――A――  
   
   
 早朝、俺は会社へ向かうため地下鉄の駅へと向かっていた。  
 大学を卒業してはや一年と二ヶ月、なんとかみつかった就職先は自宅から地下鉄の駅三  
つほど離れている。  
 片道二百円程度の距離、最初の内は、仕事に慣れてきたら自転車通勤もいいかなと思っ  
ていた。  
 けれど今はもうそんなことは考えていない。  
 最初の一週間は大変だとは思っていなかったが、一週間過ぎてからが大変だった。  
 仕事を覚えたとみなされ、大量の仕事をまわされ、正直自転車通勤なんて考えられない  
くらいぐだぐだに疲れてしまっているからだ。  
「……はぁ」  
 意識せず暗いため息がこぼれた。  
 正直、就職したの間違いだったんじゃないか。  
 ――そんなことを考えていた時だった、唐突にくすくすと笑う声が聞こえたのは。  
「え」  
 振り向くと俺の真横を一人の女性が歩いていた。  
 瀟洒に漆黒のスーツを着こなすボブカットの女性――、  
「あ、尾藤先輩」  
 俺が勤める会社の五年先輩の尾藤鐘(びとう べる)。  
 尾藤先輩は水鳥のような口元に苦笑を浮かべて言った。  
「『あ、尾藤先輩』じゃないでしょ? 会社の先輩に会ったらまずなんていうのかな」  
「おはようございます」  
「よろしい」  
 そういって満足げに頷き。  
「おはよう、安西くん」  
 そういって笑う表情には暗さがない。  
 俺が知る限り尾藤先輩は、その持ち前の爽やかさと明るさを表情から消したことがない。  
 他の先輩たちは仕事量とそれに比例する疲労の量からか、一様に疲れていますっていう  
のを表情、というか身体全体から滲ませているのだが。  
 なぜか尾藤先輩だけは常におだやかで、いつも変わらずさわやかなのだ。  
 だからといって尾藤先輩だけが楽している、ということでもなく。俺が知っている範囲  
において、尾藤先輩が一番働いている。  
「随分疲れた顔してるじゃない」  
 尾藤先輩が不意にそう聞いてきた。  
 俺はなんて答えようかと迷ったが、素直に頷いた。  
「情けない話ですけど、疲れてます」  
「でしょうね」  
 そういって尾藤先輩は頷いた。  
「でも安西くんにはがんばってほしいかな」  
 さりげなく言われた言葉に、一瞬心臓がひいっくりかえりそうになった。  
「え、なんでですか?」  
 それをごまかすように早口でいうと、尾藤先輩は「だって」と呟いてから、少し歩調を  
遅めて言った。  
「今いる中で、私の後輩って安西くんだけだから」  
「……え」  
 直ぐに言葉の意味が理解できなかった。  
 それは俺が期待していた言葉ではなかったからだろうか。  
 それとも、  
「あれ? 尾藤先輩が今一番の若手ってことですか?」  
 その事実が意外だったからだろうか。  
「うん。そうだよ。って、知らなかった?」  
「はい」  
 意外だ。  
「だってみんな尾藤先輩を頼ってるじゃないですか。困ったことあったら直ぐ尾藤先輩尾  
藤先輩てみんないうし」  
 
「そうかな」  
 困ったように笑った尾藤先輩だったが、その薄い口唇の端は嬉しそうだった。  
「それより、遅刻しないように早足でいこうか」  
 照れた笑いを浮かべながら尾藤先輩はそういうと、歩調を速めた。  
 俺は「そうですね」と言って、尾藤先輩に付き従った。  
   
   
 地下鉄を待っている間、地下鉄に乗っている間、俺は職場ではなかなか聞きにくい仕事  
上の疑問点について聞いた。  
 いやまあ、単純にどうすればズルして楽できるか、っていうことなのだが。  
 尾藤先輩は「しょうがないなあ」と言いながら、楽する方法を教えてくれた。  
 会社がある駅で地下鉄を降りたが、降りる人数より乗る人数のほうが多い。  
 エスカレーターに乗り、改札口のある階まで向かう途中、俺はふとあることに気がついた。  
 尾藤先輩はスカートではなくスラックスを穿いているのだが、身体のラインにあった薄  
手のスラックスは尾藤先輩の肌にぴったりとくっついているようで、お尻を包む下着のラ  
インが露わになっていた。  
 別に下着そのものが見えたわけではない、ただスラックスの黒い生地越しに下着のライ  
ンが見えているだけに過ぎない。  
 だが、それでも、俺は思わず息を飲んでいた。  
 尾藤先輩は最初会った時からずっと思っていた事だったが、かなりの美人だ。  
 派手な化粧はしていないし、髪型も地味なボブカットで毛先にパーマをあてていたりも  
しない。  
 ただ、小顔で、目が大きく、唇はアヒルのよう。唇をすぼめて笑うと、いたずらをたく  
らむ少女のような稚気を感じさせもする。  
 そんな愛らしい表情で瞳を覗き込まれていた。。  
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」  
「え、ああ、いや、なんでもないです」  
「突然黙っちゃったから、なにかあったのかと思ったよ」  
 俺はなんとか取り繕おうと思っていたら丁度エスカレーターの終着点に達し、俺の気を  
惹くラインが見えなくなった。  
 そのおかげか、動転していた頭は少し落ち着きを取り戻せた。  
「家の鍵かけたかなーって、そう考えてただけです」  
「あらら、大丈夫?」  
「ええ、大丈夫なはずです。それに盗まれて困るようなものもないですし」  
「あらあら」  
 うふふと尾藤先輩は笑った。  
 こうして会話している間も、頭の中は尾藤先輩のお尻のことでいっぱいになっていた。  
 尾藤先輩はどんなパンツを穿いているんだろう。  
 あの下着の線をなぞってみたい。  
 そんなことを考えながら歩いていると、今度は地上へ出るエスカレーターが俺たちの前  
に現れた。  
 俺は再び尾藤先輩の後ろに立った。  
 すると、今度は尾藤先輩のお尻は下着の線が露わになっているだけでなく。スラックス  
がお尻の谷間に食い込んでしまっていた。  
「――っ!」  
 声をあげなかったことは僥倖だろう。  
 尾藤先輩は携帯電話をいじっていて気づいていない。  
 俺はエスカレーターを一段降り、更に見やすいアングルから尾藤先輩のお尻を見た。  
 小ぶりながら引き締まっていることが伺われるお尻は、お尻の割れ目まで露わになって  
しまっていて。その上、片方の下着の線がどこにも見当たらなかった。  
 先ほどまでは左右並んでいた下着の線、これは……。  
 そう考えていると、尾藤先輩の華奢な手が自らのお尻に伸び、スラックスをつまむとも  
じもじと腰を動かし始めた。  
 スラックスの食い込みはたちどころに消え、直後には先ほどまでなくなっていた下着の  
線が復活していた。  
 俺はその手の動きを、お尻の動きを目に焼き付けた。  
 地上に出ると尾藤先輩は俺の背中を叩き、言った。  
「さあ、今日もがんばろうか」  
「はいっ!」  
 俺は元気よく返事をすると、先ほどまでよりも弾んだ足取りで会社へと向かった。  
 
 
 ――B――  
   
   
 見てる見てる。  
 私は内心に浮かぶ昂ぶりをぐっと堪えながら、彼の視線を感じることに没頭した。  
 彼――会社の後輩・安西秋夫くんは、流石二十代前半だというような、若さを感じさせ  
る視線をぶつけてくる。  
 それも、隠しているのだろうが、はっきりいって全然隠しきれていない。  
 彼の目は私のお尻に向けて固定されていて、動くことがない。  
 しかも、見ているうちにちょっとずつ興奮していくのか、少しずつ顔が紅潮していくよ  
うだった。  
 ほら、私が視線を向けても気づかない。  
 私は彼の視線の期待に応えるように、スラックスの食い込みを指先で直した。  
 彼の頭の中でどんな想像――妄想が行われているのだろうか?  
 覗いてみたくもあり、少し怖い。  
 周りが私よりも年上のおじさんばかりの職場、殆どが妻か恋人を持っており、職場には  
出会いがなかった。  
 そこに現れた安西くん。  
 なんだろう、昔は、そう学生時代とかは考えたこともなかったが。安西くんを見ている  
と『かわいい』と思ってしまう自分がいる。  
 五歳も年下の、ちょっと情けない感じもする男。  
 昔は年上が好きだった。  
 学校の先輩。  
 大学時代付き合っていた会社員。  
 仕事を教えてくれた上司。  
 余裕があって、私を抱きとめてくれるような男が好きだった。  
 でも、安西くんを見ていると、ついつい思ってしまう――かわいい。  
 このまま暗がりに行って、彼の欲望を受け止めてやるのも一興だが。  
 零細企業にとって二人の社員は重大な戦力だし、職場でうわさがたってしまうのは安西  
くんに申し訳ない。  
 私は彼の気をひきしめさせるために、ぽんと背中を叩いてやると。  
「さあ、今日もがんばろうか」  
 そう言ってやると、安西くんは喜色満面といった様子で、  
「はいっ!」  
 と元気よく返事をして意気揚々と、歩き出した。  
 ほんとかわいいんだから。  
 私は思わずくすっと笑ってしまった。  
 だって、彼の下腹部に小さなテントができてしまっていたんだから。  
   
 明日はスカートでも履いてきてやるかな――そんなことを思った。  
   
   
 了  
 
 

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