* * *
しとしとという静かな音で目を覚ました。
滑り台の下で雨宿りをするうちに、どうやら眠りこんでしまったようだった。
またも後味の悪い夢を見ていた気がするが、掬い取ろうとする瞬間に記憶は霧散した。
もうかけらも思い出すことができそうにない。
目をこすりながら辺りを見回すと、雨脚はそんなに強くはないようだ。
薄いカーテンに視界を遮られているような、霧のように煙る雨だった。
何かを思い出しそうになるが、やはり掬い取ることはできずに終わる。
私は頭が老化しているんだろうか。
「帰るか…」
そろそろ辺りが暗くなってきている。
雨の降る暗闇の中を一人で歩くなんて物騒にもほどがあるというものだ。
さすがにそれくらいの危機管理能力は持ち合わせていたので、雨宿りを切り上げてさっさと走って帰ろうとした。
「みどり!」
滑り台から一歩踏み出してさあ走ろうと前足を出したところで、誰かが私の名を呼ぶのが聞こえてきた。
聞き覚えのある声だが、その声が私の名前を呼ぶのにはひどく違和感があった。
「兄…さん?」
「みどりー!どこや!」
必死に私の名を呼ぶ兄の声に何かが込み上げてきて、私は発作的に大声で呼び返していた。
「兄さん!」
「みどり!」
どれほど外に居たのか、やがて視界に入ってきた兄は全身がしとどに濡れそぼっていた。
いつもは立ちあがっている硬い髪もぺっとりと輪郭に張り付いている。
どういう風の吹きまわしか知らないが、どうやら兄は私のことを探し回っていたようだった。
それともランニングついでに探していただけだろうか。
そちらの方が、まだ信憑性のある話だ。
「…なんで」
肩で息をしながら駆け寄ってくる兄に、私は戸惑いを覚えずにいられない。
当然だろう。
普段であれば私なんかには少しの関心も寄せない兄だ。
ケンカして出てったくらいで心配するような、殊勝な性格じゃない。
そんな人がどうしてこんなに必死な様子で、関心のない妹を探しにきたのか。
「お前、平気か…?」
「え?」
雫の滴る髪もそのままに、兄は鋭い視線でそう詰め寄ってきた。
私にはなんのことやらさっぱり分からない。
「な、なにが?なんのこと…?」
「お前……見たんか、あの紙に書いてあったこと」
あの紙とは、もしやさっき渡した例の手紙のことだろうか?
見ているはずもなかったので、首を横に振って否定した。
すると、兄はふぅっとため息をつき、あからさまに安心した様子を見せた。
「どう…したの?」
「どうもこうも…」
兄は言いかけたが、私の後ろに滑り台があるのに気付くと、早々に雨をしのげる空間へと潜り込んだ。
私は全然この展開についていくことができず、そもそも何故兄が私の反応を気にするのか解せずに立ち尽くしていた。
こうなるとなりふり構わずに手紙の内容を確かめておけば良かったと思ったが、後の祭りだ。
「なにしてんねん。はよ来いや」
濡れるに任せて突っ立っていると、兄が力強い腕で体を引っ張ってきた。
私は易々とさっきまで居た場所に戻されてしまう。
雨をしのげる場所は一人ないし二人が限界で、まして兄のようにデカイ図体が加わるとなればなおのこと狭くなった。
毎日、欠かさずにトレーニングしている筋肉バカな体を嫌でも意識してしまう。
(それでも、無駄な筋肉じゃないのが憎らしい。戦うための体の一部でしかない…)
よく張っている太ももやふくらはぎを覗けば、兄の体は同年代の同じ体格の人とそう変わらない。
そして、そっと腕を見ると、漲る筋肉を覆う肌には所々細かい傷がついていた。
サッカーに対してだけは真剣な人だった。いつだって。
「お前が靴も履かんと出て行きよったから…馬鹿なことでもするんちゃうかと」
答えないかと思っていたけれど、兄は私を探しに来た理由をはっきりと口にした。
それがまた、あまりにも見当はずれなのでまたはぐらかしているかと思ったが、伺い見た兄の表情は思いのほか真剣だった。
私は思わず笑ってしまった。
「…馬鹿なことって。自殺とか?」
「最悪、な」
「そんなの…」
するわけがない。
そう言おうとして、声が出ていないことに気付いた。
代わりに漏れていたのは、みっともない嗚咽だった。
霧雨で湿った頬を、溢れた涙の筋が通る。
「みどり」
これまで一度だってそんなふうに呼ぶことがなかった名前を、今ここで、何度も口にする兄が、許せなかった。
どうしようもなく弱り切って途方に暮れている私は、甘えたくてしかたがなくなるから。
「兄さん……私、わかってるよ。ちゃんとわかってる。兄さんが私を妹だって思っていないこと。…だって、私だって同じだから。
いまさら兄さんを、兄だなんて思えない」
「…………」
狭い空間で、肌が触れそうなほど身を寄せ合っている私たちを、他人が見ればなんと思うのだろう。
兄妹と思うだろうか、それとも…。
「でも、私はほんとは、少しでもいいから、兄さんに…」
「みどり」
「認めてもらいたかった」
「みどりっ」
「家族ごっこでいいから、きょうだいになってほしかった…」
涙で歪む視界の中、兄が困っていることだけは唯一確認できた。
それだけ分かれば充分だ。
こうなったらとことんまで困らせてしまおう。
どうせ嫌われている、いや、関心がないのなら、何を言ったところで気にする必要もない。
「そんなの無理だってわかってる、ちゃんと分かってるよ。でも…!」
言い募ろうと身を乗り出した時、兄が急に、私の腰に腕を回してきた。
私は驚きのあまり、一度大きく震えて、そしてそれっきり固まってしまった。
「なんも…なんも分かっとらんわ、お前」
耳元に口を寄せて、兄は低く、そう言った。
「わ、か……分かってる、ちゃんと分かってるよ!」
腰を抱く兄の腕と強張る体を意識しないように、震え出しそうなのがバレないように、ことさらに大きい声で言った。
けど、兄はそれへ間髪入れずに言い返してきた。
「それが分かってへんて言うとんじゃボケ!!…お前っ、…俺が憎たらしいんやろ?気持ち悪うてあかんのやろうが?お前を妹と思うてへん兄貴が、
毎晩毎晩何しとるんか知っとるんやろうが!?ママゴトしとるんとちゃうて分かってんのやろうが…!!そういう野郎がっ、……」
「兄、さん」
「そういう野郎が、カスみたいな人間が、実の妹相手にナニしようと気にせんて、知っとるか?」
「うそ…」
それ以上、もう聞きたくなかった。
兄が何を言おうとしているのか。
私に何を言わせたいのか。
分かりたくもない。
「やめて、兄さん…!」
「知っとるよなぁ?知っとるはずや。お前は見てたんや、あのとき」
「やめてよ!!」
記憶の底で、何かの蓋が開けられようとしている。
その中に、私が忘れようとして、けれど本当には忘れられなかった、欠けた記憶のピースが押し込められている…。
『はぁ、はぁ、はぁっ…っく、』
いやだ。
こんなのはいやだ。
「お前が手渡されたっちゅうあの手紙、何が書いてあったか教えたろか?そんでもそないな血迷うたこと言えるんやったら、
家族ごっこでもきょうだいごっこでも、なんぼでもつきおうたるわ」
「それって、どういう…」
聞いてはいけない。
反射的にそう思った。
けれど体はすでに兄の腕の中にあり、手も動かせない状況だった。
当然耳を塞ぐことはできない。
―――聞いちゃダメ。
「いい、やっぱりいい、聞きたくない」
「聞けや。あの女、お前にアレ渡したんやったら、軽くお前に嫌がらせしてんねんで。お前が盗み見せんかったのは誤算やろうけどな」
頭の中で、警鐘のようなものがガンガン鳴っていた。
―――思い出してしまう。だめだ、だめ、だめ、だめ…
「変態、やて」
変態。
「あっ…!」
その二文字が、耳を通して頭の中に突き刺さった。
「変態て、書いてあったんや。あん女は、俺が誰かの身代わりにしてることに気付いて、しつこく聞いてきた。せやから、教えたったんや。
俺が誰を代わりにして抱いとるか、な。……そしたら、変態やて」
「ああ…っ」
「お前、ほんまに忘れとったんか?俺がお前に、何したんか…。お前とおって、いっつもこうしたいて考えとるような奴のしたことを、
本気で今まで忘れとったんか?」
強く抱きしめられても反応できないほどの衝撃が頭を打っていた。
―――思い出した。
私が本当に忘れてしまっていたこと。
『はあっ、はぁっ、うっ、……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ』
何故忘れていられたのだろう。
あんなに衝撃的だった、あの出来事を。
兄が口にした二文字が、まるで封印を解除するための呪文だったかのように、今すべての記憶が私の中で溢れかえっていた。
『はぁ。はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、あああ、っっ…………みどりぃ!!』
「ああああああああああああああーっ!!」
二年前の、まだ一緒に住んで間もない頃のこと。
私は今日のように、まったくの興味本位で兄の部屋を覗いた。
扉の隙間、3センチの向こう側。
そこで、私が見たものは……。
『はぁっ、はっ、はっ、―――くぁっ、みどりっっ!!』
荒い息遣い。
うつろな目線。
興味本位で覗いた部屋の中で、兄は私の名を呼びながら自慰に耽っていた。
『あっ、はあっ、はぁ、はぁ…っ。うぁ、うぐ、あああぁ…みどり、みどり、みどりみどりみどり!!』
兄の手の中には、私が昨日洗濯機に放り込んだはずのブラジャーがあった。
最初は、何が行われているのかを理解するまで時間がかかって、自失状態にあったと思う。
けど、兄が私の名前を呼びながら動かしている手が、股間にある、到底目にしたくないグロテスクな物を握りこんでいたので、すぐに
それが忌まわしい、嫌悪感を伴う行為だということに気がついた。
そして、気がついたとたんに、私は立っていられなくなった。
腰が抜けたのだ。
―――ガタンッ。
当然兄は気付く。
行為をやめ、扉を開ける。
その時の、蒼白になった兄の顔を、何故忘れていられたのだろう。
ポーカーフェイスを崩さず、常に飄々としていた兄の、唯一人間らしい表情だったというのに。
『みどり、お前……!』
『にい…さん』
兄は、一度大きく唾を飲み込んだ。
そして震えながらため息をつくと、正気を失ったようにこう言った。
『忘れるんや!!』
『わすれる…』
『せや、忘れろ!お前は何も見んかった、俺の部屋も覗かんかった…』
私は、ゆっくりと首を横に振った。
到底忘れることなど出来そうになかったからだ。
『それが出来んのやったら、こっから出てくわ。…二度と、お前らの前に顔見せへん。それでええやろ』
「……思い出したんか?」
「どうして、兄さんどうして!!だって、兄さんが…!!」
忘れろと言ったのに。
お前は何も見なかった、忘れろと。
それなのに、どうして思い出させたのか。
「……落ちつけ。大したことやない、そう言い聞かせるんや。俺が言った言葉と、おんなじくらい強く体に言い聞かせ」
「離して!!離してよ!!」
「離したらまたどっか行くやろうが!ええか、よく聞き、俺は卒業したらあの家を出る!」
逃れようと身をよじる私を、兄はむりやり押さえながらそう言った。
「兄さん…?」
「幸い、バカの一つ覚えで、サッカーだけはよう出来る。いくつかクラブから話も来とるし、もしかしたら、国を出るかもしれん。
…そしたら、二度とお前らの前に顔見せへん。今日みたいな迷惑もかけへんようになる。…それでええやろが」
何を自分勝手なことを言っているんだろう。
いなくなる?
こんなに私を打ちのめして、粉々に砕いておきながら、何も責任を取ることなく出ていくというの。
それこそ、そっちの方が迷惑極まりないと、どうして気付かないのだろう。
「家族ごっこなんぞ、よう出来ん。きょうだいごっこもや。俺は兄貴とちゃう。お前は、俺にとって妹やないねん、最初から…」
逞しい兄の腕できつく抱きしめられながら、私は、どうして私たちに血の繋がりがあるのかを考えた。
それさえ無ければ私たちは、例えば普通に出会って仲良く友達になることが出来たのだろうか。
もしくは義理の兄妹であれば、もし恋愛感情を抱いても、その先に肉体関係を結んだとしても、何も不自然なことはなかったのだろうか。
「私も……そうだった」
「お前はそうやないやろ。兄貴がほしかったんやろ」
離そうとしない兄の腕を、私はゆっくりとほどいた。
今度は兄は抵抗せず、されるがままになった。
少しだけ隙間を開けて兄に向き合うと、兄は少し苦しそうに、何かを我慢するように目を細めて私を見つめている。
その表情に、私は感情のどこかをえぐり取られたようになって、思わず首元に腕を回していた。
かかとを上げて、ゆっくりと背伸びする。
兄の、野生動物のようにしなやかな筋肉が、瞬時に強張るのが分かった。
愛おしかった。
これを変態と呼ぶのならもうそれで良かった。
兄の自慰を見たとき、どうしてこうしなかったのかとすら思えた。
生温かい吐息が、濡れきった頬にかかる。
兄の顔を間近で見るなんて貴重で、目を開けていたいのに、怖くてそれもできない。
射るように、飢えたように私を見る兄の瞳に、ひどく女の顔をした自分が映っていた。
「兄さん、私、兄さんが」
「みどり…」
優しい露時雨が、私たちの禁忌を覆ってぼかす。
この雨の檻の中でなら、「好き」と口にしてもいいような気がした。
* * *
―――あんたのお兄さん、残酷な奴よ。
その通りだった。
残酷なほど、優しすぎた。
この人は、私に何の爪痕も残さずに消えようとしていたのだから。
憎んで憎まれて、私への思いなど、最初から持っていなかったように振る舞って。
「兄さん、私、きっと一生兄さんを兄さんとは思えないと思う…」
漂うように降っていた雨が上がって、私たちは連れだって公園から家路についていた。
あたりはもうだいぶ暗く、けっこうな時間をあの滑り台で過ごしていたことが知れた。
「それでも、忘れたらあかん。血、繋がってんねん。…家族やないて思ってても、ホンマにはそうや」
「兄貴でも妹でもないのに?」
「そうや。…せやから、今日のことはもう忘れろ。それか犬に噛まれたとでも思っとけ。お前はなんでも大げさに考えすぎなんや」
「…私が今まで、…あのこと、忘れてたのは、兄さんが出てくかもしれないって思ったからだよ。それは嫌だって、本当に嫌だって思ったからなんだよ。
…犬に噛まれたなんて、思えるわけないじゃない」
「…あー…も、お前はホンマ…」
私の言葉に、兄がニヤけたような呆れたような微妙な表情をしたので、私はつい気になっていたことを聞ききたくなった。
「兄さん、どうして一緒に暮らそうと思ったの?…生活に困ってたとか?」
不躾な聞き方だとは思ったが、今更遠慮するのもおかしな仲だからストレートに言ってみた。
すると、兄は片方の口の端だけを上げて、照れ臭そうにこう言った。
「それもあるけどな。……俺かて人の子や。お袋と…お前に会ってみたかった、っちゅう…。それだけのことや」
私は、いつになく素直にしゃべっている兄の言葉をとりこぼさないように、しっかりと胸に刻んだ。
そして、ようやく理解していた。
私と兄さんは、やはりきょうだいでしかなく、一生家族であり続けるしかないと。
どれだけ成長しても、どれだけ時を経ても、私と兄は、血という何よりも強固なしがらみからは抜け出すことができないのだ。
だから、家に着いたらまず一言目に「大嫌い」と言わなければならないこと、互いを嫌悪の対象にしなければいけないこと、無関心の兄にこちら
も無関心を装わなくてはならないことも、全部、すべて分かっている。
けれど。
兄ではないといって抱きしめた腕の強さ。
優しい露時雨の檻の中で確かめた唇の感触を、もう忘れることなんか到底できなかった。
兄の体に触れたことも、感情の一部を共有したことも、ぜんぶ嘘なんかじゃない。
きょうだいになれなくても、家族ではなくとも、私と兄は繋がっていたのだ…
「兄さんなんて、嫌い…大っきらい」
家に着いて玄関に入る寸前、私はそう言って、泣いた。
みじめったらしく兄にすがりながら、嫌な女の手本のように、しくしくと泣いた。
「それでええ、みどり。その方が、ええんや」
穏やかな兄の声を聞きながら、私は強く、強く言い聞かせた。
私は、このふしだらで不誠実で、残酷なぐらい優しい兄のことが、嫌いで嫌いで、仕方がないのだと。
兄の手が、そっと髪の毛を撫でる。
その感触に浸りながら、私は一生悪夢から逃れられないことを悟った。
―――その方が、ええんや…
一度止んだ雨が思い出したようにまた降り出して、優しい露時雨の記憶はすぐに霧散した。
終わり