【 1 】  
 
 肩で風を切り彼女は行く――誰に臆するでもなく胸を張り村を行く姿は、それは威風堂々としたものであった。  
 とはいえそれもけっして虚勢や傲慢からくるようなものではなく、誰でもない彼女の自信と、そして自己に対する  
誇りとがそうさせる自然な振る舞いであった。  
 それゆえにどこまでも強気なその姿に嫌味のようなものは感じられず、むしろそんな彼女を目にした人々は皆、  
その包み込んでくれるような『強さ』に嫉妬とは違う安堵を憶えるのであった。  
 その雌の名は、ツューという。  
 齢は当年とって31歳。けっして若いとは言えないがむしろ、肉体の熟成が最頂期である今の彼女からは、未熟な  
十代・二十代の世代には見られない瑞々しさとそして艶香とが強く醸しだされていた。  
 猫科の獣人であるところの彼女の毛並みは、五月に生え揃う銀苔のように堅く艶やかな短毛であった。  
 同種族の中においても、柔らかく毛並みの生い茂った仲間達に比べてツューのそれは一際に短い。それゆえ村に  
おける彼女の通り名も『短毛のツュー』といい、この唯一である特徴は彼女のアイデンティティでもあった。  
 しかしながら彼女の魅力はそんな毛並みの特殊さだけに留まらない。  
 くっきりと掘り深く鼻筋(マズル)の通った面持ちと、胸元から尻根にかけて均整に隆起の富んだ体躯は、一雌と  
しての美しさもまた兼ね備えていた。  
 されど何よりも彼女の美しさとそして自信とを成り立たせている要素それこそは――そんな美しき銀毛の彼女が、  
村一番の狩人であるということにあった。  
 それこそが、何においてもツューをツューたらしめている最大の特徴であるのだろう。  
 駆け出しであった十代の時分、雌(オンナ)の身でありながら雄の狩りに同行する彼女の存在はそれは奇異なもの  
であった。  
 今でこそ雌の狩人もその市民権を持ちつつある現状ではあるがしかし、彼女が狩りに参加した頃の認識としては、  
あくまで狩りは『雄だけ』のものであったのだ。  
 そんな認識と、そして常識とを打ち破ったのが誰でもないツューである。  
 雌であることの負い目など感じさせることなく、ツューの狩りは的確でそして成果のあるものであった。その働き  
たるや同族の雄に引けを取らないどころか、むしろ彼らのそれを上回って余るほどであったといえる。  
 やがてはその実力を認められ、ツューは15歳の成人を迎えると同時に狩りのまとめ役である『角頭(つのがしら)』  
の役割を担うことになった。  
 雌として狩りに参加することも異例であれば、十代にしてそれを任せられることもまた前代未聞であった。  
 そんな完全無欠の雌こそがツューその人である。  
 それゆえに村における彼女の人気はそれは大きいものであった。  
 先に述べた狩人としての腕前はもとより、また彼女自身もそれを驕らない大らかで豪放な性格であったから、  
同世代からはもとより、ツューは老若男女を問わず村の人々から尊敬され、そして愛された。  
 だがしかし――運命とは何とも皮肉なもので、そんな彼女にも拭いがたい『欠点』がひとつあった。  
 それこそは彼女ツューが独身(ひとりみ)であるということだ。  
 この村においては、15歳を迎え成人となった住人はそれを期に夫婦(つがい)となるパートナーを選びださなけれ  
ばならない。にもかかわらず、このツューは齢30を迎えてもなお独身であった。  
 当然のようにそんな美しき彼女が独りで在り続ける理由(ミステリー)を、村の仲間達は口々に噂しては想像し合った。  
 曰く『釣り合う雄がいない』や『仕事が恋人である』といった通り一篇の他愛もない想像はもとより、果ては  
『同性愛者なのではないのか』と口さがなく囁く者もいた。  
 そんな噂を当の本人であるところのツューもまた、仕方ないと聞き流してはいる。結婚せずに今日まで至ってしま  
っていることは紛れもない事実であるのだから。  
 
 とはいえツューも恋をしなかった訳ではない。  
 今より15年の昔――村の成人式でもある『銀齢祭』のその夜に、ツューは意中の雄へと自分の想いを伝えようと  
した。しかしながらその時彼にはすでに心へ決めた相手がおり、さらにはその彼と意中の雌とが互いに想いを通わせ  
ていたことを知るや、ツューはその獲得戦から身を引いたのであった。  
 以来、彼女は独りである。  
 とはいえ美しい彼女のこと――ツューが求めるまでも無く彼女に想いを伝える雄達は数多くいた。しかしながら、  
誰ひとりとして彼女の心を射止めることはできなかった。  
 なぜならば、彼女はそんなプロポーズをしてくる雄達に対し『とある条件』を申しつけたからだ。  
 ここにて閑話休題――この『とある条件』こそが今回の物語の肝となる。  
 後に村の歴史に残るような恋物語のその発端に……。  
 
 
★       ★       ★  
 
 
 その日、夕餉の食材を片手に帰路へ就いたツューは――  
「ん? 誰あれ?」  
 己の家の前に何者かいるのを発見して目を凝らした。  
 すでに日没近い黄昏時とあって周囲は、カーテンコール間際のよう夕陽を透かせた淡い夜の帳が降り始めている。  
斯様な薄明のなかで、己が住居(ねぐら)の前に立ちつくすその人物が誰かをツューは確認しようとする。  
 歩きながら徐々に二人の距離が詰まり、そしてようやくその人物を確認すると、  
「なんだ、ヤマトじゃない」  
 ツューはそこに見知った顔を確認して小さく鼻を鳴らした。  
 目の前いたのは一人の少年――彼・ヤマトはツューの指揮する狩り隊の一人であり、明日に銀齢祭を控えた村の雄だ。  
 一族の中において一際長毛の彼には、雄で在りながらどこか雌のような可憐さがある。  
 月夜の湖面のよう黒く艶やかに輝く大きな瞳と長い毛並み、そして何よりも流れ星さながらに光の粉を撒いて煌めく  
尻尾は彼・ヤマトの特徴であり、そしての魅力であった。  
 とはいえそんな容姿端麗のヤマトには、麗人や美青年といった印象はない。その中性性は「子供ゆえ」の可憐さで  
ある。  
 事実、彼の身の丈はツューと比べてようやく彼女の腰元に頭が届くか否かであり、まだ弓にも触れたことのない  
村の子供たちとそう変わらないほどであった。  
 しかしながら斯様に小さな彼を、ツューは一雄として評価もしていた。  
 斧を駆り、狩りの先陣を務める彼の勇猛さとそして明るいキャラクターは、いつも大いに隊の指揮を盛り上げ、  
そして時に励ましてくれたからだ。  
 しかし何よりもヤマトを良く知るその理由こそは、彼が親友の息子であることにも所以する。  
 遡れば、彼がまだ乳飲み子であった頃からの付き合いであるのだ。  
 それこそは弟のように――否、年齢差を考えるのであれば彼は、ツューにとっては我が子のように愛しい存在で  
あった。  
 故に今日もそんなヤマトが我が家の前にいることにツューは何の疑問も持たなかった。  
「どうしたの、こんな夕方に? ご飯食べてく?」  
 そして帰宅を果たしヤマトの前へ屈みこむと、ツューはその視線を合わせながら微笑んでみせる。  
 が――  
「…………」  
 それを見つめ返すヤマトの視線は、そんなツューとは対照的に堅く真剣なものであった。  
 いつも通りであるのならば、こんな自分の会釈に彼もまた花のような眩しい笑顔を咲かせてくれるはずなのだ。  
 故にその様子に気付いてツューもそれを尋ねようとする――が、しかしその瞬間、  
「頭(かしら)! 好きだぁ! オイラと結婚して!!」  
 突如としてヤマトは、その顔を覗き込もうとするツューの目の前へと両手を差し出した。  
 
 焼き立てのパンのように小さく柔らかげな両手の中に握られていたものは桔梗の花が一輪――その一瞬ツューも  
そんな言葉を理解しかねて目を剥く。  
 そしてもう一度頭の中で彼の言葉を反芻し、今の状況とヤマトの行動とを照らし合わせてみる。  
「結婚ほしい」と訴えてきたヤマト――よほどの覚悟とそして緊張をしているであろう目の前のその顔には、  
強(こわ)めた目頭に涙まで浮かべている健気な表情があった。  
 そしてそんな彼の言動とその表情とが、自分に「恋愛感情」を抱いているが故のそれだと理解すると、  
「………ッく、あははははッ」  
 当のツューは思わず笑い出してしまっていた。  
「な、なんだよぉ。真面目な話なんだからね!」  
 そんなツューの反応に憤慨してみせるヤマト。いっそうに頬を紅潮させ目じりに溜めた涙の粒が大きくなる。  
 そんなヤマトにさらに顔を近づけると、  
「なに言ってんだ、こいつはー♪」  
「あうッ」  
 ツューは依然と微笑みながらにヤマトの両耳の端を摘みあげた。  
「急に結婚だなんてカワイイこと言っちゃってー」  
 それから揉み扱くよう愛撫するツューの指の動きにヤマトは先ほどまでの真剣な表情を緩めてうめきを洩らす。  
 今のツューは目の前のヤマトが可愛くて仕方がない。今日までにこれほど彼を愛しく思ったこともないだろう。  
 先にも述べたようヤマトは身内のように愛でてきた存在だけに、そんな彼が自分に想いを寄せてくれていたという  
ことがツューは純粋に嬉しかったのだ。  
 だがしかし、  
「――でも、ダメ」  
 ヤマトのそんな真剣な想いを受け止めながらもしかし、ツューは静かにそれを否定した。  
「ど、どうしてさぁ!?」  
 依然として耳介の愛撫を受けるヤマトは、そこからくる快感に身悶えながらもかろうじて意識を保ち、そして尋ねる。  
「どーしてもこーしてもないでしょー? 一回りも齢の違うおばちゃんに何言ってんのよぉ?」  
「と、齢なんて……あうん、か、関係ないよッ! オイラ、頭が好きなんだ!」  
「うーん、でもアタシは弱い男の子は嫌だしなー。アンタこうやって耳揉まれるとすぐにイッちゃうじゃない♪」  
「い、イかない! 今日こそはイかないだから!」  
 ツューの言葉に反応して必死に愛撫から来る快感に耐えるヤマト。胸の前で両手を握りしめてきつく瞳をつむる  
その仕草は、今すぐにでも抱きしめてやりたくなるほどに愛しい。  
 思えば幼少時よりツューはこうしてヤマトをあやし、そして可愛がってきたのであった。今にして思えば、そんな  
自分の行動こそがヤマトに要らぬ感情を芽生えさせるきっかけになってしまったのだと知り、ツューはそれに対して  
苦笑いを覚えずにはいられなかった。  
 とはいえしかし、そんなヤマトが自分に対して強い恋心を抱いてしまったことは今さら変えられぬことであるし、  
またその想いを遂げる為に今の試練(耳揉み)に耐えていることも事実であった。  
 彼の想いが本気であると言うのであるならば、いたずらにそれを誤魔化し続けるのは罪であるとツューも考えた。  
 そして、  
「やれやれ。……ヤマト」  
 摘みあげていた耳を解放し、ツューは改めてヤマトを呼ぶ。  
 その呼びかけに反応して閉じていた瞳をうっすらと開くヤマト。そして再びツューと視線が合い、それに対して  
彼女が微笑むのを確認した次の瞬間――思いもよらぬ急展開にヤマトは完全にノックアウトされることになる。  
 視線を絡ませ微笑んだツューの瞳が閉じられたかと思うと、彼女は僅かに小首をかしげて屈みこみ――そっと触れ  
るようにヤマトの唇を奪ったのであった。  
 
 何事でもない「キス」をされたという状況をヤマトは瞬時に理解した。そしてそれを理解してしまったが故に、  
彼の思考と感情とは完全にオーバーヒートを起こして停止した。  
 つま先を伸ばして体を硬直させ、これ以上にないほどに瞳を見開いてはただツューからのそれを受けるばかり。  
 時間にしてみれば数秒ほどのそれではあったが、その数秒に気力と体力とを吸い取られ――やがてはツューの唇が  
そこから離れると、  
「ず……ずるいやぁ……チュウなんて……」  
 ヤマトはすっかり脱力して膝から崩れ落ち、地面に尻を着けるようにして座り込んでしまうのだった。  
 そんな反応を見届け、見下ろすヤマトと再び視線を合わせると、  
「ふふふ、アタシの勝ちー♪」  
 まだ心ここに在らずといった様子の彼を確認し、ツューも苦笑いに微笑むのであった。  
「今日まで好きでいてくれて、ありがとね。これはそのお礼」  
 そんなヤマトに対して、やがては陽気であったツューの笑みも憂いを帯びる。  
 断ってしまう半面、ツューはそんなヤマトの想いが本当に嬉しくもあったのだ。しかしながら、だからと言って  
それを受け入れてしまう訳にもいかなかった。  
 先にも己で述べたよう、明日に成人を備えたヤマトと自分との間には実に一回り以上16歳の年齢差がある。自分  
のような年増の行かず後家が、そんな若き華を食い潰すようなことがあっては申し訳ないと考えていた。   
 全てはヤマトの為なのである。――自分もまた、ヤマトを大切に思うが故の選択であった。  
「明日は銀齢祭なんだ、せいぜい嫁はそこで捜すこったね。――じゃあ、早くお帰りな」  
 そうして依然として茫然自失としたままのヤマトを追い越し、我が家のドアへと手をかけたその時であった。  
「………何なら、いいのさ?」  
 突如として掛けられるその声にツューは動きを止める。  
 振り返るまでもなく、それがヤマトから発せられた質問であることを理解した。そしてヤマトもまた、  
「ならさ……どうしたらツューはオイラを受け入れてくれるの?」  
 依然として座りつくしたままその質問をツューへと投げかけていた。  
「ツュー」と呼ぶヤマトの声が胸に浸みた。  
 ヤマトが成長し、いつしか狩りに参加するようになった頃――ヤマトには自分のことを「頭」と呼ぶように言いつけた。  
 狩りの集団行動において、その陣頭指揮を執る角頭の権威は絶対である。これは権力の行使ではなく、一糸乱れぬ  
統率を保つ為の決め事であるのだ。  
 子供に聞かせるような冒険譚などは、あくまでも狩りの一側面にならない。  
 森において他の動植物達と向き合う行為はむしろ、安全でいられることの方が稀であるほどの危険と緊張の隣り  
合わせであるからだ。  
 かくいう独り身のツューには、自分以外の家族はいない。遡ること25年前には父が一人いたが、その人も狩りの  
最中に亡くなっている。  
 そしてその悲しみを知るからこそ、ことさらツューは狩りに際し誰よりも厳しく、そして威厳を以て望んだ。  
 それゆえの結果が今日の自分であり、さらには愛しき存在との間に壁を作る理由でもあった。  
 だからこそ、なおさらに「頭」であるところのツューは、「隊員」であるヤマトの申し出を受け入れるわけには  
いかなかったのだ。それは他の雄達にとっても然りだ。  
 そしてそれら雄達からの申し出を断る時、ツューは必ずこの条件(ことば)を口にする。  
 
「――アタシをモノにしたいんだったら、ウォーク・マーラッツの首を持って来るんだね」  
 
 その言葉、その名に――ヤマトは目を見開かせる。背筋を伸ばし、タワシのよう総毛立たせた毛並みを拡散させて  
膨らませるのであった。  
 
 それこそは「恐怖」それに他ならない。  
 その反応はヤマトだけに留まらないだろう。おそらくは、この森に恩恵を受ける者ならば皆、その名に同じような  
 
反応を示すはずである。  
 そんなツューの要求にどう答えたらいいものか考えあぐねるヤマトを背に感じながら、やがてはツューも振り返る  
 
ことなく家に入り――そしてドアを閉じた。  
 後には、そこに座り込むばかりのヤマトだけが残された。  
 やがてはゆっくりと立ち上がり、尻の砂埃を払うとツューのいる家へと振り返る。  
「……諦めないからね。それを教えてくれたのだって、頭じゃん」  
 決意を新たに、それでもしかし足取りは重くその場を後にするヤマト。  
 すっかり陽の落ちた暗がりの中を行く帰路はどこか今の心中を投影しているようで、いっそうにヤマトの気を重く  
 
させるのであった。  
 
 
 
 
【 2 】  
 
 ヤマトがそこより立ち去るのを確認し――ドアの向こうで聞き耳を立てていたツューは深くため息をついた。  
 まだ明かりすら燈されていない我が家の中を行きながら、夕餉の鶏肉をキッチンに投げるとツューは窓際に置かれ  
 
たランプを取ろうとそこへ急ぐ。  
 そこにおいて、  
「あ……咲いてる」  
 小さな鉢植えのサボテンに淡い紅の花が一輪咲いているのを見つけてツューは感嘆の声を上げた。  
 数日前よりつぼみの膨らみ始めていたそれが開花するのを日々楽しみに見守っていたのだ。それが今日、月明かり  
 
の下で儚げな花弁を精いっぱいに広げている姿に、思いもよらず感動してしまったのであった。  
 椅子の一脚を引き寄せると窓べりに両腕を預け、そこへうつぶせるように顎先をもたらせてしばしそれに見入る。  
 2LDKほどのツューの部屋は、所々に季節の花々やそして手作りの小物で小じんまりと装飾された、何とも簡素  
 
でそして清潔感のある空間となっている。そんな彼女の部屋を訪れた者は誰しも、そんな室内の様子に驚くのだ。  
 男顔負けの狩人であるところのツューである――その部屋はさぞ豪快で武骨なものであろうと、勝手なイメージを  
 
抱いているからだ。  
 しかしながらその実は、ツューも一人の「乙女」なのであった。  
 世話をしていたサボテンが花をほころばせたことへ純粋に感動してしまう、そんな少女のような心の持ち主こそが  
 
本来の「ツュー」であったりする。  
 ならばなぜ、そんな少女が今日まで独りたくましく生きなければならなかったのか?  
 その答えこそ――  
「ウォーク・マーラッツ……か」  
 先にヤマトへと告げた、その「ケモノ」に所以する。  
 かのマーラッツとはツュー達種族がここに渡り住む前より、この森において食物連鎖のの頂点に立っている大狼の  
 
ことである。  
 そして同時にそれは、一族と共に長年の戦いを繰り広げてきた魔獣でもあり――  
「…………」  
 狩りの最中に命を失った父の仇でもあった。  
 そんな幼き日の記憶が、今日のような独り居の夜には陽炎のように脳裏へと浮き上がってくる。  
 遡ること25年前の夏――まだ6歳であった彼女は密かに父の跡を追って森へと入った。  
 常日頃より、一人で森へ入ることを禁止されていた彼女ではあったがどうしても好奇心旺盛で、そしてまた誰より  
 
も父親好きであったツューは一目父の狩りを見たくてその跡を追ったのだ。  
 そして結果は最悪のものとなった。  
 こともあろうに彼女がそこにて遭遇してしまった者は――禁忌の魔獣であるウォーク・マーラッツそれであった。  
 高い知能を持ち、なおかつ残虐な嗜好も持つマーラッツは幼きツューの恐怖を弄び始めた。  
 爪で転がし牙で引きずり、存分にツューを蹂躙した。  
 そしてついには悲鳴すら上げられぬほどに疲弊した彼女を食い殺そうとしたその時――ツューの父がそこへ駆けつ  
 
けた。  
「助かった」と思ったのもつかの間、しかしながら相手が悪かった。  
 敵は数世代前よりツュー達種族が仕留めること叶わじと手を焼いた魔獣である。いかに稀代のハンターと謳われた  
 
父であっても、その戦力を覆すことは叶わなかったのだ。  
 やがては父もまたツュー同様に力尽き、かの魔獣の足元にひれ伏した。  
 そして彼が殺されるまでの一部始終をツューは目撃する。それこそはけっして忘れることのできない光景であった。  
 尊敬してやまなかった雄大な父は――こともあろうかマーラッツへと命乞いをしたのだ。  
 
 村の誰のものよりも情けない泣き声を上げ、無様に魔獣にすがり、それが叶わぬと判断するやツューを置いて逃げ  
ようとすらした。  
 震える尻尾を地に埋めるほどに萎えさせて地を這う父の後ろ姿は――ツューの彼に対する幻想を打ち破ると同時に  
大きなトラウマとなって彼女の心に刻まれた。  
 そのショック故か、はたまたあの絶体絶命の状況に置かれた緊張ゆえか、それ以降の記憶は彼女には無い。気が  
つけば村で手当てをされていた。聞くに、村のはずれで倒れていたらしい。  
 ツューの報告を受け、村の狩人総出で彼女の父の捜索が行われた。そして後日持ち帰られたのは、原形をとどめぬ  
毛皮が一枚――その毛並みから、それが父のものであると断定された。  
 それ以来、ツューはその日の光景に苦しまされている。  
 絶対の恐怖と、そして失望――それらは呪いのようにツューに纏わりついては、いつまでも彼女を苦しめた。  
 今の、女がてらに狩人の道に進んだのもその「呪い」を解かんが為である。  
 村一番の狩人として誰よりも頼られるツューではあるがその実は、彼女の中の時はあの日のままで止まっている。  
いつまでもあの日のトラウマを引きずった「少女」のままなのだ。  
 16年前の銀齢祭において初恋が実らなかった時、彼女は自分の運命を悟ったような気がした。かの魔獣ウォーク・  
マーラッツを退治することこそが、自分に課せられた天命であるのだ、と。  
 それを成し遂げてこそ初めて自分(ツュー)の人生は始まる。  
 故にツューは、己へと求婚する雄には必ずあの問いを投げかけるのだ。  
 
『ウォーク・マーラッツの首を取ってこられるか』――と。  
 
 こんな自分と生涯を共にするということは、この魔獣とも向き合って生きていくということであるのだから。  
 そして今日に至るまで、それを成し遂げた雄はいなかった。否、挑もうとすらしない。  
 しかしながらそれも仕方のないことだと彼女も理解している。それほどまでにあの魔獣は凶大であり、そして何よ  
りもこれは『自分の問題』であるのだ。そんなエゴに他人を巻き込む訳にはいかない。  
 そうして独り戦い続ける彼女は、いつしか孤独の中に生きることとなった。  
 独りでいることはけっして辛くはない。慣れということも然ることながら、気ままな今の生活は彼女の性にも合っ  
ているようだった。  
 しかし――  
「………『好きだぁ』、か」  
 それでもしかし、今日のような夜にはそんないつもの孤独が少しだけ胸に堪えた。  
 サボテンに向けていた意識は、いつしか今しがたのヤマトを追想していた。  
 冗談とはいえ彼の唇を奪った行動が、今となっては彼女の胸の内に湿った鼓動を打ち鳴らせている。それをした時  
には何気ない行動であった筈が、思い返す今となっては身悶えするほどに彼女の胸を焦がしているのだ。  
「そういえば、アタシも初めてだったな。………キス」  
 それに気付いて言葉に出した瞬間、彼女の顔に火がついた。  
 小さな灯程度であったはずの胸の鼓動は、口からその音を洩らさんばかりに大きくなってツューの内側を叩いている。  
「だ、だめ……マズイまずいッ」  
 その変化にうなだらせていた体を起こすと、彼女は必死に頭(こうべ)を振って熱し上げられた意識を落ち着かせ  
ようとする。  
 銀齢祭を明日に控えたこの時期は、同時に発情期でもある。そしてそれに中てられているのはツューもまた然りで  
あった。故に何かの拍子に体が発情してしまうは、いかに三十路のツューとはいえ例外ではない。  
――例外じゃないどころか、若い頃よりもひどくなってるような気がする……。  
 そんなことを考えて、呼吸も荒くため息を一つ。己を振り返る通り、発情期における情欲の昂ぶりは、むしろ十代  
・二十代の頃よりも強くなってきているようであった。  
 
 そんな己を知るからこそツューは必死に今の本能を抑えようとするのだ。  
 なぜならばもし今、完全に発情してしまうようなことになったら――その妄想のはけ口は、誰もないヤマトに向け  
られてしまうことになるからだ。  
 そう意識した矢先、ヤマトと唇を重ねた瞬間のあの感触が艶めかしく口先に蘇った。  
 唇のあの柔らかさと、鼻先同士が触れ合った時の湿った感触とが脳裏によみがえると、ツューの中の性欲は爆発す  
るかのよう体に燃え広がっていく。  
「だめ……それは絶対ダメッ。眠れ……眠れ!」  
 かろうじて意識を保ちながらやっとの思いでベッドに辿りつき、そしてそこに倒れ込む。  
 あとはどうにかして眠ってしまおうと己の性欲と闘いながら、苦し紛れに枕を抱きしめたその瞬間であった――。  
 ふと鼻頭を埋めた枕に陽の匂いがした。そしてその香りこそは、ヤマトの小さなつむじと同じものであったのだ。  
 その瞬間、張りつめていたツューの理性が切れた。  
「ッ……ヤマト!」  
 鼻頭を深く埋める枕をヤマトに見立てて、ツューは強くそれを抱きしめる。  
 同時に足元に向いた枕の鋭角を股間に押し当てた。  
 袋状の縫い合わせとなっている枕の堅い鋭角がショーツ越しにスリットへ食い込むと、ツューは大きな声を上げた。  
「あ、あぁ……ヤマト、ヤマトぉ」  
 あとは欲望の赴くままにそこへ股間をすりつける行為に没頭していく。  
 スリットの溝に食い込んだ鋭角が縦の頂点まで上り詰めると、そこの頂端にあるクリトリスを強く弾いて刺激する。  
「あくぅ……!」  
 その感触にツューは声を上げて強く枕を抱きしめた。  
 今度はずり上げさせた枕を再び下に戻す動きを。  
 戻る鋭角が今度はクリトリスを包皮越しにコリコリと上から押さえつける。やがてその土手で抑えきれなくなる  
と、それを弾いて反動をつけた鋭角は先ほど以上に深くツューのスリットへと食い込むのであった。  
 以降はその繰り返しである。  
 そんな自慰の最中、脳裏に広がる妄想は誰でもないヤマトが自分の陰部を愛撫してくれているそれに他ならない。  
「もっとぉ……ヤマト、気持ち良いよ、もっと……!」  
 いよいよ昂ぶってくると、その絶頂が近いことを知って体も無意識に自慰を早く、そして激しくさせる。  
「あ、あ……あぅ……ヤマトッ」  
 今まで以上に熱を込めて枕を抱きしめ、さらには幾重にも尻尾も巻きつけては今まで以上に股間を押し付ける股座  
に力を込める。  
 そして徐々に小刻みになっていた呼吸が胸の鼓動とシンクロして一時的に停止したその瞬間――  
「んッ、くぅぅ……ッ!」  
 ツューは絶頂を迎えた。  
 深く布地に顔を押し当てて息を殺し、中身の綿が寄って分かれてしまうほどに内股で強く枕を挟み込んだ。  
 そうしてしばし体を硬直させ、やがて脱力しては緊縛していた尻尾を解くと――ツューは深く息をついてベッドに  
沈みこんだ。  
 ようやくいつもの自分を取り戻す。取り戻すと同時、今までに憶えたこともないほどの罪悪感に苛まれてツューは  
呻きを上げた。  
「………バカだ、アタシは」  
 思わず呟く。声に出さずにはいられなかった。それほどまでにツューは落ち込んでしまっている。  
 そうなってしまうのも仕方がないことであった。  
 ただでさえ日頃から、独り体を慰めた後には後ろめたさを感じていた。それがよりにもよって今日は、あのヤマト  
をその妄想の手伝いに使ってしまったのだ。  
 
 今まで弟のように愛でてきたヤマトを――  
「…………」  
 今まで我が子のように愛してきたヤマトを―――  
「…………」  
 こともあろうか今日、ツューは欲望のはけ口に使ってしまった。紛う方なき『雄』として、あの愛しき存在を汚し  
てしまったのである。  
 ましてやその妄想によって得られた快感たるや、今まで感じたこともないほどに強いものであったということもま  
た、大いに彼女を苦悩させた。  
「いい大人が、何やってるんだろう本当に……」  
 独り身の雌が、妙齢にもなって自慰に耽る――ましてやその相手は自分の子供ほどに年の離れた相手であるのだ。  
今日の自己嫌悪がいつも以上に強くなってしまうのも仕方がないことのように思えた。  
 しばしそうして煩悶としていたツューであったが、やがてはシーツを頭からかぶるとそのまま眠ってしまうことに  
した。  
――もういいや。寝ちゃえ。  
 これ以上は、考えるのも気怠かった。  
 それほどまでに疲れていたし、また反面、今日の自慰による心地よい余韻もまた感じていたからだ。  
 だから、今夜はそれを抱きしめて眠ろうと思った。  
 翌朝になれば、またいつもの自分に戻っているのだ。  
 ヤマトなど変に意識したりしない、いつも通りの「独り」に戻れているはずである。  
――独り、か……嫌だなぁ。  
 ふと眠りに落ちようかとするその最中、そんな心の声が引っかかってツューはらしくもない寂しさを覚えた。  
 そしてそれを紛らわせるよう枕を抱きしめる。  
 鼻先によみがえるヤマトの香りは、再びツューの心を包み込んでその寂しさから彼女を解放した。  
 そんな温もりに、今度は「性欲」ではない「安堵」に包まれて彼女は眠る。  
 ヤマトの笑顔が咲く暖かげな夢の中には、独りの彼女を苦しめる過去のトラウマなどは微塵も存在しなかった。  
 
 
 
 
【 3 】  
 
 銀齢祭当日・夕刻――ヤマトは一人、森の中に在った。  
 ゆっくりと日は沈み、紫帯びた空の際には遠く村からの祭囃子が春雷のようにこだましている。  
「……みんな、どうしてるかな」  
 ふと歩みを止めて空を見あげると、ヤマトはそんな背後の村を望んでため息をつく。  
 本来ならば今日、自分もあの村において成人の儀式に参加し、そして生涯の伴侶探しに奔走するはずであった。  
 しかしながら今ヤマトは一人、森の中に居る。その理由それこそは、かの魔獣ウォーク・マーラッツを仕留めるた  
めに他ならない。  
「行こう。振り返るまい」  
 今生(さいご)の未練であった村への想いを振り切るとヤマトはさらに森の奥へと進んでいく。  
 今回の狩りにおいて、ヤマトは生きて村には戻るまいと覚悟していた。――否、「戻ることは叶わない」であろう。  
これより討伐に向かうラーマッツとはそれほどの獲物であるのだ。  
 ならば何故、負けると判っている狩りにヤマトは出向いたのか?  
 それこそはツューの為に他ならない。  
 とはいえその理由それはなにも、「彼女の心を射止めたい」という自分だけの都合ではなかった。  
 恋する雌の要望ということも然ることながら、昨日のツューの表情(かお)が強くヤマトには印象に残っていたから  
である。  
 マーラッツの首を持ってこい、と呟くように言った時のツューは、それは悲しそうな顔をしていた。  
 瞳を伏せ、胸の内からあふれる悲しみを必死に抑え込もうと虚勢を張る、そんな痛々しい表情だった。  
 そんなツューの表情が胸に沁みた。  
「女の子は……あんな顔しちゃダメだ」  
 ついそれを思い出して言葉が漏れる。胸が締め付けられる。  
 ヤマトの村の雌達はそれは楽しそうに笑う。  
 愛を知り、恋を楽しみ、やがては結ばれ子を授かっては、母としての喜びを知る――村の雌達は皆が、そんな当た  
り前の人生を謳歌していた。その中でただ独り、ツューは笑えずにいたのだ。  
 表面上はどんなに笑顔を繕おうとも、その心の奥底にある本当の気持ちとは、昨日ツューが見せた寂しげな  
表情(よこがお)に他ならない。  
 そんな孤独をツューが抱えているということがヤマトには辛かったのだ。ましてやそれが想いを寄せている雌と  
あってはなおさらである。  
 あの表情を消すことが出来たのなら――  
「ツューが、もう一度笑えるようになれるのなら――」  
 それに自分の命をかける価値は十分にあった。  
 しばし森の中を進んでいたヤマトは、その歩みを止める。  
 眉をしかめて見据える目の前には、今までの森とは一変した光景が広がっていた。  
 一言で言うのならば、そこにはすでに森が無かった。  
 まるで砂浜と波打ち際のよう、今居る足元を境に、そこから先は緑が切り取られたかの如く無くなっていたのだ。  
 冬の曇空のよう、色が失われ地表が剥きだされた大地には苔すら見当たらない。ここより先は、森が完全に死んで  
いた。  
 これこそはかの魔獣ウォーク・マラーッツの影響である。  
 本能の赴くままに狩りをするマーラッツによって、彼のテリトリー内における全ての動植物達が狩り獲られていた。  
それによって生態系の崩壊した森は、斯様に無色の世界を広げるに至っているのである。  
 その眺めはまさにあの世の風景それだ。  
 命の消えたそこには、生在るものの気配など微塵として無い。生ける者が足を踏み入れてはならない場所――  
『死の世界』それこそが、まさにこの場所なのだ。  
 
 そんな目の前の光景にヤマトは生唾を一つ飲み下す。  
 そして一際大きく息を吸い込むと、  
「――負けんなよ! ヤマト!!」  
 両頬を手の平で挟み打ち、ヤマトは吼えるよう吐きだしてマーラッツの世界へと一歩を踏み出すのであった。  
 しばし色の消えたテリトリーの中を行く――しかしながら胸に生じた違和感に、すぐに息苦しさを感じて足を止めた。  
「なんだこれ? ……気持ち悪い」  
 しまいには膝頭の上に両手をついて背を丸めるヤマト。こうまで彼を苦しめる『違和感』の正体とは、ここにある  
空気の匂いにあった。  
 不快な臭気が充満しているのではない。むしろその逆――ここには『匂い』というものが一切無いのだ。  
 他の生物が発するような生理臭も、土の大地や植物が醸し出す発酵臭もこの世界からは一切が消え失せていた。  
「風が無い日だって、こうまではならないのに」  
 ヤマト達種族は、ずば抜けに優れた五感と身体能力によって狩りをおこなう種である。それゆえ狩猟において  
『嗅覚』は、彼らにとって絶対に欠かすことのできないファクターであるのだ。  
 その鼻が、この世界では一切機能しなくなっている。そんな感覚の失調それこそが、今のヤマトを苦しめている  
理由であった。  
 そして同時に悟る。  
 こんな世界に君臨している魔獣の恐ろしさを。  
 かのマーラッツの脅威は十分に自覚しているつもりではあった。しかしながら百聞は一見に如かずして実感する  
魔獣の存在感は、そんな少年の貧弱な想像力を遥かに凌駕する恐怖と緊張とをヤマトに教えるのであった。  
 そしてその時は突然にやってきた。  
 気がつけば、目の前にウォーク・マーラッツは――居た。  
「え………」  
 何の前振りもない突然の遭遇にヤマトは場違いにも呆けた声を上げた。  
 しかしながらそれは突如として現れた訳ではない。  
 それは――最初からそこに居たのだ。  
 このテリトリーの往来に、それは我が物顔で蹲っていた。  
 それを気付けずにいたのは、ひとえにマーラッツの大きさに在る。  
 見上げるほどであるマーラッツの巨躯は、生物の規格を遥かに超えていた。ゆえに最初、道に在るそれをヤマトは  
『生物』だと認識できずにいた。  
 なにか巨大な鉱石が転がっていると思った時には――魔獣の視線がヤマトを捉えていた。  
 そして、魔獣の存在の異質さはその容姿にも。  
『狼』と聞いていたはずのマーラッツではあったが、目の前にあるその姿形は明らかに『狼』のそれとは異なっていた。  
 老朽化した麻縄が何本にも重なって垂れているかのような毛並みには、耳や鼻先といった鋭角が全くとして見当た  
らない。  
 その姿はまさに、巨大な藻の化け物といった様相である。過去に村を訪れた南方の商人が施していた『電髪(ドレ  
ッドヘア)』に良く似た毛並みは、狼本来の直毛とは大きくかけ離れている。  
 しかしヤマトはその毛並みの理由と、そしてその『正体』を確認して戦慄することとなる。  
 かの体毛の一本一本が、僅かにその毛並みを変えていることに気付いたからだ。  
 目を凝らし、その正体を確認した瞬間、ヤマトは冷水を浴びせ掛けられたかのような恐怖に慄いた。  
 それこそは――  
「しっぽ、だ………色々な、生き物の!」  
 それこそは、尻尾。  
 多種多様な生物の尻尾を纏う姿それこそが、今のマーラッツの異質な様相の理由であった。まるで自分達狩人が獲  
物の部位を持ち帰るのと同じように、目の前のこれは、己が仕留めた獲物の尻尾を回収し、これ見よがしにその身へ  
纏っているのだ。  
 
 戦慄を憶えると同時に、ヤマトは我に返る。  
 ついにかの魔獣と相まみえたことを実感する。  
 即座に飛び退ると同時、背負っていた斧を抜き取り正眼に構えた。  
 そんなヤマトの一部始終を見届けてから――ゆっくりとマーラッツもまた起き上る。  
 改めて対峙を果たし、その絶望的なまでのサイズの違いにヤマトはしかめた瞳をさらに細めた。  
 何もかもが想像以上の化け物であった。  
 大きさも然ることながら存在の異質さに至るまで、その全てが規格外――否、もはや『別次元』のスケールである  
 体が震えた。本能は激しくこれとの接触を拒絶している。  
 泣きだしたい、逃げ出したい、この恐怖から逃れられるのならば死んでもいい――ありとあらゆる負の感情が押し  
寄せる。  
 しかしそれらに押しつぶされそうになるヤマトの心を支えたのは、  
「……ッ、お前のせいで、笑うことの出来ない女(ひと)がいる」  
 誰もないツューの存在であった。  
「お前を倒さなければ、救えない女がいる」  
 呟き続けるヤマトの脳裏に、ツューとの思い出が走馬灯のよう駈け廻る――  
「お前を倒せれば、救える女がいるッ」  
 記憶の中の彼女の笑顔が眩しくヤマトを照らしていた。そしてその笑顔が、物憂げに悲しみを帯びた横顔となって  
闇に沈んだ瞬間―――  
「倒していくぞ! この身と、引き換えても!!」  
 ヤマトは、叫びとともに強(こわ)く顰めていた瞳を見開いた。恐怖を、払拭した。  
 斯様にして敢然と己に立ち向かう小さき獲物を前に、ようやくマーラッツも前傾に体を沈め、自然体であった立居  
を崩す。  
 右前足を一歩先んじ、それに合わせるよう後ろ足も左右それぞれ前後に踏み込み体躯を捻ると―――そこから天に  
向かい喉元を反らせ上げ、マーラッツは一鳴きの咆哮を上げた。  
 狼本来の太く低音の響きとは違うそれは、まるで鳥獣の如き高くザラついた雄叫びであった。  
 否、それは『嗤(わら)い』なのだ。  
 期せずして最高の玩具(ヤマト)が目の前に現れたことに対する喜びそれを、言葉持たぬ魔獣は声にして体現せしめ  
たのである。  
 
 かくして、宴が始まる。  
 ヤマトの成人の夜は今、己の鮮血によって奉られようとしていた。  
 
 
 
【 4 】  
 
 銀齢祭当日・夕刻――ツューは村の中に在った。  
「みんな、今日は成人おめでとう! たくさん飲んで楽しんでね!」  
 ツューの音頭で新成人は雄達の宴が始まる。  
 今年の銀齢祭は例年になく規模の大きいものとなった。今宵の成人達が誕生した15年前、始まって以来のベビー  
ラッシュに湧いた村では今日のこの日の為の準備を数年前より行ってきていたのだ。  
 故に今年は儀式用の会場を村の中央から敷地面積の大きい森側へと移し、また新成人達の準備にも便宜して多くの  
行商人を招き入れた。  
 こうした商人達が一か所に集められると、彼らのネットワークからこの村の銀齢祭の噂は様々な場所へと知れ渡っ  
ていく。  
 それを聞きつけて見学にくる村外の者もいれば、さらにはそれを相手に一儲けしようと企む行商人も集まりと――  
斯様にして今年の銀齢祭は、例年にない活気と盛り上がりを見せるに至ったのである。  
 日中に新成人達の儀式が終ると、夕刻からは男女に分かれた酒宴へと日程は進んでいく。  
 そんな雄側の席にツューはいた。  
 本来この日は、雄の席に雌がいることは御法度ではあるのだが、この宴を仕切るのが狩りの首領である角頭の役割  
であることから、その頭たるツューは例外的にこの席への参加を許されていた。  
 そんな酒宴の中において、  
――ヤマト、どこだ?  
 葡萄酒のグラスを片手に弄んだまま、ツューはそこにヤマトの姿を捜していた。  
 昨日の一件以来、変にヤマトを意識することはやめようと決めていたツューではあったが、そんな決心とは裏腹に  
今日はまだ彼に会えずにいた。  
 そうなると途端に寂しくなる。  
 最初は毅然としていようと決意していたツューではあったが、日が暮れるにつれて『祝福ぐらいしてやってもいい  
かな』などと浮ついた気持ちに心が動いてきていた。  
 それどころか、  
――もう一回ぐらいチュウしてやろうかな……  
 などと考えて、その妄想に身をよじらせる有様である。  
『恋愛はありない』などと拒絶したはずのツュー自身が、我知らずにもヤマトに心奪われているのであるのだから  
本末転倒も甚だしい。  
 しかしながら、すぐにツューはその異変に気づくこととなる。  
「あれ? ……本当にいない?」  
 グラス片手に雄達の席を一通り回ったツューは、そこにヤマトの出席がなされていないことに気付いたのであった。  
 儀式の日程に追われて騒然としていた日中ならば、まだヤマトを発見できなかったことは理解できる。しかし、い  
くら大規模とはいえこの程度の酒席の中でヤマトを発見できないのは明らかにおかしかった。  
 新成人がこの宴を欠席するなどということはまずあり得ない。否、それは村が許さないのだ。  
 もしそれが可能だというのであるのならば、最初(はな)から今日の銀齢祭に出席していなかったということでは  
あるのだが……  
「…………」  
 そんな己の考えにツューは小さな胸のざわめきを覚えた。  
「――おい、リュクス。アンタ、ヤマト知らない?」  
 そしてそれを確認すべく、傍らにいた新成人の一人に尋ねる。  
「え、ヤマトぉ? そういえば見当たらないッスね」  
 ツューの言葉を受けて、尋ねられたリュクスもまた周囲の仲間にヤマトの所在を尋ねる。  
 
「ヤマト? 知らないなぁ。そういえば朝から居なかったよな」  
「おう、確かにいねーよ。だって捧神の演舞の時、俺あいつの隣のはずだけどヤマトいなかったからな」  
 そして彼の所在が朝から居なかったことと判明すると、途端に胸のざわめきは『嫌な予感』となってツューの心を  
絡め取った。  
「だ、誰か! だれかヤマトを確認した者はいないか!?」  
 声を高くしてそれを訪ねるツューの声にその一瞬、席は水を打ったよう静まり返る。  
 その中で、  
「――そういや関係あるのかないのか判らないけど、アイツ昨日、自分の斧研いでましたよ」  
 新成人の一人がそんなことを報告する。  
「お、斧だって? 自分の得物をかい? だって今日は狩りは――」  
「そうッスよね。だから俺も印象に残ってたんですよ」  
「あ、俺なんて矢毒を煎じてるところ見たぜ? あれじゃまるで銀齢祭前日じゃなくて、狩りの前日だよな」  
 そんな目撃者達の言葉に会場からは笑いが上がる。しかしツューだけは一人、その報告に笑えずにいた。  
 昨日、狩りの準備をしていたというヤマト――そしてその彼にマーラッツの首を所望した自分(ツュー)―――これ  
らが示す事実はただ一つ――  
「ヤマト………アンタまさか!」  
 その時であった。  
 村に、そして森に――ザラついた咆哮がこだました。  
 その叫(こえ)に、酒席の成人達は一様に両肩をすくませる。  
「うへー、あれってマーラッツじゃね? 気持ちわりー」  
 鳥獣を思わせる耳障りなその響きに、成人達の心地良い酔いも一気に醒まされる。かの魔獣の声は遺伝子レベルで  
彼ら種族の本能に不快な信号として刻まれているのだ。  
「なんか久しぶりに聞いたよな、あの声。せっかくの成人式だってのにさぁ。ねぇ、頭――」  
 そして再び飲み直さんと葡萄酒のグラスをあおりながら、先のリュクスが声を掛けようとしたその時には―――  
すでにツューは駆け出していた。  
 その鳴き声にツューは確信を得た。  
 ヤマトがマーラッツへと挑んだことを。そしてマーラッツがヤマトと遭遇してしまったことを。  
 高い知能を持つあの魔獣が、たかだか餌の獲物に在りついた程度であのような声など上げたりはしない。  
 ならばその声を上げる瞬間とは?   
 それこそは、最高の玩具を前に喜びを見出した時だ。  
 25年前の昔――幼きツューに遭遇した時と同じ嗤い声を今、あの魔獣は声高らかに奏でたのだから。  
 宴の席を抜け出し、瞬きの間には村の中を駆け抜け、疾風の如き速さで我が家へと戻る。  
――ヤマト……アンタ、まさか本当に!?  
 駆けるその最中、ツューは再びその問いを己の心(なか)から問いかける。  
 自宅のドアを蹴り開き帰宅を果たすと、さらには寝室に進みその奥に在る武器庫のクローゼットもまた蹴破った。  
――まさか本当に、あの魔獣に挑みに行ったのかい?  
 その中に立てかけられた鋼合板製の弓と、同じく鋼矢数本を引きずり出して背に掛ける。  
――勝てるわけないだろ……アンタごときが!  
 さらには身の丈半分ほどの大剣もまた一振り腰に差すと、ツューは来た時以上の慌ただしさで寝室の窓から飛び  
出した。  
――なぜそんな無謀な真似をした……アタシがそう言ったから?  
 村の外れに位置したツューの家からは直接、狩りの森へと進むことが出来る。そしてその中を駆け抜けながら考え  
ることは、ただヤマトのことばかりであった。  
 今日に至るまでツューに求婚した数多の者達――それら全てにヤマトと同じ要求をした。それでもしかし、かの  
魔獣に挑んだ者は一人としてはいなかった。今回のヤマト以外は。  
 それも仕方のないことだと言える。溶岩滾る火口の中へ飛び込めと言われて躊躇なく駆け出せる者がいるだろうか?   
この地において『マーラッツに挑む』ということは、すなわちそれと同じことなのだ。けっして生きて帰ることは叶  
わない。  
 そうして疑問は出発点へと戻る。  
 
 
 なぜ、ヤマトはマーラッツへと挑んだのか? ――と。  
 
――ヤマト……アンタ、もしかして本当にアタシのことを……  
 彼女の中でその答えが導きだされようとした時、ツューは縄張りの入口へと辿り着いた。  
 その場所に立った途端、今までの心を絡め取っていた疑問と自己嫌悪は四散する。代わりに例えようのない恐怖が、  
どろりとツューの心にまとわりついた。  
 しばしそこにて立ち尽くす。  
 一刻も早くヤマトの元へ駆けつけなければならないことは判っている。……頭では理解していても、体がそれを  
激しく拒絶していた。  
 このツューをしてもそうなのだ。マーラッツとはそれほどの獲物である。  
 やがてはしかしツューも覚悟を決める。  
 大きく息を吸い込んで胸で留めると、両掌で激しく頬を打ち挟み、強く息を吐き出す。  
「――負けんじゃないよ! ツュー!!」  
 そう言って自分を鼓舞すると再び、ツューはその中へと駆け出して行くのであった。  
 数十メートルを駆ける。そして視線の先に見覚えのある背中を見つけると、ツューは足を止めた。  
 盛り上がった、ゴミ溜めのような異形の巨躯。そしてその足元には、  
「ヤッ……ヤマトぉー!!」  
 うつ伏せになって血貯まりに沈むヤマトの姿があった。  
 それを確認しそこから呼びかけるも、足元のヤマトは微動だにも反応を見せない。  
 やがてそんなヤマトの尻根へマーラッツは鼻先を突き付ける。  
 そして鼻頭の先に毛並みの艶やかな、あの美しい尻尾を持ち上げてくると次の瞬間――前歯で咥え直したそれを、  
マーラッツは一思いに食いちぎったのであった。  
「ッ……う、ぎゃうぅ……ッ!」  
 その痛みに反応して僅かに顔を上げたヤマトが悲鳴を上げる。  
 そんな光景の一部始終を前にして、  
「貴様ぁ――――ッ!!」  
 ツューがキレた。  
 駆け出すや否や腰元の一振りを抜き取り、逆手に持ったそれをマーラッツの脳天めがけ振り落とす。  
 しかしながらマーラッツとて業の者。示し合わせていたかのよう身を翻してそれを交わすと、鷺のよう飛び退り  
ツューとの間合いを広げるのであった。  
 かくしてヤマトの元へと駈けつけたツュー。  
 その心は目の前のマーラッツに対し怒りで滾りつつもしかし、安堵もしていた。  
「ヤマト、大丈夫かい!?」  
 ヤマトが生きていたからだ。  
 今すぐにでも抱き上げてやりたいが、目前に対峙している獲物はあの魔獣・マーラッツである。依然としてその  
視軸をそれに合わせたまま、ツューは声だけでヤマトの身を案じる。  
 とはいえしかし、  
「…………」  
 ヤマトがそれに反応することはなかった。完全に意識が失われている。  
――失血がひどい。はやく手当てしてやらなくちゃ、結局は手遅れになる……!  
 そんな状況を把握してツューは臍を噛む思いで眉をしかめる。  
 もはや一刻の猶予もない。  
 ツューは次の一撃で決めるべく背にしていた合板製の大弓を抜き出し、その本弭(もとはず)を船の帆立てさながら  
に地に突き立てた。  
 
 己の目の前に立てた大弓へ鋼の矢を仕掛ける。さらには中央部の握りに片足を駆けて弦を両手で握り締めると、  
ツューはその前身を使ってかの大弓を引き絞る。  
 本来、竹や櫨で造る従来の弓と違い、今ツューが引き絞る弓は鋼の合板を幾重にも溶接して設えた特注品である。  
 故にそのサイズも従来品の三倍と巨大で、同じくに鋼鉄のワイヤーを編んで作られた弦を引き絞るには、今のよう  
にして体全身で引くしかないのだ。  
 この弓、そしてこの技こそが、長年ツューが対マーラッツの対抗手段として鍛錬し続けてきたものであった。  
 そんなツューの弓を前に、マーラッツはしかし動かない。  
 それどころか、異形のその面には耳元まで裂けた口角が大きくつり上がっている。  
 嗤っているのだ。今のツューを前にして。  
 一生物として、ツュー達種族に対し絶対の優位性を理解しているマーラッツにとっては、彼女の行動のどれもが  
滑稽なものとして目に映る。それは、新機軸の武器を造り出して来た今のツューに対してとて例外ではない。  
――可笑しいかい、マーラッツ。だけど、その傲慢さがアンタの欠点だ……!  
 そんなマーラッツを前に、それでもしかしとツューは開き直る。むしろその油断こそが、後の『作戦』を成功させる  
ための布石となるのだから。  
 かくして限界まで弦が引き絞られるのを見極めると、マーラッツもまた体勢を前傾にしてそれに備える。つま先に  
体重を掛けて重心を沈める構えからは、放たれたその矢をかわそうとする意図が見て取れた。  
 そしてついに、ツューの一矢は打ち放たれる。  
 それと同時であった。  
 弓矢が放たれると同時、ツューもまた地を蹴った。  
 地を這うようにして空を切る征矢(そや)の、そのすぐ後ろに付けてツューは駆ける。  
 先にも説明したよう、合板製のこの大弓から放たれる矢の速度たるや、もはや銃火器の弾丸に匹敵する速度と威力  
とを兼ね備える。そんな矢の背後を、そのスピードに負けぬ速度で駆けるツューの速力たるや、もはや生物の限界を  
超越したものであった。  
『ッ―――!?』  
 斯様にして同時に迫る矢とツューを前に、初めてマーラッツは表情を解いた。瞳孔を細めそれら二つの動きを見極  
めて対応しようと、せわしなく足元の踏み込みを変える。  
 しかしその時にはもう――  
――手遅れだ、マーラッツ!  
 ツューは勝利を確信する。  
 この一擲を絡めての作戦――もしマーラッツがこの矢を避けようものならば、その瞬間にツューはその隙に付け  
入り、奴の首筋に刃を立てることだろう。一方で受け止めようものならばこの大弓の威力だ。どこで受けようとも  
致命傷は免れない。  
 しかし意気込むツューとは対照的に、  
――今こそ決着を!  
 マーラッツは動かない。  
 ならば征矢の直撃に追い打ちを掛けようと、ツューも大剣の柄を握り直したその時であった。  
 瞬きのそんな刹那の世界で、向かい合うマーラッツと目が合う。   
 その目が、嗤った。  
 そして次の瞬間の出来事にツューは我が目を疑った。  
 迫りくる矢を前に、マーラッツは避けることも防ぐこともしなかった。むしろ自らその矢面へ地を蹴ると――征矢  
の鏃を額で受け止めてみせたのであった。  
 トリックがある訳ではない。その芸当を為し得た理由それこそは、本当に単純なものである。  
 斯様な弓矢と、そしてツューの膂力如きでは――マーラッツを貫くことは叶わなかったのだ。  
 かの矢が放たれた瞬間、瞬時にしてマーラッツはその鏃そこに毒が塗られていないかを匂いと視覚にて確認した。  
そしてそれが何事でもない『すっぴん』の矢であると確認するや否や、マーラッツはそれを額にて受け止めたのである。  
 絶対の勝利を確信してそれを放ったツューの表情を眺めることは、さぞ愉楽であったことだろう。その感情はつい  
には抑えきれずに笑みなって零れ落ちた。  
 そして依然として征矢を額に留めたままマーラッツはツューへと迫る。  
「くッ……そんな!」  
 それに対してツューも大剣を振りかぶるも――その瞬間には駆け抜けざまに繰り出されたマーラッツの爪と牙とが、  
ツューの肉体を引き裂くのであった。  
 
 
 
 
【 5 】  
 
 死を覚悟したから故であるのだろう。  
 マーラッツの刃が己へと迫った瞬間のその全てを、ツューは網膜に焼き付けていた。  
 鼻先を前にして流線形に体位を引き絞ったマーラッツの牙が、大きくツューの右肩をえぐり取った。さらには前足  
の爪が腹を裂き、駆け抜け様には後ろ足の刃が彼女の両腿を引き裂いたのであった。  
 全ては、一秒にも満たぬ一瞬の出来事であった。  
「ぐッ……ぐうぅ!」  
 もはや受け身を取ることすら叶わずに顔面から地にもんどりうつツューと、それとは対照的に足音すら立てず  
しとやかに着地をするマーラッツ。  
 それでもしかし、鎌首を返して背後のツューを窺うマーラッツの表情には疑念の表情が浮かんでいた。  
 ツューへと己の刃を閃かせた瞬間、マーラッツのそれらは確実にその首と腹と股間とを引き裂いたはずであった。  
それにも拘らずその首尾たるや、成功は唯一「腹部」に当てた一撃だけである。しかもそれすら浅い。  
 それこそは先の攻防における、唯一のツューの抵抗であった。  
 あの瞬間、どうにかマーラッツの攻撃を見極める事でどうにか急所への直撃は避けたのだ。  
 しかしそんなツューの奮闘もそこまでであった。  
 いかに即死は逃れたとはいえ、それら傷はどれもが十分に致命傷に至るものであった。放っておけば、このまま  
二時間もしないうちに失血死することだろう。現に体はもう満足に動かせなくなっている。  
 やがてはため息を漏らすよう鼻を鳴らすと、マーラッツはゆっくりと振り返りツューへと歩み寄る。  
 ならば、殺し直せばよいのだ――どうせもう、ツューは動くことが叶わない。むしろそんな楽しみが増えたことに  
気付いて、再びマーラッツに歪んだ笑みが戻る。  
「うッ………」  
 その接近にツューも生唾を飲み下す。  
 一歩一歩を踏みしめて近づいてくる魔獣に反応するツューと、そしてその反応を愛でるマーラッツ。  
 そんな接近を前にしてツューは動かすことの叶わない両足を引きずって少しでもマーラッツから逃げようとする。  
 それでもしかし十分にツューへと辿りついてしまうマーラッツ――  
「あ、あぁ………」  
 そして見下ろしてくるマーラッツとその視線を交わらせた瞬間、  
「お……お願いッ。助けて! 助けて、ください……!」  
 ツューはマーラッツへと懇願した。  
 普段の彼女から想像も出来ないような甲高く惨めな声を張り上げて、ツューはマーラッツに平伏し命乞いを始めた  
のだ。  
 そんなツューの仕草にマーラッツも喉を反り上がらせて喜びの叫(こえ)を上げる。これこそは、かの魔獣がもっと  
も悦ぶ獲物の反応であるからだ。  
 あとは存分にそれを楽しみにながら嬲り殺すのみだ。もはや命乞いなど通じはしない。  
 しかしそんな状況にあってもなお――命乞いをしているはずのツューは、どこか心安らかであった。  
 なぜならば長年彼女を苦しめていた『呪い』の一つが解けたからである。  
 それこそはあの日――幼き日に見た「父の命乞い」の理由を今、理解したからであった。  
 あの日の父は、今この瞬間の自分と同じ心境だったのだ。けっして無様な狩人ではなかった。どうにかして自分  
(ツュー)を逃そうと、「臆病者」を演じてマーラッツの興味を自分へと移させた――最後の最後までツューの身を案じ、  
そして身を呈してくれた誇れるべき狩人であったのだ。  
 だからこそツューは今の自分の役割を理解した。  
――アタシも、お父さんの子だよ。お父さん……もうすぐそっちに行くからね。  
 もはや今すぐにでもその首を食い千切らんと鼻先を近づけるマーラッツを前に、ツューも覚悟を決めたその時で  
あった。  
 
 ツューの匂いを大きく吸い込んだ瞬間、マーラッツの動きが止まった。  
「………?」  
 その動きに、ツューも薄目を開けてその動きを見守る。  
 やがては再び鼻先を近づけたかと思うと、今度は無心にツューの体を嗅ぎ始めるマーラッツ。  
――な、なにを考えてる? はやく殺れ!  
 そんな予想外の行動に、ツューも自分の演技が看破されたのではないかと気が気でない。  
 ひとしきりツューの匂いを嗅ぐと、やがてはマーラッツは首を上げた。  
 そして背に向かって首を折ると、己の毛並み(コレクション)の中に鼻先を埋め、なにやら自分の体をまさぐりだす  
のであった。  
 その行動の真意を判り兼ねてただ見守り続ける中、マーラッツの動きが止まる。  
 もはや顔の半分が埋まるほどに鼻先を沈めたそこからゆっくりと首を引き抜いていくマーラッツ。そして完全に  
そこから頭を抜くと、魔獣はツューの前へと何か紐状の物体をひとつ投げ渡してくるのであった。  
 この状況下におけるマーラッツの行動をツューは理解できない。しかし目の前に放られたそれを確認した瞬間、  
目の前の魔獣が何を言いたかったのかをツューは理解することとなる。  
 眼前に投げ出されたものは、誰か別な生物の尻尾であった。  
 最初は不思議にそれを見つめたツューではあったが、やがてはその尻尾の正体に気付く。  
 見覚えのある毛並みのそれこそは―――  
「ッ………お、父さん?」  
 そう――それこそは25年前にこのマーラッツによって殺された父の尻尾であった。  
 そして再び見上げるマーラッツは、嗤っていた。  
 憶えていたのだ。  
 ツューも。  
 そしてその父親のことも。  
 魔獣は数十年ぶりの邂逅となったこの瞬間を悦んで、今まで以上にその口元を歪めてはそして目を細めた。  
 やがてはツューの眼前に下ろしていた鼻先を上げると、マーラッツは己の背後を振り返る。  
 そこから見つめる一点をツューも追う。  
 その視線の先には、  
「や、やめろ……ッ」  
 マーラッツが見つめるその先には、  
「やめてくれ! アタシをッ……アタシを殺せばいいだろう!」  
 誰でもない、ヤマトの姿があった。  
 もはやツューになど一片の興味もないといった風で踵を返すと、マーラッツはゆったりとした足つきでヤマトへと  
向かっていく。  
「クソ! ま、待て! 待てー!!」  
 その跡を追おうと必死にツューも地を這いずるも、両足が割かれていることもあって思うように前へ進めない。  
 マーラッツはツューのことを憶えていた。そしてその父のことも憶えていたからこそ、今この状況において何が  
最もツューを苦しめられるかを理解していたのだ。  
 それこそは――  
「やめて! お願いだから……ッ。その子だけは!」  
 このヤマトをツューの目の前で殺すこと―――マーラッツは、演技ではないツューの心からの懇願を楽しみながら、  
地に伏せていたヤマトを口先で咥え上げる。  
 そしてツューに良く見えるよう体の向きを彼女へ対し開くと、マーラッツは口中に捉えたヤマトの胴体を――存分  
に噛みしめた。  
「うッ……うわああああああぁぁぁぁぁぁッッ!!」  
 鮮血が吹きあがり、口角の端から垂れさがったヤマトの両腕と顔面におびただしい出血が幾筋にも鮮血の川を作り、  
そして流れていく。  
 
「あぁ、あああぁぁぁ! ヤマトッ、ヤマトぉ! ああぁ! あああああああぁぁ!!」  
 もはや絶望だけがツューの心を満たしていた。  
 飾りも衒いもなく、ただその悲しみの限りを叫ぶツューの慟哭を肴に、口中にあふれるヤマトの鮮血をマーラッツ  
は美味そうに貪り続けた。  
 その瞬間であった。  
 突如として、マーラッツの表情が豹変した。  
 三日月のよう悦びに釣り上げていた瞳が、一変して今度は、新月の如きに丸く広がって驚きのものに変わる。  
 やがて激しくせき込み始めたかと思うと、マーラッツは煮こごりのように黒く変色した血液を吐きだした。  
「――ッ、え? な、なに……? なにが?」  
 その突然の変化を、絶望に暮れていたツューもただ見守る。  
 そしてマーラッツの苦しみ様と、さらにはその魔獣の牙の間から見え隠れするヤマトの体に、ツューは全てを悟る  
のであった。  
 牙の間にあるヤマトの衣服が剥がされ、その下の様子が露わにされる。そこにあったものは、赤の原色に染め上げ  
られたヤマトの腹部であった。  
 鮮血の色が滲んでいるわけではない。そこに在る赤は僅かに蛍光質を含んだ、明らかな人工による「赤」である。  
そしてその赤(いろ)をツューはよく知っていた。  
 それこそは、  
「バトラコトキシン………」  
 カエルより抽出される矢毒の一種であった。  
 神経毒性のこれは、いわゆるフグ毒の5倍に近い毒性を持つ猛毒である。傷や粘膜に触れずとも、素手で触ること  
さえ危険とされるものだ。ましてやそれを直接口中に押し込まれたとあっては、然しもの魔獣といえどもひとたまり  
もない。  
 まさにマーラッツの慢心が招いた結果であったといえる。  
 図らずも決戦前、「その傲慢さゆえに敗れる」と断じたツューの言葉は的を得てしまったのだ。  
 一方でマーラッツはというと、七転八倒して周囲を転げまわる。  
 そして口中の毒物を吐き出そうと、舌先で歯間のヤマトを押しだそうとしたその時であった。  
 今まで微動だにしなかったヤマトが――動いた。  
 右手を伸ばし、力強く犬歯の一本をワシ掴んだかと思うと、  
「好き嫌いせずに、なんでも食えって……父ちゃん母ちゃんに、教わらなかったかッ?」  
 ヤマトはそこから体を起してマーラッツの口中に踏みとどまった。  
「や、ヤマト!」  
 その復活にツューも思わず声を上げる。  
 この瞬間をヤマトは狙っていたのだ。  
 自分如きの腕前ではけっしてこの魔獣を仕留めることは叶わない。しかし、もしもマーラッツが自分を仕留めた  
のならば、最後には必ず自分を食することだろう。ならばこの身と引き換えに、これを返り討ってやろうと決めていた。  
 
 それこそが触れることさえ危険とされる『猛毒を己の体に塗る』、という発想に繋がったのだ。  
 
 なおもヤマトを吐き出そうと、さらには前足を使って口中のヤマトを吐き出そうとするマーラッツ。しかしヤマト  
も負けてはいない。最後の力を振り絞り四肢に力を込めるとヤマトは自ら、マーラッツの喉の奥へと飲みこまれてい  
くのだった。  
 苦しみを滲ませたマーラッツの叫びにゴボゴボと粘性の水音が混じる。やがては喉をのけ反らせ前足を張り、直立  
せんばかりに全身を硬直させると―――マーラッツは激しく地にもんどり打ち、その後は微動だにしなくなった。  
 
「くッ……ヤマトぉ、ヤマト……!」  
 そんなマーラッツの元へ、ツューは必死に地を這って急ぐ。  
 やがてそこへ辿りつくと、閉じた魔獣の口先を全身を使ってこじ開けてそこからヤマトを引きずり出すのであった。  
「ヤマト! おい、ヤマト! しっかりしろ!!」  
 どす黒いマーラッツの血糊にまみれたヤマトの頬を叩いてツューは必死に呼びかける。  
 同時に自分ではどうすることも出来ないことを悟ると、腰元に携帯していた竹筒の花火に火をつけて、それを空に  
放った。  
 藍の夜空を切り裂かんばかりに、花火はけたたましい音とそして白煙を引いて打ち上がっていく。  
 これこそは緊急事態を仲間に知らせる為の狼煙であるのだ。幸いにも今宵は銀齢祭、夜とはいえ村には多くの仲間  
達がいる。村からここまでの距離ならば一時間もすれば誰かしら駆けつけてくれるはずである。  
 それら緊急事態の対応を済ませると、ツューは再びヤマトに声をかける。  
「ヤマト! 起きろ! ヤマトってば!!」  
 さらには鼻孔や口中に詰まっているマーラッツの血液を、ツューは口唇を使って吸い出した。何度も何度も吸い  
出しては声をかけるを繰り返し、そして数度目のツューの声に――  
「………ツュー……?」  
 ヤマトは力なく応えた。  
「ヤマト! 大丈夫か? 気をしっかり持て!」  
「……マーラッツは? ……あれは、どうなった、の?」  
「死んだよ! ヤマトのおかげで、倒すことが出来たよ!」  
 ボロボロと涙をこぼして語りかけるツューとは対照的に、ヤマトは弱々しく微笑む。  
「じゃあ……もう、大丈夫だね……ツュー、泣かなくて、すむね……」  
 そっと、震えるヤマトの手がツューの頬に添えられた。  
「もう、何もないよ……ツューは、自由になったよ……」  
「ヤマト、お前」  
「よかったね……良かったね、ツュー……よか、った………」  
 微笑むヤマトの声は徐々に弱くなっていく。  
「バカ、しっかりしろ! まだだろ? まだあるだろ!? 肝心なことが!」  
「…………」  
「アタシと! 結婚してくれるんだろ!? 最後まで責任とってよ! もう独りにしないで!!」  
 語りかけるツューの言葉に、心なしヤマトがもう一度だけ微笑んだような気がした。やがてはツューに触れていた  
手も、完全に力を無くして地に落ちる。  
 そんなヤマトを胸に抱き、ツューはいつまでも彼に声をかけ続けた。  
 叫ぶように、そして泣くように。  
 
 かくして今宵の銀齢祭は激動のうちに幕を閉じる。  
 ヤマトの鮮血に血塗られて宴は、今ようやく終わりを迎えたのであった。  
 
 
 
 

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