど、今では、そうではないのだと理解した。  
 夕陽は、眼前にて賢君の如く座る少年は――  
「さあ」  
 夕陽が促すと、芽衣はもう口を挟むようなことはしなかった。  
 芽衣は膝丈のスカートの裾を抓むと、ゆっくりと引き上げていく。  
 震える指先によって、徐々に露になっていく白い腿。  
 余分な肉はついておらず、かといって鍛えられすぎてもいない細い脚に触れてみたいと  
夕陽はどこかで思った。しかし、未だそうしたことはなかった。  
 スカートはゆっくりと上がっていき、そうして露になったのは、下着ではなかった。  
「……っ」  
 芽衣が小さく呻き。  
「綺麗だ」  
 と夕陽が賞賛した。  
 芽衣は夕陽の顔を、姿を直視していられず、俯き眼を反らした。  
 露になった芽衣の下半身。高校一年になっても陰毛は生え揃っておらず、僅かに産毛が  
あったのみ。それも、夕陽の指示によって剃らされ、今では無毛。  
 少女の深い切れ込みを夕陽は椅子に座ったまま眺め、少しの間沈黙していた。  
 夕陽のどこか灰色がかった瞳は、遠慮なく芽衣の身体を視姦し。なにより、羞恥によっ  
て赤く染まり、震えをきたす少女の表情を愉しんだ。  
 きつく引き結ばれた口唇は、紅を塗っていないのに鮮やかな色をしている。  
 その唇はどんな味がするのだろう? どれほど柔らかいのだろう? 夕陽は頭の中で夢  
想し、芯が熱くなっていくのを感じた。  
「芽衣」  
 短く名前を呟いていた。  
「……はい?」  
 恐れと怯えをない交ぜにした声で応える。  
 しかし、夕陽はその先を用意していなかった。ただ名前を言ってみたかった。その音を  
確かめてみたかった。  
 だが、命令を待つ犬のように返事をしたきりの芽衣に、なにか言おうとして、夕陽は頭  
を巡らせた。  
 考え浮かぶのは、十七の少年らしい純粋な肉欲に乗っ取った要求。  
 芽衣に触れてみたかった。  
 掴めるほどもない胸を撫でてみたい、キスを交わしたい、手と手を握りあってみたい、  
そのふっくらと隆起した姫肉を押し割り挿入したい、とも。  
 ――けれど、夕陽は、そうはしなかった――いや、できなかった。というべきだろう。  
 短く息を吐き、興奮する脳を静め、夕陽はブレザーのポケットからあるものを取り出し、  
机の上においた。  
 それは、首輪。  
「これを、きみにプレゼントしよう」  
「――え?」  
 
 跳ね上がるように芽衣は夕陽のほうを見た。そして置かれた首輪を見て、絶句した。  
 それは見ようによっては、いや邪な気持ちがみれば、ただの可愛らしいアクセサリーに  
も見えた。  
 けれど、その中央に取り付けられた小さな鈴が、首輪だということが、二人の関係が、  
それをただのアクセサリーには見せなかった。  
「これからは、ずっとこれを付けていて」  
 優しく命じる夕陽に、しかし、芽衣は直ぐには応じれなかった。  
「それは……」  
「ん?」  
 勇気を振り絞るようにして、芽衣は夕陽に聞いた。  
「それは、どうして、ですか」  
 漠然とした、あまりに漠然としすぎた問い。  
 夕陽には充分通じた。  
「そういうことではないよ。別に、きみのことを奴隷やペットのように扱うというわけじ  
ゃなくて。これは、そう、きみに似合うと思ったから買ってきただけ。きみが付けたくな  
いというのなら、強制はしないよ」  
「そう、ですか」  
 夕陽がこれまで芽衣に命じてきた事柄は、確かに奴隷へのそれではない。この契約を提  
示された時、芽衣が考えていたようなことはされていない。  
 夕陽はただそれだけで満足だというように、芽衣には触れず、ただ眺めるばかり。  
 だから芽衣も従ってこれた。  
 そこへ投じられた一つの首輪は、それを壊すようなものに芽衣には見えてしまった。  
 即応せず、ただ沈黙するばかりの芽衣。  
 夕陽はわずかに微笑みを薄め、残念そうに息を吐いた。  
「……いや、なんでもない忘れてくれ」  
 そう言い、首輪を引っ込めようとしたが――それを芽衣の手が止めていた。  
 夕陽は弾かれたように芽衣の顔を見た。  
 芽衣は夕陽の手を掴んだまま、口を猫のように弛め、にっと笑うと。  
「つけます。というか、つけさせてください」  
 慌てた口調で言った。  
 夕陽は困惑した顔で芽衣を見て、  
「いいのかい?」  
 と短く聞いていた。その言葉は、この少年にしては珍しく自信がなさげであった。  
 芽衣はその掌の熱さで保障するというように、夕陽の手をぎゅっと握り、頷いた。  
「先輩が、わたしのために買ってきてくれたんですよね」  
「ああ」  
「なら、欲しいです。絶対」  
 そう言う芽衣の表情に、夕陽の表情はやわらぎ、少し苦笑が浮かんだ。  
「それなら良かった――ところで」  
「はい?」  
「痛いから、そろそろ手を離してくれない」  
 夕陽がそう言うと、芽衣は大慌ててで夕陽の手を離したのだった。  
 首輪は芽衣によく似合った。  
 夕陽は特別感想は言わず、楽しそうに表情を明るめた。  
 二人は笑みを交わし、そうして  
「じゃあ、今日はもう遅いし、帰ろうか」  
 夕陽がそういうと、芽衣は少し残念そうに  
「はい」  
 と応じた。  
***  
 
 芽衣と夕陽の変わった関係が始まったのは、春のことだ。  
 夕陽が高校二年となり、芽衣が入学してきた、その春。二人は偶然――いや、必然的に  
出会った。  
「校則違反?」  
 夕陽は祖母であり、豊峰高校の理事長である豊日芳香にそう問い返した。  
『ええ、そうなの。アルバイトをすることを校則で禁止しているでしょう?』  
「アルバイトしている人がいるのか」  
 夕陽は興味無さそうに呟いた。  
「でも発覚したのなら、それはもう教職員側で判断すべき問題じゃないの?」  
 電話越しのため、祖母の表情は見えない。今は確か、ヨーロッパのほうへ行っているは  
ずだ。  
『私の学校はまだできたばかり、ルールはこれから作っていく――だから、貴方に一つお  
願いしたいの』  
「なにを?」  
『その子の動向、様子。簡単にいってしまえば、その子がどういった子なのか調べてほし  
いの。学生生活に支障をきたしているのなら注意を、そうでないようなら見なかったこと  
にするわ』  
「ルールを考えた人が、まずルールを破る、か」  
 皮肉気味に夕陽は口はしを歪めた。  
『……そう言わないで』  
「ごめん、お婆ちゃん。でもさ」  
『分かっているわ、言われなくても。……でもね、私の生徒たちには学生時代を謳歌して  
ほしいの。私の、代わりに……』  
「お婆ちゃん?」  
『なんでもないわユウくん。お願いね』  
 夕陽は断ることができず、祖母からの依頼を引き受けた。  
 それは肉親からの依頼だったからというわけではなく、そうしていれば少しは退屈が紛  
れるのではないかという、そんな期待からだった。  
 その少女が新聞配達のアルバイトをしている理由は、直ぐに分かった。単純な、それ故  
深刻な理由だ――生活費を稼ぐ為。  
 菊地芽衣。  
 母一人妹一人の母子家庭、三人家族。父は離婚した形跡もなく。噂の領域をでないが、  
芽衣とその妹和葉の父親は違うとも。  
 母はスーパーでパートをしているようだが、それだけでは生活費が足りないようで。ま  
た援助してくれる親族もいないようで、国から生活保護を受けているようだ。  
 夕陽は一度芽衣の暮らす家までいったが、それは予想に違わないものだった。  
 夕陽の祖母が生まれるよりも前に作られていそうなおんぼろアパート。  
 アパートの前で遊んでいた和葉に取り入り、家に上げてもらいもした。  
 そうして、芽衣のことを調べ上げるのに一週間。祖母から依頼を受けて一週間経って、  
ようやく夕陽は芽衣に会いにいった。  
 夕陽に会い、アルバイトしていることを口外しないようにと忠告し、それで依頼を完了  
しようとしたのだが。  
「驚きました」  
 生徒会室につれてこられたからか、芽衣はどこか緊張した顔でそういった。椅子に座っ  
てはいたが、どこか落ち着かないのか、そわそわと身体を動かしている。  
「悪いね。突然呼び出してしまって、きみにも予定があるだろうに」  
「いいえ、大丈夫です」  
 芽衣はちらちらと夕陽の顔を見ながらも、えへへと時折笑みをこぼした。  
「豊日先輩とお話する機会があるなんて、考えもしませんでした」  
 
「そう?」  
「はいっ」  
 芽衣は勢い良く答え、頬を、というか顔全体を弛めた。  
 そんな芽衣の様子に疑問を抱きながらも、夕陽は口せず、適当な言葉で繋いだ。  
「まあ学年が違うからね」  
 それで、この話を終わらせ、本題に行こうとしたのだが――  
「嬉しいです、わたし。ほんと、先輩みたいな凄い人と話せて!」  
「……凄い?」  
 そう言われるような心当たりは、あった。  
「ああ、確かにうちの家柄は凄いし、ここの理事長の孫だし、生徒会長をやってる。でも  
それらは褒めるに値しない事柄だ」  
 夕陽はつまらなさそうに芽衣に言った。  
 眼前にいる少女もまた、夕陽を取り巻く『退屈』な連中の一人なのだ――と、落胆した  
ように。  
 だが、  
「そうじゃなくって」  
 芽衣は身を乗り出して、興奮した様子で言った。  
「この前見てました、先輩が怪我した猫助けてたところ」  
「ああ、そういえばそんなこともあったか」  
 退屈を紛らわすただの気まぐれ。  
 だが、芽衣は夕陽のそんな気持ちを知らない。  
「野良猫って怪我しちゃうと、カラスとかに襲われたりしちゃって、そのまま死んじゃう  
ことが多いんですよ」  
「ふうん、そうなんだ」  
「はいっ」  
 元気良くいう芽衣に、夕陽はなんとなく申し訳なさを感じ、言う気のなかった言葉を言  
っていた。  
「別に……別に、博愛主義で助けたわけじゃない。偶然、弱ってるところ見つけたから、  
助けただけだ」  
 夕陽がそういうと芽衣は少し不思議そうにしたが、だからといって夕陽への評価が変化  
した風でもなかった。  
 芽衣はそれに、といった。  
「和葉と遊んでくれたんですよね」  
「……っ」  
 夕陽は眼を見開き、芽衣の顔をまじまじと見た。  
「それは……」  
「あの日は、わたし、お母さんの知り合いの人のお店を手伝いに行っていたんです。それ  
で帰り遅かったから、和葉一人でも大丈夫かなあって心配してたんです」  
「そうか……」  
 芽衣はどこか嬉しそうに言葉を紡いだ。  
 その反応に夕陽は安心しそうになり、慌てて気を引き締めた。別に友だちになりにきた  
わけではない。  
 言わなければならないことがある、妹と知り合っているということで、自然に言える。  
猫のこともそうだが、どこで何が功をそうすか分からないものだ。  
「和葉さんから聞いたんだが」  
「はい?」  
「菊地さん、校則でアルバイトが禁じられてるの知ってるよね」  
「……あ」  
 沈黙が二人の間で流れた。  
 それを破ったのは夕陽だ。  
 
「でも、まあ、別にこのことを祖母や教師たちに言う気はない。きみの家庭環境は分かっ  
ているつもりだ、故にアルバイトしているということも」  
 芽衣は柔らかそうな唇を堅く引き結び、膝の上で強く手を握り締めていた。  
 夕陽は、これで彼女と関わるのも最後かと思うと、少し残念な気分に陥りそうになりな  
がらゆっくりと口唇を開き――その時、先に口を開いたのは、  
「分かりました」  
 芽衣だ。  
 芽衣は顔を上げると、強い意志を秘めた双眸で夕陽を睨みつけ、言った。  
 それは夕陽の考えの斜め上の言葉だった。  
「好きに、してください」  
「……は?」  
 驚く夕陽を前にして、芽衣は立ち上がるとブレザーを脱ぎ、ブラウスのボタンに手をか  
け上から一つずつ外していき――  
「待てっ」  
 夕陽はそれを言葉で止めると、椅子から立ち上がり、床に落ちた芽衣のブレザーを拾っ  
た。  
「なにを言い出すんだ、きみは」  
 芽衣はすこしばかり驚いた表情を浮かべていた。  
「で、でも。先輩の言ったこと、そういうことじゃ」  
「違うっ」  
 強く否定すると、芽衣はしゅんとしてしまった。力なく椅子に座り、まるでくたびれた  
ぬいぐるみのようだ。  
 夕陽は芽衣に押し付けるようにしてブレザーを返すと、肩を竦めた。  
「そんな積りはない。僕が言いたいのは、ただ、アルバイトしていることを知られないよ  
うにしろ、ということだ」  
 そこまで言い切ると、夕陽は念を押すようにして。  
「分かったな」  
 と強く言った。  
 芽衣は言葉もなく、頷いた。  
   
   
***  
   
「お婆ちゃん、言われてた件だけどさ」  
『その言い方だと、何かまずいことでもあったようね』  
「いや。何も……何も問題はない」  
『あら、そう? ――まあいいわ、ご苦労様。』  
   
   
 それで、彼と芽衣の関係は終わるはずだった。  
 ただ、同じ学校に通う同士というだけで、それ以上でもそれ以下でもない、たったそれ  
だけの繋がりになる――はずだった。  
   
***  
 
 もう夏になろうかという季節だった。  
 夕陽が家に持ち帰るのも面倒だと、生徒会室で幾つかの資料をまとめていると、コンコ  
ンと扉がノックされた。  
「――ん? どうぞ」  
 誰だろうか?  
 生徒会員や教職員ならばノックはしないし。普段一般生徒が生徒会室を訪れるようなこ  
とは殆どない、いずれかの部活のメンバーが部活動費の値上げを訴えにくることはままあ  
ったが。  
 扉を開き、現れたのは――  
「ああ、きみか、久しぶりだな」  
 ――芽衣だった。  
「お疲れ様です」  
 芽衣は以前会った時には見せなかったほど深刻な顔で、その唇から放たれたとは思えぬ  
ほど暗い声で、夕陽の前に現れた。  
「ああ」  
 夕陽は頷き、手で椅子を指し示した。何か話があって来たのだという事は分かった、そ  
うでなければ芽衣が生徒会室を訪れる理由がない。  
 椅子へとあるく芽衣を見て、夕陽は違和感を――いや、違和感というには余りに判りや  
すい。  
 芽衣の膝に、包帯が巻かれていた。  
 無言のまま椅子に腰掛ける芽衣。  
 夕陽は沈黙を嫌い、訊いた。  
「その脚はどうしたんだ?」  
「……」  
 芽衣は床を睨み付けたまま、答えることはなかった。  
「まあ、なんにせよ早く治ることを祈るよ。そんな脚じゃ、新聞配達は大変だろう」  
「……全治三週間」  
「そうか、それはまた」  
「一週間、学校を休みました」  
 芽衣の言葉遣いに、夕陽は違和を感じた。前のどこか能天気な印象はなくなり、どこか  
ささくれだっているように聞こえた。  
「その間、ずっと考えました……」  
「? ……なにを」  
「わたしの家、貧乏だから、お金がないから。わたしのバイト代がないと、ご飯が食べら  
れなくなるんです。それに……」  
 芽衣はお腹を押さえつけるようにして拳を強く強く固めた。  
「妹の、和葉の、修学旅行のお金も払えないっ――だから」  
「だから?」  
 夕陽が問い返すと、芽衣は夕陽を睨み付けた。その瞳は、夕陽ですら畏怖を感じるほど、  
強く激しく滾るほどに芽衣の感情の焔が燃えていた。  
「お願いしたいことがあるんです」  
「お願い?」  
 芽衣は夕陽の瞳から眼を逸らさず、頷いた。  
「どうか……どうか、断らないでください、受け入れてください」  
 夕陽は言葉もなく、芽衣を見続けた。  
 恐怖を感じるほどのプレッシャー、しかし、それから何故か目を離すことができなかった。  
「先輩はお金持ちです。わたしなんかじゃ、きっと、想像も、考えることすらできないよ  
うなほど、いっぱいいっぱいお金をもっているはずです。それを、どうか、わたしにくだ  
さい。沢山とは言いません、先輩が渡してもいいと思う分だけでいいんです。それをどう  
か、わたしに恵んでください!」  
 
「――なっ!?」  
 芽衣は、松葉杖の力を借りて立ち上がると、夕陽のほうへよたよたと歩き、その間も懇  
願し続ける。  
「ただで、とは言いません。どんなことでも、先輩が望むなら土でも食べます、だから」  
 夕陽はまるで、魅入られたかのように動けずにいた。  
 芽衣が崩れるように、夕陽の前に座り込む。  
 松葉杖が、渇いた音をたてて転がった。  
「お金を、ください」  
 沈黙の帳が落ちた。  
 芽衣は夕陽の返答を待ち。  
 夕陽はただ、どうしたらいいか判らず、声を発することもできなかった。  
 静かに、陽が沈みゆく。  
 どれほど沈黙していただろうか、あるいは一瞬のことだったのかもしれない。  
 沈黙に痺れを切らし、動いたのは芽衣だ。  
 芽衣は夕陽の下腹部に手を伸ばすと、ぎこちない動きで、ズボンのチャックを下ろした。  
 そうされて黙っている夕陽ではない。  
「待て。待て、落ち着け」  
 しかし声ばかりで、動くことができない。芽衣の目の魔力は解けていない。  
「落ち着いてます」  
 芽衣はズボンの中から夕陽の、縮こまった陰茎を取り出すと、少しだけ微笑んだ。  
「先輩の、可愛らしいですね」  
「……や、やめろ」  
「あ、でも……ふふ、すこしずつ大きくなっていきますね」  
 芽衣に撫でられながら、夕陽のそれは硬度を増していく。  
「何を考えているんだっ」  
「何って、ですから、援助をお願いしているんです」  
「なんで、俺なんだ……」  
 芽衣は口の中でああと呟き。  
「だって、みんなみたいに知らない人としてお金貰うのは怖いですし、失敗する危険だっ  
てあります。それに色んな人としてたら、お母さんとか、和葉にばれちゃうかもしれない  
し。だから」  
「僕、というわけか……」  
「はい」  
 芽衣は笑みを浮かべて頷き。  
「それに……」  
「……ふざけるな」  
 芽衣の言葉が終わる前に、夕陽は顔を歪めてそういった。  
「ふざけるんじゃないっ。僕がそんなことを、下衆なことを承諾し、行うような男だと、  
きみはそう考えているのかっ、菊地芽衣っ」  
 夕陽の豹変に、芽衣は当惑したような表情をみせ、応じるのに時間がかかった。応じよ  
うと口を開こうとして、機先を制される。  
「だとしたら、僕はきみへの評価を改める。少なくとも、僕は僕を下賤だと判ずるものと  
馴れ合う積りはないっ」  
 怒鳴り、夕陽は立ち上がって芽衣から離れた。  
 外に出されたままの陰茎をズボンの中に戻し、夕陽はまだ明るい五時の空を睨みつけな  
がら、芽衣に向かって叫んだ。  
 
「どうしても金が欲しいというのならば、正当に働き報酬を得ればいい」  
「……でも、この脚じゃ」  
 消え入りそうな芽衣の声。夕陽は頭を巡らせ、思考を回し、一つ結論を得た。  
「なら、僕の、生徒会の仕事を手伝え菊地芽衣」  
「……ふぇ?」  
「まだできたばかりの学校だ。やるべきことは多々存在している、それをこなしてみせろ」  
   
   
 ――それが、最初の契約だった。  
   
   
***  
   
   
 それまで空いていた副会長のポストに就くと、芽衣は他の生徒会員以上に働いてみせた。  
 夕陽は退屈を購うための仕事を獲られ、更に退屈になるかと思われたが、そうはならな  
かった。  
 副会長となったことで、芽衣は常に夕陽の傍に侍り、夕陽を退屈させることはなかった。  
 他愛のない雑談であったり。表情や、ちょっとした仕草であったり。夕陽はいつのまに  
やら、芽衣の動きを追うようになっていた。  
 だから、そのことを知ったとき、夕陽は多少不愉快になった。  
「……告白されたそうだな。一年四組の山下和幸とかいう男に」  
 二人だけの生徒会室、過ぎる時間を黙々と過ごしていた。  
 唐突な言葉に、芽衣はぽかんとした顔で夕陽のことを見た。少しして、言葉を理解した  
のか、ああと頷いた。  
「されましたねえ」  
「……それで」  
「はい?」  
「だから、それで」  
 夕陽の言葉に、芽衣の口唇がにやにやと歪む。  
「なんですか?」  
 夕陽は握っているシャープペンシルを握りつぶさんばかりだ。  
「…………受けたのか?」  
 芽衣は試験勉強の続きを始め、夕陽の言葉をスルーして、違うことをいった。  
「そういえば、今日はお給料日ですね」  
「答えろっ」  
 芽衣はようやく顔をあげると、にっこり微笑み。  
「お給料が先です♪」  
「くっ……」  
 夕陽はブレザーのポケットから財布を取り出すと、そこから茶封筒を抜き出し、芽衣の  
前に叩き置いた。  
 その中には八万入っている。  
「ありがとうございます」  
 芽衣はそれをそそくさとしまいこみ――勉強を再開した。  
「おいっ」  
「なんです?」  
「教えろっ」  
「なにをです?」  
 どうやら芽衣はしらを切りとおすつもりだと分かって、夕陽はちっと舌打った。  
 夕陽をからかえるだけからかって満足したのか、芽衣はうんと頷き。  
 
「ねえ先輩」  
「うん?」  
「先輩は誰かと付き合ったりはしてないんですか?」  
 夕陽は面倒くさそうに「興味ない」とだけ答えた。  
「それって、女の子にってことですか?」  
 大げさに驚いてみせながら、芽衣がそういうと、夕陽は苛立ちを隠さず答えた。  
「違う」  
 シャープペンシルを机の上に放り出し、夕陽は頭を掻いた。  
「そういう、交際したいと思うような女がいなかったというだけだ」  
 それは、今では、嘘だった。  
 だが、真実をおいそれと口に出せるほど、夕陽は素直にはできていなかった。  
「ふうん」  
 芽衣は一応納得はしたようではあった。  
「じゃあ、フリーか」  
「うん? なんだって?」  
「いえ、なにも」  
 芽衣が適当にごまかすと、夕陽はまた不機嫌そうに舌打ちした。  
「じゃあ、女の子の身体には興味あるんですよね」  
「……それが?」  
 芽衣は教科書を閉じると、夕陽の眼を眼で捕らえた。  
「今度、妹の誕生日なんで、もう少し欲しいなあって、そう思いまして。ですから……少  
し、上乗せして欲しいなあって」  
「いくらだ?」  
 夕陽は面倒そうに答えた。もう財布を覗き込んでいる。  
「コレに、いくら払えます?」  
「――ん?」  
 唐突に、夕陽の手元に何かが投げられた。  
 夕陽はそれを見て、絶句した。  
 芽衣が立ち上がり、夕陽の目の前に立った  
 驚きで言葉を失った夕陽が見たのは、  
「先輩」  
 下着に包まれていない、白い肌。  
「なっ――」  
 思わず、財布から一万抜き出していた。  
   
   
***  
   
   
 それから、芽衣の給料は二万ほど増額した。  
 新聞配達をしていたころと比べると、芽衣たち親子の生活は格段よくなっていた。それ  
は芽衣が着けている下着からも分かった。  
 けれど、二人の間には肉体関係はなく、あくまで見せるだけ。  
 それは夕陽のプライドかも知れないし、度胸がないだけかもしれない。どちらにせよ、  
今はそれでいいかと芽衣は考えていた。夕陽が自分のことを大切に想っていてくれている  
のに代わりはない。  
 今日も芽衣は夕陽は要求に応え、彼の前で裸身を晒す。  
「ねえ先輩、もう一枚増額してくれたら、……してあげ」  
「うるさい黙れ、それ以上行ったら減額だ」  
「む、なら二枚減額してもいいからしようよ。ね?」  
 夕陽は芽衣と会って以来困らされてばかりだが、しかし、少なくとも、退屈することは  
なくなっていた。  
 
 
〜おしまい〜  
 

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