* * * *  
 
 
 
「…今日に限っているし」  
友達の誘いを振り切って帰ってみれば、玄関にあるアディダスの黒いランニングシューズを確認し、肩がますます下がってしまった。  
兄のロードワーク用の靴だった。  
イコール、いつものランニングには行ってない、イコール、この家の中にいる…―――。  
…まったく気が滅入る話だった。  
 
私たちの両親は互いに仕事を持っており、割合家にいない時間が多い。  
そうなると、必然的に家の仕事は居る者で補わなければならなくなる。  
しかし、全国大会に出場するほど実力のあるサッカー部に在籍している兄は、大半の家の雑事をこなす時間がない。  
そのためお役はほとんど私にまわってきて、炊事洗濯掃除、学校から帰ってからはおさんどんもかくやというほどの主婦ぶりを発揮しなければならなかった。  
外での素行など知れたものではない兄はサッカーに関してだけは真剣で、その腕前たるや高校サッカー専門の雑誌記者から何度か取材を受けるほどというから驚きだ。  
ゆくゆくはプロへ行くのではと周りがささやくのも頷けるほど、とかく兄のサッカーへ対する傾倒ぶりは尋常ではない。  
両親もそれだけは手放しで兄を受け入れており、私には彼の手助けをするようにと口が酸っぱくなるほど言い聞かせている。  
そのため、自然と家の雑用は私が請け負うことになってしまった。  
 
もちろん不平不満はいっぱいある。  
けれどどういうわけか、私はまるで習慣のように、決められた予定を実行するように毎日、早々に帰宅してはそれらの雑事をこなしていた。  
もともと帰宅部で、これといった趣味もなかったから、時間だけはたくさんあった。  
ときどき、さっきみたいに友達から誘いを受けることもあったが、百合子のように人脈が広いというわけではないので本当に時々だ。  
だから、もっぱら、高校生活に入ってからの私は家事に奮闘しまくっていた。  
 
とりあえずは夕食の支度と風呂掃除を優先しなければならない。  
兄がいることに多少の不安を感じるものの、彼が私へ興味を向けることは万に一つもないに等しい。  
夕飯ができていれば「作ったんだな」とか、お風呂が綺麗になってれば「洗ったんだな」とかその程度の認識だ。  
気にしている方が馬鹿らしいと考えて、制服を着替えるために二階の自室を目指して階段に足をかけた。  
そのときだった。  
『……』  
かすかだが、何かが耳に届いた。  
おそらく兄だろう。  
けれど、兄はいつも何をしているかなど物音でも分からせないというのに、今日はやけにうるさい。  
私が帰ってきていることに気づいていない可能性が高かった。  
なにやってんだろ?  
興味本位で、まったくの面白半分で、私は足音を忍ばせて階段を上がることにした。  
『………』  
 
ボソボソとして聞き取りづらかったが、誰かと会話しているような感じだ。  
しかし玄関には他人の靴など見当たらなかった。  
ということは、電話でもしているのだろう。  
兄の部屋は階段を上がって手前にある私の部屋の隣の隣、つまり奥の方にある。  
階段をあがりきったところで、壁に張り付いて奥の部屋の様子を伺うと、音が聞こえた原因が分かった。  
兄の部屋の扉が数センチほど開いていたのだ。  
音を立てないように慎重に足を運びながら、私は息を潜めて耳を澄ませていた。  
『しゃーから、あいつのことなん、なんも知らん言うとるやん』  
少しかすれ気味でハスキーな男の声。  
いつまでたっても耳慣れしない独特の関西弁。  
紛れもない兄の声が、今度は正確な言語になって耳に入ってきた。  
途端に、私は思い出していた。  
学校の下駄箱で渡された、元カノらしき人からの手紙と伝言のことを。  
あれを兄に伝えることなんてできるのだろうか?  
(―――あんたのお兄さん、残酷なやつよ)  
あんな身も蓋もない言葉を、いくら実の兄とはいえ…。  
思わず制服のポケットに手を突っ込み、受け取ってきた紙切れを握る。  
紙切れは私の握力に耐えられず、くしゃっと悲鳴を上げた。  
 
「お前の告白なんぞ聞きたないっちゅうねん。…はあ?なんや俺んことか。あほう、正真正銘の兄妹じゃボケ」  
瞬間、どきりと胸がなった。  
会話の内容に私に関係ありそうな言葉がでてきたからだ。  
きょうだい。  
あにいもうと。  
あの人の妹という位置は、今のところ私しかあてはまらない。  
「……お前、ほんましょーっもないな。ほんまのアホやな。実の妹つかまえて欲情もクソもあるかい」  
私は思わず耳を疑った。  
「そらな、確かにな。まあ顔は俺に似て可愛い部類っちゃそうか知らんが。…アホ、言わせ。そや、体もけっこういいセンいっとんで。あれは着やせするタイプっちゅうやつや。  
真面目そうな顔しとるけど中々やらしいで。……くくっ、しゃーからなんべんも言わすなや。そういうんとはちゃうねん。あくまで、客観的意見の範囲やろうが」  
なに?  
なに言ってんの?  
なんなの、これ。  
本当に、「あの」兄がしゃべっているのか。  
私のことを?  
 
「あー…そこまでは知らんな。そんなん自分で聞きぃや。…は?その役立たずの兄貴に妹のスリーサイズ聞いとんのはどこのどいつやねん」  
その言葉が耳に入った瞬間、私は全身が燃えるように熱くなったのを感じていた。  
信じられなかった。  
兄は、いつもの兄は、私のことなんて少しも興味を向けていないはずなのに。  
それも、これはまったく嬉しくない類の興味だ。  
怒りと羞恥、そして計り知れないほどの軽蔑が生まれる。  
気持ち悪い。  
妹としてでなく、女という視点から私に干渉してくるなんて許しがたいことだった。  
「お、アカン。そろそろ時間や。ほんなら、明日な」  
通話の終わりを予感させる言葉が耳に入ってきても、私は廊下の壁に張り付いたまま動くことができずにいた。  
それほどの衝撃が、私の全身に雷のように打ちつけられていたのだった。  
扉の隙間を凝視したままでいると、部屋の中で衣類が擦り合わさった時の、独特の音が響いてきた。着替え始めたらしい。  
立ち去ることも自室に隠れることもできないまま、私は足が床に縫いつけられたかのように、そのままの体勢でじっとしていた。  
着替え終わった兄が部屋から出てきても、それでも、動くことはできなかった。  
 
「…なんや、帰っとったんか」  
廊下で立ち尽くす私に気付いた兄が、1メートルほど手前で足を止めた。  
私が、おそらくは立ち聞きしていたであろうことを、この兄は分かって言っている。  
まるで何事もなかったかのように飄々とした態度に恐怖といら立ちを感じた。  
「……今日、お父さんも、お母さんも、いないから」  
「そらそやったな」  
兄は、本当に何も感じていないように、普通に接している。  
何なの、その余裕?  
曲がりなりにも実の妹を侮辱しといて何の弁解もなし?  
なんで黙って通り過ぎていけるの?  
信じられない。  
人としてどうかしてる。  
「…ち悪い」  
我慢できずに、正直な感想がこぼれ落ちた。  
それはまったくの無意識だったものの、兄へ向けずにはいられない感情のかけらだった。  
「あ?なんか言うたか?」  
「気持ち悪いよ、サイテー!人のことなにしゃべってんの!?変な目で見ないでよ!」  
 
私はその時、完全に取り乱していた。  
後になってみれば、もしくはもう少し冷静さを取り戻していたら、私が言っていることがどれだけおかしいか、気づけたかもしれない。  
けれどこの時の私は、兄の常にない生々しい人間臭い部分に振れたことで動揺しまくっていた。  
兄が、私をそんな風に見ることが、どうしてだか許すことができなかったのだ。  
「はあ?何を言うてんねん。盗み聞きかて、立派にサイテーな行為やぜ。なにのぞいてんの?」  
兄が厭味ったらしく似てない口真似をしたので、私はさらにかっとなって言った。  
「話すりかえないでよ!そっちが…、そっちの方が最悪でしょ!兄のくせに、なんでそんな気持ち悪い目で見れんのよ!今まで私のことずっとそんな風に見てたの!?  
サイテーサイテーサイテー!!もう出てってよ!!この家から出てって!!あんたなんか私の家族じゃない!!兄さんなんかじゃない!!」  
はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、私は溜まっていた思いをとうとう言いきった。  
何かが爆発してしまったのだった。  
けれど、何の深い考えもなしに口にしてしまった言葉たちは全てが希薄で、相手に届く前に弾けて気泡になるだろう類の、らちもない中傷に過ぎなかった。  
聡い兄は、すぐにこれに気付いた。  
そして容赦なく攻め立ててきた。  
 
「話すりかえる?誰が?最初っからおんなじ話やろ。お前、言うてること全部自分に返っとんで。ほな、盗み聞きしとったお前はなんやねん。  
人の電話の内容コソコソ聞きよって。気ぃわるい。気持ち悪い思うんなら関わらんかったらええ話やろ。こっちかて気持ち悪いわ。  
家族やないとか、何いまさらなこと言うてんねん」  
無表情に、冷静に言い放った兄は、私の話などに付き合っていられないというように、通り過ぎようとしている。  
いつものロードワークへいく格好の、黒いジャージの上下を身にまとって、上着のジッパーを閉じようとしていた。  
もう、これで喧嘩は終わった。  
兄は、私を視界から外し、そして世界からも除外する。  
彼は瞬時に脳みそのモードをサッカーへ切り換えるのだ。  
「ちょっと待ってよ」  
ナイロン素材の上着の袖をギュッと掴んで、そうはさせるかと制止させた。  
「関わるなとか言うなら、私や家族に迷惑かけないでくれる?なによ、これ」  
ぎゅっと握ってくしゃくしゃの紙くずになった例の手紙を突き出して、兄の胸、心臓の部分に強く押しあてた。  
兄は怪訝な顔でわずかに眉根を寄せながら、拳の中のものを受け取った。  
「さっき、学校の昇降口で、元カノっぽい女から渡されたんだよ。だれかさんと類友みたいで、自己中で人の話聞かないから、私が渡すしかなくなったんだよ。  
関わるなとか偉そうに言うなら、まず自分がちゃんとしてよ。私が知らないと思ってんの?お母さんとお義父さんがいないとき、夜中、誰と何してんのか」  
「…………」  
 
「…気持ち悪い。関わりたいわけないじゃない、こっちだって、好きで関わってんじゃない!!関わらざるを得ないんだよ、何でだか分かる?ねえ、分かってる!?きょうだいだからだよ!!気持ち悪くても血が繋がってるからだよ!一生っ!嫌でもっ!!」  
血を吐く思いでそう言って、私は何故か泣きながら息を乱していた。  
怖いとか、気持ち悪いとか、むかつくとか、そんな簡単な感情では言い表せないものが、腹の底でぐるぐる暴れまわっている。  
それを吐き出したくても、何て言えばいいのか分からなくて、また涙が溢れてくる。  
「あんたなんか…っ、あんたなんかに、会わなきゃ良かった!」  
気がつけば、私は兄の顔を見ずにその場から走り出していた。  
家にいたくなかったので、階段を駆け下りて、靴も履かずに外へ出た。  
それは、まるっきり逃げたのと同じことだったので、それが悔しくて、悔しくて、堪らなかった。  
 
 
 
* * *  
 
 
 
あてもなく走り回っていたつもりだったけど、気づけば小さな公園に着いていた。  
そこは、小学校低学年の頃に頻繁に遊びに来ていたところで、中でもお気に入りだった、公園の中央にある大きな滑り台に懐かしさを掻き立てられた。  
当時は造られたばかりだったのか、ゾウさんに見立てた滑り台は全体的にパステルなカラーリングでとても可愛いかったのを覚えている。  
けど、今目の前にあるのは、塗装が禿げ落ちて錆びと薄黒い染みに覆われた、得体のしれない生き物だ。  
ゾウさんの特徴である大きな耳の部分は、誰かが壊したのか片方だけ取れていて、一見しただけじゃゾウさんとは判別できない。  
おまけに長い鼻の部分が滑り台となっているものの、その鼻の塗装がほぼ丸ごと取れているので、ただの滑り台にしか見えなかった。  
 
「はは…」  
 
気分が最低に落ち込んでいるときにさらに落ち込むようなものを見せられ、思わず自虐的な笑いが漏れる。  
(なにやってんだろ)  
頭が冷えてくるとただひたすら恥ずかしかった。  
なにを取り乱していたんだろう。  
思い返せばあれは喧嘩ですらなかったのだ。  
一人で癇癪を起こして一人で叫び出したに過ぎない。  
兄はそれを迷惑そうに見つめる傍観者だった。  
 
「なにやってんだろ、私…」  
 
冷静になった今でも燻り続けているもやもやは、まだ腹の底で渦を巻いていた。  
怒りでも羞恥でもない、恐怖でもないこの感情は、一体何という名前なのだろう。  
一番似通っているのは気持ち悪いなんだけど、それは感情という括りに入れてもいいんだろうか。  
思い悩む私に、泣きっ面に蜂というような事態が起こった。  
頬に一滴の雫が落ち、雨が降り始めたのだ。  
運がいいのか悪いのか、ゾウさんだった滑り台の胴体部分には空間があり、丁度雨宿りには良さそうだったので躊躇わずに中へ入った。  
座ろうとした時、足に鋭い痛みを感じて驚いた。  
そういえば素足のまま、おまけに制服を着たまま出てきてしまったのだ。  
痛みを感じた右の足裏を見ると、真っ黒に汚れている上に、一か所から血が出ていた。  
痛くて、また泣きたくなる。  
たまらず涙が滲んできた時、さっきの兄の表情を思い出していた。  
理解のできない人間を目にした時のような顔を見れば、絶望には事足りた。  
血の繋がりがあろうとも、彼とは何も分かち合えないのだろうと分かってしまった。  
 
どうしてこんな風になったのだろうか。  
もちろん自分が原因だってことは百も承知の上だ。  
けれど、確か私は、「きょうだい」というものに憧れを抱いてはいなかったか。  
少なくとも二年前までの私は、確実に兄に対して様々な理想を宛がっては喜んでいた。  
いつか再会できるだろう、成人して、働くようになって、一人暮らしでも始めたら、母に聞いて父と兄の所を訪ねてみよう。  
母が答えない場合は、自分で調べてみようとまで思っていたのだ。  
それなのに、現実はどうしてこう容赦なく何もかもをぶちのめしてくれるんだろう。  
別に、理想通りの兄や家族なんて、そこまでは望んでいない。  
ただもう少しだけ、兄が歩み寄ってくれれば。  
ほんの少しでいいのだ、壁を低くしてくれたら……。  
…………。  
 
(驚いた。私って実はけっこう兄が好きなの…?)  
 
そんなはずはない。  
あんなふしだらで得体の知れない男を、実の兄として許せるはずがない。  
 
(でもそれならどうして、こんなに兄を気にしてるの)  
 
嫌悪しているからだ。  
行動がいちいち目につくのだ。  
それだけ。  
……ただそれだけのことだろう。  
いやだ、あまり考えたくない。  
 
―――あんたのお兄さん、残酷なやつよ。  
 
元カノらしき美人の声がする。  
考えたくない。  
私は膝を抱えてしゃがみこみ、頭を膝の間に伏せた。  
今はまだ、何も知らず、何も理解できないままでいいのだ。  
そうでないと何もかもすべてが壊れてしまう気がした。  
私は、恐れているものの正体を、本当は知っているのだ―――。  
 
『何やってるの?』  
 
目の前で、兄がライター片手に写真に火をつけているので、私は思わずそう聞いていた。  
扉の隙間から様子をうかがっていたことも忘れるほど、その行為が常軌を逸していたからだ。  
 
『なんや、帰っとったんか』  
 
どうでもいいように呟いた兄は、私の質問に答える気などないらしく、また新しい写真に火をつけようとしている。  
その写真の中に見知った顔を見つけた時、私はとっさに兄の腕にすがっていた。  
 
『ちょっと…何してんの!?それって…』  
 
実の父の写真。  
おそらく兄にとってはとても大事なもののはずだった。  
けれど兄は、取りすがった私を突き放して、父が遠くでこちらを向いているその写真に、またゆっくりと火をつけはじめた。  
 
『大人しくしとる気がないんやったら、いねや。…見とるんやったら黙っとれ』  
 
珍しく、兄が拒絶もせずにそんなことを言ったので、私は思わず口を閉じてその行為に見入ってしまった。  
突き放しているように聞こえるかもしれないが、「黙ってるなら居てもいい」なんて、普段の兄だったら逆立ちしたって出てこないセリフだった。  
 
不気味なことこの上ない行動ではあったが、兄の顔つきがいたって真面目で、私はなんだか、そんな兄を新鮮に感じてしまって、文句も言わずにその場に残ることにした。  
机の上に置いてある数枚の写真たちは、ほとんどが古いものだった。  
そしてよく見ると、それらは私たちがまだ家族として機能していた時代のもので、幼少期(おそらく2、3歳)の兄や私が母や実父と一緒に笑い合っているようなものばかりだった。  
私にとっては懐かしさのかけらもないが、兄にとってはそうではないはずだ。  
うちには実父の写真なんてないから、絶対に貴重なもののはずなのに…。  
 
『お前は覚えてへんかもしれんがな…』  
 
一体この人は何してるんだろうと不思議がっているところに、兄がふいに穏やかな声で切り出してきた。  
私は心底驚いてしまった。  
今日は一体なんという日だろう。  
明日は槍でも降ってくるんだろうか。  
兄が、あの兄が私にこんなに話しかけてくるなんて。  
 
『小っさい頃は、よう野球観に連れてってくれたんや…。俺は野球やのうてサッカーの方が好きやて言うとるのに、絶対に聞いてくれへんかった。  
ダメな親父やったかもしれんけど、そういうんが憎めんところでな…』  
 
それを聞くのは不思議な心地がした。  
兄が家族のこと、まして実父のことを話すなんて、まるで天変地異の前触れだ。  
そして、兄の顔はいつになく誠実だ。  
そうだ。  
誠実なのだ、あの不誠実でふしだらな兄が。  
 
『お前は娘やからっちゅうことで、よう可愛がられとったわ。俺はなんや、両親をいっぺんに取られたような気ぃになって、気ぃ悪くてあかんかった。  
せやけど、俺も…』  
『…何?』  
『…いや、昔の話や』  
 
その昔の話が聞きたい。  
少なくとも今の、無表情で、けれどどこか懐かしそうに目を細めて写真から上がる炎に見入っている兄は、私にとって、その昔とても切望していた「あの」兄なのだ。  
しかしタイミングがいいのか悪いのか、そこですべての写真が燃え尽きてしまった。  
ステンレス製の灰皿の中には、消し屑になった黒い家族の肖像の残骸が残っている。  
 
『兄さん、』  
 
不安になって声をかけようとした私の声を遮るように、兄は私に正面から向き直って言った。  
 
『ええか、今見たんは忘れろ』  
『どういうこと?兄さんは…』  
『忘れろ。お前はなんも見んかった。元から写真なんてもんはなかった。それでええ』  
 
兄は、私の両肩をぐっと掴んで腰をかがめ、ゆっくりと視線を合わせてきた。  
いつも、どんな感情を浮かばせているのか分からない瞳に、強い一筋の光が見える。  
 
『忘れる…』  
 
呟いた私に、兄は噛んで含めるように言い聞かせた。  
 
『せや。その方がええ。俺らはおたがい干渉せんで、興味も持たんでおった方がええ。その方がええんや…』  
 
私は反射的にこくりと頷いていた。  
それほど、兄の声には抗えない力のようなものが宿っていた。  
その後、私は本当にその出来事を忘れようとした。  
兄の部屋から出るときには「はよ、いね」ともういつもの調子に戻っていたので、私は強く強く念じて、忘れろ忘れろと言い聞かせることで記憶の奥深くに仕舞いこんでいた。  
けれど、何故忘れる事が出来たんだろう。  
あの時の兄は、確かに、私に誠実な面を見せていた。  
あれこそが、私の望んでいた兄だ。  
優しくて、誠実で、頼りがいのある、けれどどこか不器用で憎らしい、兄。  
普通の人より何かを超越しているようで、でもどこにでもいそうな、そんな人。  
私の自慢の兄。  
 
『せやけど、ええ子ちゃんのみどりは、俺の汚い部分なんぞは絶対に許せへんのやろ?』  
 
そんなことはない。  
兄がちょっとでも私に向き合ってくれたら、私の存在を認めてくれさえすれば、私は何もかもすべてを許すことができるだろう。  
少しでも優しさを見せてくれれば。  
妹として認めてくれたなら。  
 
『妹なんぞいらんわ。女やったら…相手せんこともないで』  
 
両親のいない日に響いてくる女の声。  
兄は、甘ったるい睦言を吐いて、優しく女を抱き寄せている。  
扉の隙間3pの視界で繰り広げられる、吐き気のする行為。  
 
『あ、あ、いい、ああああん!!たかまぁ!』  
『はっ、はっ……っく!』  
 
ねっとりとした空気の部屋で、服を着たまま絡み合っているその現場を、私は何度も目撃してきた。  
許せない。  
とても許すことなんてできなかった。  
なぜあんな人が私の兄なの?  
なぜ私はあんな人の妹なの?  
 
『あ、ああっ…ん、兄さん!!』  
『……どや、兄貴に抱かれる心地は?こうされたかったんやろうが?けど、兄貴に抱かれたいなんちゅう女なんぞ、それこそいらんわなぁ……』  
 
いつのまにか私は兄の腕の中にいて、激しく抱かれていた。  
これは夢だ。  
いつもの悪夢。  
私を抱く兄の顔が歪んでいく。  
耳の中でずっと鳴っているのは、あのときの呪文のような兄の言葉―――。  
 
―――忘れろ。お前はなんも見んかった。  
 
そうだ。  
私は何も見ていない。  
何も知らないままだ。  
兄さんが…  
あの兄さんが…  
扉の隙間3pの向こう。  
私が本当に忘れている、本当の「忘れるべき出来事」…  
 
―――あんたのお兄さん、残酷なやつよ。  
 
そうだ、この言葉も忘れなくちゃいけないんだ。  
綺麗な女の人は、きっと「知っている」人だった。  
 
―――せや。それでええ。その方がええんや…  
 
―――その方が…  
 
 
 
 

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