日門 琴音は不機嫌だった。
燦々と注ぐ陽光は大地を潤し、絶え間なく打ち寄せる波は力強いメロディーを奏でる。
そして、木々をそよがせる風は涼しさを運び――
まあつまり、ここ奄美大島のビーチは南国ムード一色に彩られていた。
その鮮やかな空気を苦々しく思いながら、琴音は溜息をついた。
「……遅い」
時計を見る。
最後に見てからまだ一分しか経過していないことを知り、首を振る。
「まったく……この私がなんでこんな任務に就かなきゃいけねーのよ?」
不満げにつぶやく琴音の脇を、新婚らしい二人組が通り過ぎていった。
彼等の開放的なファッションに比べ、自分が着ているのは黒のパンツスーツ。
背丈の近い同僚から徴用してきたもので、着心地は最悪だった。
暑苦しいのもあるが、それよりも、なんと言うか……。
「胸……キツすぎだっつーの……」
スーツの持ち主が特別に貧乳な訳でもなく、どちらかと言えば琴音自身に原因がある。
それを自覚しているだけになおさら不愉快だった。
できればラフに着崩したいのだが、今回の任務を思えばそれは憚られる。
結局、この胸の締め付けと直射日光に耐え続けなければならないようだ。
微風が吹くたびに、絹のように細いストレートヘアが顔面にまとわり付く。
汗ばんだ肌に密着する黒髪は、くすぐったくて鬱陶しい。
髪を掻き上げ、また溜息。
「まだ来ないのか?」
空に問うてみるが答えは返ってこない。
この放置プレイ的な状況は、まだしばらく続きそうだった。
太陽はいよいよ高く昇り、人も増え、辺りはにわかに活気づいてくる。
だが、その賑わいに反比例して琴音の不快感は募る一方だった。
一筋、また一筋と汗が流れて胸元へ落ちる。すでにブラウスはぐしょ濡れだった。
ちょっと足を運べば、建物や木陰などに逃げ込むこともできる。
だが、琴音はそこに立ち続けていた。
それはもはや、「任務だから」という義務感よりも、この不快感に耐えることに対して、
サディズムともマゾヒズムともつかない、ある種の昏い喜びを得ていた為であった。
胸の前で腕を組む。きつく、抱き締めるように。
瞳を閉じ、波の音に耳を澄ませ、琴音は思考を停止させた。
※ ※ ※
「この子供が、護衛対象ですか?」
渡された写真と上司の顔を見比べながら、琴音は聞いた。
「不服かね?」
「ですが、護送ルートが奄美大島から喜界島まで、とあります。
たかだか隣島間の護衛に、私と『スカイフィッシュ』が必要なのでしょうか」
意味もなく、資料の束を指先で摘んでパラパラめくる。
「彼は『SOW』の重要人物だ。丁重に迎える必要がある」
「……私に、受付嬢の真似事をやれと?」
「不服かね?」
有無を言わせぬ口調。琴音は「拝命しました」とだけ答え、退出する。
「くれぐれも気を付けたまえ」
※ ※ ※
閉じた視界、ほの赤く光る世界がさらに赤みを増した。その異状に気付き目を開ける。
だがその瞬間、耳を聾する爆音が響いた。
轟々たる空気の振動が琴音を襲った。転びそうになり、僅かによろける。
木々が引き千切れ、砂礫が宙に舞う。海水が飛弾となって飛び散る。
琴音は咄嗟に防御姿勢をとり、飛来するそれら粉塵の雨から身を守る。
周囲では怒号や悲鳴が飛び交い、幾つかの足音が琴音の側を通り抜けてゆく。
視界はほぼゼロ、琴音は状況を把握できていない。
その混乱に追い打ちを掛けて、今また一つの異変が起こる。
「うわっ!?」
白い闇の向こうから飛び出す人影。
避ける暇もなく琴音は衝撃を胸に受けて地面にもんどりうった。
律儀にも、その人影まで倒れて琴音の上に覆いかぶさる。
「ご、ごめん!」
男の声が、謝罪を述べる。
琴音は体勢を回復させようと藻掻くが、男の体が邪魔で上手くいかない。
向こうも向こうで起き上がろうとしているらしく、それが彼女の努力を阻んでいる。
それどころか、
「こら、どこ触ってんの! 揉むな、なんで確かめる必要があるの!?
だから鷲掴みにするなって! 違う、反対の手、それをどけて!
馬鹿、その脚は動かしちゃ駄目! ……ホントに止まるなよ! 早く離して!
ちが、まっ待って、それ以上、奥に突っ込んだら殴るよ!!
分かった、もういい、視界が晴れるまでじっとしてて!
…………。
背中に手を回すな!!」
………潮風が周囲の空間を洗い、水煙が薄れたとき、琴音は『それ』を見た。
水平線の向こう、空に浮かぶ異形の影。
「あれは……まさか!」
それは奇妙な存在だった。
不安定にブレる像、だが、強烈な存在感を放つ巨体。
灰色の姿が左右に揺れるたびに、直下の水面が波紋を生んでいた。
思わず、声に出る。
「あれは……『ファントマ』! 本物なの!?」
「ファントマ?」
胸元あたりから聞こえる間抜けな声に、琴音は我に返る。
「……いつまで私にしがみついている気?」
「あ、ごめん」
やっと琴音の身が軽くなった。
男の腕を借りて立ち上がり、改めて彼の姿を見る。
どこか変わった印象を備えつつも幼さを色濃く残した、男と言うよりはむしろ少年だった。
どこかで見た顔だった。胸ポケットの写真に手を伸ばす。
……間違いない。
急激な状況の変化で、自分に与えられていた任務を見失いかけていたが、
その『任務』がわざわざこちらに飛び込んできたのだ。
琴音は素晴らしい僥倖に内心で感謝しつつ、念を入れて誰何する。
「君は、八咫翅 一刃くんだね?」
「あなたは?」
「私は日門 琴音。君を迎えに来た。
君をここまで連れてきた人はどうした? はぐれたの?」
少年はこくりと頷き、琴音の言を肯定する。
「そうか……とにかく、君の安全を確保しなきゃね。
付いてきて」
ジェット音が空にこだまする。
戦闘機が三機、白い軌跡を描いて琴音たちの上空を通り過ぎていった。
「飛行機だ……自衛隊?」
「米軍よ。ファントマに歯が立つとは思えないけど、
まあ、こちらの時間稼ぎにはなるかもね。さ、今の内に」
護衛対象の腕を取り、琴音は走った。一刃は素直に牽引されている。
砂浜の端まで辿り着き、浅瀬に足を踏み入れてさらに進む。
「琴音さん、僕達、どこへ向かっているんですか?」
「……あの岸壁の向こう側よ。足元、取られないように気を付けて」
ぬめった岩を渡り、岸壁の先端を回り込んだとき、また爆発音が響いた。
見上げると、燃える光点が三つあった。戦闘機の姿はない。
「時間稼ぎにもならない、か」
予想の範囲内なので驚いたりはしない。淡々と先を急ぐ。
高い岸壁の一部分、ちょっとした洞窟のように窪んでいる箇所に踏み込む。
洞の中心の海面に浮かんでいたものを見て、一刃が息を呑んだ。
「これは……UFO?」
コバルトブルーに染まる、飛行機と潜水艦の合いの子のような、歪な金属の集合体。
「んな訳ねーでしょうが。
『スカイフィッシュ』。対ファントマ兵器よ。乗って」
機体の側面に触れ、ハッチを開ける。まず琴音が中に乗り込み、一刃を迎え入れる。
コックピットは復座式になっており、その後部席に一刃を座らせた。
システムを立ち上げ、それをチェックする。垂れる髪が欝陶しかった。
「八咫翅くん、悪いけど、私の髪の毛縛ってくれる?」
ゴムを渡し、髪を預ける。
一刃はなかなか慣れた手つきで琴音の髪を手で梳かしはじめた。
「琴音さん、さっきの化け物のこと、ファントマって呼んでましたよね。
ファントマってなんですか?」
「新種の海洋生物群の総称よ。詳しいことはよく分かっていないの。
私も実物を見たのは初めてだし。
はっきり言えることは――ファントマは強大な力を持っていること、そして、
海洋エネルギー省直属の組織『SOW』の敵、つまり、この私の敵たる存在ってことね」
言いながら、ふと違和感を覚える。手を休めずにその疑問を口にする。
「君は何者? てっきり客員研究者あたりだと思ってたんだけど」
「いや、僕もいきなり連れてこられて、なにがなんだか」
「ふーん、ま、いいけど。任務にはあまり関係ないし。
……って、こら! あんたなにやってんの!?」
琴音の髪が、折り目正しく綺麗な三つ編みに編まれていた。
「時間がかかるなって思ったら三つ編み? 誰がそこまでしてくれって頼んだ!」
「似合ってますよ、琴音さん」
「君は今の状況を分かってるの!?」
「それはお互い様でしょう。さっきのファントマについての答え、
『なにもわかりませーん』って言ってるのと同じじゃないですか」
一刃は全く悪びれず、しゃあしゃあと言ってのける。
琴音は髪を振りほどきたい衝動に駆られたが、
ちょうど起動準備が完了した旨を告げるアラートが鳴る。
「……表に出るわよ。しっかりシートに掴まって!」
一刃の返事を待たず、
「それからもう一つ!
『琴音さん』だなんて馴々しい呼び方しないで!」
スカイフィッシュの後部バーニアが火を吹き、機体は波を押し退けながら前方へ滑りだす。
薄暗い陰を抜け、眩しい日差しの下にフォルムを晒したその時、警告音が鳴り響いた。
「上!?」
遥か遠くにいたはずのファントマが、海岸近く、それも洞の直上に迫っていた。
ファントマの体から、ビームのような光の筋が幾つも伸びる。
それらは明らかにこちらへ向かって放たれたものだった。
「くそ!」
琴音はスロットルを全開に。圧倒的なGが琴音と一刃にのしかかる。
スカイフィッシュは光の筋の射線上からはずれ、光の筋はそれを追って角度を変える。
光の筋が海面に接触するたび、大規模な水柱が建つ。
機体の後方から迫り来る水柱。その余波で海面は激しく上下し、機体は揺れる。
「飛ぶよ!」
操縦桿を引き倒す。
ウイングの角度が変わり、発生した揚力が海を蹴り、スカイフィッシュは海面を離脱した。
さらに上昇。ファントマとの距離がどんどん開いてゆく。
「逃げ切り先行、このまま喜界島まで行くから!」
通信機をいじる、がなんの応答もない。
「ECM……? ファントマの接近も知らされてなかった……」
「琴音さん、後ろ、あいつついてくる!」
琴音は咄嗟に操縦桿を切る。
空気の壁を割って横に逃れ、大きく弧を描く。そして直前の位置は光の筋が通り抜けていた。
「くっそ、ルートから外れた。喜界島まで行かせないつもり?
なんでわざわざ私を狙うのかは知らねーけど、いいわ、私が相手になってやるよ!」
再び上昇態勢を取る。
空へ昇るスカイフィッシュを、ファントマは精確に追尾してくる。
「ついてきてよ……いい子だから」
積乱雲の一つに飛び込み、急反転。ファントマの軌道は読めている。
握るトリガーは震え、三つ編みが踊る。
「喰らえぇぇっ!」
雲の中、ファントマの背後に回ってガトリング砲を撃つ。
弾丸は次々とファントマに飲み込まれていき、その体が穴だらけのチーズのようになる。
スカイフィッシュは雲から飛び出し、ミサイルを発射する。炸裂音、積乱雲が欠けた。
「やったか?」
「……まだだ」
妙に確信の籠もった声で呟く一刃。その言葉を証明するかのように、警告音。
ファントマは健在だった。傷ついた体表面がみるみる塞がっていく。
ファントマは少し震え、今までとは比較にならない径の光を放った。
「うわあっ!?」
スカイフィッシュは不様にも墜落してゆく。
直撃こそ免れたものの、光の筋に炙られて機能が急激に低下していた。
「動け、動きなさい!」
しかし助かる見込みは薄い。
琴音は死を覚悟し、後ろの一刃に振り向いた。
一刃は焦点の合わない目で前方の虚空を見つめている。
茫然自失としてるのかと思ったが、なにか不思議な感じがした。
「八咫翅……くん」
その瞳は輝いていた。
……彼は自分とは違う『なにか』が見えている、そんな思いに襲われた。
一刃の左目だけが紅く燃え、そして右目は蒼く冷たく光りはじめた。
「八咫翅くん!」
がくがくと揺れる機体の中、少年、八咫翅 一刃は叫びを上げた。
「海……太陽……気高き真の生命よ! 願いに応えろ!
ジスグリュオン!」
スカイフィッシュが海に激突する最中、琴音は見た。
海に大渦が涌くのを。
ごうごうと唸りを上げ、海面はすり鉢状に陥没する。
そして、逆巻く渦の中心に、紫色の巨人が現われた。
(新手のファントマか!?)
その想いを最後に、琴音の意識は途絶えた。
再び意識を取り戻した時、琴音は見知らぬ場所にいた。
なにかのコックピットであるような雰囲気だが、スカイフィッシュのそれではない。
「ここは……どこ?」
「琴音さん、気が付いた?
大変だったんだよ、あなたを助けるの」
ものすごく近くから一刃の声がする。それもそのはず、琴音は一刃の膝の上にいた。
琴音が着ていたスーツは、ボロ屑と成り果てて一刃の足元に丸まっている。
ブラウスだけは辛うじて原形を保っていたが、海水で濡れて肌に張りついている上、
ボタンがほとんど取れており、ブラに包まれた乳房が外気に曝されていた。
そんな格好で一刃と身体を密着させるのには若干の抵抗があったが、
他にどうしようもなく、また文句を言う気力もないので、とりあえず胸を片腕で隠し、
黙って一刃に身を預けていた。
その一刃が座っているのは、この奇妙な密室の中心、操縦席と思しきシートだった。
周囲に展開されている全方位スクリーンが、この機体(?)が移動中であることを示している。
「ねえ、まさか……これってさっきの紫の巨人?
君が動かしているの?」
「そうだよ」
琴音に目もくれず、簡潔に答える。
琴音は一刃の視線を追って、スクリーンに目をやった。
表情が凍る。
ファントマが4機、こちらへ接近中だった。
「嘘……なんでこんなに?」
怯えた表情で首を振る。
「琴音さん、しっかり掴まって!」
一刃は叫び、異質な形状の操作機器を、まるで当たり前のように動かしてみせた。
ファントマ4機は連携した行動を取っていた。紫の巨人を光の筋の乱射で追い回し、誘導する。
果たして、それに乗せられた紫の巨人は、ある一点に辿り着く。
その刹那、4機のファントマから、先程スカイフィッシュを沈めた大径の光がほとばしる。
全方位スクリーンの全てがホワイトアウトする。耳をつんざくスパーク音と相まって、
琴音は恐怖で我を忘れ、一刃にしがみつく。
「嫌、ねえ、なにこれ!?」
「少し静かにしてください。ジスグリュオンなら大丈夫です。
このくらいでは問題ないと本人が言っています」
ブラウスがさらに乱れ、ほぼ下着も同然の露出を見せているが、
それにかまわず正面から一刃に詰め寄って襟を握る。
「無理だよ! この巨人はなに? なんでファントマが増えてんの?
一体なにが起こっているの、君は誰、ジスグリュオンってなによ!?」
パニックに陥ってなおも喚く琴音だが、一刃の唇でその口に蓋をされる。
一刃の舌が琴音の口腔を蹂躙する。身体から力が抜け、襟を掴んだ手がだらりと下に落ちた。
ややあって、二人の唇が離れる。唾液が糸を引いた。
「頼むから、大人しくしてください」
「は、はい、わかりました」
自然と、敬語が口をついてでた。
紫の巨人、ジスグリュオンがその両腕で海を指す。
海面が隆起し、その質量がファントマの光の兵器を打ち消す。
「うぉぉぉっ! 海に帰れぇっ!!」
ジスグリュオンが腕を振るう。
隆起した海面がそのまま刄となって、ファントマを切り刻んだ。
細切れになったファントマたちは、海の藻屑になった。
ちょこんと座った一刃の膝のうえ、琴音は遠慮がちに彼の裾を握りながら、その横顔を見ていた。
なにか、別世界にいるような心持ちだった。八咫翅 一刃の特殊性が、そう思わせるのだろう。
世界が変わる瞬間に立ち合っている、そんな突拍子のない感慨が浮かぶ。
だが、これは紛れもなく現実で、ファントマと戦うために訓練を受けていたはずの自分が、
まだ幼い少年に後れを取った、その現実は、やがて容赦なく琴音にのしかかるだろう。
今は、命が助かった喜びに浸り、傷ついたプライドの痛みを感じていなくとも。
「ん?」
一刃がこちらを向く。
右と左で色の異なる瞳、紅と蒼の視線を受けて、琴音はなぜか気恥ずかしさを覚えて目を逸らす。
ジスグリュオンはゆっくりと動いていた。
喜界島はすでに肉眼で確認できている。
(chapter-T, closed‥‥‥)