平穏を崩されるなんて言うのは、本当に一瞬のことなんだと実感する。  
俺達はどこにでもいるような恋人同士で、どこにでもいるような普通の男女で、どこにでもあるような人生を送るんだと思ってた。  
そんな俺達の、至って普通なデートの最中。全く突然に、暴走した車が俺達に突っ込んできた。  
避けるなんて、考える以前の問題だった。気がついたときには地面に倒れ、俺の脚はおかしな方向に捩じれていた。  
そして彼女は、一見どこにも外傷を負っておらず、まるで眠っているように見えた。その直後から、全身に凄まじい激痛が  
襲ってきたため、後のことはよく覚えていない。  
病院に担ぎ込まれ、色々と治療をされて少し落ち着いた頃、まったくの無傷に見えた彼女が、実は生死の狭間を彷徨っていると  
伝えられた。何でも、彼女は頭を強打し、脳に損傷を受けているかもしれないとのことだった。場合によっては、大変な後遺症が  
残るかもしれないとも聞いた。  
そして、それは現実となった。  
辛うじて、彼女は一命を取り留めた。だが、その代わりに大切なものを失った。  
「喜美、腹減った?」  
「いや」  
「そうか。何か手伝うことは?」  
「ない」  
「いるものは?」  
「ない」  
「怒ってる?」  
「ありえない」  
至って普通な、いつもの会話だ。喜美は黙々と、ひたすらに膨大なデータをパソコンに打ち込むという単純かつ苦痛を伴う作業を、  
顔色一つ変えずに黙々とこなしている。  
「音楽でも聞く?」  
「ご自由に」  
「退屈じゃない?」  
「別に」  
「そうか……変わったな…」  
「変わったな」  
彼女は、一切の感情を失った。ちょっと前まで、音楽が好きで、単純作業が大嫌いで、何か嬉しいことがあると、名前の通りにかわいい  
笑顔を見せてくれた彼女は、もういない。今の彼女は笑うことも、泣くことも、怒ることもなく、それどころか退屈だとか不快だとか  
思うことすらなくなってしまった。それでも、失ったのが感情だけだったというのは、不幸中の幸いだったということだ。むしろ、  
奇跡に等しいとまで言われた。  
彼女自身は、この状況を何とも思っていない。というより、思えないのだろう。感情を失って悲しいとか、感情を失ってるんだから  
思うわけがない。むしろ、彼女は自分の体がこうなったため、逆にそれを利用して、こういった内職を多くこなしている。  
まるで機械のように退屈を知らず、飽きるということもない彼女には、まさにおあつらえむきだろう。  
「……なあ、喜美」  
「何」  
「俺のこと……どう思う?」  
 
その質問にも、彼女の手は止まらない。  
「好き『だった』人。今は君のことは、何とも思わない」  
「………」  
「だけど」  
手を止めず、顔を向けず、彼女は続ける。  
「あの頃みたいな感情はなくなったけど、変わらず信頼できる人物ではある。であれば、たぶんまだ『好き』なんだろうな」  
「……俺は、喜美がどうなっても好きだ」  
「嬉しくないけどありがとう」  
恋人同士としての感情も、彼女は失くした。それでも、彼女はこうして恋人としての関係を続けようとしてくれる。  
もしかしたら、本当はもう俺のような存在は邪魔なだけなのかもしれない。それでも、俺は彼女の好意に甘えていたかった。  
彼女は全ての感情を失ったせいか、自分のことにも随分と無頓着になってしまった。しかも退屈しない分、仕事に打ち込みすぎて  
時間を忘れる傾向があるので、俺が色々と身の回りの面倒をみることが多い。  
「ん、もう8時になってる。喜美、そろそろ飯作るけど何がいい?」  
「何でも」  
「ご飯系、パスタ系、どっち?」  
「作りやすい方」  
「……じゃあタラスパかペペロンチーノ、どっち?」  
「たらこが腐りやすそうだからたらこスパゲッティ」  
以前の喜美なら、絶対ペペロンチーノを選んでただろう。何しろ辛党で、しかもたらこは好きじゃなかったんだから。だけど、今は  
好き嫌いすらなくなってしまった。作る方としては、些か張り合いがない。  
「どう喜美?うまい?」  
「たぶん」  
好き嫌いがない上に、うまいものを食って幸せだとかいう感情もないので、この質問にはまったく意味がない。それでも、  
何か話さなければ無言の食卓になるので、そう聞かざるを得ない。  
一人相撲な会話をしつつ、一緒に夕飯を食べる。食器を下げるとすぐに、喜美はまたパソコンに向かおうとする。  
そんな彼女を、後ろから抱き締める。喜美は特に抵抗もせず、足を止める。  
「したいのか」  
「……うん」  
彼女はもう、俺に対して恋人としての感情を持っていない。だけど、俺の彼女に対する気持ちは、今も全く変わっていない。  
「君も変わってる。こんな私を抱いて楽しいか」  
「喜美は喜美だ」  
「以前の私なら、狂喜乱舞するような台詞だな。でももう、君の言葉に心が動かされたりはしない。それでもいいのか」  
返事をする代わりに、体をぎゅっと抱き締める。喜美はちらりと時計を見てから、俺の手に自分の手を重ねた。  
「作業は終わってないが、余裕はあるな。まさかセックスに三時間もかける気はないだろう」  
「ないない」  
「なら大丈夫だ。じゃあ一回離れてくれ、脱ぎにくい」  
 
俺が手を離すと、喜美はパパッと手際良く服を脱ぎ捨てる。恥じらいもないおかげで情緒も消えているが、まあこんなことを  
気にしていてはキリがない。  
俺もさっさと服を脱ぎ、ベッドに腰掛ける喜美に顔を近づける。頭を抱き寄せると、喜美は目を細めて応えた。  
そっと、唇を重ねる。以前は、喜美の方から積極的に来ることも多かったが、今では俺のキスに応えるだけとなっている。  
舌を入れ、喜美の舌に触れる。それに応える舌の動きは、ただただ感情のない、文字通り舌を絡ませようとするだけのものだった。  
以前のような、恥じらうような反応も、情熱的に応えるような反応も、今はない。ただ俺のする行為に、形だけで応えているような、  
そんな味気ないものだった。  
それでも、愛する彼女には違いない。俺は片手で喜美を抱き寄せつつ、もう片方の手を胸に伸ばした。  
「……ん」  
僅かに、喜美が反応する。全体を手で包み、優しく捏ねると、無表情ながらも熱い吐息を漏らす。  
唇を離し、その顔を見つめる。そこにやはり、表情はない。  
「どう、喜美?気持ちいい?」  
聞いてすぐに、しまったと思った。そして喜美は、予想通りの言葉を吐く。  
「いや、別に」  
「………」  
「感覚としては、くすぐったいような、何とも言えないものがある。前はそれが気持ちよかったけど、でも、今はもう、それは快感に  
結びつきはしない」  
そう、喜美は快感も失っていた。俺が何をしようと、もう気持ちいいと思うことはないのだ。  
はっきりと否定されたのが何だか癪で、俺は両手で喜美の胸を揉みしだく。  
以前に、可愛い声を聞かせてくれたところを責め、乳首を口に含み、舌先で転がすように舐める。さらにちゅうちゅうと吸い上げると、  
喜美は俺の頭にポンと手を置いた。  
「まるで赤ちゃんみたいだな」  
「……そんなに可愛く見えるのか?」  
「いや、別に」  
顔も口調も無表情だが、喜美の体は明らかに赤く染まり、うっすらと汗ばんできている。  
「気持ちよくない?」  
「特に何とも」  
「でも、体は正直だね」  
「エロ漫画の台詞みたいだな」  
すべすべのお腹を撫で、そのまま下へと手を滑らせる。そして、指先が割れ目に触れると、くちゅ、と小さな音が鳴る。  
「こんなに濡れてる。感じやすいのは変わらないね」  
「別に体は変わってないからな」  
指を割れ目に挟み込み、ゆっくりと前後に擦る。喜美のそこはすっかりびしょ濡れになっていて、何度か擦っただけで指全体に愛液が  
絡みついていた。  
その指を、そっと中に入れる。喜美の体が、ピクッと震えた。  
「んっ…」  
気持ちよさから出た声というよりは、単に反射的に出てしまったような声。それでも、全くの無反応よりはずっといい。  
 
「喜美の中、すごく熱い」  
「そうか」  
あまりにもそっけない返事。そんな返事を聞く度に、俺は彼女が本当に変わってしまったんだと痛感する。  
「君も、完全に勃起してるみたいだな」  
「ああ……まあ」  
こんな言葉も、以前の喜美なら言えなかった。恥ずかしがりやで、電気を消して部屋を真っ暗にしなくちゃできないくらいだったのに、  
今の喜美はどんなことを聞こうと、また口にしようと、恥ずかしがるそぶりもない。  
「ごめん、喜美……もう、入れてもいい?」  
「好きにすればいい」  
投げやりにも聞こえる言葉を受け、そっと足を開かせる。割れ目に俺のモノを押し当て、ゆっくりと腰を突き出す。  
「くうっ…!」  
「………」  
先端に愛液が絡み、ぬるぬるとした感触と共に、ぎゅっと締め付けられる。最初こそ、ゆっくり挿入しようと思っていたが、  
あまりの気持ちよさに思わず根元まで一気に突き入れてしまった。  
「うっ…」  
無表情のままに、喜美が声をあげる。  
「ごめん、痛かった?」  
「痛かった。でも別に何とも思わないから、気にするな」  
それは本心なんだろうけど、なぜか俺の心がひどく痛む。  
「……ごめん。じゃあ、動くよ」  
少しずつ、ゆっくりと、俺は腰を動かし始める。喜美の中はややきつく、すごく熱い。気を抜いたらすぐに出してしまいそうで、  
あまり激しく動くことができない。  
だが俺の下で、喜美は無表情に俺を見つめている。その顔を見る度に、俺は現実を突きつけられる。  
もはや、喜美は何の感情もなく、また快感もない。俺が喜美を抱くのは、ただの俺のわがままであり、喜美はそれに付き合ってるだけだ。  
楽しいわけでも、気持ちいいわけでもなく、また苦しいわけでもない。ただただ、俺のわがままを何とも思わず、受け止めているだけ。  
そんな喜美を、俺は強く強く抱きしめる。  
「喜美…!好きだ……好きだ…!」  
「………」  
喜美は答えない。当たり前だ。今の喜美は、俺なんか何とも思っていないんだから。  
俺は喜美が好きだ。でも、好きなのは俺だけだ。喜美は俺を何とも思っておらず、そんな喜美を俺はわがままに付き合わせている。  
こんな関係は、もしかしたら喜美にとっては不幸なだけなんじゃないか。そんな考えが、よぎることもある。  
だけど、離れたくない。俺は喜美がどうなろうと、ずっと好きなんだ。  
喜美の体を捕えるように強く抱きしめ、欲望のままに腰を打ちつける。腰のぶつかり合う乾いた音、結合部から響く湿った音、  
そしてベッドの軋む音が部屋に響き、お互いの汗の匂いが混じる。  
「う、あっ……喜美、もう出そうっ…!」  
「赤ちゃんを作る気がないなら、せめて外に出してくれ」  
「くう……出る!」  
喜美の無感情な言葉を受け、ギリギリで中から引き抜く。直後、俺は喜美のお腹に思いっきりぶちまけた。  
二度三度とモノが跳ね、その度に白濁を喜美のお腹に吐き出していく。そんな様を、喜美は無表情に眺めていた。  
 
やがて、最後まで出しきってしまうと、喜美はかかった精液を指で掬った。  
「終わったか。時間の余裕は十分だな」  
言いながら、掬った精液を舐め取る。そこにぽたりと、新たな液体が落ちた。  
「……なぜ泣く」  
「……ごめん、喜美…」  
涙を流しながら、俺は謝った。  
「俺……わがままばっかりで、喜美のこと不幸にしてるよな…。喜美は、こんなの楽しくもないのに……俺ばっかり、  
楽しんだり……本当に、ごめん…」  
「………」  
喜美はお腹に落ちた涙を指で掬うと、しばらくそれを見つめていた。やがて、それも同じように口へと運ぶ。  
「君は勘違いしてる」  
「え…?」  
「私はあの事故に遭って、幸福と同時に不幸を失った。今の私には、何の喜びもない代わり、何の苦しみもない。苦痛も、退屈も、  
何もありはしない。感情に振り回されることもない。君を思って眠れない夜も、今はない」  
そう言いつつ俺を見つめる喜美の顔は、相変わらず無表情だった。  
「君の好意に応えることもできない。好きだったはずの君に対する感情も消え失せた。だけど、記憶まで消えたわけじゃない」  
俺の目を見据えたまま、喜美は淡々と続ける。  
「私は確かに、君を愛していた。あの事故に遭わなければ、それは今も続いていただろう。であれば、恋愛感情自体は  
消え失せたとしても、私は君が好きなのだろう」  
「喜美…」  
「君といる時間が幸せだった。君と話すことが楽しかった。最初のセックスは痛いばかりだったが、それでも幸せだった。それほどに  
私は、君を愛していた。そんな君が悲しい顔をしているのは、何よりも辛かった。だから、そんな顔をしてくれるな」  
そう言うと、喜美は妙な感じに顔を歪めた。  
 
「……『うまく笑えてる』だの、『上手な笑顔』だの、くだらない歌詞だと思っていたものだが、いざこういう状況になると、  
意外と忘れるものだな」  
「喜美…?」  
「そうだと感じることはないにしても、君がそばにいる。それだけで、私は『幸せ』だ」  
そして、喜美は笑顔を浮かべた。目だけが笑っていなかったが、それは確かに以前の笑顔だった。  
「悲しむな。君が悲しむと、恐らくは私も悲しい。もっとも、君のその優しさに、私は惚れてたんだがな」  
「……初耳、だな」  
「当たり前だ。言ったのは今のが初めてだ」  
笑顔を収めると、喜美はベッドから降り、服を着始めた。  
「変なところも好きだったがな。私が君を名前で呼ばず、君は私を名前で呼ぶことで、二人とも『きみ』と呼び合えるとか。どっちも  
君と呼べば済む話なのにな」  
「ああ、いや、それは……好きな子を名前で呼ぶのって憧れるだろ?」  
「そうだな」  
「あっ!そうなると喜美は俺のこと…!」  
「納得していたことだ。気にするな」  
喜美は本当に、俺のことを好きでいてくれたんだと実感していた。こうして何の感情も抱かなくなった俺に対して、過去の記憶のまま、  
恋人として接してくれる。  
なら、俺はもう迷わない。下らないことに惑わされたりはしない。  
「喜美」  
「なんだ」  
「俺はこの先も、ずっとずっと、喜美が好きだ」  
「ありがとう。嬉しくないけど」  
喜美の心は、この先もきっと変わらない。感情のある俺の心は、もしかしたら揺れることもあるかもしれない。  
だけど、俺は約束する。  
何があっても、どんなことが起こっても、俺と喜美は、この先もずっとずっと一緒だ。  
 

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