目を開けると真っ白な空間が広がった。死んだのだろうか。  
体を動かそうとした。すると全身に重い痛みが走った。  
徐々に意識がはっきりしてくる。良く見ると白いのは天井だった。  
視線をずらすと点滴のパックが見えた。口の中が変な味がする。  
一応どうやら助かったみたいだった。死ねば良かったのに。僕はそう思った。  
それにしても頭がクラクラする。吐きそうだ。  
首を横に向けた。ベッドの傍らには椅子に腰掛、頭をコクコク揺らしている姉が見えた。  
僕は上体を起こそうとした。  
「うぐっ・・・」  
胸の辺りに鋭い激痛が走った。どうやら肋骨をやられたようだ。  
姉が僕に気付き、首を上げた。  
「気が付いたの!?よかったぁ!!」姉は僕の胸に抱き付いた。  
「痛い!痛いよ!」  
「ご、ごめん」姉はすぐに退いた。  
「よかったぁ。本当によかった。」姉は泣きながら僕の手を握り言った。  
「心配したんだからね」  
「ご、ごめん。」  
「肋骨が数本、折れたりヒビが入ったりしてるけど、問題ないそうよ。数週間で退院できるんだって」  
姉は状態を説明してくれた。特に手術をする必要もないそうだ。姉は電動ベッドのリモコンを操作し、上体を起こしてくれた。  
「あいつ、高校生だよ?小学生のあんたが敵う訳ないでしょ馬鹿」  
馬鹿は無いだろう馬鹿は・・・僕はそう思いながら苦笑した。  
「あいつはあの後―」僕はあの後のことについて尋ねようとした。  
「でも、でもね」しかし姉はそれを遮った。  
「でも、あんたが来なかったら私、あいつに酷い目にあわされたわ。あ、ありがとう・・・」  
姉は目を逸らし顔を赤くした。こうして面と向かってありがとうと言われると、僕のほうもなんだか照れくさい。  
「お姉ちゃん、耳真っ赤だけど、大丈夫?」僕は笑いながら言った。  
「だ、大丈夫よ馬鹿。この生意気な餓鬼め」姉は僕のデコに拳をグリグリと押し付けた。そして涙を拭き、にっこりと笑った。  
しかしあの後、姉は本当に助かったのだろうか。誰かが駆けつけてくれていたら助かっていただろうが、  
もしそうでないとしたら・・・  
 
その後、仕事を早く切り上げた母と父が病室にやってきた。  
話を聞くと、既にあの男の仕業だということを両親は知っており、後に然るべき処置を取るという。  
これが表沙汰になったら奴は学校からなんらかの処分を受けるだろう。  
停学なんて食らったら、奴も僕達の話を言いふらす事はできないだろう。  
小学生を気絶するまで殴り続けたような下種の話を誰が信じようか。  
これは少し後に判明したことだが、どうやらそいつは薬物中毒の疑いがあるという。  
もしそうなら、警察沙汰だ。となるとそいつも姉に容易には近づけなくなるだろう。僕はその点については安心した。  
父は暴行の後の事を説明してくれた。  
父曰く、姉は気絶した僕をおぶって近くの民家に助けを求めたのだという。(当時携帯電話は高校生から持つのが普通だった)  
ということは誰も姉を助けに来なかったという事だろうか。  
もし姉がレイプされる前に誰かに見つかっていれば、その場で助けられそこで救急車を呼ぶなり、なんらかの行動をとるはずだ。  
ボロボロの服装だった(今は着替えたようだが)姉自身が僕を背負う必要は無いはずだ。じゃあ姉はあの後奴に・・・  
両親は姉がレイプされた事については知らないようだった。  
単に奴が僕を一方的に苛めたということになっていた。  
それは幸いだった。たぶん余計な心配をかけさせるだけだ。  
しかしもし本当に姉は奴にレイプされたのなら、今すぐ病院に連れて行く必要がある。  
だがどうすればいい。  
両親にレイプされたということを悟られずに姉を医者に見せなければならない。  
「母さん」  
「なんだい?」  
「ちょっとお姉ちゃんと二人で話したい事があるんだけど、いいかな」  
「二人で・・・?また変な話するんじゃないでしょうね」母は笑った。  
僕は両親に廊下の広間で待つように言った。  
そして病室に姉と二人きりになった。  
「何?私に話したいことって」  
姉はベッドに腰掛、優しく微笑んだ。  
「姉ちゃん、今すぐお医者さんに見てもらうんだ」  
「医者?なんでよ」  
「お姉ちゃん、あの後あいつにやられたんだろ」  
姉の眉が、ピクリと動いた。  
 
「今すぐお医者さんに診てもらうんだ」  
姉は溜息を漏らした。  
「あんたが気にすることじゃない」  
「やっぱり、やられたんだね」  
「・・・うるさいわね、放っといてよ」  
「駄目だ。病院に行くんだ。また出来たらどうすんだよ」  
「大丈夫だって」  
「駄目だよ。絶対に診てもらうんだ」  
「でも、どうするのよ。レイプされたから医者に診てもらうって母さんに言うの?無理よ」  
姉は苦笑した。  
「大丈夫だよ。僕に考えがある。もし、診てもらえる事になったら、素直に診てもらうね?」  
「んー・・・まぁあんたがそこまで言うんなら診てもらうわよ。でもどうするのよ。変な事言ったら承知しないからね」  
「大丈夫」  
僕は姉に両親に戻ってきてもらうよう頼んだ。  
「ちょっと母さんと父さんに言わなきゃいけないことがあるんだ」  
「なんだい?」母は優しく微笑んだ。  
その優しさをまた裏切ることになると思うと僕は酷く心が痛んだ。  
でも、姉の体を思うとそうせざるを得ない。  
「今日殴られる前、僕と姉ちゃんは神社に居たんだけど、その時、僕、またお姉ちゃんとエッチしちゃったんだ」  
「ちょっ・・・あんた何言ってんの!?」  
両親はまたかというふうにあきれ返った。そしてまた僕ではなく姉に問い質そうとした。  
「違うんだ!今回は僕が一方的にお姉ちゃんに迫ったんだ・・・ごめんなさい・・・お姉ちゃんは何も悪くないんだ・・・」  
「はぁ!?出鱈目言ってんじゃないわよ!」  
僕は叫ぶ姉の両手を掴み、僕の前に引き寄せた。  
そして声を押し殺して、しかし力を込めて言った。  
「お願い、お願いだからここは僕の言うとおりにして。・・・ね?お姉ちゃん」  
僕は姉の目を見つめた。どうにかして僕の思いを姉に伝えたかった。  
「だから、父さん、今すぐにお姉ちゃんをお医者さんに診せてほしいんだ。また子供が出来ちゃう前に」  
父は姉にそうなのかと問うた。僕は姉の手を強く握り締めた。姉はきつく目を閉じ、しばらく俯いていたが、小さくコクリと頷いた。  
僕達の様子を察したからなのか、両親はひどく僕達を叱ったりはしなかった。  
その日の内に姉は妊娠の時に世話になった父の知り合いの産婦人科の開業医の所に連れて行かれた。  
そして病室には母だけが残った。  
母は椅子に座り、ベッドの横に設置されてる机の上で書類に何か書いていた。仕事の続きだろうか。  
入院の手続だろうか。分からないが、深い溜息をつき、酷く疲れているようだった。  
僕達に振り回され、疲労が溜まっているのだろう。僕は非常に申し訳ない気持ちになった。  
 
考えてみると、最近の姉の不幸は全て僕から起因するものばかりだった。  
僕さえ居なければ、姉は妊娠することはなかった。  
弱みを握られ、レイプされることも無かった。  
そして僕は姉を助ける事ができなかった。僕は姉と一緒に居ても彼女を守ることができなかったのだ。  
どんな困難があろうと姉と協力すれば明るい未来だってあるだろうと思っていた。  
しかし現実はそうではなかった。  
僕はまた、姉を傷つけてしまった。  
そしてこの一連の事件が、僕の両親に多大な負担と心配をかけている。  
姉、いや、家族のことを考えると、僕は姉の近くにいるべきではないのかもしれない。  
姉にとって僕と言う存在は、麻薬のような毒物なのかもしれない。  
僕は意図せずとも、姉を壊してしまうかもしれない。  
数日間悩んだ末、僕は両親にこの考えを全てではないが、打ち明けた。しかし両親、特に母は絶対に駄目だと拒否した。  
母は、末っ子で唯一の男の子である僕を溺愛していた。親元から離れるなんて絶対に許さないつもりのようだった。  
僕を離すくらいなら姉を離すくらいの事を考えていたに違いない。  
父も最初のうちは拒否していたが、しっかり話すと考えを理解してくれた。  
だが、当たり前だが一人暮らしはできない。父曰く、京都に父の弟夫婦が居るのだという。  
子供に恵まれなかった家だそうで、そこに養子として行くのなら、認めると父は言ってくれた。  
叔父夫婦には過去に何度か会った事があるので顔は知っていた。  
僕は了解し、別居の話は姉抜きで淡々と進んでいった。母は認めてくれなかったが、父が説得してくれるという。  
そして姉の方はというと、入院したその日以来、仕事の関係で来れない日も多くあった両親に代わって毎日お見舞いに来てくれた。  
僕は毎日、姉が来る夕方が待ち遠しかった。  
 
 
入院期間もとうに後半に差しかかっていた頃だろうか。  
僕の肋骨もだいぶよくなり、日々激痛に悩まされるということも少なくなっていた。  
その日、姉は昼頃に病室にやってきた。学校を早退したのだという。  
僕のお陰で授業をサボれて感謝してると言い、姉は舌を出して笑った。  
姉は僕の家からテレビゲームを持ってきてくれた。  
何故か携帯ゲームではなく重いテレビゲームの本体をリュックに詰めて遠い病院まで運んできてくれたのだった。  
2時間くらい僕達はそのゲームを楽しんだ。  
「そういえば・・・母さんから聞いたんだけど。」  
「なんだい?」  
「退院したら家を出たいって言ったそうね。」  
体がビクンと跳ねた。  
「き、聞いたんだね・・・」  
「どうして?何故そんな事言ったの?」  
「ま、まぁ僕にも色々考えがあって・・・」  
「何よ、その考えって。」  
「ん・・・まぁ・・・その・・・僕達は・・・このままではいけないと思うんだ。」  
「は?どういうこと?」姉は苛々しながら言った。  
「僕がお姉ちゃんと一緒に居たら、僕お姉ちゃんに色々迷惑かけちゃうと思うんだ。子供の事や、今回の事・・・全部切欠は僕だろ。」  
「そんな事あんたが心配する事じゃないわよ。」  
「なんというか・・・僕はお姉ちゃんを傷つけてばかりいるだろ・・・だ、だから僕なんかお姉ちゃんの周りから居なくなるべきなんだよ・・・」  
自分の思いを上手く言葉にできない煩わしさに僕は苛立った。  
「あんたが私を傷つけた?私は何も傷ついてなんかいないわ」  
「でも、子供の事も、この事件も、元はといえば全て僕の責任だよ。僕がお姉ちゃんを妊娠させちゃったからだよ」  
姉は僕の両手を掴んだ。  
「一緒にやったことだもん!あんたを恨んだことなんて一度も無いわ。どうしてそんな事言うの?」  
「じゃあなんで泣いてんだよ!」姉の瞼にはまた涙が満ちていた。  
「違うわ!これはあんたが、変なこと言い出すから・・・わたし・・・」姉は腕で目元を拭った。  
「子供が出来た時、お姉ちゃん凄く泣いたよね。僕、それがショックだった。お姉ちゃんをあんなにも悲しませてしまった。」  
「違うわ!違う!」姉は首を左右に振った。  
「だから!」僕は姉の言葉を遮るように言った。  
「もうお姉ちゃんを困らせないようにしようって、僕がお姉ちゃんを守るんだって、あの時心に誓ったんだ。  
馬鹿みたいにゲームの勇者気分になって・・・でも僕は何もできなかった。僕、馬鹿で弱いから・・・お姉ちゃんを幸せになんてできない・・・」  
僕は溢れる涙を腕で拭った。涙なんて見せたくないが、自らが意図せずとも勝手に溢れてきた。  
 
「もういい。もういいから・・・」姉はベッドに腰掛、僕の頭を抱いた。  
「ごめん・・・僕は決めたんだ・・・」  
「いいから、あんたは悪くないの・・・何も気にしなくていい」そしてゆっくりと僕の頭を撫でた。  
「いや、僕はこの家を出る。もうお姉ちゃんは僕を忘れるべきなんだ」  
「もういいから、もう喋らないで」姉は言った。ぎゅっと僕の頭を抱く腕に力を込めた。  
「もう京都の叔父夫婦の養子になることが決まったんだ。ごめんね、お姉ちゃん。  
退院と同時に僕は京都に移る。もう京都の叔父に言ってあるし転校手続も済んでる」  
「そんな!勝手に・・・」  
「ごめんね・・・お姉ちゃんと僕、お互いのためなんだ」  
「なんで!?意味わかんないよ!」  
「お姉ちゃんの幸せを考えるとこうするのが一番いいんだよ」  
「違うわ!そんなの違う!私の幸せを考えるのならここに居てよ!  
私はあんたにここに居て欲しいの・・・私と一緒に暮らして欲しいの  
それが私の願いなの!それが私の幸せなの!」  
姉は抱いていた僕の体を突き放し、面と向かって僕に訴えた。  
「私はあんたのことが好きなの!好きで好きで、どうしようもないの!わかる!?私のこの気持ちが分かる!?  
あんたと一緒に居れるのなら辛くてもいい!周りにどう思われてもいい!」  
姉はまた僕の頭を強く抱きしめた。僕は姉がそんなにも強い気持ちを抱いていたことに驚いた。  
「だからここに居て!どこにも行かないで!ここで私を愛して!一生一緒に居て!どうしてそんなことが分からないのよ!!  
なんで勝手に決めちゃうのよ!!!」  
「違う!それは違うよ!!」僕は姉の腕を振り払った。  
「違わないわ!何も違わない!」  
「聞いて!僕の話を聞いてよ!」僕は姉の両肩を掴んだ。  
姉は俯き、涙を拭いた。  
「いい?落ち着いて聞いて欲しい。僕はお姉ちゃんが好きだ。愛してる。  
僕は将来お姉ちゃんをお嫁さんにしたい」  
僕は今とんでもない事を口走っているが興奮の中では気づかなかった。  
「ほんとう・・・?」  
 
「約束する。僕はお姉ちゃんを絶対に幸せにするよ。でも今は駄目だよ。僕達はまだ幼すぎる。  
僕達はお互いを壊しかねない。お姉ちゃんは来年は高校受験だ。大切な時期だ。僕なんかに囚われてちゃいけないんだよ。」  
「ううん、違う!あんた全然分かってない!」姉はブンブンと首を振った。  
「あんたと一緒になれるのなら私は高校なんて行きたいと思わないよ!」  
「駄目だよ!そんな事言うなよ!もっと自分を大切にしろよ・・・お姉ちゃんこそ僕の気持ちを少しも分かってないじゃないか・・・  
僕はお姉ちゃんを愛している。だからこそ僕はお姉ちゃんに幸せで真っ当な人生を送って欲しいんだ・・・  
幸せにしたいから、僕達は今一緒にいるべきじゃないんだ・・・!」  
「私の幸せはあんたと一緒に居ることなの!それ以外は何にも望んでないわ!何度言えば分かってくれるの!?」  
「それは違う!お姉ちゃんは今だって勉強頑張ってるじゃないか!頑張って勉強して、高校に行きたいからだろ?  
大学に行きたいからだろ?僕のために自分を犠牲にしないでよ!  
僕はもうお姉ちゃんと縁を切りたいなんて言ってるんじゃない。  
ただ一時的に、数年だけだから、その間だけ、僕達は別々に暮らそうって言っているんだ。  
僕達が今のまま一緒に暮らし続けるとまた、間違いを犯すと思う。なぜなら僕はお姉ちゃんが好きだから。  
もう僕はお姉ちゃんの人生を狂わせたくない。  
だから、しっかりと、もっと正確に物事を判断できるような大人になってから、また一緒に暮らそうよ。  
僕は高校を卒業したら、必ず、帰ってくる。  
僕は絶対にお姉ちゃんを裏切ったりはしない。信じて・・・としか今はいえない。でも絶対に僕は帰ってくるから!」  
「そんなの・・・そんなの嫌だぁ・・・離れたくないよぉ・・・」姉はまるで幼女が駄々をこねるように言った。  
「ごめん・・・もう決めたから」僕はボロボロと泣く姉の頭を抱いた。胸がズキズキと痛む。  
しかし突然姉は僕の肩を突き放した。  
「なんでよ・・・決めないでよ・・・」  
「ごめん・・・」僕にはこれ以上何も言えなかった。  
少し沈黙が続いた。姉は俯いていた。  
「いいわ・・・勝手にすればいいじゃない・・・」  
「え・・・」  
姉はベッドのシーツを握り、ベッドを拳で叩いた。  
「あんたは昔からいつもそう・・・自分がそうだと思い込んだら他人がどう言おうと聞きやしない」  
「別にそんなわけじゃ・・・」  
「私の幸せを考えると?小学生のあんたに何が分かるのよ。生意気言ってんじゃないわ。  
そんなに私から離れたいのなら京都でも何処へでも行けばいいわ!  
どうせ私の気持ちなんて理解する気無いんでしょ!勝手にすればいいわ!」  
姉は乱暴に荷物をまとめだした。  
「そ、そんなつもりじゃ・・・」  
「はは、確かにあんたみたいな餓鬼に惑わされてた私が馬鹿だったわ。もう二度と私の視界に出てこないで」  
「そ、そんな言い方ないだろ!僕はただ、お姉ちゃんのことを思って!」  
姉は無視して荷物を背負った。  
僕は姉の事を考えてこういう行動をとっているのだ。  
叱られる筋合いはない。苛ついた僕は  
「じゃあ勝手にさせてもらうよ!」と言い、布団を被った。  
「馬鹿!馬鹿馬鹿あああ!!!!」姉はそう言い捨てると病室を飛び出していってしまった。  
しかし、僕がどう思われようと、僕は姉の周りからは消えた方がいい。  
姉には本当に申し訳ないが、こうせざるを得ないのだ。むしろ嫌われた方がマシなのかもしれない。  
「あのう・・・」  
ここの病室は二人部屋だ。隣には男子高校生が足の骨折で入院している。すっかり忘れていた。  
その高校生は気まずそうにこちらを見ていた。  
「もう少し、静かに喋られた方が・・・ここ、一応病院っすよ・・・」男は苦笑した。  
「あ、すみません・・・」僕は顔を引き攣らせながら答え、ベッドのカーテンを引いた。  
 
 
結局僕は自分の意見を貫き通した。というか、あんな怒り方されたら「やっぱやめた」なんて言えない。  
それに僕も少し腹が立った。あんな言い方はないだろう。  
姉はそれ以降、病院に見舞いに来ることはなかった。  
そして僕は残り数日間入院した後、退院した。  
別居については僕が計画したとおりに進んだ。そんな急がなくてもいいだろうとも言われたが  
決心が鈍らないうちに、今じゃないと駄目なのだ。  
京都に移る前日の夜。結局その日になっても姉は口を聞いてくれなかった。  
分かれくらい言おうと部屋のドアを開けた途端  
「入ってくんな!何も聞きたくないし見たくない!」と叫んだあと枕やらクッションやら  
しまいには筆箱やら鞄やら色々飛んできて逃げざるを得なかった。  
僕は自室のベッドに寝っ転がった。  
天井には板の木目が見えた。丸い木目が3つ、ゆらゆらと並んでいる。丁度人の顔に見える。僕を睨みつけているようだ。  
昔、姉があの木目は昔ここで死んだ人の怨霊だと言って僕をおどかしたことがあった。もう何年も前の話だ。  
視線を横にずらすと、机にはローバー・ミニクーパーの模型が1台載っている。  
去年の誕生日に、自動車が大好きだった僕に姉がこずかいを貯めて買ってくれた初めての僕への誕生日プレゼントだった。  
赤い可愛らしい包装が記憶に新しい。  
最初で最後の姉からの誕生日プレゼントになるのだろうか。僕はその模型を姉の希望で虹色に塗った。  
可愛らしい車体にレインボーカラーは良く映えた。筆塗りによるムラだらけの色も味があっていいと姉は褒めてくれた。  
横にはETのフィギュアがある。僕が生まれる前、姉が両親から貰ったものだ。今見ると可愛らしいが、昔僕はこれが大嫌いだった。  
それを承知で姉はよく僕の枕元にこのETを置いたものだった。その度に朝方、僕の悲鳴が町内に響くのだ。  
クローゼットを見ると、普段着と分けて3枚のシャツが掛かっている。  
僕と姉の二人が電車で都会のお店に行った時、姉が僕に似合う服をと選んでくれたものだ。去年の話だ。  
その帰り、僕は情けないことに切符をなくしてしまった。どうしようどうしようとあたふたしてると  
姉は僕を罵倒しながらも、手を引いて改札まで行き駅員さんとかけあってくれた。  
駅員さんに事情を説明する姉の後ろ姿は凄くかっこよく、頼もしく見えた。  
クローゼットから視線を移す。  
部屋の入り口の柱に鉛筆で何本も横線が引いてある。そこには僕の名前と姉の名前が交互に書いてあり、日付が入れてある。  
僕と姉の身長の記録だ。姉と僕の身長差はずっと開く一方だったが、最近は僕が急速に追いつきつつあった。  
普段意識していなかったが、こうして考えてみると家のさまざまなものに姉との思い出が詰まっていた。  
それを思うと僕の目からは止め処なく涙が溢れてきた。  
結局僕は眠ることができずに朝を迎えてしまった。  
出発前、僕はもう一度姉の部屋の前へ行った。  
「お姉ちゃん、今までありがとう。僕はもう行くけど、元気でね・・・」  
僕は扉越しに言った。姉からの反応はない。  
「お姉ちゃん・・・大好きだよ・・・。・・・ごめんね・・・」声が震えた。  
結局出発するまで姉が部屋から出てくることは無かった。  
 
 
最寄り駅から電車に乗り、途中で新幹線に乗り換え京都駅まで向かう。  
両親はその最寄駅のホームまで見送ってくれた。  
僕は悲しさと新生活への不安で押し潰されそうになった。  
もう姉は来ないのだろうか。最後に顔を見たかった。この駅までは自宅からは自転車でも20分はかかる。  
姉はここへ来れるはずがないのだが、僕は願う気持ちでホームの階段の方を見つめた。  
その時、一人の少女がホームの階段を1段抜かしで駆け下りてきた。  
列車のベルが鳴った。その女の子はキョロキョロと誰かを探している。  
すぐに分かった。姉だ。間違いない。  
「お姉ちゃん!!」僕は叫んだ。姉は僕の声に気付くと全速力で走ってきた。  
途中、下車した中年男性にぶち当たったが、姉は構わず走ってきた。  
「ドアが閉まります。ご注意ください。」と、アナウンスが流れた。  
僕はいてもたってもいられなくなり、閉まりかけるドアから飛び出した。  
そして僕達はそのままその場で抱き合った。減速せず抱き合ったため、衝撃がモロに体に直撃し、  
まだ完全には治りきっていない肋骨に響いた。  
「ごめん、お姉ちゃん」  
姉は首を左右に振りながら  
「ううん、謝らなきゃならないのは私のほう。ごめんね、ずっと私の事、考えていてくれたんだよね」  
「うん・・・」僕は頷いた。  
「分かってたけど・・・ごめんね」  
「いいよもう・・・」僕はギュッと姉を抱きしめた。  
そして背伸びして姉にキスしようとした。しかし姉は指で僕の唇を制止した。  
「7年後、絶対だよ。絶対に帰ってくるんだよ」  
「うん」僕は頷いた。  
「約束だからね」  
「うん」  
「この続きは、7年後にしてあげる。これは私からの約束」  
姉はそう言うとニッコリと笑った。その笑顔はいつも僕の不安を吹き飛ばしてくれる。  
「わかった。約束だよ」僕は笑顔で大きく頷いた。  
「どうやってここまで来れたの?」  
「偶然この時間に着くバスを見つけてさ、それで着たの」  
「凄い偶然だね」田舎ではバスは数十分に1本だ。その時間に偶然間に合うバスがあったのは奇跡に近い。  
「そうだね。神様がそうしてくれたのかも」姉は笑った。  
「帰ってきたら、結婚式を挙げようね。教会で、二人で。」姉は言った。  
僕達は抱き合いながらおデコをあわせた。  
「うん。そうだね。アルバイトいっぱいしてお金貯めなきゃね」  
僕達は笑った。両親は僕達のこの行動に口を挟んだりはしなかった。  
たぶん、この別居で僕達の関係も正常なものになってゆくだろうと考えていたのかもしれない。  
20分後、次の電車がきた。  
「別れじゃないんだから、泣かないの」  
姉は僕の目元の涙を指で拭った。だがそういう姉自身も目に涙を溜めていた。  
「そうだよね」僕は無理に笑おうとした。だが、口がガタガタと震えてうまく笑えなかった。  
それはとても笑顔とは言い難い状態だった。  
僕は電車に乗り込んだ。  
「じゃあね。お姉ちゃん。元気で」  
「うん」  
「次会うのは7年後・・・になるのかな」  
「ばぁか、たまには帰ってきなさいよ」  
「そうだね・・・」  
と言ってほぼ同時にドアが閉まるアナウンスが流れた。  
「元気でね」  
「うん」  
さようならはお互い言わなかった。そしてドアが閉まった。  
僕は姉と両親にブンブンと必死に手を振った。涙が止め処なく溢れた。  
電車はすぐに出発した。ゆっくりと速度を上げてゆく。すぐに3人は見えなくなった。  
 

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