――1――  
 
 今や歴史書の中に記録を留めるばかりとなった血と炎に彩られた混沌の時代。  
 理由すら定かでない対立の末、自分達の手で己の住む大陸をも沈めんとしていた戦いも遥かな昔となった時代。  
 その数多の命を飲み込んだ人と魔の対立も、僅かな手勢と共に魔王の城に乗り込んだ勇者と女魔王の七日間に渡る壮絶な一騎打ちと取っ組み合いと口喧嘩の果て、お互いに愛が芽生えてしまいグダグダで有耶無耶の内に終わった。  
 それから幾星霜。  
 かつては神や魔王に匹敵する存在として畏敬と恐怖を集めてきた竜が、人と共に暮らしていてもおかしくないくらいに人魔の垣根の下がった、そんな時代。  
 
 
――2――  
 
 ざざざ……ざざざ……。  
 草原を吹き抜けていく風が、辺りにぽつぽつと生えている潅木を揺らす。  
 その度に、慌てて振り返る。  
 何もなく、誰もいない。  
 ごくり。  
 おどおどと落ち着かない様子で周りを見回す。しばらくそうして誰もいないと納得したのか、唾を飲み下そうとして、思わずむせた。  
 全力疾走で喉はカラカラ。そんな事にすら気づけないほど焦っていた。そして焼けるように痛む喉に気が付いてしまって咳がこぼれそうになり、慌てて手で口を塞ぐ。  
 風に紛れてしまうような咳でも誰かに聞きつけられてしまいそうな気がして、その場から逃げるように、再び小道を駆け始めた。  
 想像が生む恐怖に背を押されて、走る。  
 今にも辺りの草むらから、盗賊達が現れて、追いつかれて、捕まってしまうのではないか。  
 そんな恐怖を振り払うかのように、必死に前を向く。  
 なだらかにうねる丘と丘の合間を縫うように走っている、手入れの悪い石ころだらけの小道を、何度も躓きながら転がるように進む。  
 
 この時代、盗賊山賊の類はさして珍しくない。それどころか、ありふれている。  
 この手のゴロツキどもは、少しばかりリーダーシップがあったり、腕っ節が強い人物がいると、芋づる式に簡単に群れる。  
 そして徒党を組んで集団が大きくなると、街道を独行する行商人や森を行く旅人を襲ったところで大した稼ぎにならないので、近隣の町や村までも獲物にするようになってくる。防備の手薄な寒村や町が襲われるのは、それほど珍しい事ではない。  
 治安維持に熱心な――盗賊の財を没収する狙いも多分にあるが――領主であれば情報収集を怠らず定期的に討伐隊を繰り出すし、土地の支配者にそこまでの軍事力がなければ依頼された冒険者達が代行する場合もある。  
 しかし、どれだけ叩いても叩いても、どこからか沸いてくるのが現実だ。  
 たまたま一人で市壁――"壁"と言うよりは"板"に近い代物ではあるが――の外に出かけていた少年は難を逃れえた。彼は、近くの川まで夕飯のオカズを釣りに出かけようとしていたのだ。毎日の食材を確保する手伝いは、子供達の重要な仕事である。  
 釣果が運に味方されたかどうかは既に永遠の謎だが、幸運の女神は彼の命そのものに対して微笑んだ。  
 子供でも盗賊がどういうものかくらい、知っている。町を襲うまでに集まったならず者が具体的にどういう行動に及ぶかまでは教えてもらっていなかったが、大人達の口調から子供心でもそれがもたらすモノは何とはなしに想像が付く。  
 彼がその場でへたり込んで、声を殺して泣き始めたとしても誰が責められようか。なにせ市壁の向こうには、彼が戻るべき家と家族があるのだから。  
 だが、それが彼の命を救った。  
 しゃがんだお陰で、小柄な体は草原に生える一面の草に紛れて見えなくなった。ひとしきり泣いていたお陰で、町から逃走する者がいないか見張る殿の警戒が緩んでから動く事が出来た。  
 涙と一緒に恐怖を洗い流した少年はおっかなびっくり立ち上がり、ある方角に向けて、涙と鼻水を袖口で拭いながら歩み始めた。  
 彼のみならず、町に住む子供達は常日頃から親に教えられていたからだ。何かあれば、そこへ行き助けを求めろと。  
 近在の他の村や町にではない。  
 少年はそこまでの道を知らないし、仮に知っていても彼の足では優に半日はかかってしまう。  
 このカーメラと言う町には、そのちっぽけな規模に不釣り合いな守護者がいる。  
 丘を覆う丈の低い草と灌木の向こうにやっと見えてきた、貧相と言っても過言ではない小屋に住む、守護者が。  
 大きく開け放たれた両開きの戸から、小屋に飛び込む。  
「ルヴァさま!たすけて……助けてください!  
 盗賊がきて!町にっ…みて、それで、ぼく、はしって!!」  
 走ってきた勢いもそのまま、一息にまくしたてる。  
 呂律の回っていない少年を、二人の人物が出迎えた。  
 一人はいきなり飛び込んで来た少年に随分と驚いた様子で、もう一人はまったく表情を変えずに。  
 
 
――3――  
 
 木炭、石炭、溶けたタール、焼けた鉄。  
 入った途端、色々な残り香が入り混じり、ツンと鼻の奥を刺激する。  
 小屋の中は一見して鍛冶屋のようだった。地面むき出しの土間には炉が組まれ、脇には炉内に空気を送り込む手こぎ式のフイゴが据え付けられている。  
 ただ本職の鍛冶屋というには違和感を禁じえない。  
 小屋の中は本職に比べれば何もかも規模が小さく、まるで遊びのように見える。一通りの仕事は出来るようだが、多量の注文を捌く工房には見えない。  
 実際、忙しい筈の昼間なのに炉に火は入っておらず、小屋の中で一番年かさに見える男にしても、鍛冶屋を営む親方と言うにしては若すぎる。  
 ブ厚い前掛けに、飛び散る火の粉を弾く為の皮パッチを当てたズボンなど格好はいかにも職人だ。それでも普通であれば、見習いとまではいかないがハンマーを振るう親方の周りで相方を務める助手が精々だろう。  
 そして騒々しい槌音と怒声がつきものの工房には、あまりに場違いな人物がいる。  
 少女。  
 そんじょそこらの鼻たれ餓鬼ではない。どこか神秘的な雰囲気をまとった、美しい少女。  
 年は十をわずかに過ぎた頃。肢体に丸みは少なく、子を産める準備はまだ整っていなさそうだ。  
 鮮やかな緋色の髪。後ろと左右になめらかに流して、つるりとした綺麗なおでこを露出させている。襟足辺りで切り揃えられた髪型自体は幼さを感じさせる類のものだが、少女自身の落ち着き払った態度は老成した者のよう。  
 背もさほど高くない。薄っぺたい体に赤い単衣を纏って、背もたれのない丸椅子に座って地面に届かない足をブラブラさせている。  
 体に巻きつけるようにして前身頃を打合せて帯や縄で締める着物は、上半身と下半身を一枚で覆えてズボンなどを穿く必要のないタイプの衣服なので、体の構造が人間と異なり"筒状の何かを穿く"という行為の苦手な種族に愛用する者が多い。  
 人間だって着用するが、単衣はこの地方の衣服ではない。この辺りでは、たいてい青年のようにズボンとシャツなど上下で分かれているタイプの衣服を着用する。  
「お?はえぇな、坊主」  
 簡素な椅子に座り、地面に設けた炉とは別の、小さな移動式の炉に向かって屈みこんでいた青年が顔を上げる。煤と油と汗に汚れてはいるが、ちょいと拭えば飄とした感じの人好きのする顔になるだろう。  
 鋳掛け途中の注文の品、穴の開いた鉄鍋を軽く振る。  
「注文の日はもうちょい先じゃなかったか?今来ても、まだ穴開いたままで使い物にならねぇぞ?」  
「ちっ……ちが、う!の!まちに、とうぞく、きて!それ、を、しら……せに!」  
 乾ききった喉から言葉を絞り出すのに苦労している少年の前に、すっと木のコップが差し出される。  
 中には綺麗な水。  
 たった一杯の水がまさしく天の恵みにも思える。見目麗しい少女の手からコップを渡してもらえた事も含めて。  
 頭を大きくのけぞらせて一気に中身を干す少年の前で、青年は考えていた。  
 要領を得ない少年の言葉からでも、推測出来る状況は限られている。  
「おかしいな?近くに住みつきやがった連中はこの間、追い払ったはずなんだがな…」  
 首を捻る。  
「…まぁ、いいさ。行ってぶっちめてからナニモンか聞きゃあいいだけか」  
 少年の不安を吹き飛ばすように、にっかりと笑いかける。  
 仕事道具をひょいひょいと手際よく片付ける。  
 流れる仕事の汗を、半分がた汚れたままのボロ布で拭いて、それで片付けは終わり。  
 
 物騒な言葉の割りには、それ以外は何ら支度らしい支度もせずに表に歩いて行った。その後ろを、それがさも当然それ以外あり得ないという風情で少女も付いていく。  
「んっ」  
 その両腕が、水平より少し上に向くくらいに揃えて差し出される。  
 背負え。  
 と言いたいらしい。  
「自分で歩けんだろうが……しかたねぇなぁ。ほらよ」  
 口調も台詞も気が向かない事甚だしいのを如実に物語っていたが、行動自体は素直だった。  
 背を向けて腰を落としてやり、少女がおぶさりやすいような高さにしっかりと合わせているのを見ると、この男、口ほど悪びれられる性質ではないらしい。  
 見かけよりも筋肉のついた背に重みがかかるのを確認すると、男は左右の手で少女の太股それぞれに手を回して立ち上がった。  
 体に巻きつけて着るという単衣の構造上、股を割り広げると裾が捲くれあがる。  
 加えて、ただでさえ裾が短い事もあって、柔らかい曲線を描くふくらはぎから尻たぶが見えるぎりぎり直前までがすっかり露わになり、細く生白い太股が見えてしまっていた。まぁ、少女はそれを気にするほど女としての羞恥心が育っている年齢には見えなかったが。  
 むしろ、視点が低いせいで普段は隠されている柔肌をまともに見てしまった少年の方が顔を真っ赤にしている。  
 男は、もぞもぞと小さく体を左右に振って背負い具合を直しながら、開けっ放しの引き戸を閉めるでもなくそのまま外に出た。  
 屋内で鋳鉄鍛鉄を相手にしていた所為で、焼けた鉄の臭いがこびりついた鼻を、清々しい風が洗っていく。  
 いまだ開拓されず荒野同然の草原の真ん中に建つ、二棟の木造の家。母屋というのも憚られるサイズの小屋に、これまた小さな作業場。煙突はかなり煤に汚れ、屋根や壁の具合からも長く風雨に曝されてきた様子が窺える。  
 こじんまりとした畑が取り巻き、風除けの大きな木が何本か植えられているが、視線を遮る塀は無い。  
 お陰で、距離のあるここからでもカーメラの町は視界に入る。目を眇めて町の方を見やれば、幾筋も細い白煙が立ちのぼっているのが目に入るが、それはあちこちの煙突から出る煙で普段どおりだ。焼き討ちされているような気配はない。少なくとも、今のところは。  
「言っとくが、追いかけてくるなよ?俺達が帰ってくるまでウチん中に隠れてな」  
 口調こそ軽いが、真剣な目つきで少年に釘を指した。伸ばした指の示す先では、開け放したドアの向こうで携帯炉の火が揺れている。  
 なにせ見つかれば命がない状況下であっても、町の一大事を知らせに来た勇気の持ち主なのだ。付いてくると言い出しかねない。  
 機先を制された少年が、口を開きかけて、言葉を詰まらせていた。  
 その口から出る予定だった台詞も大体見当が付こうというもの。  
「あのな、勇気は確かに大切なモンだが、それも奮う時と場所によるんだよ。  
 そいつはどこかの誰かにいつか使う為にとっといて、とりあえず今日は大事にしまっとけ」  
 すがりつくような視線は、一所に留まらず青年と少女の間をさ迷う。  
 ふと、背にいる少女と視線が合う。  
 静かな瞳。不可思議な威厳を備えた眼差しに、云い募ろうとする意志は絡めとられ、すっかり大人しくなってしまった。  
 こくり。  
 我知らず、少年の首は縦に振られていた。  
「よぉし、いい子だ」  
 
 
――4――  
 
 青年が道を駆ける。  
 耳元では風が唸り、短く刈った髪が風圧に玩ばれるほどで、さきほどの少年とは比べ物にならない。それどころか軍馬にも匹敵する速度だ。  
 彼は正真正銘、ただの人間だ。  
 ハーピーのように羽根もなければ、ケンタウロスのように下半身が馬になったりもしない。  
 ただその足は凄まじいほどの力で大地を蹴り、他種族にも負けないほどの速さで駆けっている。  
 それを可能たらしめているのは、武術による技だ。それもかなりの修練を積まねば出来ない。  
 体の中を巡る、命を命たらしめている力を活性化させ、さらには天と地の間に普遍的に存在する生命の原型、存在力ともいうべき不可視の力を借りて、常人には奇跡にも思える業を成す。  
 魔術師風に言えば、身体強化魔術<フィジカル・エンチャント>というやつだ。  
 基本的に、魔術も武術も変わらない。  
 魔術とは、世界に満ちる魔素<エーテル>を媒介として己の求めるように世界を改変する業だ。無限に編まれ続ける世界という名のタペストリーに、紡いだ魔素で己の意思という糸を捻じ込む行為に他ならない。  
 武術もまた同じ。ただ、使う力の源は魔素ではなくて勁(けい)と呼ぶ。もっとも、こちらは魔術ほど体系的に整えられて定義付けされている訳ではないので、流派や人により様々に呼ばれてはいたが。  
 言葉も修練の方法もまるで違うが、それぞれが求める何がしかの高みを目指す為のアプローチが異なるだけにすぎない。  
 そして今、青年が求めるように強化された二本の足は、彼の求める速度を出して応えていた。  
 町外れ、と言ってもこの青年にとっては大した距離ではない。  
 練り上げられた勁力の篭められた両足は、地を踏む度に恐ろしい勢いで、少女を背負ったままの体を前方に撃ちだす。それは走るというより、低く這うように飛ぶと言った様子で、草を掻き分け、畑や用水路などを文字通りに一足飛びに超えていく。  
「おい、ババァ」  
 飛ぶように走りながら、背に向かって呼びかけた。少女相手にしては、随分と奇妙な呼び方で。  
 と、男の顔の左右からヒョイと一対の小さな手が伸ばされ、走る男の口を押さえて、鼻を摘まんだ。  
 思わず足が乱れ、見る見るうちに速度が落ちる。  
 彼女を振り落とす訳にもいかず抵抗できないのをいい事に、両手は優に数分、口と鼻を塞いでからようやく青年を開放した。  
「っぷぁ!あっぶねえな!何しやがる!このババ……ルヴァ様」  
 目の前でわきわきと開閉される小さな掌に、言葉が途中から変わる。  
「ふん、精進が足りぬわ、未熟者が。  
 呼吸を乱されたくらいで勁力に乱れが生ずるなど、普段からの内勁が足りぬ証拠よ」  
 その声音は容姿同様にあどけなく、それこそ鈴を転がすようなというのがぴったり似合うほど可愛らしい。  
 しかし若々しい声に反して口調は古めかしく、かなりの年を経た者のように喋る。  
 
「いきなりやられりゃ、誰でも焦るっての」  
「それこそ精進が足りとらん何よりの証拠じゃ。ワシに鼻摘ままれたくらいで焦るのは心が弛んでおるのよ」  
 まるで悪びれていない、すまし顔。ついでに、丸まった拳がポコと後頭部を打つ。  
「くそ…油断したぜ。  
 で、ルヴァ様におかれましては、この後は如何いたしましょうか?」  
「やめい。気持ち悪いわ」  
 またポコと後頭部を叩かれた。  
 少年が助けを求めた者の名と、爺むさい口調の少女の名は同じ。  
 そう、この一見して幼女然とした者こそが、カーメラの町と契約を結んだ守護者だ。  
 そのルヴァを背負う青年は、名をエルクという。  
「坊主は盗賊と言っておったがの。実際、町に入ったのは傭兵どもじゃ。  
 まぁ、あやつが間違えるのも無理はないがの」  
 見る者が見れば一目瞭然だが、遠目に加えて、少年の知識ではどちらも同じような武装集団にしか見えない。  
「剣呑な気配と鉄臭さがしたんでの。それも街道の方からではなく、森の中からじゃ。  
 遠隔視覚<リモート・ビューイング>を使こうて見たが、連中、軍旗を持っておったわ」  
 貧相じゃったがの。  
 そう言って、ルヴァはコロコロと笑った。  
 旗は戦場に於いて、自部隊の位置を示す重要な存在だ。狂騒する戦場ではいくら大声を張り上げても無力であり、反して風にひるがえる軍旗はそこに部隊がいる事を誇示する。故に軍旗を持つような武装集団が、盗賊なのはあり得ない。  
 また、作戦時以外に正規軍がわざわざ森の中の間道を行軍するのもそうそうあり得ない。ピカピカの鎧姿で誇らしげに行軍して、支配者の威厳を民衆に知らしめるのも、軍隊の持つ役割の一つだからだ。  
 正規部隊で無い軍事集団となると、傭兵団しかない事になる。  
 傭兵団は、その名の通り、契約に基づいて国や地方領主などに雇われ、金で己の腕を売る傭兵達で構成される部隊である。  
 常備軍というものは恐ろしく金を喰う。それはもう、まさに国を傾けかねないほどに。  
 財政面に余裕がなく、大規模な常備軍を確保不可能な国などに傭兵は重宝される。しかも、その需要は大きい。なにせ、傭兵によるギルドまであるほどなのだ。  
 もっとも質はピンからキリまでだが。騎兵や戦闘工兵、ドワーフ製の重砲だけを扱う砲兵団もいれば、ゴロツキの寄せ集め当然のランクの低いのまで様々。  
 腕が良かったり、専門性が高い部隊は雇い主が手放さないのでほとんど常備軍扱いだが、食いっぱぐれた連中は戦から戦を求めて各地を渡り歩く。あまり大きな戦争のない時代ではあったが、百や二百が死ぬような小競り合い程度ならどこにでもあった。  
 正規軍であれば移動中でも経費や物資は全て国庫から賄われるが、傭兵ではそうもいかない。彼らにとっては非雇用期間は出費そのものに当たる。  
 その損出を見込んで雇用時は出来るだけ吹っ掛けるのだが、それ以外にも出費を抑える方法があり、それが傭兵団の悪名を一際高めていた。  
 進行ルート上に存在する、必要な物資を蓄えている所から分捕ればよいのだ。しかも自分達は腕で相手に言う事を聞かせたり、異議を唱える者を永久に黙らせるのは、これ以上ないほどに慣れているときた。  
 結果、その存在は、街道を行く者、町に住む者にとって盗賊とあまり差はなくなる。  
 
 今回のように、猫のように相手の視界から外れたところからこっそり忍び寄るのは狩人の行動であり、無論、その意図は明白。  
 歴戦の狩猟者であるルヴァからしてみれば、まだまだ甘いと言わざるを得なかったが。  
「今頃はダンとアッシュが冷や汗をバケツ一杯ほどもかいておろうて」  
 町長と、町一番の商店の三代目当主の若者の名を挙げる。重要な交渉事では責任者とそのブレーンとして必ず顔を出す。  
 盗賊と傭兵の大きな違いの一つに、後者は交渉と契約が成り立つ事がある。  
「カーメラを守れず、契約を反故にしてはワシの名に傷がつくし、業も増す。  
 かと言って、危機に直面もさせないほどに面倒を見てやっても安く見られるじゃろうし、腑抜ける」  
 今も必死に免焼金の交渉を行いつつ、ルヴァが来るのを待っているだろう。  
 ダンとアッシュの二人はどちらも適度に善人で、適度に腹黒い。つまりは自分だけ助かろうと姑息な真似はしないし、町を守る為なら多少の違法には目をつぶる覚悟も度量も持っている。  
 ルヴァに頼りすぎない、と言う意味も含んでいるが、そこはルヴァの好むところでもあった。自分以外の何かにただ縋りつくだけで、すべき努力をしない者をルヴァは嫌う。  
「それにな、何事につけても演出や箔付けは重要じゃ。  
 ピンチを颯爽と救ってやれば、同じ結果であっても感謝のされ具合は段違いじゃろう?無論、契約金もな」  
「非道だねぇ。その為に、あんな少年の純情弄ぶだなんて」  
 あの少年が、独り、勇気だけを支えに助けを求めて走ったのではない事は、誰の目にも明らかだった。  
 ルヴァ様の役に立ちたい。ルヴァ様の前で格好良く振舞いたい。男の子ならば誰しもヒーローや、女の子のナイト役に憧れるものだろう。  
 エルク自身にだって心当たりはある。若さゆえの痛々しさを多分に含むので、積極的に思い返したくはないけれど。  
「非道とは心外じゃな。ワシはあの坊主が望む役を演じさせてやっただけよ」  
 悪戯が成功した子供のように愉快そうに笑う。  
 魔術で視ていた事に加えて、常人離れした感覚を持つルヴァが少年の存在に気づかない訳がない。これで問題なく事が片付けば、少年は町の一大事を知らせた小さな勇者となるだろう。そしてルヴァも株を上げられる。彼への報酬はルヴァの笑顔と賞賛の言葉が最も適当だろうか。  
 言葉の中身と口調はともかく、その様子だけはルヴァの見た目にぴったりと合っていた。  
「ところでの、今も市壁の中を遠隔視覚で見とるんじゃがな。  
 カーメラを襲った奴らはあまり行儀が良くないのう。ダンの交渉も上手くいっとらんように見えるわ」  
「おいおい、ヤバいじゃねえかよ!そういう事はもっと早く言えってんだよ、ババァ!」  
「……その言葉、後で後悔させてやるからな」  
「ま、覚えてたらな。急ぐぜ、振り落とされんなよ?!」  
 勁力が急増。  
 エルクの踏みしめた地面が抉れ、爆発したように後方に飛ばされていった。  
 
 
――5――  
 
 禿かけた額から吹き出す汗をハンカチで拭いながら、カーメラ町長ダニエル=モルダーは懸命に言葉を紡いでいた。  
 やや小太りな体は、前を向いたり横を向いたりと忙しい。  
 ダンと向き合う形で傭兵団の副官がいやらしい笑みを浮かべており、ダンの傍らには若くして町一番の商店を継いだ若者アッシュ=セレブリタスが、これまた顔面を汗だくにして居た。  
 二人の後方からは浴びせられるのは、物理的な圧力を伴いそうなほどの無数の視線。  
 教会とこじんまりとした町役場に面した町の中央広場は人で埋まっていた。普段なら、そこを埋めるのは色とりどりの天幕を張った行商人のワゴンや屋台なのだが、それらは全て広場の縁にどかされ、一部は街路上にひっくり返されて逃走を阻むバリケードにされていた。  
 そうして大きく空いた広場の中央には、町の住人達が一同に集められ、座らされている。  
 座る人々の顔はどれもこれもが不安、恐怖、怒り、絶望に染まっていた。様々な顔が様々な表情を浮かべていたが、少なくとも明るい表情は一つも見当たらない。  
 いくつも子供の泣き声がし、そこに傭兵の怒鳴り声と親が子を宥めようとする必死な声が重なる。  
 集められた住人のさらに外に大きな円を描くように、傭兵達がまばらに包囲網を敷いている。数こそ少ないが揃って手にはクロスボウを構えており、戦を知らない人間が逃げ出したら良い的になるのが関の山だろう。  
 そもそも、一人で逃げた場合、居残った者達がどうなるかが容易に想像が付くため逃げ出せない。  
 見張り以外の傭兵達は、少し離れたところで一塊になっている。  
 カーメラの町を襲撃した傭兵団はおよそ百人ほど。戦場での識別の為に大抵は衣装を統一しようとするのだが、いい加減で、部隊紋章の入ったサーコートを羽織っている者も少ない。  
 人やエルフやゴブリンなど雑多な種族で構成され、得物もバラバラで統率も悪いところから質は推して知るべしといったところか。  
 一個中隊にも満たない数だが、武装した連中がそれだけ集まれば慣れない人間にとって威圧感は計り知れない。  
 実際、今も獲物を威圧するべく、野卑な声で笑い声と共に野次や罵声がいくつも投げつけられている。数こそ多いが中身を要約すれば、殺すぞ犯すぞ燃やすぞの三つで終わる。  
 四方からのプレッシャーで、気の弱い者なら吐いてしまいそうな状況の中。ダン町長とアッシュの二人は頑張っていた。希望が訪れるまで、傭兵団が町に手を出さないように交渉を長引かせようと。万が一、彼らの希望が来なかった時、出来る限り被害を抑えようと。  
 免焼金として貯めた財産が奪われるのは多大な損害だが、町そのものが燃えて消えたり、住人に被害が及ぶのに比べれば遥かにマシだ。  
 と、その時、ついに待ち望んだ声がした。  
「よくぞ踏ん張ったぞ、二人とも!そして待たせたな、皆の者!後は任せておけい!」  
 勇ましくも、可憐な少女の声が。  
 思いも寄らない方向。  
 頭上から。  
 
 カーメラが属するのは、ブリークランド王国コルモネン子爵領。  
 その子爵からカーメラの町と周辺域の治安維持に派遣されていたのは、十人ほどの衛兵であった。数少ない軍人である彼らでも数の暴力には抗えず、とっくの昔に縛り上げられてしまっていた。  
 全員が何らかの傷を負い、致命傷とはなっていないがまだ血の止まっていない者も数名いる。  
 町といっても市壁があるから町と呼べるだけで、カーメラ自体は重要な拠点でもなければ規模も大きくない。さらに領地持ちとは言え交通の要所でもなければ、大きな産業が発展している訳でもない一地方の貧乏貴族に、万全を期待するのは荷が重過ぎる。  
 そんな小さな町なので、市壁とは言っても石積みのしっかりした造りの壁を拵えられる訳がなく、木造であった。  
 高さもせいぜいが数メートル。  
 鍛錬を積んだエルクの足ならば、なんとか飛び越えられる。  
 市壁を超えて町に入っても、馬鹿正直に住人を囲む傭兵団の包囲網を外から破ろうとすれば、絶対に中にいる住人を人質に取られる。  
 人質に取られるのを避けるには一撃で包囲網を破らねばならなくなるが、そうすると攻撃が外から内に向かうので流れ弾の可能性が非常に高かった。それだけは避けねばならない。  
 結果、ルヴァとエルクは包囲網の中に一度入り、その後に再び包囲網を蹴散らすという迂遠な方法を取る事になった。  
 傭兵団の中に空を飛べる連中や、魔術師がいないのは幸いだった。  
 市壁によじ登ったエルクは、そのまま手近な家に力いっぱい飛び移る。が、飛ぶ先にはただ壁があるばかり。力加減を誤ったのか、ぶつかって転がり落ちるだけ。と見えたが、エルクがぴたりと家壁に張り付いた。  
 壁とは言え豊富にある出っ張りに指と足先をわずかに引っ掛けて、勁力の助けも借りてヤモリの如くへばりつく。  
 そんな不安定な体勢も彼にとっては何ら障害とならない。ふん!と気合一閃、曲芸師もかくやの軽い身のこなしで、トンボを切りながら隣の屋根の上まで跳躍する。  
 エルクの体術もかなりの業だが、彼が体術を駆使している間、延々と背負われたままでいるルヴァも大したものだ、ちょっと意味は変わるかもしれないが。  
 とりあえず登ってしまえば、あとは簡単。  
 並の修練では実現出来ない体術を武器に、多少の段差――並の人間にはけして多少では済まないが――など物ともせずに町役場まで一直線だった。  
 
 それはまるで東の地平から差す朝日が夜霧を吹き払うようだった。  
 囚われて沈み込んだ顔が次々と明るくなっていく。  
 いくつもの口が、いくつもの声でルヴァの名を呼ぶ。  
 プレッシャーの反動で腰と膝から力が抜けて、今にもその場にへたり込みそうなほど憔悴しているダンとアッシュの気持ちも住人と同じだった。  
 緊張に強張った顔面をほころばせて見上げれば、町役場の屋根の上にはルヴァを背負ったエルクの姿。  
 役場の上に立つ、そのエルクがこちらを見て、手を振っている。  
 そう、まるで何かを追い払うような仕草で……。  
 喜んだのも束の間。二人揃って、はっとした顔になり、慌てて飛び退く。  
 数瞬遅れて、起きている事態に脳が追いついた副官が、これまた泡を食って飛び退く。  
 そこに少女を背負った青年が、ズドンと降ってきた。  
 ご丁寧に空中でくるりと水平方向に半回転して、飛んだ勢いを後ろ向きに滑る形で殺しながら着陸する。この高さから飛び下りれば、さすがのエルクと言えどタダでは済まないのでルヴァの魔術で落下速度を適度に緩めつつ。  
 日の光をバックに高い所から現れ、盛大に砂埃を巻き上げながらの登場だった。  
 とん、と軽やかにエルクの背から小柄な人影が降り立つ。  
 あまりに唐突かつ予想外の登場の仕方に、敵も味方も呆気に取られて放心状態。  
 ルヴァがその空隙を突く。  
「ワシの名はルヴァ。縁と故あってこの町の者と契約し、約定に従いこの町を守護しとる。  
 今退けば、お前らの罪は見逃そう。だが、聞けないとあれば実力で退けるまでじゃ」  
 腕を組み、仁王立ちで名乗る。  
 けして大きくはないが、不思議と良く通る声。  
 ぱっちりとした釣り目は強固な意志と自信に満ちていて、吊りあがり気味のくっきりとした太めの眉がルヴァの負けん気の強そうな外見をさらに強調している。  
「予め忠告しておくが、ワシに人質は無意味じゃ。一人二人の為に大勢を危険に晒すような真似はせん。  
 試したくば試せばよいが、手を上げた者の顔はこの眼にしかと焼き付けておくぞ。  
 しかる後に、見つけ出し、生かしたまま四肢を砕き、残された家族の前に突き出してくれる」  
 無論、殺させるつもりなど毛頭ないが。  
 世の中、はったりも重要だ。相手がビビって動き辛くなってくれれば、それで良し。  
 ルヴァの言葉が、静まり返った広場に木霊する。町と起源を同じくする中央広場は、その名前の通りに常に町の中心であり続けている。この広場が出来て以来、こんな静けさがここを支配した事があっただろうか。  
「今はかような形をしておるが、ワシはこれでもドラゴンじゃ。  
 痛い目に会いたくなくば、即刻この町を立ち去るがよい。返答やいかに?」  
 しんと静まり返った空間。  
 
 そこに、プッと吹き出す音が響く。  
 それが切っ掛けとなった。あとは誰ともなく、雪崩を打つように加速していく。  
 最初は細波のように、次第に大海のうねりのように。広場中を嘲りをたっぷり含んだ笑い声が埋める。  
 傭兵団の罵声の混じった嘲笑の嵐を聞き流しながら、エルクが顔をげんなりさせていた。彼の横でルヴァがどうなっているか見なくてもわかるし、ついでにこの先の展開も大体わかる。  
 事実、青年の傍らでは、小さい体からゆらゆらと湯気のように怒気が噴き出し始めていた。  
「ドラゴン?あんなちっこいのが、ドラゴンだぁ?」  
 彼女の言葉に対して、傭兵達の間からは様々な大きさの声で諸々の物騒な言葉が湧き上がっていたが、一際大きなだみ声が投げつけられた。  
 声の主はざんばら髪のトロールで、その罵声に比例して体躯も大きい。周囲から頭一つどころか、上半身一つ近く抜き出ている。  
 鍛冶屋が使う金床に大人の背丈ほどの長さの金属製の柄をぶっ刺したような、巨大なハンマーを軽々と肩に担いでいる。  
「あんな小便臭そうなメスガキがドラゴン様だってよぉ!  
 笑っちまうがあんなドラゴンならいつでも大歓迎だぜぇ。オレ様のドラゴンスレイヤーで串刺しにしてやるよ!」  
 そう笑いながら、大袈裟な仕草で腰をかくかくと前後に振る。  
 彼の言う"ドラゴンスレイヤー"が何を指しているのかは、言うまでもないだろう。  
 下品なジョークに周りからもゲラゲラと笑いが起こる。  
 声も身体もでかいが、ただ、頭の中身もセンスも身体のサイズとは反比例しているようだった。  
 その野卑なジェスチャーに、当のドラゴンの太いが形の良い眉が危険な角度に吊りあがっていくのに気づいてもいない。  
「ドラゴンさんよぉ、オレ様のドラゴンスレイヤーと一騎打ちしねえかあ?  
 気持ちよく天国に行かせてやるぜぇ!」  
 ふざけるな。お前は最後だ。ガバガバになっちまうだろうが。また、いきなり壊す気かよ。  
 周囲の傭兵達から上がる下劣な野次に、ゲハハとトロールが一層下品な笑いで応える。  
 その下卑た笑い声が、途中から絶叫に変わった。  
 身の毛もよだつ絶叫と共に、手を振り乱して奇怪な踊りを踊る。  
 トロールが燃えていた。  
 彼の獲物のハンマーが放り投げられてズシンと落ち、そこでもいくつかの悲鳴が上がる。どうやら誰かの上に落ちて手足を砕いたらしいが、投げた本人も周りも気にする余裕は無い。  
 トロールの体が、まるでよく乾かした松の小枝かなにかのように派手に燃え盛っては、盛大に火を噴き上げている。  
 辺りはにわかに騒然となる。火の気など全くなかったのだ。仮にあったとしても、こうもいきなり燃える訳がない。魔術によるものなら有り得なくもないが、広場に集められた住人にはそれらしい者もいなければ、術を行使していたような雰囲気もない。  
 歩き回る巨大な松明と化したトロールだが、誰も彼を助けようとする者はいない。トロールを取り巻いていた連中も、炎と熱気を避けようと我先に逃げ回る。  
 と、燃え盛る人影が腕を伸ばし、自分の喉元と思しき辺りを押さえて苦しみ始めた。水中で溺れた者がするような仕草だが、まさにその通り。炎熱が空気を追い散らし、同時に喉そのものが焼けて呼吸ができなくなっているのだ。  
 死のダンスを踊り狂うトロールの体が、唐突に弛緩すると、そのまま切り倒された樹木のように倒れる。そして、動かなくなった。  
 絶叫が消え去り、辺りを再び静寂が支配する。  
 聞こえるのは、いまだに体に纏わり付く炎が肉と脂肪を焼く音だけ。  
 
 さすがに傭兵だけあって死体は見慣れている。これで浮き足立つような者はいなかったが、いきなりの事態に誰しもが言葉を失っていた。  
「ワシを侮辱しようとするならば、命懸けですることじゃ」  
 ざぁ、っと無数の視線がある一方向に集まる。  
 剣呑な殺気を含み始めたいくつもの視線に怯える素振りなど欠片も見せず、幼女の形をしたドラゴンは悠然と腕を組みながら言った。  
 そのルヴァに、ついさっきまで無かった物が増えている。  
 つるりとしたおでこの両端、こめかみの少し上辺りからは太い角が生えている。石炭のように真っ黒で、左右に向けて張り出してから前方に向かって大きく湾曲し、鋭い切っ先は天を指す。  
 単衣の裾から伸びる剥き出しの両足の後ろ側では、しなやかな尻尾が振られている。長さは踵につくかつかないかといった程度。トカゲのように先端は細く、上に行くに従い太くなる。鱗はまばらで赤銅色の地肌が見えている。  
 こうやって尾が生えた時にスカートの類は着づらいし邪魔なので、ルヴァは単衣を好んで着る。  
 そして、不機嫌そうに吊りあがった口の端からは一筋の赤い火線が延び、ルヴァの呼吸にあわせてチロチロと伸び縮みしている。  
 ドラゴンブレス。  
 赤竜種であるルヴァのそれは強烈な熱を伴う火炎だ。他に被害が及ばぬように、細く絞りこんだブレスがトロールを焼いたのだ。  
 戦いでは巨躯とそこから繰り出される怪力はアドバンテージとなるが、今回ばかりはトロールのその巨体が災いしたと言える。  
 彼の上半身が他の傭兵達の頭よりも上に出ていた為、とても当てやすかったのだ。  
 自分が焼いたトロールに一瞥すらくれず、いまや明確な殺意の塊となった傭兵達に臆す事無く、悠然と言い放つ。  
「もう一度、言うてやろう。この町に仇なす者はワシが許さん。  
 今すぐ失せればそれで良し。さもなくば歯向かう者悉く、ワシの善行の糧となれ」  
 撤退を勧めているのか、挑発しているのか分からない言葉。  
 彼女に応える言葉はない。  
 代わりに、次々に鞘を払う音が応じる。  
「ふん、愚か者どもが」  
 簡単に予測が付く単純な行動という意味でも、引き際を知らないという意味でも。  
 ルヴァの雰囲気に、事態が決定的な方向に転がっていったのを察してダンとアッシュが住人達の方へ慌てて逃げていく。  
「さてさて、アレを見ても向かってくる勇気と度胸は褒めてやろう。逃げたくなれば、さっさと逃げるがよいぞ?」  
 くくっと戦意に満ちた微笑み。  
 外見に騙されるな。自分をただの子供と思うな。  
 ルヴァは、そう教えていた。言葉を伴わないが極めて説得力のある教え方で。授業料は、馬鹿の命が一個。  
 徐々に異形の相を持ち始めた少女は、人外の力を、それもとびっきり凶悪な力を持っている。  
 どんな事でも起こりうる戦場に身を置く為に、傭兵と言うのは誰も彼もリアリストだ。それが何であるかは追求せず、ただ目の前の事態にのみ対処する。  
 舐めてかかれば、奪うどころか逆に己の命がもぎ取られる。不用意な行動は命取りになると肌で知った傭兵達の動きに、にわかに慎重さが増していく。  
 それは異様な光景だった。  
 不敵に微笑む少女がゆっくりと歩を進めると、武装して敵意剥き出しのいかつい男達が倍の速さで退がるのだ。  
 一歩進めば、二歩退がる。  
 二歩進めば、四歩。  
 四、八、十六……。  
 いつの間にか、傭兵団と町の住人達の間には大きな空間が形成されていた。その隔たりは、彼らの警戒心そのものであり、また存分に武器を振り回す為の戦支度でもある。  
 
 前進したのはルヴァのみで、エルクは町の住人達を背負う形のまま動いていない。  
 自然、包囲網が二個出来上がった。片方は小さく厚く、もう片方は大きいがごく薄い。それぞれの中心にはルヴァと、住人達とエルク。  
 どちらをどれだけの脅威と見なしていたかの表れだった。  
 まぁ、こっちは楽になるからいいけどよ。  
 エルクは、ちょいと周りを見回すような素振りをしながら、間接をほぐしていた。弱いと見なされるのはあまり面白くはないが、ルヴァと違ってこっちに余裕が無いのは確かだったので素直に受け入れる。  
 こちらを向いて今にも斬りかかってきそうな、抜剣済みの傭兵達を出来るだけ満遍なく視界に入れようとする。  
 またぞろボロが出るから、あんまり楽しむなよな。  
 気取られぬようにゆっくりと調息しながら、鉄の垣根の向こうに見えなくなったルヴァの後ろ姿に口の中だけで、そう呟いた。  
 
「囲え!正面からあたるな!」  
 周りの傭兵達より、少しだけ派手で豪華な鎧と兜をつけた兵――兜の天辺についている房飾りの色からして兵卒を指揮する士官だ――が声を張り上げる。  
「焦るな!敵は二人ぽっちだ!包囲して叩けえ!!」  
 指揮に応じ、傭兵達が陣形を作る。  
 少なくとも彼らは戦で食っているのだ。装備と士気と統率はともかく、そこら辺の衛兵などより、よほど反応は早い。それに様々な戦いに慣れている。  
 がしゃがしゃと忙しなく鳴る鎧の音をルヴァは悠然と聞いていた。それは相手の出方を見ると言うより、次はどんな出し物を見せてくれるのだろうか、と言った風情で剣闘劇でも見物するような態度だ。  
 無論、包囲される当の本人がそんな態度なので、包囲網はあっという間に形成される。  
 包囲する兵は互いに距離を取り、一見すると包囲の網の目は荒い。が、たとえ一列目を抜けられても、その後ろには更なる円陣が組まれている。それこそ飛び込んだが最後、身動きの取れない中で四方から串刺しにされる死地に他ならない。  
「…よし、いけぇ!!」  
 陣が出来たと見た士官の号令一過、剣の林が一斉に閃いた。  
 ただし、声に応じて切りかかったのはルヴァの前面にいる者だけだ。  
 別に臆病風に吹かれたのではない。  
 第一手はいわば勢子だ。追い込み、体勢が崩れれば、目標の背後に陣取る兵らが止めを刺す。よしんば、なんとかかわし続けたところでいずれは体力なり集中力なりが切れて、避け切れなくなる時が来る。  
 その筈だった。  
 ルヴァの選択肢に退却などという文字はない。  
 真っ向から受けて立つ。この分からず屋どもに灸をすえてやらねばならないし、なによりもそうでなくては面白くないからだ。  
 傭兵にとっては竜が守護する町を襲ったのも不幸だが、竜族の旺盛な闘争心を完全に制御できるほどルヴァは歳を食っておらず、それがさらなる不幸をもたらした。  
 不敵な微笑みを、可愛らしい顔に乗せ、ルヴァが動く。  
 それはまるでダンス。  
 踊る少女にいくつもエスコートの手が、振られ、突かれ、払われる。しかし、そのどれもがルヴァには届かない。  
 柳が風に撓うかの如く、無数の武器の巻き起こす風に吹かれても、ただ剣風と踊るのみで全てを優雅に受け流していく。  
 まさしく達人の業であった。  
 どんな者にも、それこそ草花や動物にも内部を駆け巡る勁や魔素の流れがある。ルヴァは周囲の勁を感じ取り、その流れを把握する事で視覚や聴覚に頼らずに、周囲の事物を知覚することが出来る。ある特定の時点での流れが観えれば、一瞬後を予測するのはさほど難しくない。  
 加えて、彼女は持ちえる時間軸が人間とは異なる。経験や鍛錬に注ぎ込んだ時間が、文字通りの意味で桁が違う。  
「くくく……楽しいのぅ」  
 踊るにつれて、体の奥底から熱いものが這い上がってくる。  
 
 右手が閃き、打ちかけてきた剣を払いのけ、そのまま持ち主のエルフの五指を砕きながら剣をもぎ取り、彼方に弾き飛ばす。  
「くふふ、戦は楽しいのぅ。そうは思わぬか?」  
 元より言葉が返ってくるとは思っていない。  
 右手を振った勢いを殺さず、くるりとターン。  
 裏拳気味に奔った左掌が片手ハンマーと盾をまとめて叩き、肘の間接を砕いて携えた武器ごと腕を明後日の方向に向かせる。  
 少女に見えても仮初めの姿。本性が秘めた膂力は凄まじい。  
 肉の潰れる感触と悲鳴に、狩猟者としての本能が歓喜の声を張り上げる。体内で血が煮えるような、心地よい感覚がルヴァを襲う。  
「あぁ…大勢を相手するのも久しぶりじゃ。猛る男どもに群れられ迫られるのも悪くないのう」  
 怒号の輪のど真ん中で優雅とさえ言えるような体捌きで踊りつつ、遊ぶように人体を壊していく。  
 手が、足が翻るたびに一人、また一人。  
 一つ壊すたび、火口でふつふつと煮え立つ溶岩のような熱く粘っこい殺戮快感に理性が溶かされていく。  
 はふ、と年恰好に似合わぬ艶っぽい吐息が炎と一緒に漏れる。  
 あっという間に、十人以上が再起不能な傷を負わされて、地に沈められていた。  
「しかし、どいつもこいつも今ひとつ歯応えがないのが興醒めじゃな……」  
 そう呟きながらも、振り下ろされる刃の群れをやすやすと掻い潜っては、思案する。  
 発奮してくれれば、もっと楽しめるかも知れない。少し気合を入れてやるとするか。  
 ルヴァは適当に目に付いた傭兵の一人の懐に、するりと入り込む。  
「よっこいしょ、と」  
 爺むさい掛け声と共に、ルヴァは運の悪い犠牲者の腹に、指先を揃えて貫手の形にした右手を無造作に刺しこんだ。  
 またしても喉が裂けんばかりの叫びが上がる。  
 戦場には付き物ではある。だが、それを上げさせているのがただの一人。それも幼女と来ては、異常極まる。  
 しかも金属の一枚板で出来た腹当を軽々とぶち抜いて、中身ごと頭上に持ち上げるような相手だ。  
 いつの間にか、ルヴァのほっそりとした腕は岩石を思わせるごつごつとした鱗に覆われて、二回り以上も大きくなっていた。桜貝のように艶やかだった爪はすっかり黒ずみ、ねじくれながら前に大きく伸びている。  
「ひぃっ…ぎぃぃぃっ!あ、ひ…た、だすけ……デェ!熱いぃ、あつひぃぃぃ!!」  
 涙と涎を垂れ流しながら、傭兵がルヴァの頭上でじたばたと手足を振って暴れる。  
 貫通した鎧ごと肉を鷲掴みにされているのだが、血が流れてこない。どう見ても鮮血が零れ落ちてもいい傷の筈だが、それがない。代わりに、じゅうじゅうとナニカが焼ける音と、ドス黒い煙が漂い始める。  
 ルヴァの体内には人間などと比べるのも馬鹿らしくなるほどの力で満ちている。魔力、気、勁力など様々に呼ばれるその力をルヴァは普段、意識して押し込めている。  
 が、押し込めているのだから、彼女の体内を駆け巡る高圧の勁力は精神のタガが緩むと自然と溢れだす。そして赤竜種であるルヴァの勁力は、高温の熱や炎として顕れる。  
 体の内側にまで食い込んだルヴァの爪先が高熱を発し、傷が焼き塞がれているのだ。  
 戦場を知らぬ一般人が見たら卒倒しそうな――実際、悲鳴だけでパタパタと面白いようにカーメラの人々が倒れていっているのだが――酸鼻を極める状況。  
 哀れな傭兵を持ち上げたまま、ルヴァは軽く震脚する。  
 腰を落とし、とん、と右足が大地を踏みしめる。  
 
 体内に蓄積された勁力を呼び水にして、大地深くを走る気脈から勁力を吸い上げる。  
 一瞬、ルヴァの右肩から先がぶるりと滲むように震え。  
 握っているのが熟れた果実だとでも言わんばかりの気軽さで、ブンと投げつけ。  
 投げつけられて仲間達の所に戻った傭兵が、熟れきって腐った果実を地面に落としたかの如く、パンと弾けた。  
「ふはははは!どうしたのじゃ、顔が青いぞ?もっと腕の立つ者はおらんのか?!  
 もっとしっかり気張ってワシの相手をせねば、揃ってこうじゃぞ!」  
 血と臓物の発する、むせ返るような生臭さが辺り一面に立ち込める。  
 両手の十指に、否、いまや十本の鉤爪と化した爪先に小さな炎を纏わせながら、もうどちらが悪人か分からないような台詞を吐きながら、ルヴァが哄笑する。  
 数秒前までは仲間だったモノを、砕けた鎧と鮮血の入り混じった肉片を浴びせられた傭兵達が、ようやく事の重大さを悟り、顔面に恐怖を浮かべ始めた。  
「だ、だめだぁ、隊長!抑えらんねえよぉ!!」  
「クソッタレが、たった二人になんて様だ。仕方ねぇ、人質を使え!何人か連れてこい!!」  
 唯一騎乗している傭兵の必死の叫びを、ルヴァが耳聡く聞きつけた。  
「町の者に手を出すのは許さんと…」  
 釣りあがった目が怒りと殺気にギラリと光る。  
 すぅっと息を吸う。  
 喉元がぷくっと膨らむ。  
「言ったのがわからんか、この愚か者があ!!」  
 瞬間、地獄の業火が出現した。  
 一息で五人ほどと馬一頭が断末魔も許されず、まとめて消し炭と化す。  
 直撃はされなかったが射線近くにいたせいで余熱でひどい火傷を負ってのた打ち回っているのが、その倍ほど。  
 見れば、ルヴァ自身も火に包まれている。  
 ドラゴンブレスの輻射熱に耐え切れず、単衣に火が付いている。が、火を吐く赤竜がそんなちゃちな火で傷を負う訳も無い。意に介さないどころか、自分の服が燃えている事に気づきもしないで、燃え落ちるに任せている。  
 薄い単衣はあっという間に服としての意味を失い、無数の燃えるボロ切れになって、はらはらと落ちていく。熱に煽られたのか、にわかに吹き始めた風がボロを払って、ルヴァの裸身を露わにする。  
 わずかに膨らんで、かろうじて緩やかな曲線を描く胸。  
 細いけれど、上も下も細い所為で括れの小さい腰。  
 きゅっと締まった肉付きの薄い尻。  
 丘の頂上で薄ピンクに色づく突起から、翳りの全くないツルリとした下腹まで。可愛らしい少女の姿態にいくつもの異形の相が入り混じっている。  
 獣のように裂け始めた口の両端を吊り上げた獰猛な笑み。  
 唇の間からは既に牙と呼ぶ方が相応しいまでに伸びた犬歯を見せつけ、歪めた唇からは呼気が炎と化して漏れる。  
 自分に向けられる恐怖の叫びに、喉の奥から自然と小さな笑いが漏れる。蹂躙の喜びに、目の奥と股ぐらが熱くなる。  
 歓喜に酔い痴れるルヴァの頭の中から、本来の目的は既に抜け落ちていた。  
「おやぁ、なかなか面白い物が転がっておるではないか」  
 と、ルヴァが何かを見つけた。無造作に近寄ると、進行方向にいる傭兵達の輪が、ずざざっと大きく外に歪む。  
 
 地面に半ばめり込むようにして転がっているのは、最初に燃やされたトロールの得物だ。  
 とてつもない不吉さを感じ取った傭兵達が回れ右して逃げようとするが、多重の包囲網を形成してしまっていた為に互いが邪魔になりなかなか上手く後退できない。  
 ルヴァが腰を落として半身になり、初めて構えらしい格好を取る。  
「ふんっ!」  
 気合と共に震脚。静かな水面に小石を投げ込んだ時のように、足元から土埃がぶわっと波紋を描いて同心円状に吹き払われる。  
 ズシンと大地を踏みしめた次の瞬間。  
 重厚なハンマーが、ぴょこんとバネ細工の玩具のように宙に放り上げられた。地面に打ち込んだ勁力を衝撃と化してハンマーに伝えたのだ。  
 放り上げられたハンマーが放物線を描いて落ちて行く先には、ルヴァの姿。  
 その拳は火炎を纏わりつかせ、爪は赤熱を通り越して、白く輝く。  
 練り上げられた力を宿す竜の拳が、大気とハンマーを爆裂させた。  
 ズガン!!  
 ただの一撃。たったの一発。  
 それで傭兵団の半数は、死ぬか、大小様々な傷を負った。  
 ルヴァが殴ったハンマーは、怪力と拳に篭められた勁力魔力によって微塵に砕かれながら、溶鉄の散弾と化して襲いかかったのだ。射程距離こそ零に等しいが、その威力は攻城砲にも匹敵する。  
 圧倒的な破壊の前に、辺り一面、あっとう言う間に悲鳴と絶叫で満ち溢れる。  
 悲鳴を上げられなかった連中はまだしも幸運だったかもしれない。腕をもがれ、足を千切られ、胸や腹に穴を開けられ、運悪くも生き延びてしまったが故に緩慢に死んでいくしかない傭兵達が異口同音に苦痛の呻き声を合唱している。  
 小さな地獄絵図を描いたルヴァは、一撃を放った位置で佇んでいた。それはまるで自分の描いた絵の出来具合を検分するかのよう。  
 目は燃える石炭のように火を吹き上げて爛々と輝き、その肌には四肢と言わず身体と言わず不規則に光の線が無数に走っている。呼吸に合わせて、ゆっくりと熾火のように明滅している不気味な光。  
 ルヴァの齢、二百と少し。  
 その力は、並の兵士が相手ならば文字どおりの意味で一騎当千である。今のカーメラでの戦いがそうであるように。  
 しかしながら二百の歳月をもってしても、竜族としては若輩者である。強大な力、豊富な知識と経験、幼さが未だ残る精神性が形成するアンバランスがルヴァを支配していた。彼女が武術を修めているのも、精神修養を目的としている面が多分にある。  
 今回は、一番最初に侮辱され、怒りで頭に血が上っていたのが悪かった。硬い一枚岩だってヒビが入れば、割れるようになる。しかもその一枚岩は硬くはあるがまだ薄い所為で、小さなひび割れでも大きな影響になりやすいと来ている。  
 その理性の糸の切れたルヴァが、全身から禍々しさを発散しながら、次はどの獲物にしようかと緩やかに頭を巡らす。  
 と、頭がぴたりと止まる。  
 その視線が見つめる先には、わらわらと潰走する敗残兵達。彼らの一番後方には中隊行李や兵站資材を積んだ馬車がいたのだが、命あっての物種とばかり我先に逃げる兵は目もくれない。  
 なんだ。まだまだ楽しめるではないか。  
 にぃぃぃ、と唇を吊り上げて悪魔のように笑う。  
「いい加減に目ぇ覚ましやがれ、このバカ野郎が!!」  
 すぱーんと小気味のいい音が、ルヴァの耳に響いた。  
 じんわりと頬から痛みが伝わるにつれ、頭の中を赤く暗く染め上げていた霧が晴れていく。  
 ぱちくりと目を瞬かせる。  
 にわかにクリアになっていく視界。  
 そうして目に入ったのは。  
 今を好機と見て一目散に逃げ去る傭兵の生き残り達と。  
 渾身の勁力を篭めたビンタを放ち終え、力なく地面に崩れ落ちていくエルクの姿だった。  
 

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