後に偶然僕は姉の旦那になるであろう人と会う事になった。名はタカユキと言った。
少し緊張して身構えたが、実際に会ってみるととても好感の持てる人だった。なるほど、姉は顔だけで選んでるんじゃないのだなと
思った。まぁ当たり前だが。
その方は現在名古屋に住んでいるのだという。ということはまだ大阪には移ってこないのだろうか。
元々、僕には兄弟は姉しか居らず、いとこも女しか居ないという全く男っ気の無かった家系のせいで
昔から兄貴という存在に憧れていた。
義理とはいえ身内に若い男性が入ってくるというのはとても新鮮な感じがした。
しかし、姉と旦那が仲良く話す姿を見るとやはり僕はなんともいえない切ない気持ちになった。
いい加減姉離れしなければと自分に言い聞かせるが、この気持ちばかりはどうしようもなかった。
姉曰く、まだ結婚の明確な日時は決めていないのだという、お互いの仕事が猛烈に忙しく、正直それどころじゃないのだという。
「レジ二人制入りまーす」
そんな考え事をしながらレジを通していたら、よくシフトが重なるいつもの女子高生が僕の担当していたレジに入ってきた。
こいつは高1のくせして小学生高学年と言っても通じるくらい雰囲気が幼い。
数ヶ月前に入ってきて僕が教育係として色々面倒を見さされた。飲み込みは驚くほど早く、楽をさせてもらってはいる。
「今日はいつもより早くて6時上がりなんですね」
「うん。そうや」彼女は素早く番号を打ち込んで行く。彼女のキーを打つスピードにはいつも驚かされる。
いらっしゃいませーという高い接客声と会話のトーンの差が笑える程激しい。まぁ誰でもそうなのだが。
うちのスーパーのアルバイトのシフトはすごく融通が利く。
仕事の性質上、その日入っているアルバイトが一人抜けたところで業務の進行に然程影響しないからだ。
「実家帰ってバイクをちょっと触らなあかん」
僕はまだ京都府内に住んではいたが、叔母の家(上で言った実家とは叔母の家の方を指す)からは離れていた。
院に入ると同時に、我侭を言って下宿させてもらっているのだ。本当に、やりたい放題させてもらっている。
叔母夫婦には実家の両親と全く同じくらい感謝している。
「またバイクですか?ていうか、店長がバイクが煩さすぎるって怒ってましたよ。なんか以前より煩くなってませんか?」
「あぁ、なってる。ええ音やろ」
「騒音です」
「おまえら喋んな手動かせ」副店長がドスの効いた声でレジの後ろから僕と彼女の耳に囁いた。
そして「いらっしゃいませー。こちらのレジ開けますので、どうぞー」
と、急に甲高い声になってレジに並ぶ客を分散させた。
夕方の客ラッシュが過ぎつつある頃。
「そろそろ俺レジ抜けてもええかなぁ・・・三役どこ行きよったんやろ」
「たぶんサービスカウンターじゃないですか?」
僕は後ろのサービスカウンターの方を向いて副店長を探した。その時。
「そこの兄ちゃん口動かさんと手ぇ動かしやー」聞きなれた女性の声。そして不自然極まりない関西弁。
そこにはあろうことか、大阪にいるはずの姉がレジの前に立っていた。
「ちょっ!なんでここに居んの!?」僕は驚き素っ頓狂な声を上げてしまった。すると周りの目が一斉にこちらに向いた。
頬が一気に赤くなった。
「ちょっと仕事でねー」姉はニヤニヤしながら言った。そして、商品籠をレジの台の上に載せた。
「か、彼女さんですか?」彼女は唖然とした表情で姉を眺めながら言った。
「そうです。お世話になってます」姉は深々と頭を下げた。
「はぁ?何言ってんの!?」僕は声を抑えながら言った。
「綺麗な人ですね・・・」彼女は僕に囁いた。
「なわけないやろ・・・これ、俺の姉貴やから」
「えー!?お姉さんなんですか!?嘘・・・全然似てへん・・・」彼女は俺と姉を見比べて言った。
「あのー、後ろが支えてんすけど」と、姉の後ろに並ぶ作業服を着た若い男が言った。
「あ、申し訳ございません」僕は頭を下げ、素早く姉の籠の中身を通した。缶ビール数本とツマミのみだ。
「ビール一本くらいオマケしてよ」レジのバイトをしていて知り合いが客として来るとかなりの確立で言われる文句だ。
「無理だよ馬鹿」と言いながらも僕はビール一本だけ、通す真似してバーコードをレーザーに当てずに通した。
「サンキュ」姉はニヤニヤしながら言った。
「あんた今日何時に終わるの?」姉は僕に尋ねた。
「6時」僕は姉の後ろの客の商品を通しながら言った。
「もう6時じゃん」
「うん、もう俺は上がり」
「マジ!?じゃあ一緒に帰ろっか」
「はぁ!?」
「メール見てないの?あんたのアパート行くって書いてあったでしょ?」
「バイトやのにそんなもの見てねぇよ」
「あのー!」さらに後ろに並ぶ客が苛々しながら言った。
「申し訳ございません!」僕は大きく頭を下げた。
「じゃあ、そういうことだから、入り口で待ってるねー」姉はそう言いながらスーパーから出て行った。
「レジ交代でーす。二人制も終りっす」直後、別のバイトが僕の代わりにレジに入ってきた。
彼女と僕はレジを出た。そしてバックヤードへとゆっくり歩いて行った。
そろそろ客が減っていく時間だ。バックヤードには誰もいなかった。僕は休憩スペースのベンチに腰掛けた。
「綺麗なお姉さんですね・・・」
「そうか?」今時珍しく屋内なのにそこだけ喫煙スペースになっている。僕はタバコに火をつけた。
財布的な理由と、怖くなる程体力が減ったので健康のために本数を減らしていったが、気が付けばまたいつものように吸っていた。
”禁煙のために本数を徐々に減らしていくよ”と言う奴は絶対に禁煙に失敗する。
「綺麗ですよー。私ちょっとびっくりしました・・・」
「やろうな。なんか凄い面白い顔になっとったで」
「嘘ぉ」彼女は苦笑した。
「何飲む?」僕は休憩スペースにある自販機に小銭を入れた。なんだか姉を褒められて気分がいい。
「え?いいですよそんな」
「コーヒーでいいかな」
「じゃあ100%オレンジジュースで」彼女は嬉しそうに言った。
「お前バイト中にそんな濃いもん飲むのか」
「私オレンジジュースが大好物なんです」満面の笑みでそう答えた。見た目も餓鬼なら好みも餓鬼だなと僕は思った。
オレンジジュースのボタンを押し、彼女に与えた。
そして僕はコーヒーを買った。
「仲、いいんですね」
「どうやろ。でも今日会ったのはかなり久しぶりやしな。それにもうすぐ結婚しよるしなぁー」
「そうなんですか?」彼女は興味津々といった顔をした。一体何がそんなに楽しいのだろうか。
「うん。でもまぁ結婚する言い出して大分経ってるねんけどな。なんか最近は旦那が忙しくてなかなか難しいらしいわ
俺もよう知らんけどな」
「へー、そうなんですかぁ」しばらく僕達は雑談を交わした。
「じゃあ俺、上がるわ。姉貴待っとるし。お疲れ。」僕はタバコを消し、ベンチから立ち上がった。
「お疲れさまでーす。私はあと3時間です」
「そうか。今日は親迎いか?」
「いえ、歩きです」
「そうか、気つけて帰りや」
「はい!あと、オレンジジュースご馳走様です」彼女はパッと笑顔になった。よく見るととても可愛らしい笑顔だった。
「また今度倍にして返せよ」少し意地悪したくなる。
「えー!」
着替えて外に出ると、もう暗くなっていた。
僕はR6のエンジンに火を入れた。最近買ったアクラポビッチ製のマフラーから轟音が響いた。
確かに煩い。スーパーの入り口に姉が立っていた。
「煩!あんたまたバイク煩くしたの!?」姉は叫んだ。
「まぁな、どうすんの?乗んの?」僕は姉にヘルメットを渡した。
「乗るー!」姉はそう言ってバイクに乗り込んだ。
そして僕の背中に抱き付いた。姉のいい香り、そして大きな胸の感触が背中一杯に広がり僕は幸せ一杯になった。
しかしすぐに僕のアパートに着く。
「あーづがれだああああ」姉は部屋の入り口でへたり込んだ。
「なんだよスーパーではあんなに元気だったのに」
「元気じゃないよ全然元気じゃないよもぅー!」姉は床に突っ伏して言った。
そして突然座ったかと思うと鞄の中から缶ビールを一本取り出した。そしてぐっと一気飲みした。
そして、はぁと大きな溜息を一度ついた。僕はその内に素早く部屋着に着替えた。
「帰って早々ビールとか・・・勘弁してくれよ」僕は少し散らかってる部屋を片付けながら言った。
「おなかすいたよーなんか食べたいよー」姉は家に到着するやいなや飯を要求し出した。
「あのなぁ・・・」と、僕は姉の方を向いた。すると姉の目元には少し涙が浮いていた。
「ちょ・・・なんで泣いてんの・・・」あまりの変容振りに僕は少し引いた。
「色々あんのよあんた達みたいな気楽な学生とは違うのよ社会人はさぁああああ!」
急にぼやきだした。
「ちょ、今日の姉ちゃんなんかおかしいぞ。もう酔ってんの?」
悪いが僕は思わず噴出してしまった。こんな姉は今まで見たことがなかったからだ。
まぁ、今までって言う程、社会人になった姉との付き合いは長くはないのだが。
「私は酔わないよぅ」姉はそう言ってもう一本ビールを開けようとした。
僕はそれを取り上げた。
「あーなんでぇ?返してよ」姉はだだを捏ねる子供のように言った。
「何かあったのか」
「秘密」
「なんだよ・・・」じゃあ一体何をしに来たとつっこもうと思ったが、やめた。
「あんた一緒にレジしてた子と仲いいんだねー」姉は明らかに不機嫌そうな声で言った。
「どうだろう、まぁ悪くはないね」
「ふーん、付き合ってんだね」
「ねぇよ」あんな餓鬼を相手にしようと思うほど僕はロリコンじゃない。
「どうだか」
「だからねぇって」
「なんかすごく可愛らしい子だよね」
「何?嫉妬か?」僕は笑った。別に喧嘩したいわけではない。しかし、妙な思い込みをされて少し苛つき、つい口ばしってしまった。
「嫉妬?有得ない。あんたがどうしようともう興味ないわよ」姉はどさっとソファに腰を下ろし、テレビをつけた。
「そうですか」本当に姉はそう思っているのだろうか。
「あーなんかムカつくわぁー!もう!」姉はソファに寝転がり、クッションに顔を押し付けた。
「お前そのまま寝んなよ」
「うっさい!ボケ!」姉はクッションを抱きながら言った。
「ぶっちゃけ、俺があの子と仲良くしてるのが気に入らんの?」
「無いわよそんなの。馬鹿にしてんの?」
「なんでそうなるねん・・・まぁそれなら別にいいけどな、でも一応言っとくとほんまにあの子とは何も無いよ。
ただ、あの子新人やから、俺が教育係として面倒見さされてるだけ。多分、レジを一緒にするのももうそろそろ最後やと思うよ」
「ふーん・・・」まぁ、納得できずといった感じだが、元々不機嫌そうな姉には何も言っても無駄だろう。
「今飯作るから。眠くなる前に風呂だけ入って。今湯貯めてるから。」僕は袋の酒を全て冷蔵庫に入れてつまみのスルメを一本口に咥え
夕飯の材料を適当に冷蔵庫から出した。
「はぁーい」姉は脱衣所にヨロヨロと入っていった。
「着替えはー?」
僕はクローゼットから部屋着のシャツと短パンを取り出した。
いつの間にか僕は姉を部屋に泊める事になっている。
大丈夫なのだろうか・・・色んな意味で。
「おい下着はどうすんの」僕は姉に着替えを渡した。
「あんたのでいいよ」
「まじかよ」姉はそう言って服を脱ぎだした。僕は仕方なくボクサーパンツを姉に手渡した。
夕飯の後、酒を飲みながら姉はテレビを眺めていた。しかし、姉は疲れたと言ってすぐにベッドに入ってしまった。
「テレビ消してー!」姉はベッドの中で叫んだ。
「人んちでやりたい放題言いたい放題だな・・・」
「何?家族でしょそんな冷たい言い方は―」
「はいはい、ごめんなさい僕も寝ますから。布団に入れてください。」僕は酔った姉の会話にいちいち応じるのもめんどくさくなり
会話を遮った。
「ふふ、どうぞ」姉は嬉しそうに布団を捲くって僕を招いた。
僕はテレビを消し、部屋を暗くした。
目を瞑った。姉の寝息、姉の臭い、姉の体温、姉の感触。全てを感じる距離だ。
もう姉は人妻だ。しかし僕も男だ。やはり姉が横に寝るとなんだかやましいことも考えざるを得ない。
僕は姉に背中を向けて寝ることにした。
「ごめんね、今日は迷惑かけちゃって」
姉は僕の背中に言った。
「気にすんな」
「ありがとう」
姉はかすれた弱々しい声でそう言った。
「タカユキさんと何かあったのか?」
「なぁーんにも無いよ」
「じゃあ仕事で?」
「まぁね・・・」そんなに仕事が辛いのだろうか。
「何があったん?」
「だからそれは秘密」
「なんだよ。まぁ、言いたくないなら聞かんが、あんまり無理すんなよ」
「へへ、生意気」姉は笑った。そして僕の背中を拳でポンと叩いた。
「ねぇ、こっち向いてよ」
「ん?」僕は体を仰向きにして頭を姉の方に向けた。
「あの・・・さ、ちょっと手、握ってもいいかな」姉はそう言って苦笑した。
珍しい。姉が手を握って欲しいなんて、今まで一度も無かった気がする。
「はいよ」手を差し出すと姉はぎゅっと握ってきた。
「ありがとう」姉はそう言って目を閉じた。
よっぽど仕事が大変なのだろうか。少し心配だ。
「あの・・・さ」
「何?」
「もしなんか辛い事があったらさ、その、いつでも頼ってくれよ。俺、なんもできんかもしれんけど、
できる限りの事はするからさ」僕は勇気を振り絞って言った。そして恥かしくて目を逸らした。
「何その痒いセリフ・・・」姉は薄目を開けて苦笑した。
「あのなぁ・・・人の良心をなんだと―」姉は僕の額にキスをした。
「ありがとう、嬉しいよ。元気出そう」姉は少し力なく微笑し、僕の頭を撫でた。
そしておやすみ、とお互いに言い、姉は目を瞑った。
僕は仰向き、天井を見つめた。手から姉の体温が伝わる。僕より柔い手の平の皮膚、華奢で細い手。
僕はずっとこの手を握り続けていたかった。
僕に頼ってくれるようになったのは嬉しいが、やはり姉は僕に悩みを打ち明ける事は無かった。
昔から姉は無理に強がろうとする。簡単には弱いところを見せようとしない。
それゆえに今日の姉の様子を見ていると、過去ない程に参ってるようだった。少し僕は心配だった。
翌日土曜日は、姉の仕事は休みである。姉と色々と買い物を楽しみ、お礼に色々奢ってもらった。
そしてその日の夜には姉は帰宅した。土曜日の姉は金曜日とは打って変わって凄く楽しそうだった。
僕はとりあえずそれで安心したのだった。