『ひまわり会館 メイド・奈央子』  
 
朝から、心地の良い陽気になりました。  
今日も、メイド協会ひまわり会館のティールームでは、束の間のお休みをいただいたメイドたちが楽しげに笑いさざめいております。  
協会に登録しているメイドでも、ここに来るにはお屋敷が遠すぎたり、お休みをお買い物や別のお友だちと過ごしたりするメイドも多くいます。  
ひまわり会館には若いメイドたちの交流や教育と行った目的もあるので、私としてはできるだけここに来てもらいたいのですが。  
今日ティールームにいるのは、くるみさん、奈央子さん、結衣さん、そして結衣さんと同じお屋敷にお勤めの麻理耶さんです。  
奈央子さんは日本舞踊の大きな流派のお家元から、去年、全国でバレエスタジオを経営する高名なダンサーのお宅へお勤め変えなさったばかりなので、風習の違いにとまどっているようです。  
「同じ踊りでも、洋の東西で大違いなのね」  
少し笑いながら結衣さんがおっしゃって、奈央子さんはため息をつきます。  
「ほんとうは、ひとつのお屋敷で勤め上げるのが良いっていうのはわかっていたのですけどね……」  
「そうよ、前のお屋敷だってお勤めしにくいことはなかったのでしょう?お辞めになったと聞いておどろいたわ」  
麻理耶さんが身を乗り出すのが見えました。  
結衣さんが、そんな麻理耶さんの袖を引きます。  
麻理耶さんはご存じないようですが、奈央子さんがお勤めを変えたのは仕方なかったことなのです。  
「私なら、お勤めを変えるなんて考えられないけど」  
意味ありげに控えめな微笑を浮かべたのはくるみさんです。  
くるみさんのお屋敷には、他のお屋敷にお勤めするメイドたちの噂になるくらい素敵なお坊ちゃまがいらっしゃるのですから、気持ちはわかります。  
奈央子さんはそれがわかったのか、ちょっと困ったように首を傾げました。  
申し遅れました。  
私は中務薫、メイド協会ひまわり会館の相談役でございます。  
もとメイドの経験を生かした、女の子たちのまとめ役といったところでしょうか。  
ちなみに、私が聞いているメイドたちの会話はティールームから大きなガラス窓で隔てられた事務室に備えられている小さなスピーカーから聞こえてくるものです。  
もちろん、メイドたちは隠しマイクの存在など知りません。  
相談役が聞いているとわかれば、言いたいことも言えないでしょうし、そうなれば私は彼女たちの内緒話から情報を知ることができませんから。  
私はパソコンにIDを打ち込んで、奈央子さんのパーソナルデータを呼び出しました。  
お屋敷にいるメイドもそれほど多くなく、奈央子さんも特に、どなたかを専属でお世話するという係りに決まっているわけでもないようです。  
旦那さまと奥さま、ヨーロッパへバレエ留学なさっているお嬢さまが二人、バレエ団の看板ダンサーのお坊ちゃまが一人のご家族でした。  
 
――――  
 
あたしね、最初の日に粗相をしてしまったの。  
お坊ちゃまがレッスンからお帰りになって、メイド長に言われて飲み物をお持ちしたのよ。暑い日だったのでアイスコーヒーよ。  
そしたら、むっとしたお顔になったの。  
冷たい飲み物は、身体が冷えるから良くないんですって。  
すぐにホットコーヒーを入れなおしてお持ちしたら、今度はマッサージはできるのかっておっしゃるの。  
できませんって申し上げたわ、もちろん。  
だ、だって、お年寄りの肩を揉むくらいならできても、プロのバレエダンサーの身体になんて怖くて触れないでしょう。  
それに、お坊ちゃまに触れるほど近づくなんて、少しは、怖いし。  
それでね、お部屋にはソファやテーブルもないのよ、ストレッチの邪魔なんですって。  
お坊ちゃまは脚を伸ばして床にぺたんと座ってらして、どこにコーヒーを置いたらいいか困ってしまったの。  
外国の雑技団みたいに、脚の間から顔を出してコーヒーを飲んだりするんじゃないかと思うくらいよ。  
仕方ないから直接お渡しして、そのまま逃げるようにお部屋を出てきてしまったわ。  
他のメイドに聞いたら、お坊ちゃまはちょっと神経質なところがあって、みんなとても気を使うのですって。  
だから新人のあたしに仕事を押し付けられたのかと思ったら、いい気持ちはしなかったわよ。  
なのに、それからも何かといえばお坊ちゃまの御用をするように言いつけられてしまうの。  
それはもちろん、メイド憲章にあるとおり、ご主人さまには真心をこめてお勤めしたわ。  
……同じ間違いをしたくないっていう気持ちもあって、最初はぎこちなかったかもしれないけど。  
でも、だんだんお坊ちゃまの機嫌が悪いのは真面目にバレエに取り組んでいるせいだってわかったの。  
だからあたしも、なんとかお役に立てることはないか、一生懸命考えたわ……。  
 
――――  
 
レッスンから戻ると、和人は内線電話で部屋に飲み物を持ってくるように命じた。  
来月に控えた公演で、和人はまたいい役をもらえなかったのだ。  
バレエ団代表の息子で、将来のプリンシパルが当然の立場なのに、和人はその期待に応えていない。  
自分でもわかっているのだ。  
バレエの才能が全くないとは思いたくないが、もっとうまく踊るダンサーがたくさんいる。  
人並み以上に努力しているのに、持って生まれた身体の硬さや筋力には限りがある。  
どんなにたくさんの舞台や映画を見ても、和人が掴んだと思った解釈は浅く、表現力は乏しい。  
海外のバレエ団に所属している姉ふたりが主役や準主役級の配役をもらっていることもあって、和人のいらだちは日々つのっていた。  
「失礼いたします」  
入ってきたのは、使用人たちが癇が強いと言っていやがる和人の世話を押し付けられている新人のメイドだった。  
うまく立ち回ることができないらしく、このところずっと和人の用事にはこのメイドがやってくる。  
ほかのメイドたちのしてやったりという顔が浮かぶ。  
初日に冷たい飲み物を持ってくるというミスをして以来、ホットコーヒーのポットを持ってくる。  
そのコーヒーは、かなり美味だ。  
メイドがポットを運んできた和人の部屋には、家具がほとんどない。  
小さなラインティングデスクとベッドの他は、レッスン場と同じ床材の広い空間。  
思いついたときにすぐに身体を動かせるようにしてある。  
それが強迫観念に近いものだという自覚をしているせいで、それがまた和人をいらいらさせる。  
部屋にテーブルもないため、最初はおろおろしていたメイドも、今はためらわずに和人が座り込んでいる床に膝をついてトレーを置く。  
和人は一般人よりは長い脚を引き寄せてあぐらをかき、コーヒーがカップに注がれるのを見ていた。  
ポットを持つメイドの腕やスカートの裾からのぞく足首、顔を順に眺めた。  
筋肉が少なく、体脂肪の高そうな体型だ。  
これでは踊れない。  
もっとも、バレリーナでない女はみんなこんな身体をしているものかもしれない。  
メイドは和人の足元にランチョンマットのようなものを敷き、コーヒーカップを置いた。  
ソーサーごと持ち上げると、遠慮がちに小さな皿を押し出した。  
ガラスのカップに白いものが詰まっているが、なんだかわからない。  
「なに、それ」  
思いのほか、メイドがはっきりとビクついた。  
そういえば、自分からこのメイドに話しかけたことはなかったかもしれない。  
「ス、スフレでございます」  
「スフレ?」  
床に正座して、膝の上で両手を握り締めたメイドがうつむく。  
「お夕食をお召し上がりにならないと聞きましたので、おしのぎに」  
屋敷で出る食事を断ったのは、今朝の測定で200グラムの増量があったからだ。  
太りやすい和人は身体の管理も厳しくしており、夕食をとらないことも多い。  
無理な減食は脂肪より筋肉を落としてしまうから、ビタミンやプロテインのドリンクは摂取するつもりだった。  
それなのに、なにも知らないメイドが余計なことをする。  
目の前の小さなスフレを見たせいで、運動をした後の胃が食物を切望するのがわかって、和人は不機嫌になった。  
「卵白を使っていて甘くないスフレでございます。低カロリーで、高たんぱくなので、もし」  
下げろ、と言いかけたところで、メイドが決死の覚悟と言わんばかりの顔で訴えた。  
まともに、目が合った。  
十人並みの、とりたてて美人という顔ではない。  
肌のきれいな、ふっくらした頬をピンク色にしている。  
緊張のせいか少し潤んだ目と、半開きのまま固まった唇。  
「……もし?」  
メイドなんかの言葉を、なぜ聞いてやろうと思ったのかわからない。  
ただの気まぐれか、なにかの予感か。  
メイドはすっと手を滑らせて、床に指先を付いた。  
何気ないその仕草が、和人をどきっとさせた。  
無駄のない、美しい動き。  
「もし、よろしければ……、お召し上がりくださいませ」  
言葉にも無駄がない。  
一通りの行儀作法を習っただけのメイドとは何か違う気がしたが、それが何かがわからない。  
和人は黙ってスフレのカップを取り上げた。  
ほっとした表情で、メイドがトレーからスプーンを取り上げた。  
右手で取って、左手で持ち直して右手を添えて……、自然な動きで差し出されるスプーンを受け取って、和人はメイドを見た。  
 
「名前」  
「はい」  
「いや、名前……、なんて?」  
メイドはすっと背筋を伸ばしたまま、やや目を伏せた。  
「奈央子でございます」  
なおこ。  
平凡なその名前を口の中で繰り返す。  
卵白をふわふわにあわ立てたスフレは蜂蜜の風味がかすかに香り付けになっていた。  
美しく立つことや高く見せることはクラシックバレエには欠かせない。  
いかに高く飛ぶか、手足を長く伸ばすか。  
西洋式の生活がなじんだ和人やこの家の者たちも、立ち居振る舞いはきちんとしているものの、このメイドはそれとは少し違う気がした。  
スフレを食べながら、和人はもう一度メイドに聞く。  
「新人だろ。前にどこかで働いてたのか」  
控えめに、かつ失礼のない程度にメイドは和人にも聞き覚えのある日本舞踊の家元の名をあげた。  
なるほど。  
心地良い新鮮さを感じるメイドの所作は、和のものらしい。  
「同じ踊りでも随分正反対のところへきたもんだな。……困ってないか」  
うつむいていたメイドは、両の口角を上げた。  
思わずいたわりの言葉が飛び出した自分におどろき、メイドの浮かべた微笑になぜかどぎまぎする。  
「……ありがとう存じます」  
 
――――  
 
お坊ちゃまは、みなさんがおっしゃるほど気難しい方ではないのよ。  
でも、ほら、あたし……。あんなことがあったでしょう。  
できれば新しいお屋敷では、みなさまと直接お会いしないような下働きをしたかったの。  
だから、お勤めを変えたばかりの新人なら雑用が与えられるだろうと甘く見ていたのよ。  
でも、新人だからこそみなさんが敬遠するようなお仕事を与えられてしまって。  
お勤めしているうちに、お坊ちゃまがあたしのことお嫌いではないとわかったわ。  
専属になったわけではないから、お坊ちゃまから直接お呼びがかかった時に伺うんだけど、その回数も増えてきたの。  
だから、もっとお役に立ちたいと思うようになるのはメイドとしてあたりまえでしょう?  
暖かいお飲み物をさしあげたり、ストレッチをなさった後に柔らかいタオルをお渡ししたりね。  
あたし、バレエのことはわからないけど毎日それは激しいレッスンをなさるんですって。  
それなのにお坊ちゃまは小鳥がつつくくらいしかお食事を上がらないのよ。  
だから、甘味も脂肪も少なくて、たんぱく質の多いスフレを差し入れしてみたら、お気に召していただけたの。  
身体の動きがよくなったって、褒めていただけた時はとても嬉しかった。  
次の公演では鳥の化身を踊るんだって、片腕をすっと上に上げただけで、羽ばたいているように見えたわ。  
思わず、そうお伝えしたら、お坊ちゃまは笑ってくださったわ。  
それでね、奈央子は日本舞踊を踊れるのってお尋ねになったの。  
前のお屋敷はお家元だったけど、あたしは小さな頃に少しお稽古しただけでしょう。  
何度もご辞退したんだけど、僕は素人なんだからうまいへたなんかわからないよって笑っておっしゃるから断りきれなくて。  
ほんの一指し、舞っただけよ。  
お着物もないし、靴下で板張りの床でしょう、滑ってしまってよろめいたの。  
お坊ちゃまが手を差し伸べて支えてくださって、それなのにあたし、びっくりしてしまった。  
とても失礼なことなのに、お手を振り払って、その場にしゃがみこんでしまったの。  
……怖かった。  
とても、怖かったの。  
男の人に触れられることが、とても。  
 
――――  
 
「え、奈央子?」  
とっさに思い返してみても、倒れかけた身体を支えただけでなにをしたわけでもない。  
そんなにおびえる理由が分からなかった。  
「奈央子、どう……」  
「あの、そ、粗相をいたしました。申し訳……」  
ひれ伏さんばかりに頭を下げる奈央子の前に、和人は膝をすすめた。  
「いや、なんでもないよ。無理を言って悪かった」  
肩に置こうと伸ばした手は、感電したようにびくっと上下した身体の上で止まった。  
「大丈夫だよ」  
なるべく優しい声で言い、手を引っ込める。  
最近は和人の世話に慣れてきて、気を許してさえいたように見えていた奈央子の態度が変わったことにとまどう。  
「勉強になった。日本舞踊は本当にバレエとは基礎から違うんだね。使う筋肉も違うし、表現とか動きのいろいろな……」  
言葉を重ねても、奈央子は身体を硬くしてうつむいたままだ。  
自分が何をしたか思い返しても、奈央子の変化に思い当たることがない。  
仕方なく和人は奈央子の前に座り込んだまま、黙った。  
「奈央子?奈央子、おい、なんだ?」  
行儀良く並んで膝に置いた奈央子の手の甲に、ぽたっと水滴が落ちていた。  
「あー、わかった、悪かった、僕が全部悪かった。ごめん、謝る、このとおりだ」  
機嫌の悪い女の子には、とりあえず謝るに限る。  
限られた経験でそう学んでいるせいで、相手がメイドなのも忘れてがばっと床に手をついて頭を下げる。  
「ぅえ、え、かっ、和人さま、なにを、あの、おやめください、ど、どうして」  
奈央子に口を開かせることに成功した和人が、慌てる小さな顔を下から見上げる。  
「……え」  
一度まぬけな声を上げて、一呼吸おいてから和人は弾かれたように笑い出した。  
転がっていたティッシュの箱をひきよせて、ばさばさと引き抜く。  
「奈央子、鼻。鼻水落ちてるぞ」  
泣かせたかとあせったのが、ぽったりと落ちた鼻水だったことがおかしくてたまらない。  
「拭いてやろうか、ほら」  
「けっ、けっこうでございます!」  
恥ずかしさのあまりに素が出て、奈央子は和人の手からティッシュを奪い取り、鼻に押し当てた。  
直後に自分の態度の非礼さに気づいたのか、鼻を押さえたままフガフガと詫びる。  
すっかり身についたと思っていた所作なのに、これではメイド失格だと気持ちが沈む。  
「……そういうほうが、いいよ」  
ティッシュをエプロンのポケットに押し込むのを見て、和人がつぶやいた。  
「はい?」  
「今の。普通の女の子みたいにしゃべるの。この部屋だけでもそうすればいいのに」  
奈央子はそっと後ろに下がる。  
「いえ、それはいけません」  
「なんで」  
跳ね返すように聞き返されて、奈央子はどうしたものかぎゅっと両手を握り締めた。  
 
――――  
 
メイドのお仕事はそれなりにしてきたつもりだけど、お坊ちゃまのなさることは予想できなかったわ。  
だって、転びかけたメイドを支えてくださるのはお優しいからだって思えるけど、あたしはそのお手を振り払ってしまったのよ。  
普通、お怒りになるでしょう?  
それなのに、自分が悪かったなんておっしゃるし、わざと明るくしてくださるし、取り乱したあたしの顔までぬぐってくださるんだもの。  
なんてお優しくて、素敵なお坊ちゃまなんだろうって思ったわ。  
だけど、お尋ねにはさすがに迷ってしまったのよ。  
今のお屋敷では、前のこと誰にも話したことがなかったのよ。  
でも、専属ではないとはいえ、ご主人様のお尋ねでしょう?  
お答えしないわけにはいかないわ。  
ああ、麻理耶さんはご存じないわね。  
あたしね、前のお屋敷で失敗してしまったの。  
旦那さまのお世話を任されていたのだけど、旦那さまはそれはそれはお気遣いしてくださる方だったのね。  
それであたしもついつい気を許してしまって、親しげな振る舞いをしてしまっていたのね。  
そんなつもりじゃなかったのに。  
だって、旦那さまには奥さまもお子さまもいらっしゃるのよ。  
ええ、そう。  
ある時、いつものようにお部屋に伺ったら、急に。  
ドアにカギをかけられていたことにも気づかなくて、声を上げても誰も来てくれない。  
次の日にはお勤めを辞めたの。  
ほんとうはそんな辞め方をしたら、次のお勤めなんてないのよ。  
でも、ひまわり会館で薫さんに相談して、なんとかメイドを続けられるように骨折ってもらったの。  
メイドって時にはとても弱い立場なのよ。  
そんな時、メイドを守ってくれるのはメイド協会しかないの。  
ええ、思い切ってお坊ちゃまにお話ししたわ。  
だから、男の方に近づきすぎるのはちょっと怖いっていうことと、でもお坊ちゃまのことは前の旦那さまのようではないとわかっていることを、一生懸命説明したの。  
 
――――  
 
奈央子の話に、和人は腹を立てた。  
主人の立場を利用して、メイドをむりやり手籠めにするなんて許せない。  
奈央子はそのトラウマで、男性恐怖症になるほどだ。  
最初のぎこちなさを、使用人に評判の悪い和人の世話をさせられるのが怖いのかと思っていたが、それだけではないのだ。  
ちょっと足をさすってくれと頼んだ時も、プロダンサーのマッサージなんてできかねますと断られたが、男に触れるほど近づくのが恐ろしかったのだ。  
バランスを崩した身体を支えただけであんなに緊張したのも、もっと親しい口をきいてもいいと言っただけで激しく拒否されたことも。  
「ひどいな」  
怒りを隠そうともせず、和人は拳であぐらの膝を殴り、声を荒げ、それに奈央子が怯えたのではないかと慌てる。  
「同じ男として許せない。そんな家、辞めて良かったんだ。泣き寝入りなんかすることない、全く、訴えてもいいくらいだ」  
あまりに和人が怒り続けるので、奈央子のほうが居心地が悪くなる。  
「だいたい奈央子も奈央子だ。そんな大事なこと、なんで黙ってたんだ。もしかして僕が同じようなことでもすると思って怖がってたんじゃないだろうね」  
なぜ黙っていたと言われても、すすんで話したくなることではない。  
矛先を向けられて、奈央子は縮こまる。  
「いえ、和人さまはそんな方ではないと」  
「あたりまえだ。ましてや好きな子なら大切にするっ」  
言って、和人はしまったと思った。  
よりによって、最悪のタイミングで告白してしまったことに。  
唐突にそんなことを言われて、奈央子が困っているだろうと思うと、意外なことに、奈央子は微笑んだ。  
和人がぽかんとした顔をすると、奈央子は慌てたように平伏する。  
「奈央子?」  
「申し訳ありません、あの、ほっと、ほっといたしました」  
ゆっくり顔を上げて、形良くふっくらした胸に手を置く。  
「こんなこと……、きっと身持ちが悪いとお叱りを受けるのではないかと思っておりました。メイド協会からも、あまり口にしないように言われておりましたし」  
「なに言ってるんだ、奈央子が悪いわけじゃないよ。百パーセント、相手が悪い」  
辞めたとはいえ、かつて主人だった人をあしざまに言うことはせず、奈央子はうつむく。  
 
「……もし」  
しばらくの沈黙の後、和人は脚を組み替えて膝を立てた。  
「奈央子が、僕の部屋に来るのが怖いなら……、僕は奈央子が来てくれるのは嬉しいけど、もし嫌なら」  
咳払いをして、和人はなにか返事をしようとする奈央子を片手で制した。  
「メイドたちが僕のことを嫌ってるのは知ってた。奈央子が断れないのをいいことに僕の世話を押し付けられてることもね」  
奈央子はうつむき加減に正座したまま、じっと和人の言葉を聞く。  
「バレエがね、思い通りに踊れないんだ。まあ、それはメイドに当たることではないね。だけどイライラしてどうしても機嫌よくいられないこともあるんだ」  
前のお屋敷でも、お稽古がうまくいかないと誰もが不機嫌になっていたのを、奈央子は知っている。  
「だけど奈央子は、僕にスフレを作ってくれただろう。食事をしないなら手間が省けていい、って考えずに、僕のことを心配してくれた。そんなのは初めてだったんだ。嬉しかったよ」  
「……和人さま」  
思わずまた涙ぐんで、奈央子は和人が慌てて自分の肩に手を置こうとし、はっとしたように引っ込めるのを見た。  
「だから、なんていうか。できれば、このままうちにいて欲しいし、ぼくの部屋に来て欲しい。奈央子がいやだと思うことはなにひとつしないって、約束する」  
大きく息を吸い込み、繰り返す。  
「なにもしない。奈央子が、好きだから」  
メイドとして、誠実に一生懸命お勤めしなければいけないという気持ちと、主人に近づかれることの怖さとの葛藤に疲れていた奈央子の心に、和人の言葉が染みる。  
胸の中に広がる暖かくて心地良いものを抱きしめて、奈央子はバレエのレッスンに適した床材に両手の先をついた。  
「おつとめさせていただきます。よろこんで……」  
 
――――  
 
ええ、そうなの。  
その時、お坊ちゃまは確かにあたしのこと好きだっておっしゃってくださったわ。  
いやねくるみさん、聞こえなかったふりをしたつもりはないわ。  
お坊ちゃまもそれっきり、そんなことおっしゃらなかったし。  
でも、それからもずっとお世話をさせていただいたわ。  
お坊ちゃまもご機嫌が良いってみんなも驚いていたし、公演も大成功って評判なの。  
そうね、あたしもだんだんお坊ちゃまに魅かれて……、やだ、そんなこと聞かないでね。  
え?  
今のお屋敷にお勤めしてからはもう半年よ。  
お坊ちゃまのお世話もそのくらいはさせていただいてるから、今のお話はもう数ヶ月前のことになるの。  
だから、そうね、そういうことにも、なるじゃない?  
なにもしないって、おっしゃったのは本当なのよ。  
でも、でも、人の気持ちって変わるでしょう……。  
 
――――  
 
「……ほんとに、いいのかい」  
「はい……」  
奈央子が知っている男は、暴力的で強引で自分勝手だった。  
何も知らないうちに、押し倒され殴られ開かれて押し入られた。  
逆に言えば、それしか知らなかった。  
暖かくて柔らかくて、そっと包み込んでくれるのも男なのだと教えてくれたのは、和人だった。  
無理にとは言わないよ。  
耳元でそう囁けるほど近づけるまでに、和人は辛抱強く待った。  
距離を縮め、軽く触れ、手を重ねる。  
背中を抱き、口付け、抱きしめる。  
「僕、奈央子に好きだと言ったことがあるよね、覚えてる?」  
こくん、と素直に頷いた。  
「怖い?」  
首を、横に振った。  
お互いに魅かれながら、思いをかなえるまでに時間がかかったのは、奈央子の心の傷を和人が癒すための時間だったのかもしれない。  
「奈央子がいてくれたら、踊れる気がする……」  
何度も唇を重ねながらそう言う和人を、奈央子の華奢な腕が抱いた。  
「鳥を……、鳥を見せてくださいませ」  
ステージの上で、和人が鳥になるのを見たかった。  
「いいよ。僕は、奈央子だけの鳥だ」  
冷静に聞けば、くすぐったいを通り越して笑い出してしまいそうなセリフを、和人は大真面目で言い、奈央子も大真面目で聞いた。  
 
筋肉と関節の柔らかい長い手足が、奈央子を巻き取る。  
引きちぎられることなく脱がされてあらわになった白い裸体を、和人の面前にさらして奈央子は恥ずかしさに身をよじる。  
まろやかな身体を、滑らかな肌を手のひらがなぞる。  
吸い付くような感触に、和人は眩暈すら覚えた。  
女を抱いたことがないわけじゃない。  
つきあったこともあるし、ゆきずりもある。  
抱きたい、愛したいという気持ちを、相手が心を開くまで抑えて待ったのは初めてだ。  
そこまで大切にしたいと思った女。  
それが、屋敷の使用人だというのも自分で驚いた。  
乳首を軽く吸いたてた。  
「……ん」  
もう一度、奈央子が小さく声を立てた。  
言葉少なに語った話から考えれば、初めてに近いはずだ。  
つらい経験がある分、初めてより怖いだろう。  
隠しこまれていた豊かな胸と、くびれたウエスト、小さなお尻と、張りのある太もも。  
大丈夫です、望んでいますというように自分にすがり付いてくる。  
和人はゆっくりと愛撫を繰り返した。  
奈央子の緊張が解け、白い肌が薄桃色に上気し、甘い吐息が漏れ、乳首が紅色に立ち上がる。  
和人の中で沸々と湧き上がっていた欲情が火を噴くようにたぎる。  
挿れたい。  
奈央子の中に、沈みたい。  
指先を脚に這わせると、ぴたりと閉じた膝頭に触れる。  
そっと撫でると、力が抜けた。  
手を差し入れ、開かせる。  
「もう、だめなんだ」  
奈央子が閉じていた瞼を痙攣させるようにして、薄く開いた。  
「もう、待てないんだ。もう」  
「……はい」  
開かせた脚に膝を入れる。  
大切にするから、と言ったあとで、肝心なことを聞いていないと気づいた。  
挿れたい、入りたい、今すぐ奈央子の柔らかな肉に包まれたい。  
喉を上下させて、和人は奈央子の腰から胸をそっとさすり上げた。  
「奈央子。奈央子は、僕が好き?」  
恋の成就を目前にして、奈央子が涙を溜めた目で和人を見上げる。  
「はしたない……メイドだと、お怒りになりませんか」  
先端は、もう触れている。  
「お互い好きなら、メイドでも主人でもない。恋人だよ」  
目尻を涙がこぼれ落ちた。  
「お慕いしています……」  
柔らかな女に、硬い男が押し当てられた。  
粘膜は熱く柔らかく、きつかった。  
和人の侵入を拒むかと思われたそこは、吸い付くように飲み込んだ。  
「……く」  
暴発しそうな快感に、和人は焦った。  
いくらなんでも、挿れるなり射精するっていうのはまずい。いろいろと。  
とっさに頭の中で元素記号を暗唱しながら、一息つく。  
奈央子がつらくないか、頬に手を当てる。  
「……奈央子」  
「は…い」  
中が、痙攣するように和人を刺激してくる。  
「やばい…、すごい、いい」  
奈央子は目を見開いて、それから言葉の意味を理解したようにはにかむ。  
恐怖と衝撃であまり覚えていないし、思い出したくもなかったけれど、あの時と同じ行為とは思えない。  
違う、同じ行為なわけはない。  
まるで違う。  
前の時は激痛しかなかったはずなのに、今は心地いい。  
凝った身体を揉み解してもらう時の、痛気持ちいいような感覚。  
ゆっくりと動かされることで、圧迫される場所が変わる。  
 
奈央子の腕に背中を抱かれて、和人は腰がぴったりとくっつくほど奥に押し込んだ。  
中が、別個の生きもののように絡み付き、絞り上げる。  
奈央子は歓んでいる。  
和人に抱かれることを、歓んでいる。  
ぬめぬめとした愛液が動きを助け、速度を上げさせる。  
奈央子の背が反り返った。  
女の歓びが、男の悦びになった。  
唇を吸い、乳房を揉みしだき、膣をこすり上げる。  
腰を抱いて裏に返す。  
「あ、いや、和人さま」  
自分の中から抜け落ちた和人を奈央子が肩越しに振り返る。  
「…大丈夫」  
白くて小さな背中に伏せて、その肩に歯を当てる。  
後ろから侵入すると、奈央子が小さく声を立てた。  
「こっちのが、いいの?」  
「…ん……、あっ、はっ」  
膝を立てさせ、抱え込んで動く。  
もう、元素記号が思い出せない。  
小さく悲鳴のような声が絶え間なく耳に届く。  
歓びを伝える、高い声。  
「あ、や、もう、どうか……どうかなるっ」  
奈央子が根を上げた。  
顔が見たい。  
今度は、抜け落ちないようにそっと体位を変える。  
奈央子が和人の首に腕を回して強く身体を押し付けてきた。  
「どうしましょう、あ、……んっ、ど、どうなるのでございます、か、ああっ」  
どうなるって?  
こうなるんだ。  
フィニッシュに向けて、和人が動く。  
奈央子が身体をうねらせ、喘ぎ、眉を寄せ、和人の背中に爪を立てる。  
「あ、あっ、あああっ、いや、助けて……!」  
開かせて押さえつけた脚が硬直したかと思うと、びくんびくんと波打った。  
和人は自身も低くうめきながら、最後の一運動に没頭した。  
熱を持つ粘膜と柔肉に包まれて、和人は天に向かって舞い上がった。  
余韻に震える身体の上に倒れこみ、その熱い息遣いを聞きながら柔らかな胸に顔を埋める。  
鳥に、なったかも。  
 
――――  
 
スピーカーから、メイドたちのため息が聞こえました。  
「素敵……」  
うっとりとつぶやいたのは、結衣さんのようです。  
メイドとご主人さまの間には、なにもないほうが好ましいとは思うのですが、一度悲しい思いをした奈央子さんだけに、心優しいお坊ちゃまに出会えたのは幸せなことでしょう。  
メイドにひどい扱いをするご主人さまは決して少なくないのです。  
先日も、暴力的な嗜好のあるお坊ちゃまに対して、メイド協会が正式に抗議する事例があったばかりです。  
かわいそうに、綾音さんは結局ことの次第を正しく理解することもできず、無理やり引き裂かれたように思っているかもしれません。  
たとえその時は辛くても、将来的に考えて、この事態は介入すべきというのがメイド協会の判断だったのです。  
少しつまらなそうに、くるみさんがティーカップを取り上げるのが見えました。  
くるみさんのお屋敷の、よそのメイドたちにもプリンスと呼ばれるお坊ちゃまは、どうやらまだ特別なメイドはいないようです。  
くるみさんも、お坊ちゃまの目に留まりたいと思っているのでしょうか。  
結局、すべて話してしまったことで奈央子さんは顔を赤らめ、あらもうこんな時間、とつぶやいて立ち上がりました。  
結衣さんと麻理耶さんは奈央子さんを冷やかすようなうらやむような言葉をかけ、奈央子さんは逃げるように私に挨拶をしてひまわり会館を飛び出してしまいました。  
その背中が、お勤めを変えたころとは打って変わって楽しげに見えたのは気のせいではないでしょう。  
またいらっしゃい、そう声をかけて私はティールームを覗きました。  
今日は、これ以上ここに来るメイドはいないようです。  
何か気に掛かることがあるのか、くるみさんはため息をついていました。  
一度、くるみさんのお話を聞いた方がいいかもしれません。  
私としても、気になることがあるものですから。  
もちろん、公私混同には注意いたします。  
 
「そういえば、最近は愛さんにお会いしてないわね」  
結衣さんが残りのお菓子を片付けながら、思い出したように言います。  
「私は、少し前にここでお会いしたけれど、お忙しいのかもしれないわね」  
話を向けられてくるみさんが気のない素振りで答え、それでなんとなく今日はお開きということになったようです。  
そういえば、確かにしばらく愛さんにお会いしていません。  
愛さんのように経験のある思慮深い方には、ぜひ他のメイドの模範になるべく度々は顔を見せていただきたいものです。  
「薫さん、ありがとうございました」  
来た時よりもきれいに片づけをして、メイドたちは三々五々お屋敷に帰っていきます。  
その背中を見送りながら、私は一人一人すべてのメイドたちが幸せにおつとめできるよう願わずにはいられないのです。  
少しでもそのお手伝いができますよう、ひまわり会館はメイドたちを見守ります。  
私はスピーカーとレコーダーのスイッチを切り、ペンを置いてパソコンを落としました。  
本当に、メイドというのはなんと複雑で繊細で、そして喜びの大きなお勤めなのでしょう。  
できるなら、すべてのメイドたちが幸せにお勤めを全うできますように。  
私は奈央子さんの幸せそうな笑顔を思い出し、嬉しく思うと同時に胸の奥にちくりとするものを感じてしまうのです。  
 
 
――今日も、ひまわり会館にはお休みをいただいたメイドたちが、わずかな時間を楽しむために訪れます。  
ほんの少しの間、メイドからひとりの女の子に戻るのです。  
私は、女の子たちの笑顔を見守り、送り出します。  
「ひまわり」の花言葉は、「愛慕」。  
そして、「私の目はあなただけを見つめる」……。  
 
またいらっしゃい。  
心をこめて、おつとめなさいませ――――。  
 
 
 
――――了――――  
 

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