夏休みも終り、秋が近づきつつあった晩夏のある日。
姉は部活を早退した。気分が優れないのだという。
僕は心配したが、大した事無いといって姉は宿題をはじめた。
熱があるというわけではなさそうだったので僕も病院へ行くほどのことではないだろうと思って安心していた。
しかしその予想は外れ、その日の夕方、姉は突然トイレに駆け込み吐いた。
僕は姉の背中を擦った。そして病院に行くように言った。多分最近急に気温が下がったりした日があったので体調を崩したのだろう。
僕はその程度のことだと思っていた。
「ちょっと薬局行ってくる。」
姉はそういうと、僕が代わりに行くという言葉を無視して弾かれたように自転車を駆って出かけてしまった。
僕には姉の行動が良く分からなかった。というより、最近の姉の様子は少し変だった。何か隠し事をしている。
そんな気がしていた。しばらくして姉が薬局の袋を持って帰ってきた。
風邪の薬を買ってきたのだろうと僕は思った。
しかしまたトイレに入ってしまった。
「どうしたの?大丈夫?」僕はトイレの外から姉に言った。しかし返事は返ってこなかった。
「おねえちゃん?」再度尋ねようとしたとき、突然トイレのドアが開いた。
そこには顔を真っ青にした姉が立っていた。何かスティック状のものを持っていた。
「・・・でき・・・てる・・・」姉は声を震わせながら言った。
「な、何が・・・?」
「あ、赤ちゃん・・・」
「えっ・・・な、何の?」一瞬、意味が分からなかった。
「あんたと私の・・・赤ちゃん・・・できちゃった・・・」
「僕・・・と・・・お姉ちゃん・・・の?あ、あか・・・ちゃん?あか・・・ちゃん・・・」僕は一語一語飲み込むように反芻した。
「あのとき・・・あの時・・・中に精子出しちゃったから・・・だから・・・どうしよう・・・」
僕は思い出した。少し前、姉の腹の中に精子を放出したあの日を。背中が冷たくなった。
「嘘・・・だよね・・・?」
「嘘じゃない・・・嘘じゃないよ!」姉は叫んだ。姉の目から涙が溢れてきた。
「でも・・・そんな簡単に・・・」あれ以降、僕達は何度も性行為を繰り返したが、
中に直接出したのは今のところあれが最初で最後のはずだった。
「できるのよ!!!前に学校で習ったもん・・・絶対に避妊しなきゃ赤ちゃんはすぐできちゃうって・・・」
「そんな・・・僕・・・でも・・・1回しただけだよ?できるはずないよ・・・」
「小学生のあんたに何が分かるのよ!!!」姉は鬼の形相で僕を怒鳴った。
「どうしよう・・・赤ちゃん・・・どうしよう・・・」姉の頬に涙の筋がいくつもできた。。そして僕にすがりついてきた。
僕には信じられなかった。今、この僕の目の前でへたりこんでいる姉の腹の中に子供がいるだと?それも、僕と姉の子供?
僕の子供・・・!僕だってまだ子供だ。自分の子供だなんて全く現実味が無い。僕の頭は混乱していた。
姉は何を思ったのか、突然僕の部屋へ走っていった。僕もそれを追いかけた。
姉はパソコンの電源を入れた。そしてネット上で匿名で不特定多数の人に相談できるサイトへ行き
現状を打ち明けどうすべきかを相談した。
小学生の僕にはどうすればいいのか全く分からなかった。この時の僕にはまだ事態の深刻さが理解しきれていなかった。
サイトからの返事を待つ間、姉は僕のベッドに腰掛、ずっと無言でおなかを眺めていた。僕はどう声をかけたらいいのかわからず、
ただその重い空気が支配する部屋に拘束され続けるしかなかった。
窓からは晩夏の赤い夕焼けが差し込んでいた。どこか物悲しいひぐらしの鳴き声が聞こえていた。
夕日に照らされる姉の横顔が妙に弱々しく見えた。
「生んだら・・・生んだら、どうなるのかな・・・」姉がきりだした。
「駄目だよ・・・姉弟で結婚したなんで聞いたことないよ・・・」
「でも・・・もしかしたらあるかも・・・」
姉は僕の顔をじっと見つめた。そして何かを決めたかのように一度頷いた。姉はぼくに質問した。
「ねぇ、私のこと、愛してる・・・?」姉は僕をじっと見つめた。
僕はとっさに返事ができなかった。今のこの質問には何かとんでもなく重いものがのし掛かってるような気がしたからだった。
でも、姉が望むなら僕は覚悟しようと幼いながらも決意した。しかし所詮小学生。特に深く考えたりはしなかった。
僕は姉の横に座った。そして姉の手を握った。
「愛してる。」僕は大きく頷きそう答えた。でも、声変わりすらまだ迎えていなかった幼い声でのその回答は
姉を安心させるだけの力はもっていなかった。
一階から夕飯の支度ができたという母の声が聞こえた。いつの間にか母は帰宅していたようだった。
僕達は一階に降りた。しかし飯なんか喉を通るはずもなく殆ど食べずに僕達はまた部屋に戻ってきた。
姉は先ほど質問したページへ行き、回答をチェックした。時間は既に8時になろうとしていた。
時間が時間なだけにすぐに複数の回答が付いた。
姉はそれをザッと読んだ。僕も読んではみたが、よく分からないことが多くて途中で諦めた。
「どうしよう・・・姉弟の子供は血が濃すぎて障害を持ったり奇形の子供が生まれる可能性が高いんだって・・・」
「き・・・奇形・・・?」僕はゾッとした。まるで姉の腹の中にエイリアンのような怪物が巣くっているような錯覚にとらわれ吐き気を覚えた。
「姉弟の結婚は法律的にも社会的にも認められてないし、それに―」姉は難しい言葉を並べた。
小学生の僕にはチンプンカンプンだったが、とにかくマズい事態だということがだんだんと分かってきた。
「どうしよう・・・どうしたらいいの?ねぇ、どうしよう・・・」また姉は泣き出した。僕だってどうすればいいか分からない。
「ごめん・・・」僕は姉に謝った。姉につられて僕の目からも涙がこぼれてきた。
「なんでよ・・・なんで謝るのよ!!!」姉は怒鳴った。僕は普段にはない姉の突然の感情の変化に驚いた。
「あんたと私がしたことでしょ・・・謝らないでよ・・・そんな・・・」
「ご、ごめん・・・」また僕は謝った。
「だから謝るな!!」姉は凄まじい剣幕で叫び、両手で机を叩いた。
僕はもう黙るしかなかった。
姉はしばらくネットで色々調べていた。そして長い間考えた。そして言った。
「私・・・この子を生む・・・」姉の喉がゴクリと動いた。
「む、無理だよ・・・」僕は弱々しい声でそう言った。
「この子を生んで、1年はどうにかお母さんに面倒見てもらうの・・・私も中学校を卒業したら自由になれるわ・・・」
姉は自分が中学校を卒業したら高校には進学せず、子供を育てる事に自らを捧げると言い出したのだ。
うちは両親が共働きだが決して裕福な家庭ではなかった。
父だけの収入では家庭が回らないために母も働きに出ていた。
もしも姉の子供ができたら母か姉どちらかが休暇をとらなければならない。だが当然だが母にはそんなことできるはずがない。
だから姉は自分が犠牲になるしかないと考えたのだろう。
(当時の僕達には姉弟の子供というものがどういうレベルで社会的に認められていないかということをしっかり理解できていなかった。
多分、バレなきゃそんなに問題ないだろう、そんな程度に考えていた。)
「あんたは大学まで進学すればいいわ。それまで私が頑張るから。それから―」姉は怯えていた。
なんとか立ち向かおうと言葉を並べることによって必死に活路を見出そうとしていた。
「無理だよ!!そんなの無理だよ!」僕は言った。そんなの、姉の人生がメチャクチャになってしまうじゃないか。
「じゃあどうするの!?」
下ろすしかないじゃないか。
とは僕には言えなかった。
「お母さんに相談しよ。」僕は言った。
「無理よ!そんなことできない!」姉は首を横に振った。
僕は姉の両肩を掴んだ。そして姉の目を見た。
「お母さんに相談しよ。僕達でどうにかできる事じゃないよ。」
生むにしろ生まないにしろ、母には相談しなければならない。僕は懸命に説得した。
姉はきつく目を閉じた。
「僕から母さんに言うから。ね?」姉は小さくうんと頷いた。
僕は覚悟を決め、姉の手をきつく握り階段を降りた。
一階に降りると母はキッチンで夕飯の片付けを、父はテレビを見ていた。
「どうしたの?二人揃って。」母は言った。母を目の前にすると僕は急に言葉が出なくなった。
僕は率直に言えずしばらく言葉に窮していたが、僕の様子が普通じゃないことに気付いた母は
打ち明けるように優しく諭した。父は僕達の普通じゃない様子に気付いたようで、こちらを見ていた。
「お姉ちゃんに子供ができた」僕は勇気を振り絞り、そういった。
母は最初僕が言ってることの意味が分からないようだった。僕はもう一度言った。すると母は驚き絶句した。
父はハァ、と溜息をついて自分の目元を摘んだ。
そして僕との子だということを告げると母はもっと驚いた。父も驚き、キッチンに駆け寄ってきた。
父はどういうことだと姉に怒鳴った。父の怒声に姉は泣き出した。
母はそれを宥めながら、詳しいいきさつを姉に尋ねた。
姉は泣きながら僕との子供ができてしまったことを告白し、今日検査薬で調べたらそれが発覚したのだと告げた。
そう告げた後、姉は叫ぶように泣き出した。今まで見たこと無かったような泣き方だった。
僕にはその光景が非常に衝撃的だった。
例外もたくさんあるけど、いつも優しく強かった姉。不安になるといつも僕の手を引いてくれた。
両親が共働き故に幼い頃から姉は僕の世話をよくしてくれた。
僕が小さな頃の写真の殆どは姉に抱っこされているものばかりだ。如何に姉に大切にされていたかが分かった。
母は末っ子で長男の僕をよく可愛がった。たった4歳しか離れていないのに、姉は母から姉だからと不公平な扱いをよく受けた。
しかし姉は弱音を吐くことは殆ど無かった。口には出さないが僕はそんな「強い姉」を尊敬してさえいた。
だからこそ僕にとって姉が本気で泣く姿は本当に衝撃だった。
そしてその原因を作ったのが僕なのである。
僕は正に恩を仇で返したのである。改めて僕がやったことの罪深さを思い知らされた。
姉が当時この出来事をどのように考え、またあの涙がどのような意味を持っていたのか
真の意味は当時の僕には分からなかった。
ただ、僕は姉に耐え切れぬ苦痛を与えてしまったと考えていた。
全てを姉から聞いた母は目を赤くして僕に怒鳴った。本当なのかと、姉の子はお前がやったのかと。
母の剣幕に圧され僕は激しく泣いた。あんなに泣いたのは数年ぶりだった。
僕の場合、心の奥底で、泣けば助かると思う幼児特有の考えが残っていたのかもしれない。
もちろん、そんなことで解決するはずもない事は自覚していたが、僕には泣くしかなかった。
姉と母はその後長い間話し合っていた。父は夜間にも関わらずどこかに電話していた。
多分、子供のことについて知り合いに相談していたのかもしれない。
僕は喉をヒクヒクと鳴らしながら、泣き疲れ、ただ呆然としていた。
その日の夜。
僕達は個々の部屋で寝ることにした。
しかし僕は姉の様子が気になってなかなか寝付けなかった。
自室を出て僕は姉の部屋のドアをそっと空けてみた。
やはり姉はまだ起きていた。学習机のライトをつけ、椅子に座っていた。時間は既に深夜の二時を過ぎていた。
自慢の長髪はボサボサになっていた。今まで決して髪の手入れをサボる事はなかったのに。
活発で明るい性格の姉は死んだように見えた。
姉は僕を恨んでいるのだろうか。なんと声をかければいいのか分からず僕はそっとドアを閉めた。
あんな姉を見るのは本当に辛かった。
後の話し合いで姉は強く、子供を産むことを望んだ。しかし当然だが両親は認めなかった。
姉は僕に、両親を説得するのを協力するように求めた。しかし僕はそうしなかった。それに対して姉は凄く悲しんだ。
だが僕にも理由がある。世間的な目や一般常識については当時の僕にはよく分からなかったが
僕にはそれよりも、子供によって姉の人生が狂わされるのが耐えられなかったのだ。
姉の能力なら県内トップクラスの高校や有名大への進学だって夢じゃない。姉の人格なら素晴らしい学生生活を謳歌できるだろう。
そして口には出さないが姉にも将来の夢があるだろう。それら全てを犠牲にするなんて惨すぎると僕は思った。
姉にも人並みの人生を歩む権利がある。それが僕の過ちのせいで奪われるのが耐えられなかった。
しかし小学生の僕に姉や子供をどうこうする力なんてあるはずがなかった。
姉の味方にはなりたい。でも姉の事を考えると親と一緒に反対せざるを得なかったのだ。
結局、最後は姉の体に負担が生じないうちに下すことになった。なんとか世間にこの事実が流れないように
父が配慮してくれたお陰で学校や世間にその話が漏れることはなかった。
僕は数日部屋に篭った。自分自身に対して猛烈に腹が立った。
何も知らないくせに姉を孕ませ、一人の人間の人生を狂わせようとしてしまった。
悔しくて自分の腹を何度も殴った。でも全然痛くなかった。痛いのが怖くて力が入らないのだ。余計に苛立った。
「やめなさい」
気がつけば姉が僕の部屋の入り口に立っていた。
姉は真っ暗だった部屋の明かりをつけた。
僕達の目元は涙でカブれて真っ赤になっていた。
「ごめんなさいお姉ちゃん・・・ごめんなさい・・・」僕は姉の方を向き、床に正座をして頭を下げた。
握り締めた手はブルブルと震え、自分への怒りで顔が真っ赤になった。
姉はゆっくりと僕の前に座った。
僕は悔しくて涙を流した。すると姉は僕の頭を静かに撫でてくれた。
あんただけのせいじゃない。私とあんたが一緒にやったこと。そんなに自分を追い詰めないでと、姉は言った。
そして、優しいね、ありがとうと言った。
こんな僕のどこが優しいんだ・・・!姉の優しさは自分への怒りになった。膝に置いた拳を握りしめると爪が食い込み出血した。
姉の下腹部を見た。膨らんですらいないが、この中には確実に僕と姉の子が宿っているのだ。
この新しい生命の命はあと数日。この世に生まれてくる前に始末されてしまうのだ。
僕達の愚かな行為によって尊い命が失われることになったのだ。
「ごめんね・・・」僕は新しい生命に謝った。
僕はたまらなくなりそのまま床に泣き崩れた。涙が枯れるまで泣いた。
僕はそのまま泣き疲れ、知らぬ内に眠ってしまった。
起きると体にはタオルケットがかけてあった。隣には姉がベッドに寄りかかり眠っていた。静かに寝息をたてている。
外を見ると日が昇ろうとしていた。鳥が囀る音が聞こえた。僕はカーテンを開けた。
淡い光が姉の頬を照らした。そこには涙が伝った痕が残りキラキラと輝いていた。
一気にやつれてしまった姉の寝顔を見ながら僕は思った。
もうやめよう。
悔しさや感情の発散は所詮僕内部の域を超えない。そんなものは姉には何の意味もない。
そうではなく大切なのは、今僕は姉のために具体的に何ができるかを考え行動すべきではないか。
僕はそう考えた。しかし一体何ができるか。
「んんん・・・」姉は目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃった?」僕は言った。
「んんー、おはよう。」姉は目を擦りながら言うと、にっこりと笑った。
その笑顔はとても綺麗で、とても弱々しかった。
僕達の関係は世間には認められていない。それ故に未来にはさまざまな困難があるかもしれない。
だけど、そんな時は男である僕がしっかりしなければならない。
僕はいつまでも姉の背中を見てばかりではいけないのだ。姉の前に出て僕は姉を守ってゆかなければならない。
「お姉ちゃん」
「なぁに?」姉は欠伸をした。
「僕、絶対にお姉ちゃんを幸せにしてみせるからね。」
姉はしばらくキョトンとした顔で僕を見つめた。しかしすぐに笑顔になって、うんと頷いた。
僕は命を懸けて姉を幸せにしよう。そう心に誓った。
しかし間もなくその自信は脆くも崩されることとなる。