ちょっと昔の平日夜リビングにて
「――それでね、弘樹、今日補助輪なしで少し乗れたのよ。週末見てあげてね」
「ふーん……。航太は」
「航太? 航太はねー、そう!
この前幼稚園の先生から伺ったんだけど、跳び箱4段まで跳べるようになったって。
このままなら5段もすぐらしいわ」
「ふーん……」
「もう、気のない返事ね。あの子たち2人ともお父さんに褒めてほしくて頑張っているのよ?
今度の週末、ちゃんと遊んで、褒めてあげて下さいね」
「ああ……」
「何か用事でもあるの?」
「用事はない。遊ぶのも構わないんだが、なあ……」
「うん」
「褒めるのはなあ……」
「……そういえば、前も似たようなこと言ってたような」
「どういう顔をして褒めたらいいのかがわからない」
「どういうもこういうも。
笑顔で、よくやったぞー、って言いながら頭をくしゃくしゃにしてあげればいいじゃない」
「それが、なんというか、照れるというか難しい」
「父親なんだから照れるも何もないでしょ……。会社で後輩褒めたりしないの?」
「んんん。ないかもしれないな」
「ええっ。大丈夫なの?」
「まあ特には。褒めるようなこともないし」
「意外ね。褒めるときは褒める、ってイメージがあったんだけど」
「お前のこと褒めたことあったか?」
「……言われてみればないかも。なんでそう思ったのかしら」
「さぁ……」
「そういう機会がまずない……」
「………………」
「………………あ」
「は?」
「うっ、いや、なんでもないよ。お風呂入る? もう少し後にする?」
「風呂? ああ、早めに入って早めに寝るかな」
「そう。なら夏用のパジャマ出しといたからそれ着てね」
「わかった。じゃあ行ってくる」
「ん」
「――ああ、そうだ」
「んー?」
「褒める練習に付き合ってくれるなら、先に寝るなよ」
「っ、ばかじゃないの!」
寝室で早苗が自分好みの動きを体得すると褒める男、澤村修司。
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もうちょっと昔の平日夜リビングにて
「お仕事忙しいみたいね」
「ああ。……また近々人員整理があるかもしれない」
「え……。大丈夫なの?」
「わからん。ただ思ったより業績は悪くないし会社もこの時代にしては健全だと思う。余程のことがない限りそうならないはずなんだけどな」
「そっか……、あたしも働こうか?」
「いや、無理だろ。弘樹もまだ小さいし」
「ん。そうなんだけどね。もう少し大きくなったら、週2くらいでもいいから来てくれないかって」
「大学病院から? 頼まれたのか?」
「うん。里中師長とね、たまーに連絡とるんだけど、もしその気があるならどうかしら、って」
「………………」
「あの、別にあなたの稼ぎがどうこうって訳じゃないのよ。今の生活に不満がある訳じゃないしね、弘樹だってまだまだ手は掛かるし。でもこんな世の中だし、あたしも折角ちゃんと資格持っているんだから、と、え。え、どうしたの?」
「……一応、これでも気を遣っているつもりだったんだ。こっちは仕事ばかりだが、お袋に頼んでみたり、弘樹の面倒はみれなくてもせめて話は聞こう、とか」
「? ええ、特に大きな不満はない、けど……。この手は……?」
「で、さらに負担をかけるのもどうかと思って、幸い仕事も忙しかったし気を紛らわせながら過ごしてきたんだけど、どうやらそんな気遣いも必要なかったみたいだなと」
「……あの、え、っと。あたしの勘違いなのかな、なんだかその、すごく、なんというか」
「弘樹はもう寝たんだろう。夜泣きもしないし」
「起きてはこないと思うけど……、ホントに?」
「妹か弟、あいつにも必要だろ?」
「でも、まだ平日だし、明日もお仕事あるでしょ? そんな、何も今日いきなりしなくても」
「嫌なら、無理強いはしない」
「嫌とか無理とかじゃなくて……、あー、もうっ。そんな風に触らないで!」
「手を触ってるだけだろ」
「わかったから! 明日の用意があるから先に行ってて」
「手伝わなくていいのか」
「――弘樹の顔見てあげて」
「わかった。――早めにな」
「――――っ! ばかっ」
半年後。頑張りの甲斐あってか、めでたく次男・航太(こうた)を懐妊した早苗であった。
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飲み屋にて
「……おまえんとこの娘、幾つになったっけ」
「今度3歳ですよー。殺人的な可愛さですよー」
「男親は娘には弱いっていうなあ」
「いや、もうホント、課長も娘がいたらわかりますって。今からでもどうですか?」
「……ばかかお前。俺たちはもう無理だろうが」
「んならちょーっと外でこっそり……ああっ!」
「――ん? ああ、すまない、一味入れすぎたみたいだなあ」
「俺のユッケが……」
「まあうちはあと数年もしたら孫でもできるだろうし、……ほら、皿余ってるからこれに出せ」
「ううっ、取りきれないですよ……。でも、息子さんたちまだ大学生くらいじゃありません?」
「上が今年卒業だな。就職もどっかの研究所みたいなところに決まったよ」
「へーっ! んー、そしたら今更いもうとはあああわかりましたすみませんやめてくださいぃ」
「あ、店員さん角ハイひとつ」
「……課長ってSですよね。会社でもハンパないですよね。
しかも普段はそんな顔、微塵も見せないからしばらく騙されるんですよね。
家族の皆さんもご存知なんですか? いや、知らない訳がない。
奥さんにはどっちの顔メインなんですか。てゆうか今でも夜の営みはあるんですか」
「……そんなにたくさん、よくもペラペラと出てくるな」
「夜の営みはどうですか」
「………………」
「かちょー。無視っすかー。ケータイの方が大事なんすかー。あ、奥さんからか。さーなえさーん!」
「大声で叫ぶなっ」
「帰りがおそぉーいとか? それとも早く帰って来なさい、とか? くぅーっ、早苗さんに叱られたいー」
「……お前、いつか捕まるなよ」
「捕まりませんよー、紗希の為にもパパは頑張って働くんですっ」
「………………」
「……んん? 早苗さんなんだったんですか?」
「……いや、まあ大したことじゃない」
「怪しいですねぇ……」
「週末に出かけるから、その話だ」
「え、あれ、早苗さんと2人で? へー、どちらに行かれるんですか?」
「まあ、その辺になんか食べにいくくらいだな」
「うわっ、普通にデートじゃないですか。どっか泊まりがけとかじゃないんですね」
「っ、泊まり、か……」
「うちの両親なんかは、親父が退職してからですけど、温泉巡りなんかしてるんですよ、夫婦2人で。息子としてもなんか嬉しいし。課長もどうですか?」
「温泉か……。行ったことないかもしれないなあ」
「どうせ、と言ったらあれですけど、早苗さんが計画してばかりなんでしょう? たまには課長からプレゼントしてもいいんじゃないですか」
「ううむ……」
「あ、お土産は家族3人で分けれるものがいいですねー。お願いしまーす」
「……ああ、わかった」
「ぃっ!? いいですそんな夫婦水入らず楽しんできてください!」
「そうか? まあ、まずは行き先と日にちと決めなきゃならないか」
「今度実家に電話したときに俺も聞いてみますね、お勧めの温泉」
「悪いな。頼む」
「あ、そういやあ温泉と言えばこの前木下部長が……」
次の日、こっそり就業時間中に温泉宿を探す姿が見えたとか見えなかったとか。