ゴンゴンゴンという、自分の借りているアパートの部屋の鉄扉が乱暴に叩かれる音で目が覚めた。
誰だこんな時間にと思って時計を見ると、既に朝日が昇り始める時間だった。
かつてないほど不愉快な目覚め方をさせられた。ちょうどいい、そろそろ起きるとするか。そしてこのやり場のない怒りを、非常識な客人にぶつけてやるとしよう。
「はーい…」
間抜けな声で返事をし、目をこすりながら玄関の扉をあけると、そこにはとてつもなく不気味な女が、夜の影のように立っていた。
「うわぁ!?」
思わず驚いてしまう。そりゃ当然だ、ドアの前に幽霊のような人間が立っていたのだから。
全身の肌を隠すようなシャツとズボン、そしてブーツ。服の上からでも、体が引き締まっていることがよくわかる。
そして直視に堪えないような痣とひどいやけどの痕が、目のあたりから額にかけてを覆っている。
ウェーブのかかった前髪がその痛々しい額を隠しており、青い瞳にはまるで生気が宿っていない。さながらホラー映画のゾンビを思わせる。
「…ハンス、私だよ。分からないか…?」
そのひどい痣ややけどのある女性は、顔をしかめてそう言った。その声と話し方に、俺の懐古心が一気に刺激された。まさか、この人は…
「アマリアさん!?アマリアさんですよね!?」
「そうだよ。お前をわざわざ早朝に訪ねてくる女が、私の他にいると思うか?」
なんとそのゾンビレディは、旧知の間柄の幼馴染だったのである。これにはさすがの俺も仰天。痣のせいですっかり印象が変わっていたので、まったく気付かなかった。
「まったく…だが元気そうで何よりだよ」
アマリアさんはそう言って笑った。
アマリアさん…本名アマリア・アーゼルハイト・ボーフムは、俺の幼馴染にあたる人だ。俺の2つ年上で、家が近所にあったので、小さい頃はよく遊んでもらったものだ。
金髪碧眼、容姿端麗な美人で、成績優秀で運動神経も良い。見かけだけなら非の打ちどころのないような女性である。
しかし中身は非常に几帳面で好戦的、しかも喧嘩もものすごく強い人だった。そんな彼女は、俺…ハンス・ディンクラーゲにべったりくっついていた。
なんでも彼女いわく「ハンスは根性も体力も男らしさもない。だから私がハンスを見てやらなければならない」ってことらしい。
女らしさのないとても強気な人だったが、俺はアマリアさんが嫌いではなかった。
だがアマリアさんは高校卒業と同時に、両親の事情で遠くの土地へ引っ越した。それから俺たちは、連絡を取り合っていない。
そんなアマリアさんが今日、ふらりと姿を現したのだ。
「さて、ハンス。上がってもいいか?」
返事をするよりも先に、アマリアさんは俺の家に踏み込んでいた。
昔からこういう強引なところの目立つ女性だった。といっても、もとより断るつもりはない…むしろアマリアさんが来るのは大歓迎だ。
「今までどこへ行っていたんです?」
「ま、色々とな。ああ、疲れた…」
大きなため息とともに、手に持っていたカバンを放るアマリアさん。完全に自分の家の感覚である。
「…ハンス、朝食はあるか?」
「あー、今から作るところです」
「じゃあ私のも頼む…ベッド借りるぞ…」
アマリアさんはそのまま、頭から俺のベッドにもぐりこむ。
…この女は俺が男だということを、そしてここが俺の家だということを、忘れているのではないだろうか。
まぁあのアマリアさんに対して、欲情なんてできるわけがないのだが。
「何か食べたいもの、ありますか?」
尋ねてみたが、返事はない。聞こえていないのかと思って見に行くとアマリアさんは、使い古した俺のベッドの中で、すやすやと寝息を立てていた。
よほど疲れていたのだろう、ずいぶんと寝るのが早いものだ。失礼だとも思ったが、まぁ朝食の用意の間に絡まれるよりはずっといい。布団をかけ直してやり、俺は台所へ戻った。
白パンにバター、チーズ、そしてバナナ。ついでに今日はちょっと贅沢をしてスクランブルエッグも作ってみた。これに牛乳を注いで、完成だ。
朝食ができたのでアマリアさんを起こしに行くと、アマリアさんはベッドに座って、痣だらけの目を細めてぼうっとしていた。
「アマリアさん」
「ん、ありがとう…すまない、眠ってしまっていたようだな」
「珍しいですね、アマリアさんが眠りこけるなんて」
「…長旅で疲れたんだよ。ちょっと服を整えるから、先に席についていてくれ」
眠たげな眼をこちらに向けて苦笑するアマリアさん。女性の着替えをまじまじと見るのはよくないだろう。
「…分かりました。二度寝はしないでくださいよ?」
そう釘を刺し、俺は台所に戻る。おそらく二度寝して、あと20分くらいはテーブルにやってこないだろう。
昔からそういう人だった。俺は嘆息し、湯気の立つスクランブルエッグを見つめる。アマリアさんがこれに舌鼓をうつ頃には、これはすっかり冷めていることだろう。
だが予想に反し、きっかり1分後。アマリアさんは体を引きずるように台所にやって来た。
「おお、おいしそうじゃないか!パン食なんて久しぶりだよ」
「あれ、普段は何を食べてるんですか?」
「シリアル。安いし手間がかからん」
あっさりと答えながら、椅子に乱暴にこしかけるアマリアさん。椅子が軋んで、変な音を立てた。
「意外とダメ人間ですね」
「…そうかもしれないな」
指摘に対してそう返しながら、アマリアさんは髪をかきあげ、そしてパンをひっつかみ、ちぎらずに食べた。
その仕草を見て俺は、何年も会っていないうちに、アマリアさんはとてもだらしなくなったなぁと思った。
昔は礼儀作法にすごく気を使う人だった。パンはちゃんとちぎって食べる。食事は残さず、丸く食べる。好き嫌いはしない。
彼女曰く「こういった日ごろの行いが、その人間性を示すのだ」とかなんとか。
それが今では、食事には遅れるし、パンはバターすら塗らずにそのまま口に運ぶ。しかもパンばかり食べ、おかずがまるで目に入っていない。
そして何より、はつらつとしていた彼女の目には、いまやまったく生気がなく、それこそ抜け殻のようになっている。
「卵、食べないんですか?」
「…あ、すまない。えーっと、フォークフォーク…」
俺の視線に気づいた彼女は、はっと気づいてパンを皿の上に置き、目の前においてあるはずのフォークを探し始める。…本当に目に入っていないのだろうか?
「…アマリアさん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ、寝起きはちょっと調子が悪くてな…このパン、おいしいな」
「そのパン、俺が作ったんじゃないんですが…」
「誰かと食べる食事が楽しい、ってことさ」
アマリアさんはやっと、昔のような大胆不敵な笑いを浮かべた。
朝食を終えた後、アマリアさんは再び俺の布団にもぐり、すやすやと寝息を立て始めた。
いくら気の置けない仲良しとはいえ、寝ている客人を置いたままどこかへ行くわけにもいかないので、俺は積んであった本を暇つぶしに読んで時間を潰すことにした。
「…」
ベッドを見ると、アマリアさんはすやすやと眠っている。こんなにひどい痣や火傷を、彼女はどこでこしらえてきたのだろうか。
あんまりにも暇なので、今のうちにアマリアさんとの思い出でも話しておこう。
前述したように、俺とアマリアさんはいわゆる幼馴染の関係に当たる。アマリアさんは俺より年上で、小さい頃は、本当によく世話になったものだ。
たとえば水が怖かった俺に泳ぎを教え、後に水泳部のエースにまで仕立て上げたのは、ほかならぬアマリアさんだ。
だが教え方がうまいかと言えば、決してそんなことはない。俺に泳ぎを教えるときに彼女が取った行動は、近くに流れている川に俺を突き落とすことだった。
必死になって岸にあがってきた俺を、再び突き落とす。その繰り返しである。見かねた近所のおばさんが警察を呼び、大騒ぎになった。
アマリアさんは色々な方面から大目玉をくらったようだが、全然悪びれた様子がなかった。曰く「こんな小さな川で溺れ死ぬほど、ハンスは弱くない」だとか。
他にも苦手だった算数や歴史を教えてくれたり、悪癖を矯正してくれたり、好き嫌いをなくしてくれたりしたのもすべて彼女である。
だがそのたびに、度の過ぎた暴力がついて回った。強気で勝気でどうしようもなく乱暴な人だった。
そんな暴力的な女を好きになる幼子なんていないだろう。もちろん俺もアマリアさんのことが怖かったし、嫌いだった。
できることならアマリアさんとは顔を合わせたくなかった。だが、俺がどれだけ避けようとしても、アマリアさんは必ずついてくるのだ。
いつしか俺は諦めてしまい、彼女のお眼鏡にかなうような男になろうと心掛けるようになっていた。
つまり「アマリアさんに殴られずに済むように、最初から完璧であることを心がける」ようにしたのだ。
その結果として、今の俺がある。こう見えても成績優秀で友人も多い。だからアマリアさんは俺の幼馴染でもあると同時に、恩師のような存在でもあるのだ。
アマリアさんが引っ越してしまった時、寂しさが俺の心の中によぎったのは、多分そういったところにあるのだろう。
今でも理想の女性像といえば、あの頃の大胆不敵で傍若無人、何でもこなせる完璧超人、そして男を引っ張っていくというアマリアさんのような女性である。
「…くぅ…くぅ…」
無防備な寝顔を晒すアマリアさんの顔。
波打つ髪と引き締まった体躯は、テレビ番組やグラビア雑誌などでは見ることができない、妖艶さとはまた違った、大人びた魅力を持っている
…本当に、どこでこの火傷を負ってきたのだろうか。そんなことを思いながら、俺は乱れた布団をかけなおしてやった。
アマリアさんが目覚めたのは、そろそろ日が沈み始めるという時間であった。
「…っくぅ…!ふぅ。…おっとっと」
「大丈夫ですか?」
ベッドから這い出て早速バランスを崩すアマリアさんに手を伸ばすと、その手を振り払われた。
「大丈夫だ、一人で立てる」
その態度に少しむっとしたが、昔から変なところでプライドの高い人だったと思いなおす。アマリアさんはそのまま、器用に姿勢を直した。
「ところでアマリアさん。夕食は?」
「…え?もうそんな時間なのか」
「たっぷり10時間以上は寝てましたね」
「…そうか…」
髪をかきむしるアマリアさん。そして髪をかきあげてから俺の方へ向き直る。
「よし、朝食の礼だ。今日は奢るから、どこかへ食べに行こう」
「い、いや、いいですって!俺が奢ります!」
「私がよくないんだ。早いところお腹にものを入れたいし、お前にもらった朝食の礼をさっさと済ませたい。ほら、行くぞ」
ただれた火傷の下にある青い目を細めて笑い、アマリアさんは玄関へと歩いていく。そして…
「あいたっ!?」
扉に盛大に頭をぶつけた。ガツン、という痛そうな音が聞こえる。本当に大丈夫なのだろうか?
「いたた…あ、これ扉か…」
「…アマリアさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ!とにかくハンス、戸締りはきっちりしておけよ」
そう言って、アマリアさんは外へ出た。…まったく、どこまでも勝手な人だ。
外は既に日が落ち、空が赤黒く染まり始めていた。
スパゲッティで有名な本格イタリア料理店をうたったその店は、夕食時ということもあって大繁盛…もとい、大混雑であった。
その中で運よく席を取れた俺たちは、メニュー表を見ながら他愛もない話に花を咲かせていた。
「…なぁ、ハンス。ここに来てこんなことを聞くのもなんだが…ここ、何料理の店だ?」
「外に書いてあったでしょう、「本格イタリア料理店」って!読んでなかったんですか!?」
「…そ、そうだったな。イタリア料理か…ハンスもなかなかしゃれているじゃないか、え?」
アマリアさんはそう言って、俺の頭を撫でる。彼女に頭を撫でられると、未だにドキドキしてしまう。
昔、算数を教えてもらっていた時。難しいテストで100点を取った時、アマリアさんはにっこりと笑い、
『よくやったね、ハンス』
と褒めてくれたのだ。嬉しがる俺を、アマリアさんはネコでも撫でるかのように優しく撫でてくれた。
その時のことは今でもたまに夢に見るくらい、鮮烈に印象に残っている。アマリアさんに頭を撫でられるのは、嫌いではなかった。
「どうした、顔が赤いぞ?」
痣の残る目で俺の顔を覗き込みながら、にやにやとするアマリアさん。もうお互いに、いい歳をした大人だというのに、どうしてこうもドキドキするんだろう。
「い、いや、なんでも…!」
「そうだ、ハンスの顔が赤いということで、赤いものでも食べるとするか!えーっと…」
アマリアさんは剛毅に笑い、メニューを右手だけで器用に広げた。
「…ハンス、ここ本当にスパゲッティの店なのか?スープの名前しか書いてないぞ。クラムチャウダースパゲッティなんて初めて聞いたぞ?」
「…それ、スープのページですよ」
俺はそう言って、そしてひとつの疑問を投げかけた。
「アマリアさん。もしかして視力が…」
「あ、いや、…そんなことはない。そんなことは…ほんの冗談だよ」
アマリアさんがそう言ってメニューをめくろうとすると、突然隣の席からスープ皿が落っこち、飛んできたスープがアマリアさんの服を汚した。
皿は割れなかったが、他人の食べ残しのスープがアマリアさんの左袖や左腿にべったりとついてしまっている。
しかしアマリアさんは気付かない様子で、目を細めてメニューを見ている。
「あ、す、すみません!」
隣の若い男は、上ずった声で叫ぶように言った。
「…ん?何か…あ!」
アマリアさんが気付いたころには、既に男は逃げていて、服の汚れだけがその場に残っていた。
「…まったく、最近の若い奴ときたら、謝れば何だって許してもらえると思い込んで…おいこら待て、服を…うわっとっとっと!」
アマリアさんは思いっきりバランスを崩して、その場に倒れかける。
「あ、危ない!」
倒れそうになったアマリアさんの左手を、俺はつかむ。手ではない何かをつかんだような感触があった。
「…え?」
「っ!」
アマリアさんはあわてて俺の手を振り払うが、既に遅かった。感触が、人の手のそれとまったく違う。どこか機械的で硬く、そして…表面はどこかゴムっぽい。
どうして…こんなに、硬いんだろう?
「…アマリアさん、その手…」
「…あ、ああ。ちょっと頑丈になったんだ…ま、まぁいいじゃないか!これとかおいしそうだぞ!」
アマリアさんは話を無理やりそらそうとするが、俺にとっては料理なんて既にどうだってよかった。どうして彼女の柔らかいはずの手が、こんなに硬いんだ?
「いや、その服の中…!一体どうなっているんですか!」
「…なかなか大胆な誘いだなぁ、え?」
アマリアさんは少しさびしそうに、そう言った。
「あ、いや、そうじゃなくて…!」
「大体察しの通りだよ、ハンス。これは義手。そして私の視力はそうとう低くなっている」
アマリアさんはその硬い左手で、俺の頭を軽くたたく。その手は、人の手からは考えられない音を立てた。
「ハンスだけには、知られたくなかったよ」
そう、さみしそうに笑うアマリアさん。彼女と知り合ってから十数年経ったというのに、そんな表情を見たのは初めてだ。
「あ、アマリアさ…」
「店主、注文!」
俺の発言を、アマリアさんは大声で遮った。そして今度は小声で、囁くように言った。
「…あとで、じっくり話す。それと…今日は、泊めてくれないか」
答えなんて、決まっている。俺は黙ってうなずいた。
自宅に戻った後、俺はベッドの前で、落ち着かずにずっと部屋の中を歩き回っていた。
「先にシャワーを浴びせてくれないか」と言われ、俺はアマリアさんをシャワールームへと連れていった。
シャワーを浴びるとか、泊めてくれと言われたりとか…ということは、やはり、アレの要望なのだろうか。いや、まさか彼女に限ってそれはない…いや、でももしかしたら…
アマリアさんがおかしい兆候は、確かにいくつもあった。
食事のマナーが悪くなった。疲労困憊の度合いが激しくなった。壁に頭をぶつけたり、簡単な文字すら読めなかったりすることも多かった。
足を引きずるように歩いていることも多かったし、左手はあまり激しい動きをしていなかった。何より彼女は、肌を見られること、触れられることを過剰なまでに嫌っていた。
ただ俺は、それを「疲れているから」「趣味が変わったから」「元々プライドの高い人だった」などと解釈していたのだ。
しかし現実は違った。彼女は本当に、そういうことをせざるを得ない体になってしまったのだ。
そして彼女のプライドの高さが、その現実を他人に伝えることを否定していたのだ。
「…待たせたな」
低い女の声が部屋に響いた。心臓が跳ね上がる。振り向けばそこには、袖口の汚れた服を着て、左手をポケットにしまい、他のほとんどの肌を隠したアマリアさんが立っていた。
しっとりと濡れた髪と上気した頬が、彼女がシャワーを浴びてきた後だということを物語っている。
「ずっと歩きまわっていただろう…足音がこっちまで聞こえてきたよ」
アマリアさんは苦笑しながら言った。
「まったく、落ち着きのない子だ」
「あ、す、すみません」
「いい。むしろ少し嬉しいくらいだよ。…なぁ、ハンス。約束してくれないか」
「え?」
「…決して、目を背けないで…」
上目づかいで懇願するアマリアさん。演技ではないことは、すぐに分かった。初めて、彼女の女らしい表情を見た気がする。
「…はい」
俺は小さく嘆息し、頷いた。アマリアさんは小さく深呼吸をして、服を脱ぎ始めた。
肌をぎっちりと覆う袖から、ぎこちなく腕を抜くアマリアさん。片腕だけで、器用に長袖のシャツを脱いでいく。
その一挙一動が、俺の精神を高揚させる。自分にとってはあこがれのお姉さんであった、アマリアさんの裸だ。興奮しないわけがなかった。
「…そ、そうまじまじと見ないでくれ!恥ずかしいだろう!」
「え、いや、でも目を反らすなって…」
「そ、そりゃ確かにそう言ったが…!」
アマリアさんはそう言って手を振り上げたが、俺をしばらく見つめた後に、ふぅとため息をついて手をおろした。
「意地悪…」
そう小さく呟いてむくれ、アマリアさんはさっさと服を脱ぎ始めた。…意地悪、か。とてもかわいらしい言葉だ。スパルタな彼女には、似合わないくらい。
そんなことを思っていると、ほどなくしてアマリアさんは下着姿になった。ほっそり…というより、げっそりとした体躯だった。
目立たないようにしてあるが、よく見ると左手足の色が、人の肌にしては少しおかしい。そして肩や太ももの付け根に、人工物っぽいものが見えた。
しかしそれ以上に、彼女のつけている下着の色が気になった。
「へぇ、ピンクですか。アマリアさんって意外とかわいらしい趣味してますよね」
「…あとで絶対殺してやる」
アマリアさんはそう言って俺を睨み、そのピンク色のショーツに手をかけ、緩やかに下ろした。同じくブラジャーもホックをはずして、焦らすようにゆっくりと取る。
ほどなくして、煌々とともる電灯の下に、彼女の裸体があらわになった。
「…明かりを…いや、いい」
アマリアさんは何かを言いかけ、そしてそれを、首を振って打ち消した。そしてベッドに腰掛け、腕の人工物のようなものに手を当て、小さく息をした。
「くっ…」
左肩の付け根が動き、直後に腕が外れる。アマリアさんは目を閉じて嘆息し、その腕をベッドのわきにおいた。続いて左足も、同様にはずし、わきに置く。
「…おぞましいだろ?」
ベッドに腰掛け笑うアマリアさんの、あばらが浮き出るほどげっそりとした体躯からは、左の手足がごっそりと欠けていた。
左手の付け根は丸まっており、左足に至ってはその上の骨盤部分までごっそりと切れてしまっている。
痛々しい傷痕が数えきれないほどあり、ウェーブがかった髪をあげた額から目にかけては、目を覆いたくなるような痣と火傷と刺し傷がいくつもあった。
その姿は、あまりにも痛ましかった。アマリアさんに言われていなければ、絶対に目をそむけていただろう。
「…」
「…なぜ、黙っているんだ…!」
アマリアさんはしぼり出すような声で叫んだ。
「馬鹿にすればいいだろう、気持ちの悪い女だと!おぞましい女だと!手足は二度と生えない、傷は二度と治らない、視力だって二度と戻ってこない!」
「そんなことはありません。きれいです、アマリアさん」
「自分自身もだませぬ見え透いた嘘は、他人を不愉快にするだけだぞ」
「嘘じゃないですよ」
俺はふっとため息をつき、アマリアさんを抱きしめた。
「嘘だろう!こんな傷だらけの体のどこが…」
「考えてみれば、アマリアさんの裸を見るのってこれが初めてなんですよ」
俺はそんなことを言いながら、肩を抱くようにアマリアさんの左手の付け根に掌を乗せた。
「そのアマリアさんの裸を、醜いと思うわけなんてないじゃないですか」
「ふん…口説き文句にしてはずいぶんと助兵衛で月並みだな」
鼻を鳴らしてふてくされるアマリアさんの目尻には、涙が光る。その涙をぬぐいながら、俺は尋ねた。
「その割には…泣いてるようですけど?」
「…な、泣いてなんか…!」
アマリアさんは反論しかけたが、途中で頭を振って言葉を止め、そしてうつむいた。
「…怖かったよ!とても怖かった!こんな傷だらけになってしまった私を…社会が、世間が、どうやって扱ってきたか、分かるか!?」
アマリアさんが再び顔をあげた時、彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「私は勝手だ…幼いころからいじめてきたお前に、最後に、泣きつこうとして…!でも…」
すすり泣きながら言葉を紡ぐアマリアさんを、俺は強く抱きしめた。
抱きしめているとそのうち壊れてしまいそうだと思うほど、アマリアさんの体は脆く感じられた。
腕を抱いているはずなのに、まるで肘でも触っているかのような感覚だった。痣だらけの額は見ているだけでも目をそむけたくなるほど醜かったが、それですらなお愛おしい。
「お前に嫌われたらどうしようかって、ずっと考えてたんだよ…?怖くないわけなんて、ないじゃないか…!」
「卑怯な人ですね、アマリアさんは」
「ひ…卑怯…?」
「俺がアマリアさんのことが好きだってこと、とっくに知っているんでしょう?」
俺は彼女を正面からぐっと抱きしめる。涙でぐちゃぐちゃになった顔が、目の前に迫る。不安そうな表情。昔の彼女なら、絶対に見せないであろう表情。
「まったく、とんだ悪女だ」
言葉は悪ぶっているが、無論皮肉。本心は嬉しくて嬉しくて、今すぐにでもアマリアさんの唇をふさいでしまいたかった。
「…そうだよ、私は卑怯者の悪女さ。私に捕まったこと、一生後悔させてやる!」
右手の中にある肘のような感触のものがくいっと動き、同時に俺の背中にアマリアさんの右手がかかった。
うるんだ瞳が俺の瞳を覗き込む。酒臭い息と安っぽい石鹸の香りが、俺の鼻孔をくすぐる。ウェーブがかった髪が俺の額をこすって、少しくすぐったくなった。
「…優しく抱いてくれ、ハンス…」
「無論そのつもりですよ」
くしゃくしゃになったアマリアさんの金髪を撫でながら、俺は微笑みかける。それにつられたのか、アマリアさんもクスリと笑った。
ベッドの上に寝転ぶアマリアさんは、子供に飽きられて捨てられた、傷だらけの人形を思わせた。
あばら骨まで浮き出たげっそりとした体躯には、豊満な肉など何一つとしてついていない。食肉的に言えば「まずそう」という奴だ。
体中につけられた痛々しい傷痕と、根元しか残っていない左腕。そして『左足が付け根からない』という姿。
左の手足がひっこ抜けた人形といった形容がそっくりそのままあてはまるような、異様な体躯だった。
だがそんな彼女を見て、俺はドキドキしていた。あの憧れていたアマリアさんの裸が、目の前にあるのだ。思いっきり、壊れるまで抱きしめてしまいたかった。
「…ハンス」
そんな思いに気付いたのか。小刻みに震えながら、アマリアさんは俺を呼ぶ。
「怖いですか?」
「こ、怖くなんか…いや…」
アマリアさんは途中で言葉を打ち消し、俺をじっと見つめて言った。
「怖い」
「…え?」
「そう言っておかないと意地悪されそうだからな」
アマリアさんはそう言って目を伏せる。そんな動作が、たまらなく愛おしい。そしてその台詞が逆効果になることを、アマリアさんはご存知ないのだ。
俺はアマリアさんの右腕を持ちあげる。不思議そうな顔をするアマリアさんの腋に、俺は舌を這わせた。
「ひゃっ!」
アマリアさんはかわいらしい悲鳴を上げる。汗ばんだ腋は当然のことながらしょっぱかった。
腋のあたりにある傷痕へと舌を這わせると、悲鳴は次第に熱を帯びていく。
「ひっ…ど、どこを舐めてるんだこの変態!」
「さぁ、どこでしょうね〜?」
そう言いながら、今度は舌を胸のあたりに這わせ、そのあたりにつけられた傷痕に吸いつく。乳頭だの乳首だのと言ったものではなく、そこについた傷痕に。
「…あっ、はぁっ…やめろ、ハンス…!」
「これまで意地悪されてきた分をお返ししているだけですよ。…で。どこを舐めているでしょうか〜?」
そう言いながらアマリアさんに尋ねると、アマリアさんは顔を真っ赤にして、ぼそぼそと呟いた。
「…胸」
「胸の?」
「…ち、乳房の…上のあたり…!」
「んー、それじゃあ分からないなぁ…いててててっ!」
かまわず舌を這わせようとすると、頬を思いっきり引っ張られた。
「調子に乗るな、まったく!」
アマリアさんは涙ぐみながら、俺の頬を容赦なくつねりあげる。肉が削がれそうだ。
「ふぉ、ふぉふぇんふぁふぁい!」
「まったく、最低だよお前は!私が…ああ、もういい!」
アマリアさんは怒ったようにそう言って、俺をつねっている手を離した。
「本っ当にデリカシーというもののない男だな、お前は!私が女だということを忘れてないか!?」
「ごめんなさい…」
やはりアマリアさんは、厳しい人だった。
体中につけられている傷痕を舐めたり、なぞったりするたびに、アマリアさんはなまめかしい声をあげた。
ポルノビデオの女優があげるような、あのうるさい声とはまったく違う。くすぐったがっている少女があげるような、かわいらしい悲鳴。
「ひゃっ…ひゃめへぇ…」
今は腰のあたり、彼女の左足があるべき場所を舐めている。舌を這わすたびに、アマリアさんは嬌声をあげる。
それがあんまりにもかわいらしいものだから、俺はもうすでに何度も何度も、飽きることなく傷痕に舌を這わせていた。
最初のうちは嫌がっていたアマリアさんも、そのうち怒るのに疲れたのか、それとも快楽に流されたかったのか、今じゃすっかりとろけた顔で甘い声をあげている。
「まったく、アマリアさんって全身性感帯なんですか?」
「あっ…あぁ…」
俺はそう言いながら、彼女の足の付け根についた痛々しい傷をなめる。アマリアさんはその度に力が抜けるような嬌声をあげるのだ。まったく、癖になりそうだ。
「とんだ変態ですね、ちょっとがっかりですよ」
「ち、ちがうんだ…ハンスがぁ…ハンスが…ひゃあっ!」
「俺が?」
俺が尋ねると、アマリアさんは目尻に涙を浮かべ、甘ったるい声で俺に言った。
「は、ハンスに、優しくされると、興奮、しちゃって…!」
「へぇ…そりゃとんだ好きモノだ。そんなアマリアさんには…ちょっとお仕置きが必要ですね?」
俺は冗談めかしてそう言って、指を彼女の女陰に這わす。アマリアさんの表情が恐怖で歪んだ。
…あのアマリアさんがここまでうろたえるなんて。よかった、意地悪して。
「ほらほら、もうぐっしょりだ。傷くらいでこんなに興奮しているなら、こっちの方は…どうなっちゃうんでしょうかね?」
「あ、ああ…!おねがい、指はやめて!おねがい!」
「意外と怖がりですね、アマリアさんって」
「違う、そうじゃなくて…ホントにやめて…!」
涙をにじませながら、アマリアさんは首を横に振った。…なんて少女らしいしぐさ。剛毅な彼女には全然似合っていないけれど、これはこれでかわいらしい。
「へぇ…どうしてです?今更怖くもないでしょうに」
「…初めては…ハンスの、ハンスのもので…もらって、欲しいから…」
「…え?」
股間をまさぐる手が思わず止まる。…あのアマリアさんが、初めてって…?
「も、もしかしてアマリアさん…」
「…っ!そーだよ!悪いか!どうせ私なんて手も足もなくて痣だらけで傷だらけで乱暴で偉そうで性格悪くて…わっ!」
顔を真っ赤にして猛然と反論してくるアマリアさんを、俺は押し倒して黙らせた。びっくりするほど力のない体だった。
「…アマリアさん、すっごく女の子らしくて…かわいいですよ」
「えっ…ふ、ふん」
アマリアさんの顔が驚きに染まり、そしてすぐに不機嫌そうな顔に戻った。…ああ、なんてかわいいんだろう。
今の彼女はかよわくて非力で、まるで年端もいかない少女が不機嫌さをアピールしている時のようだ。あの高飛車で偉そうな雰囲気はまったくない。
「それでは、アマリアさん…いただきます」
「あ、ああ…」
俺は彼女の頭を撫で、そして慎重に、自分の硬くなったペニスをアマリアさんの股ぐらにあてがった。アマリアさんの体が、ぴくっと硬直する。
「は、ハンス…」
「なんです?」
「そ、その…顔…お前の顔、じっと見ていたいから…」
アマリアさんは、その青色の目を不安そうな色に染めながら言った。
「この辺なら見えますか?」
「あ、ああ…ありがとう…さ、来てくれ」
アマリアさんはほっとため息をつき、近寄った俺の顔に軽く口付けをする。それを合図に、俺はギンギンに硬くなった自らのペニスを、アマリアさんの中へとうずめた。
何かをプツンと破るような感触。「いた…っ」というアマリアさんの小さな声。丸まった左手が、ぱたぱたと忙しげに動く。
自身の剛直が女肉の中にうずまる。アマリアさんが深呼吸をして、俺に向き直った。
「ハンス…やっと…ひとつに…なれたんだな…」
「…アマリアさん」
「ハンス…っ!」
彼女の腰の付け根が少し痙攣し、直後に腰に彼女の右足がかかり、引き寄せられる。いわゆるカニばさみというやつをやろうとしていることが、なんとなく分かった。
「やっと…!やっとひとつに…!」
「アマリアさん…」
「ハンス、ハンスっ…もっと、もっと…!」
切なげな声をもらしながら、アマリアさんは右手で俺のことを抱き寄せる。痣だらけの顔がもの欲しそうな表情を作り、生温かな吐息を漏らした。
「…ちょっと我慢してください」
俺はアマリアさんの体を押さえつけ、髪を整える。痣だらけの額が露わになり、俺はその額に軽く口付けをした。
「ひゃっ!あっ、あっ…!」
「ほら、どうですか?」
顔にできた痣を舐めると、普通の肌とは違った触感があった。アマリアさんのため息が首筋にかかり、くすぐったくなる。
「ほら、アマリアさん…なんとか言ってくださいよ」
「いいっ…!ハンス…もっとぉ…!」
アマリアさんは嬌声をあげ、恍惚とした表情を作る。傷痕や痣を舐めるたびにこんな声を挙げられては、こっちの欲情もおさまりがきかなくなる。
「ハンス、ハンスっ!ハンス!」
俺のことを呼ぶアマリアさんの表情は快楽と喜悦に染まり、それはそれは幸せそうだった。俺のことを抱きしめる腕の力が強くなり、途切れた左腕はせわしなく動く。
…なんて、かわいらしいんだろう。あの強気で、理不尽だったアマリアさんが、俺の腕の中では初心な少女のようになっている。
「も、もう、私っ…!」
「いいですよ、存分にイっちゃってくださいっ!」
だからなお、悦ばせたくなる。俺は呟くように言い、腰のストロークの速度をあげた。アマリアさんの呼吸がさらに荒くなり、漏れる嬌悦の声も高くなっていく。
俺はせわしなく動く彼女の左腕に舌を這わせ、その痛々しい傷痕を舐めあげた。
「ひっ、ん…!」
アマリアさんがかわいらしく吠え、体を小刻みに震わす。剛直に纏わりつく媚肉がぬらりとうごめき、俺のため込んでいる物を放出させようとする。
アマリアさんが達したことは、誰にでも分かることであった。それはあまりにもあからさますぎる、絶頂。
「アマリア、さんっ…!アマリアさん…!」
そして俺はその直後、自らの情欲をアマリアさんの膣内に解き放った。
「はっ、はぁっ…!」
解放感。充足感。征服感。達成感。色々なものが入り混じった感情が、俺の心を満たしてゆく。アマリアさんはしまりのない表情で荒い息を繰り返すばかり。
お互いのからだじゅうが興奮と悦楽で痙攣し、互いに同時に絶頂を迎えたことを体で物語っていた。
「はぁ、はぁ…目…チカチカ…する…」
しばらく後、アマリアさんの呟きで、俺は思い出したように自分の肉棒を、彼女の体内から引き抜いた。
アマリアさんの右手足はだらしなく垂れ下がり、女陰部からは血混じりの白濁がどろりと垂れ落ちる。
惚けたような顔で「…ハンス…」と呟くアマリアさんを見ていると、興奮が再び鎌首をもたげた。
あのしっかり者だったアマリアさんが、俺との行為に陶酔し、そして無防備な姿をさらしているなんて…!
「アマリアさん…!」
「わっ!こら!がっつくなこの野猿!私の体のことも少しはいたわれ!」
アマリアさんは右手で俺の顔をつかみながら、短すぎる左手を振りまわした。
「まったく、こっちは腕も足も一本欠けてるんだぞ!お前が平気なことでも、こっちは疲れるんだ!」
「あ…ご、ごめんなさい…だって、あのアマリアさんだから…」
「あの、とは何だ。乱暴であえぎ声がでかい女ってことか?」
「いえ…」
むくれるアマリアさんの顔を撫でると、アマリアさんは少し赤くなって「ふん…」と呟いた。
「小さい頃から憧れていた女の人でしたから、どうしても抑えがきかなくなるんですよ」
「…バカだな、お前」
アマリアさんは右手だけで器用に、俺の体へ抱きついてきた。俺は体を整え直し、かけ布団を体の上に被った。
俺の胸の中で、金髪の美しい女性が甘える。少し前までは、考えられなかったシチュエーション。
体を満たすのは、憧れの女性といたしてしまったという達成感と喜悦。そして若干の後悔が、俺の脳裏をよぎる。
「…ツヴァイフェルでビルの爆発事故があったこと、覚えているか?」
その胸の中で甘えるアマリアさんは、そんなことを唐突に口に出した。
「ええ、覚えています。確か文字通りの大爆発で、何人もの犠牲者が出たとか…連日その報道ばかりでしたよね」
「私はその爆発事故の時、爆心地の近くにいたんだ。それで…ガラスの破片を浴びてな」
アマリアさんは軽い調子でいうが、それは重苦しい雰囲気をはねのけるためにあえてやっていることなのだということはすぐにつかみとれた。
「目もその時にやられた。色々な飛来物が体に刺さったり当たったりして…痛かったなぁ、あの時は」
「そうだったんですか…」
「確かあの事件では重体の者が1人しかいなかったと報じられたはずだが、あれは私だよ。…生きているのが奇跡と言われるほど凄まじいけがだったようだ」
腕に抱きつきながら、その痣だらけの目を上目遣いにして俺を見つめるアマリアさん。
「何とか生き延びることができたが…その代償として私は、視力と腕と足を持っていかれた。ほら、今の私はひどい顔だろう?とてもじゃないがミスコンには出られないような顔だよ」
アマリアさんは笑う。その笑いが強がりだということは、誰にでも気付けることだろう。
「そんな私を待っていたのは長く苦しいリハビリと、それよりも苦しい世間からの冷たい目だった。
生きる気力を無くしかけてたよ。でも…お前のおかげで、取り戻すことができた」
アマリアさんは片腕だけで、ぎゅっと抱きついてくる。力は足りなかったが、これでも精一杯抱きついているのだろうということは伝わってくる。
あの憧れだったアマリアさんにここまで好かれているのかと思うと、年甲斐もなく興奮してしまう。
「ありがとう、ハンス」
「いえ、そんな…俺こそ、謝らなきゃいけないくらいです」
「え?」
「さっきはちょっと…アマリアさんをいじめすぎましたって」
「悪くはないよ、お前にいじめられるのも」
アマリアさんは微笑む。その顔は確かに直視に堪えないほど傷だらけだったが、その頬笑みは聖母のように穏やかだった。
「…大きくなったな、ハンス…」
胸にまとわりつくのは、アマリアさんの髪。アマリアさんにこんな風に甘えられたことなんてなかったものだから、俺の胸は高鳴りっぱなしだった。
しかしそれでも、訪れる疲れと眠気には勝てず、俺は睡魔へと身をゆだねた。
その翌日。俺は時計を見ながら、どうして目覚ましをセットしておかなかったのだろうかと後悔していた。
俺は何も引きこもっているわけではない。自分としての勤めが存在するわけで、だらだらと遊んでいるわけにはいかないのだ。
「やっぱりこれ、美味しいなぁ」
それを知らないのか、知っていて余裕を見せているのか、アマリアさんはのんきなものだ。今日も俺に朝食をたかっている。
あのしっかりとした義足はきっちりとハメてあるが、姿はというと下着姿。あの袖と裾の長い服は、今はベランダに干してある。
「ハンス、私決めたんだ」
「何をです?」
「絵を描いてみようと思う」
アマリアさんは忙しそうに飯を食べている俺が見えないのか、そんなことを言い始めた。
「絵ですか。いいと思いますよ」
俺は目玉焼きを切りながら、適当に答えた。彼女に構っている時間はそれほどないのだ。
これから朝食を胃に流し込んで、適当に皿を洗って、すぐに行かなければいけない。
一挙一動を急いでいると、体の後ろにふんわりとしたものがかかり、俺の顔に彼女のブロンドの髪が触れた。後ろから抱きつかれているのだということが分かった。
「ずいぶんと気のない返事だな?」
「い、いえそんなことありませんって!」
「決めた。最初はお前の絵を描く」
アマリアさんはそう言って、俺にますます体重をかけてきた。ゴムのような感触の義肢が、俺の汗ばんだ体に触れた。
普段だったら喜んでいたかもしれないが、今はあいにくものすごく急いでいる。彼女のこんな悪戯心も、今は鬱陶しい。
「そ、そうですか…」
「そうだな、絵を描き上げた…その時は…」
首筋に生温かい息がかかり、耳たぶに髪がかかって少しくすぐったくなる。
「…こんな傷物の女でよかったら、もらってやってくれ」
「あ、アマリアさん!?」
「傲慢すぎるかな?」
淡々としてそれでいて高慢な、彼女らしい口ぶりで、アマリアさんは俺に尋ねた。答えなんて、決まっているじゃないか。
「まさか。これまではアマリアさんにお世話になりましたから…これからはその恩を返すときです」
「ふん、口だけはいっぱしになって…」
アマリアさんは小さくため息をつき、そして俺のことをじっと見据えた。
「頼りにしてるよ、ハンス」
アマリアさんはそう言って笑った。その頬笑みは、昔彼女が褒めてくれた時のようにたおやかで、そして今まで見せてくれた彼女の笑みの中で一番優しかった。
俺の甘っちょろい覚悟が、この世の中にどこまで通じるかは分からないが…恩人を捨てられるほど、俺も非情な人間じゃない。
「筆は俺が買いに行きますから、今日は俺の家で大人しくしていてください」
「分かった。ベッド借りるぞー」
アマリアさんは俺から離れ、左の義足を引きずりながら、ベッドへと歩いていった。
「まったく…」
俺は溜息をつき、朝食を再開する。
…筆を買うの、忘れないようにしないと。