「はあっ…!…はぁ、はぁ」  
 
あまりの息苦しさと恐怖で私は飛び起きていた。  
それと同時に呼吸を素早く繰り返す。  
嫌な夢を見た。  
どんなに洗っても染みになって取れない汚れのような、しつこい悪夢だった。  
内容は、思い出せそうでも、すんでのところで思い出せない。  
かなりの不快感だ。  
 
「はあ…はあ…」  
 
気管支が落ち着いてきてもなお、必要以上に酸素を体に取り込む。  
新しい空気をゆっくりと取り入れることで今見ていた夢が薄まっていくように、そう願いながら深呼吸を繰り返した。  
ふと気付けば、寝室の中はほの暗い。  
まだ夜が明けていないのだ。  
この嫌な余韻を体に残したまま学校へ向かうのは億劫だったので、気持ちを落ち着ける時間があるのはありがたいことだった。  
 
『…ん…ふ…』  
 
ようやく心身ともに人心地がついた時になって、どこからか不快な雑音が聞こえてきた。  
最悪なタイミングだった。  
それとも、あまりに取り乱していたせいで雑音に気付かなかっただけか。  
どちらにしろ、それは私にとって不都合極まりない事実であることに違いはない。  
そうしてその雑音の原因もすぐさま突き止めてしまえることすら、忌々しい事実以外の何物でもなかった。  
 
『あ…や…た、かま』  
 
聞こえてくる雑音はいやに甲高く、この家に住む私の家族、母、父、兄、そのどの声とも違っている。  
 
「下品……最低……いなくなればいいのに」  
 
口汚く罵りの言葉を吐き出しながら、私は両手で耳を塞いだ。  
おそらく二つ隣の部屋から漏れてきているのであろう雑音は、紛れもなく最中の女の声であり、その原因は二つ上の兄、秋良高馬であることは疑いようもなかった。  
せっかく悪夢から目を覚ましたというのに、その悪夢に逃げ込みたくなるほど悲惨な現実が待ち受けていようとは、思いもしなかった。  
 
私は、このふしだらで遠慮のない兄のことが、嫌いで嫌いで、仕方がない。  
 
 
 
* * *  
 
 
 
「みどりー、もう帰んの?」  
「うん、ちょっと家の手伝い押しつけられちゃって」  
「偉いねー、日本の大和撫子ここにありって感じだねー。信じらんない」  
「あはは、大和撫子ってただの雑用係のこと?」  
「…ごめん、言いなおすわ。大変だねー」  
高校で友達になった菊池百合子の軽口に付き合いながら、私はさっさと鞄の中に参考書などを詰め込んでいた。  
さっさと家に帰ってやることをやらなければ、「あいつ」が帰ってくるからだ。  
私の忙しそうな仕草で何かを察したのか、トレードマークの短いお下げをくるくると指でいじりながら、百合子は幾分か声を和らげて言った。  
「でもさでもさ、たまにはカラオケとか付き合ってよ〜。あんた歌うまいし、みんなも気にしてんだよ、けっこう」  
「ホント!?なにそれ、お世辞とか気持ち悪いよ百合子」  
「へー、そういうこと言っちゃう?んじゃあせっかくいいこと教えてあげようと思ってたのに、やっぱり言うのやめちゃおっかなー」  
意味ありげに大きな瞳を細めて、百合子はニヤニヤとやたらいやらしい顔をしてみせる。  
そんな風に言われれば是が非でも聞き出したくなるのが人のさがと言うもので、私は瞬時に頭を下げていた。  
「百合子様のほめ言葉、ありがたく頂戴します!だからそのいいことって何か教えて〜」  
「よしよし、素直でよろしい」  
私の大仰なパフォーマンスに溜飲を下げたのか、百合子がヒソヒソ声で耳打ちしてきた。  
「いま3組の女子のあいだで言われてんだけどさ、1組の佐野くん、あんたのこと好きらしいよ」  
驚きのあまり、え?と聞き返すこともできなかった。  
1組の佐野くんと言えば、私たちの学年はおろか、校内中の女子が気にしているのではというほどカッコイイことで有名な人だった。  
何かの間違いだろうとしか思えない。  
 
「それただの噂でしょ?だれかと間違えてるんじゃないの」  
寝不足ということもあり、私は面倒くさそうな噂話にすぐ興味を失った。  
とりあえず、私にとってはひとつもいいこととは思えない類の情報だ。  
「ったく、みどりはこれだから…。ちょっとは嬉しそうな顔したら?普通ははしゃぐよ?色気づくよ?あんた男に興味ないんじゃないの?」  
話して損したとでもいうように、百合子はジト目で腕組みをして睨んできた。  
何を言われても興味がないものは興味がないのだからしょうがない。  
「そうかもね。でも信じられないし、本人ともあんまり面識ないし、それで喜ぶ方がバカじゃない?私みたいなの、わざわざ選ぶと思えないし」  
一通り宿題に関係ありそうな教科書を詰め込んで、あとは帰るだけとなった。  
隣で、うらめしそうな顔をした百合子が、特徴的などんぐり目をくりくり動かして私の様子をうかがっている。  
こうして見ると、百合子は小動物のように可愛くて、守ってあげたくなる雰囲気がある。  
中身はといえばそうでもなくてむしろ頼りがいがある姉御肌な性格だけど、男女とも友達が多くて付き合いやすいし、私のような地味な人間よりはよっぽどモテそうだった。  
そんなふうな評価を下していると、百合子が何かを諦めたように「はー」と大きくため息をついて肩を落とした。  
「……わかった。そうよね、あんなかっこいい人が身内にいるんじゃ、理想が高くなるのも仕方ないしね」  
「え、なんのこと?」  
「兄弟よ、お兄ちゃんよ、あんたのお兄ちゃんの高馬さん!あんだけかっこいい人と毎日顔突き合わせてたら、そりゃ佐野くんあたりが好きだって言ってもどこ吹く風だわ」  
「はあ!?そっ…」  
反論しようとした矢先に「百合子、今日行く?」と別の子から話しかけられ、百合子はそっちの方へ話を変えていた。  
非常にもやもやとした思いを拭えなかったが、腕時計のデジタル表示はすでにタイムリミットを過ぎている。  
名残惜しさを感じながらも、私は早足で教室を出て昇降口へと駆け出した。  
 
靴をローファーに履き替えながら何気なく玄関口の向こう側に目をやった。  
私の通っている高校はグラウンドを通らなければ校門へ行きつかない構造になっており、自然と目につくのは外の部活動をする生徒たちだった。  
陸上部の何人かが流しでトラックを走るその向こうで、白と黒のボールを蹴り合っている群衆に視線が移る。  
あの中の一人にたくさんの女の子が黄色い声援を送っていた光景が、ふっと頭をよぎった。  
とりだしたくもない記憶だった。  
「あんたのお兄さん、残酷なやつよ」  
「え?」  
突然かけられた声にひどく驚きながら振り向くと、髪をやや明るく染めている女の人が、暗い表情でこちらを見ていた。  
ネクタイの色を見ると、どうやら三年生のようだ。  
個人的な好みの範疇で述べると、大変美人な先輩だ。  
けれどこんな美人な人と面識はないし、何を言われているのかさっぱり分からない。  
私は、一応周りを確認してみた。  
…他には誰もいない。  
やはり自分に向けられた言葉で間違いないらしいと観念するしかなかった。  
「あの、なんのことですか?私…」  
関係ないと思うんですけど、という非常に弱弱しい意見に聞く耳も持てないのか、ギャル風の色っぽい先輩はすっと腕を出して、私に受け取れというように顎をしゃくった。  
「これ、あんたの兄貴に渡しといて」  
「は…?」  
 
「あと、さっきあたしが言ったことも伝えといて。…じゃ」  
「あ、あの…」  
言いたいことだけ言ってさっさと行ってしまった先輩の後ろ姿を見届けながら、私は茫然とその場に立ち尽くしていた。  
手の中には四つ折りのノートの切れ端があって、なんだか不幸の手紙のように恐ろしく感じられた。  
何故なら、あの先輩は、兄に伝えろと言っておきながら、その視線の中では明らかに私に対する嫌悪をにじませていたのだ。  
ひょっとして私の悪口を手の中の紙切れにびっしり書き込んでいるのではないかとすら思えるほどだった。  
「にしたって…なんで私が…?」  
何にしろ、非常に面倒な事態に陥ったことは明白だ。  
この紙切れを兄に届けなければならないということは、少なくとも、一度は兄と対面しなければいけないということになる。  
せっかく早く帰ってさっさと家のこと終わらせて寝ようと思っていたのに、とんだ厄介事が舞い込んできたものだ。  
重くなる胃に手をあてながら、仕方なしに渡された紙切れを制服のポケットに押し込んだ、そのとき。  
 
―――あんたのお兄さん、残酷なやつよ。  
 
伝えろと言われたセリフが、ふっと胸に浮かんだ。  
残酷、という直截な表現まで持ち出すほどの、どんなひどいことを兄はやったのか。  
考えたくもないのに、あの兄のことだ、どんなことを強いていようとおかしくはないと容易に想像がついた。  
(きょうだいというだけで、私には何も責任なんてないはずなのに…こんな不安まで抱かなくちゃいけないなんて、納得いかない。理不尽すぎるよ)  
帰る足取りは当然のこと重くなった。  
 
 
私の兄は、秋良高馬という。  
年は二つ上の18歳。  
そして私の名前は七倉みどり。  
名字が違うが、私たちはべつに義理でもなければ他人でもなく、完璧に血の繋がっている兄妹だ。  
では何故名字が違うのか?  
私は今、母の再婚相手である義父の姓を名乗っている。  
だが兄は、母が実の父と離婚したときに私だけを連れて出て行ったため、必然的に実父の姓のままだった。  
そして、私たちと暮らすことになった今も、実父の姓を取らないでいる。  
戸籍上は他人なのだ。  
その他にも、兄は何につけても父の影響が強い。  
いまだに独特の関西弁で話すのもそうだし、家庭環境、価値観、生活習慣、文化、何から何まで私たち家族と一つもかぶらない。  
そう、実の兄妹でありながら、私たちにはまったく共通点がなかった。  
それに、転校を繰り返していたからか、それとも飲んだくれだった(らしい)父を一人で支えてきたからか、同年代の人より世慣れているし、妙に落ち着いているしで…。  
とにかく、私と血を分けていることなど一つとして感じさせない男が、私の実の兄、秋良高馬だった。  
当然だろうが、私は、兄を兄とは思っていない。  
兄の方でも、私を妹とは思っていないだろう。  
なにしろ私が兄と「家族ごっこ」をしなくちゃならなくなったのはつい最近のことだ。  
一緒に居た時間よりも離れて暮らしていた時間の方がずっと長い、そんな家族を家族とは呼べない。  
それでも、最初の頃はまだ「らしく」しようと頑張っていたように思う。  
けれどその努力も、瞬く間に泡と消えた。  
最初に放棄したのは兄の方だった。  
…いや、あの人は放棄どころか、鼻っから何もするつもりがなかったんだろう。  
実らない成果をアテにしていい子ぶれるほど、私は真面目でも大人でもなかった。  
 
私たちが互いに「家族」として引き合わされたのは、ほんの3年前のことだった。  
それも、アルコール中毒で早々にこの世を去った実の父の葬式の席で、だ。  
実の父と兄がいることは聞かされていたものの、実父がアル中で死期が近いなどは教えられていなかった。  
まさに寝耳に水状態の私に実父の死を悼んでいられるような余裕はなく、むしろ何故教えてくれなかったのかという憤りや不満の方が大きかったように思う。  
喪に服す母や義父があれこれと生前の父のことで話しているのを横目で見ながら、私は実の兄であるという、一度も会ったことのなかった兄の様子を目の端で気にしていた。  
私の目には、格別悲しんでいるようにも悄然としているようにも見えなかった兄は、当時は今の私と同じ16歳だったにも関わらず、とても頼もしく映った。  
今後どんな形になったとしても、彼のような兄が持てたことを誇らしく思うだろう、とまで確信させるほど堂々としていた。  
最初は一人暮らしを決意していたらしい兄を、母が必死に説得し、同居にまで至らせた際には、私は喜んですらいたかもしれない。  
だが第一印象と、実際会ってからの印象とでは、がらりとその評価が変わっていった。  
 
「みどり、あんたのお兄ちゃんよ。今日から一緒に住むって話してたでしょ?」  
「うん…」  
「ほら、あいさつは?」  
実の兄にあいさつを強制する実の親というのも変な感じだ。  
そう思いながらも、私は申し訳程度にぺこりと頭を下げた。  
どういうわけか恥ずかしくて兄の顔が見れず、言うべき言葉も思いつかなかったので、とりあえずそうした。  
「何恥ずかしがってんのかしら、この子。覚えてないかもしれないけど、3歳までは一緒にいたのよ?」  
そんな太古の昔のことを持ちだされても、覚えている方がおかしいことに気付いてほしい。  
母のおしつけがましい感動の再会シーンにうんざりとしていたとき、それまでだまって成り行きを見守っていた兄が口を開いた。  
「かまへん。そんなん、覚えてもへんやろ、その子。俺かて、おふくろと住んどった頃の記憶なんぞとっくにのうなっとるわ」  
緩い緊張感で満たされていたその場が、瞬時に凍りついた。  
遠慮のない言い方、少し剣呑とした感じにも聞こえる関西弁、そして何より、私のことを「その子」と、なんの気もなしに口にした事実。  
この人は、私たち…いや、私と家族になることなど、考えてもいないのか。  
そう思い知った時、私はようやく顔をあげて、初めてまともに兄を見ていた。  
背が高かった。  
そして細身のわりには筋肉質で、見上げた先のその顔は……  
自分とまったく似ていない。  
タレ気味でぎょろっとした目と、精悍で無駄な肉のそぎ落とされた、どこもかしこも鋭い顔立ち。  
高い鼻に薄い唇、堅そうな黒い髪…。  
これが、こんな人が、本当に私の実の兄なのだろうか?  
本当に?  
懐かしさや慕わしさなんて、微塵とも湧いてこない人だというのに。  
 
「これからよろしゅうな、みどりちゃん?」  
人を食ったような笑いを浮かべながら兄がそう言ったところで、私たち家族の感動の再会シーンは幕を閉じた。  
絆とか縁とか、そんなもの信じるつもりもないけど、血の繋がった兄妹なのだから少しは何か感じるものがあるのではないかと思っていた。  
けれど本当に、「他人だ」ということ以外、彼に対してまったく感じられるものはなかったのだ。  
けれどその時は、それに関して否定的な感情は湧かなかった。  
10年も離れて暮らしていて、それも一緒に居た時の記憶がないのならば、いくら血縁とはいえ案外と素っ気ないものなのだろうと自分なりに解釈していたからだ。  
けれど、その素っ気なさの本当の原因は実はすべて兄によるのだと、同居を始めて1週間と経たずに知れることとなった。  
 
第一に彼は、「お兄ちゃん」と呼んでも絶対に返事をしなかった。  
体中から勇気を振り絞って口にした「お兄ちゃん」が完璧な無視をくらってから、私は極力兄を呼ばないようにしている。  
どうしてもそうしなきゃならないときは、他人行儀に「兄さん」と呼ぶ。  
兄も、「兄さん」と呼んだ時ならば、明瞭ではないものの何らかの反応を示すようだった。  
第二に、質問には全て上っ面な答えを返すのが兄のやり方だった。  
本当なんだか嘘なんだか分からないような話でごまかすのがうまいのだ。  
核心に触れるような質問などは、虚実織り交ぜたようなエセくさい話を誠実という塗料で上塗りして返す。  
兄の、本当に誠実な話なんか、少なくとも私は一度も聞いたことがない。  
そして最後に、昔の私たちの話など振るのも振られるのも嫌というように、家族だんらんは確実にボイコットだ。  
兄は高校三年になるので進学だ就職だなんだと忙しそうだが、かといって家族と話せないほど多忙かといえば、実はそうでもないのだ。  
時間のやりくりがうまい人だったので、生活のサイクルには常に余裕がある感じだった。  
私たちに分からせない程度に、用事を無理やり作っているような気がした。  
 
とまあ、万事こんな調子だったので、兄が、遺伝子上でしか私たちを家族と認めていないことはすぐに知れた。  
両親の言いつけには表面上従っている様子を見せるが、その実バレない範囲で何をしているのやらわかったものではない。  
10年近く放っておかれていまさら家族ごっこなどできないというのは、正直分かる話ではある。  
けれど、兄ほどに自立心も生活力もある人が、じゃあどうして母の説得に応じてこの家で暮らすことを決断したのか。  
一緒に住んでいるから譲歩している、という程度でしか、兄は母にも義父にも敬意を払っていない。  
まして私などには、話しかけることすらないのだ。  
そんな不安定な家族は、当然のこと不協和音を奏で始めた。  
両親は腫れものに触るように兄に接し、私は私で、最初の三日間を過ぎた頃には彼に関わろうという気持ちなどすっかり失せてしまっていた。  
ただ一人、兄だけが常と変らない様子でマイペースに暮らしている。  
淡々と、その内面はまったく見せることなく、ただ淡々と。  
 
 
 

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